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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)店舗を構えて

 ア 創業125年の店を支えて

 **さん(今治市本町 大正12年生まれ)は、今治では最も古い呉服屋の3代目で、今治の商店街の中心をなしていた本町に店を構えている。その**さんに話を聞いた。
 「父がのれんを継いだのは明治25年(1892年)のことですが、創業してから平成16年(2004年)で125年になります。今治商工会の初代会長の店が本町1丁目で、綿ネルや呉服を扱って営業をしていましたが、呉服から撤退する話があり、店を継いでくれるよう親父に話が持ち込まれました。
 そのころ、私の祖父が、今治市中浜(なかはま)町で小さな呉服商を営んでいて、親父は大阪の繊維問屋に奉公(ほうこう)をして呉服の知識を身に付け、今治に帰ってきていました。そのころ、今治の商店街のメインは本町筋でした。本町は7丁目までありますが、今治の商人が本町に店舗を持つということは成功した証(あかし)でした。ましてや本町1丁目はその最高の場所だったので、親父がその店の暖簾(のれん)を継ぐ決心をしたのだと思います。
 私は、昭和18年(1943年)に学徒出陣し、最後は朝鮮半島の京城(現ソウル)で終戦を迎え今治に帰りました。本町の店は空襲に遭い跡形もありませんでしたが、中浜町の実家は空襲に遭わずに残っていました。父は昭和21年(1946年)に病で亡くなりましたが、私は大学生途中で学徒出陣になりましたから戦後復学し、昭和23年に卒業した後、店を継ぎました。私は一人っ子で、商売人の家に育ちましたから自然と店を継ぐことが出来ました。特別に呉服の勉強はしていませんが、商売人は人に頭をさげるのは当たり前のことですし、育った環境が私に自然と呉服のさまざまな知識を身に付けさせてくれました。自分の店そのものが勉強の場でした。
 戦後、バラックのような家を建て、昭和26年(1951年)に現在の本町で呉服屋を始めました。そのころの日本は戦後の混乱期で衣食住のすべてに不自由な時代でした。食べるために『母のきものを買ってくれ。』などと、いろいろな人が店に来ていました。新しい衣類があまり無かった時代ですから、中古のきものや背広がよく売れました。
 呉服は鯨尺で採寸しますが、禁止されていた時代があり、当局からたびたび検査に来ました。メートル法に統一するということで、1本の竹ざしにcmと寸(すん)の両方の目盛りを入れたものができ、現在も使っています。計量検査というのがあって、鯨尺は毎年検査のために市役所に持っていきました。検査が通れば、さしの裏に検印をしてもらっていました。呉服屋に鯨尺がなければ採寸など出来ません。検査にくる人は鯨尺だけの目盛りのものは没収していきました。鯨尺は、当時市販されていませんでしたから、大量に購入してきものの仕立てをする人や、お得意さんのお土産にしたものでした。
 昭和30年代からタオルメーカーが乱立し、そこに勤めている多くの女性が、私たちにとってお得意さんでした。また、今治は造船業も盛んで、昭和40年代前後には景気が上向きで商店街も活気を帯びました。そのころ、私の店は洋服も扱っていましたから多くのお客さんが来てくれました。
 戦後、仕入れに京都へ行くたびに洋装化の進展を実感し、自分も洋服をこれから手がけていかなくてはと思い、店を半分に仕切り、洋服と呉服を扱った時代があります。オーダーメイドのため、15人ほどの縫い子さんがいました。値段は高くてもいい物を作るという方針で、品質がよいものであれば少々高くてもお客さんはついて来てくれる時代でした。
 雨が降っても傘を差さずに歩ける商店街にしようと、昭和30年代にアーケードを作りました。とにかく歩いて店の品物を見てもらうためにということでできました。今治の人というのは家族みんなで働く気風があると思います。夫婦ともに働く気風があり、それがまた購買力の向上につながったと思います。」

 イ えびすぎれの伝統を守って

 えびすぎれの由来は、「越智(おち)郡大島幸新田(おおしまさいわいしんでん)(現今治市吉海町)出身、矢野用助(生年不詳~明治15年=?~1882)が奉公先の大阪で見聞した『今宮の十日えびす』を、明治5年(1872年)ころ、今治本町で呉服店を開業したときに移入したのが始まりといわれている。昭和15年(1940年)ころから衣料不足のために一時中断されたが、昭和29年(1954年)に復活し、今治市呉服商同盟会が運営している。(③)」と記されている。
 今治呉服商同盟会の世話役の**さん(今治市常盤(ときわ)町 昭和9年生まれ)と前出の**さんに、年に一度の呉服市、“えびすぎれ”について話を聞いた。  
 「今治市本町商店街を中心にした呉服類の安売りを、“十日えびす”の名で旧正月十日の日の1日間だけ行っていましたが、日数が短いということで次第に前後の8日から11日までの4日間に拡大しました。平成5年(1993年)ころからは、土曜日、日曜日を入れた日程にし、新暦の2月8日からの5日間実施しています。平成17年は2月11日から15日の5日間で、必ずしも2月8日からではなくなりました。
 復活した昭和29年当時、今治市内に組合加入の呉服商だけで20軒ありましたが、廃業や業種転換などで少なくなって、現在は6軒しかありません。昭和30年代から40年代には本町1丁目から本町3丁目までに呉服商が約10軒あり、5軒は常盤町筋にありました。一時期、本町1丁目に6軒の呉服屋がびっしり並んでいたこともあります。
 えびすぎれの1か月ほど前からつり布を準備して、さおにたこ糸で吊って売ります。きもの、帯、小物、反物などの端切れを、間口いっぱいの長い竹ざおに吊るし、お客さんは、好みのものを竹ざおから引きちぎって買っていくわけです。昭和30年代、40年代には今治市内はもとより、東予の他の町からも集まり、伯方島などの島しょ部からは、夜、船を仕立てて今治に来て開店を待つお客さんが多くいました。1年に1回のイベントですから、多くのお客さんが来て、警察官が出て整理をしなくてはならないようなこともありました。
 島しょ部では娘さんの婚礼が決まると、えびすぎれのときに買いに来てくれる人が多くありました。本町や常盤町に来ていただくと、きもの、寝具、たんす、履物など婚礼に関するものはほとんど買いそろえられました。この地域の呉服屋は、長年の伝統と信用に支えられて、普段からいいものを安く仕入れ、お客さんに提供できるようにえびすぎれのための経営努力をしてきました。
 いつも念頭においていたことは、時代についていく、流行を感じ取る、地域のお世話も頼まれれば進んですることで、それが信用につながってきたと思います。マスコミにも大変お世話になりました。商店街の催し物について何かと市も協力してくれますが、えびすぎれ以外の商店街の催し物はなかなか商売につながりません。やはり、えびすぎれは大事にしなくてはと思います。私どもはこのえびすぎれの行事を呉服屋だけのものにしないで、今治市全体の行事にしてほしいと思っています。」 

 ウ 店舗販売と行商をかねて 

 (ア)変わる衣料への思い

 昭和25年(1950年)4月9日付の毎日新聞には、松山市内の商店街の様子を報道した次のような記事が掲載されている。
 「きょうこのごろ大街道、湊町をはじめ、松山市内の商店街は回転資金の調達や手持品の売りさばきに四苦八苦だが、パッと開いた桜の花に誘われてさすがに人出ばかりは素晴(すば)らしく、着飾った人並みで大賑わいだ。(中略)一方、流行から流行を追いかける女性心理を巧みに利用して手持品を店内せましと吊り下げている衣料品店も客足を一応ひきつけるまでは成功しているが、欲しそうな顔をしている女客の財布のひもをゆるめるまでには行かず『案外購買力はありません』というきまり文句だったが『3月危機というよりは今年の9、10月ごろが危機だ、放出衣料の放出量如何(いかん)で衣料品店の運命がきまるものと思う。しかし購買力は落着いてきたので結局衣料も一般化するでしょう。問屋筋もサンプルを出しはじめたことは安定期に達した証拠で信用とのれんのある店が残り、戦後派が投売りなどして泡を食っているのみでこれ以上値下がりはしないでせう』と老舗(しにせ)の店主は落着いていた。(⑧)」
 この記事では、昭和25年ともなると衣料統制が緩和され、市場に衣料品が出回り、女性も流行を追いかける余裕が出てきて衣料品の販売が松山の商店街では安定し始めた様子がうかがえる。
 そこで、松山市大街道2丁目で昭和4年に洋品店を開業し、戦後も空襲で消失していた店を、昭和24年に大街道1丁目に新規開店させた老舗(しにせ)の2代目である**さん(松山市三番町 昭和6年生まれ)に、話を聞いた。
 「私は大学では法学を勉強し、卒業後、洋裁を勉強して店を継ぎました。老舗の長男は私のような人が多いと思います。現在は洋品店の経営から撤退しましたので店はありませんが、亡くなった母が昭和4年に洋品店を創立しました。和服全盛時代によく思い切ったものだと思います。屋号はツバメ号(1930年〔昭和5年〕東京~神戸間に特急ツバメ号運転開始)という特急列車が走るということを聞いて、時代の先端を走りたいという母の願いがあって付けたものと思います。学生時代から洋裁が得意だった母は、東京で立体裁断(*3)と製帽を学んで帰りました。立体裁断を店でやる人がほとんどいない時代でしたから、すぐ話題になりました。また、帽子を作ったり、店の2階で編物を教えたりもしていました。芸者さんに日当を払い店の商品を身につけてもらったりして、当時としてはユニークな宣伝もしたそうです。
 戦時中は統制経済で、衣料切符を持った人で店が満員になることがよくありました。終戦後は衣料を扱う店も乱立し、私の店も終戦後、昭和24年(1949年)に大街道1丁目で新しく店舗を購入して商売を続けました。私は大学を卒業して1年間は司法試験を目指して頑張りましたが、見込みがないと気づき、長男の私がこの道に入りました。
 昭和29年(1954年)に、松山市内の洋裁専門学校に入学し、仕立て、裁断、デッサン、スタイル画などを学び基礎を身につけましたが、人生の一大転換で、この勉強も大変でした。店の従業員も約50人に膨れ上がり、昭和46年(1971年)に市内に2店目の本格的な百貨店ができるまでは大繁盛しました。じっとしていては商売になりませんから、宣伝方法もショーウインドーに白の塗料でスタイル画を書いたり、ディスプレイ用の人形を作ったり、スタイル画の勉強会を開いたりいろいろ工夫しました。
 大街道、銀天街の両端に大型百貨店が大々的に開店すると、私の店も活路を外に求めて昭和45年から外商をはじめました。店は家内に任せて私が一人で行きました。徳島県は阿南(あなん)市・美馬(みま)郡脇(わき)町・三好(みよし)郡池田(いけだ)町、香川県は高松(たかまつ)市・丸亀(まるがめ)市・観音寺市、高知は土佐清水(とさしみず)市・中村(なかむら)市・須崎(すさき)市・高知市・安芸(あき)市・室戸(むろと)市などで官公庁や病院などが中心です。愛媛県でも県内各地に行きました。中でも宇和海の海岸部が真珠景気に沸いていた時代は、本当にいい商売ができました。南宇和郡内海村(現愛南町)では、昼は釣竿をたれて暇をつぶし、夜になって各集落の集会所、公民館などで展示、販売会をしました。売れたのはほとんどが既製品でした。テレビのコマーシャルも出したりしましたので意外と広く知ってもらっていて信用もありました。
 いつも母から『お客様の気持ちをくんであげること。不当な利益は取らないこと』と聞かされてきました。商品の勉強も大事ですが、一番大切なことは心のこもった商売をすることだと思います。
 人と人の付き合いを大事にした商売をしてきましたが、しだいに着るものに対する価値観が大きく変わってしまい、私たちも戸惑っています。時代の移り変わりでしょうか、衣料品にお金をかける時代は完全に終わりました。現在、松山市大街道や銀天街の衣料品を扱っていた老舗はなくなりました。衣に対する価値観が大きく変わってきたのが一番です。そして人間関係の希薄さが商売にも大きく影響するようになりました。」

 (イ)古着商から

 戦後立ち上げた古着商から発展した紳士服専門店の2代目である**さん(八幡浜市大黒町昭和20年生まれ)に、紳士服専門店の経営と行商の様子を聞いた。
 「私の店の創業は昭和21年(1946年)で、父親が古着屋から始めました。終戦直後は十分な衣料品はありませんでしたので、父親は現金を持って大阪へ古着を仕入れに行ったそうです。まだ衣料としてはきものが多かった時代ですが、主に軍服を扱って、特にコートは生地が多く取れたからでしょうか、これが飛ぶように売れたそうです。母親は古風な人間ですから裁縫ができ、衣料の手直しもできました。そして現金ができるとまた大阪へ仕入れに行き、軍服以外のものも仕入れて帰るようになりました。そうしているうちに、自分で縫える人は布地が欲しくなります。親父はそこに着目して生地の端切れを仕入れてくるようにもなり、これがまたお客さんに受けたそうです。そうしているうちに、昭和25年ころから背広の需要が目に見えて多くなっていったそうです。
 母親は、和裁のほかに洋服を仕立てる技術も身につけていましたから、背広を仕立てるようにもなり、職人も雇って洋服の仕立てをするのが主になり始めました。母親が販売と洋服の仕立ての指揮をとり、父親は仕入れを受けもち、昭和35年(1960年)ころまで注文服中心の商売が続きました。
 以前、八幡浜市合田の人たちが反物を持って西日本に行商をしてその名前を広めたように、店の中でじっとしてお客さんを待つ商売をしていては利益も上がらず、売り上げも横ばいで、親父は思い切って既製服の外商をするべきと主張したそうです。ワゴン車を2台購入して、1台は宇和島を主とする南予方面、他1台は東予方面へと営業に出かけました。昭和30年代後半から55年代初めにかけての全盛期には、車7台で香川県、高知県へとまたたくまに販路が広がりました。当時の既製の背広が12,000円ぐらいか、高くて18,000円から20,000円まででした。一般公務員の初任給は1万円もない時代だったと思います。愛媛県学校生活協同組合、高等学校生活協同組合に加盟して、小学校、中学校、高等学校を回りました。月曜日に7台の車が商品の背広を1台が約100着分を積んで出発して、金曜日の夕方帰ってきます。1台の車が50万から70万円を売り上げて帰ってきます。当時私は大学生でしたが、昭和38年から40年代の初めには東予、南予と外商の経験をしました。特に南宇和方面は、舗装していない曲がりくねった砂利道ばかりで、車は冷房装置もなく、窓を開けると、前を走っている車の砂ぼこりが車内に入ってきて、商品の管理に気を遣いました。 
 昭和55年ころから大型店の出店により売り上げが伸びなくなりました。親父が昭和63年(1988年)12月に亡くなり、平成3年に外商はやめました。親父の時代は物がなかった時代で、持って行けば売れるという時代でした。しかし、今は物が有り余っている時代ですから、きめの細かいサービスをいつも心がけていなければなりません。普段からの信頼関係の構築が大切だと思います。お客さんが満足する品物にいかに付加価値をつけて提供できるかだと思います。八幡浜市に昭和40年代には20軒ほどあった洋服屋も紳士服を扱っているのは今では2軒になりました。」


*3:立体裁断 裁断には平面裁断と立体裁断があり、平面裁断は、デザインが決まって、その型紙を作り、裁ち台の上に用布
  を広げ、その上に配列して裁断すること。立体裁断は、型紙で表しにくいシルエットを人体やスタンドで仮縫いにして表
  し、その型どおりの布に裁つこと(⑨)。