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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)おふくろの味

 ア 味噌をつくる

 味噌は、ダイズ・小麦・裸麦・ソラマメなどに塩と麹(こうじ)を加えて作った発酵食品(醸造調味料)の一つで、非常に多くの種類がある。味噌を作る主原料の違いで味噌を分類すると、ダイズだけで造る豆味噌、米麹にダイズを加えて作る米味噌、米麹の代わりに麦麹を使う麦味噌などに分けられ、四国・九州地方では麦味噌が主流であった。近年は、合わせみそも多く使われている。

 (ア)味噌の伝播と醸造の歴史

 味噌の源をたどると、中国の醬(しょう)(和名「ひしお」)に行き着くといわれ、古く奈良時代以前に朝鮮半島を経て日本に伝わっていたと考えられている。醬は本来、獣、鳥、魚の肉を、血や骨と一緒に叩いてつぶし、塩と酒を混ぜて壺(つぼ)に漬け込み、100日くらいで仕上げた一種のソースであった。このように醬は、初め動物性の肉醬・魚醬であったが、後に草醬・穀醬などと多彩になった。穀醬はダイズと麦に麹を加えて作るようになるが、植物性の醬の多くは、麹を加えて作ってうま味を引き出すようになっている点が注目される。後に、草醬は各種の漬物に、魚醬は塩辛になっていく。
 時代が下って奈良時代、唐の鑑真(*5)和上(688?~763年)が穀醬の一種「末醬」(後に「未醬」、また「味醬」とも記した。)を伝えた。さらに鎌倉時代に僧覚心(*6)(1207~98年)が宋から径山寺(きんさんじ)豆豉(くき)(豆を原料とした食物)を持ち帰り、「金山寺味噌」と呼ばれる一種の味醬を作った。これらはいずれも醬(ひしお)の一種であった。これを利用した禅宗風の食習慣は、禅宗に帰依する公家や武家層に影響を与え、味醬の使用度も自然に多くなってきた。特に、この時期まで味醬は副食物の地位にあった。つまりなめ味噌として食され、主食のおかずであった。その味醬が、禅宗の精進料理(*7)の開花とともに調味料にその主用途を変えていく。室町時代以降に醬のうちの固形分が味噌へと日本独自に発展し、遅れて味醬からにじみ出た液汁分が醬油(しょうゆ)へとなっていったともいわれる。なめる味噌から調味用の味噌へと味噌の食べ方・使い方が変わるにつれ、味噌が次第に庶民的なものになっていった。汁物への使用が増え、さらに煮物の調味に、また味噌漬け用にと多用途に使われ始めた。それとともに、味噌は醸造が比較的簡単なため、自家製の味噌作りが始められていった。
 味噌は、米、麦、あるいはダイズなどで作った麹に、ダイズを蒸してつぶしたものと塩を混ぜて容器に詰め、ゆっくりと発酵・熟成させて作る。麹の分量や食塩使用量により、できあがりまでの時間に長短ができる。東日本の地方では、ダイズ・麹・塩おのおの同量を標準として、一般に辛塩が多いといわれるのに対して、西日本の地方では一般に甘塩(薄塩)であるといわれる。
 仕込んだ味噌は2、3か月から半年くらい熟成して使用する。辛塩の場合には3年味噌といって、仕込んでから3年経った味噌がうまいとされているが、愛媛県内の多くでは、薄塩で1年味噌として使用している所が多い。また、地域差よりも原料のダイズ・麹・塩の配合の違い、気候、風土の差、また家風により独自のものが見られ、文字どおりの手前味噌といわれる味噌作りがなされている。

 (イ)ふるさとの味噌づくり

 味噌の醸造を愛媛県内で見ると、どこの家庭でも古くから作られており、「買った味噌を食べるのは家(嫁)の恥」とか「味噌作りができなければ一人前の嫁だとはいえない。」、また「味噌を作る女を嫁にもらえ。」などといい、上浦町甘崎では、「味噌買う家に蔵が建たぬ。」と言い伝えていた。このように、親から娘へ、姑(しゅうとめ)から嫁へと、その土地・家に合う味噌作りが伝授されていた様子がうかがえた。また、愛媛県内では、「裸麦を主体とした味噌」、「小麦を主体とした味噌」、「麦に米を加えた合わせ味噌」、「米を主体とした味噌」が作られているが、際立った地域的特色は見られない。このため各家々の特色ある味噌作りについて調査した。
 図表4-3は、「裸麦を中心とした味噌」の事例である。増原米子氏が、南予地域に見られる麦味噌について、「自家製の場合は昔から伝えられている麦味噌用の桶(おけ)に麦麹と食塩、適当な水分(煮沸(しゃふつ)して冷(さ)ましたもの)を加えながら仕込む。この際、蒸し煮大豆を加えることもある。甘塩が主流なので保存期間は短い。(⑮)」と述べているように、県内では麦が多く、ダイズは少なく、中には一粒も入っていないものもあった。南予地域のさつまは、塩分を抑えた手作りの麦味噌に限るとまでいう人もいる。
 事例1は、宇和島市日振島能登(のと)地区の**さん(大正15年生まれ)の作る味噌である。**さんは、「種麹には米麹の素を使っています。塩は、麦1升につき1.3合ほどの薄塩に仕込んでいます。そのため、保存期間が短いので、春・秋の年2回味噌を作っています。ダイズは入れることもありますが、手間と時間がかかるので最近は入れないでいます。」と言う。
 事例2は、『西条市生活文化誌』に見られる味噌である。西条地域では、裸麦1斗にダイズ3升と塩3升を加えた麦味噌である。麦1升に対して塩3合で、仕込んでからじっくりねかせて、味がなじんでくる3年目くらいの味噌がおいしいので、3年味噌を賞味しているとある(⑯)。
 事例3は、伊予市上唐川(かみからかわ)地区の**さん(大正14年生まれ)の作る味噌である。**さんは、「かつて麹1升につき塩2合の割合で作って、1年味噌で食べていましたが、やや塩辛かったので、後には塩は1.5合程度にしています。この地方では、塩が少ないとすえるのが早いので、この程度が良いのではないでしょうか。」と言う。現在は米も加えた合わせ味噌を作っているとのことである。
 城辺町僧都地区の**さんは、「味噌はもともと裸麦だけで作る赤味噌でしたが、小麦を加えて黄色味がかった味噌やシャギ麦(押し麦)を使って白味噌を作ることもありました。味噌作りにダイズを加えるようになったのは、戦後間もなく始まった生活改善運動で、『ダイズは体に良いから』との指導を受けてからです。また、当時実もの1升に塩2合から3合を入れていましたが、これも『3年味噌は栄養が落ちるから1年味噌にするように』との指導があり、その後次第に実もの1升につき塩1合から1合2勺ほどの味噌になりました。」と**家の麦味噌の変遷について語る。
 図表4-4は、裸麦の代わりに「小麦を中心とした味噌」の事例である。小麦の方が色がきれいでおいしいという。事例4は、新宮村上山(かみやま)地区の**さん(昭和4年生まれ)の母親の作った味噌である。**さんによると、母親は、3合塩で、3年味噌を作っていた。しかも、小麦は味噌と団子(だんご)作りのために作っていた。また、「3年味噌は切らしたらいかん。」と言って、火災よけのために蔵の入り口に味噌を塗っていたと興味深い話を聞いた。現在**さんは、平麦(押し麦)と米・ダイズを使った薄塩の味噌を作っていると言う。
 一方、事例5、久万町下畑野川地区の**さん(大正7年生まれ)の味噌は、小麦とダイズとを半々にして塩を実ものの3分の1の比率で作る。普通は小麦1斗にダイズ1斗の比率で作るが、家族数などにより作る量はまちまちである。『聞き書 愛媛の食事』によると、**さんの住む下畑野川地区と峠を隔てて隣接する直瀬(なおせ)地区では裸麦で味噌を作っているとある(⑰)。
 事例6は、上浦町甘崎地区の**さんの家の味噌である。**さんによると、味噌は、4斗(約72ℓ)樽(だる)で作っていた。石臼(いしうす)で粉にした小麦を裸麦にまぶして筵(むしろ)でねかせて麦麹を作った。ゆでてつぶしたダイズを「ええ花が咲いた」麹と合わせ、3合の塩を基本にしていたが、1年味噌がうまいというので、薄塩にして、3か月ほど置いてから利用し、1年味噌として使うようになった。ダイズは多いほどうまい味噌ができるが、それらの分量は今定かに記憶していないという。
 図表4-5は、「米と麦を使った合わせ味噌」の事例である。
 事例7は、広見町畔屋(あぜや)地区の**さん(大正9年生まれ)の作る味噌である。**さんの麹と味噌作りの例を挙げる。まず米を水洗いして水につけ、7・8時間後に麦を水につける。翌日の朝から米・麦を蒸して40度くらいに冷まし、種麹を入れてよく混ぜ合わせ、筵(むしろ)・毛布でしっかり包(くる)み、途中3回ほど塊などをほぐす手入れをすると、48時間くらいで麹はできあがる。麹は塩と合わせて容器に取っておく。この間にダイズを柔らかく煮て臼(うす)で搗(つ)いておく。その際、ダイズを炊いた汁(あめ)1升ほどを取っておく。米・麦の麹とダイズを10回ぐらいに分けて臼で搗き、味噌の固さを加減しながら汁を加え、容器に詰めていく。なお、**さんは、もち米を入れると味噌にうま味が増すと言う。
 事例8の川内町則之内(すのうち)地区の**さんの味噌と、事例9の城川町魚成地区の**さんの味噌にはもち米は使っていないが、ダイズを多く使うとうま味が増すとのことである。**さんは、味噌は黒ダイズを使った方がおいしいが、味噌の色がやや紫色がかる。また、容器に詰めるときには麹とダイズを合わせたものを丸い団子状にして投げ込むようにして詰めていくと透き間なく詰まり、カビが生えにくいと言う。
 **さんは、もともと麦とダイズで作っていたが、粉米を加えたら、おいしい味噌ができた。また米のほうが麦より麹菌がつきやすいこともあり、麦に米を加えるようになった。塩は全般に薄塩にしている。かつて2合塩などと塩を多めにしていたこともあるが、塩辛くて不人気であったので、塩梅(あんばい)(味加減)を見て塩1.2合~1.5合程度で仕込んでいると言う。
 事例10は、小松町大頭(おおと)地区の**さんの作る味噌である。**さんの近隣の家の多くは、麦・米・ダイズを等量の割合で作っているが、**さんの作る味噌は米が主体で、麦は押し麦を使っていると言う。塩は大豆を除いた米・麦の実もの1升につき1合2勺を目安にしている。以前は、塩を多めに入れていたので、辛くて3年はねかせて熟成させたが、やはり塩辛かった。平地で温暖であれば、塩が少ないと酸っぱくなるので、この辺りでは1合2勺(しゃく)を割ると持ちが悪くなるとも言う。このように味噌作りには、各家々でさまざまな方法が試みられている。
 なお米味噌については、『聞き書 愛媛の食事』に越智郡玉川町の鴨部(かんべ)地区(旧鴨部村)での味噌作りが紹介されている(⑰)。**さんは、城辺町僧都地区では「米を使った白味噌を好む家もありましたが、甘いと言って嫌う家もありました。」と言う。一般には、久万町の**さんが、「米味噌はその年に“何か事”のある家では作りますが、一般には必要を生じたときに購入していました。」と言うように、主に麦味噌が、後に合わせ味噌が作られていったようだ。
 できあがった味噌は、醬油や漬物などの桶(おけ)・瓶(かめ)・樽(たる)などともに保管する場所を各家で工夫している。その場所を一般に、「味噌蔵」とか「味噌部屋」と呼んでいる。ところが、城辺町僧都地区では1石(約180ℓ)樽で作られた醬油が中心を占めるせいか、「醬油部屋」と呼んでいる。

 イ 味噌を食す 

 (ア)味噌を使う

 かつて農村部では、醬油は特別の日、味噌はふだんの日の調味料と使い分けていた。味噌は植物性たんぱく質と塩分との供給源であるとともに、うま味があるので、昭和10年代半ばころには、1日3度の食事の1回は「麦飯と味噌汁」が、庶民的な食の原型をなしていたともいわれる。
 それほど味噌は、いろいろな旬(しゅん)の食材とも調和してその味を引き立て、また食材の欠点を消して、おいしく調理できるので主に味噌汁として使われ、庶民の生活に深く根付いてきた。栽培した野菜類や旬の山野草などを使った味噌汁をはじめ、南予地域に見られるキビナゴの味噌汁や中・東予地域に見られるどじょう汁のような魚を使った味噌汁、アサリ・シジミなど貝の味噌汁、豚汁に代表されるような肉を使った味噌汁、豆腐や油揚げ・麩(ふ)などの加工品を利用した味噌汁などのように、県下各地でも、多様な食材を単品または組み合わせて工夫・利用している。また、これらの味噌汁に団子を加えた団子汁や麺類へのかけ汁、さらに雑炊としてもよく食べられていた。
 味噌は他の調味料と違い、食材によくからみ、その味を引き立てる性質がある。この粘着性を利用したものとして、県内各地に見られる田楽(でんがく)、和(あ)え物などがある。サトイモやこんにゃく、ダイコンなどの田楽は、生産地はもとより県内各地で好まれて食されている。酢味噌を使ったヌタの和え物、フカ(サメ)の湯ざらし(写真4-5参照)につけるからし味噌のように、酢味噌、ゆず味噌、木の芽味噌、ごま酢味噌、たで酢味噌、からし酢味噌といったように多様な調味味噌を作って、食材や好みに合わせて味噌和えに用いている。
 味噌には、たんぱく質の生臭いにおいを消す働きもある。この性質を利用して、コイやサバなどの生臭い食材には多く味噌を用いている。代表的な料理に県内各地にみられるサバの味噌煮やこい濃(こく)、さらにカキの土手鍋(どてなべ)や山間地に見られるアメノウオの土手焼き、いのしし肉のぼたん鍋やうさぎ肉・たぬき肉の味噌炊きなどが挙げられる。現在、宇和地域名物のなまずがゆにも味噌が使われる。
 また、上記のいろいろな性質を利用したものに魚や鳥獣肉の味噌漬けがある。タイの味噌漬け、いのしし肉の味噌漬けのような魚・肉の味噌漬けなどは、生臭さを消すほか、味噌のうま味と塩味がしみ込み、塩分の多い味噌では保存の効果もある。
 広見町畔屋地区では、川魚の腸(はらわた)を除き、味噌を詰めて焼いて食べたのがうまかったといい、城辺町僧都地区では、魚を焼いて身をほぐし味噌と混ぜ合わせ、温かいご飯に入れて食べた味が忘れられないと語っている。餅(もち)や握り飯に塗って焼いたもの、また握り飯の中に味噌を入れて焼いたものを弁当にしていたが、その香ばしさとうま味は調味料とも、副食物ともいえ、食欲をそそるおふくろの味そのものである。県内各地で作られるさつま汁も味噌のうま味が生かされている。
 このように、そのうま味で多用途に使われる味噌であるが、**さんによると、御荘町菊川(きくがわ)地区では、ごく最近まで味噌汁は味噌が多く要るといって作らなかった家もあったという。伊方町大浜では、「味噌食う長者は永代(えいよ)続かぬ」と味噌の多用を戒めていたという。

 (イ)なめ味噌

 味噌(みそ)は、もともと調味用の味噌よりも野菜や魚肉などを入れた副食用の味噌、つまり「なめ味噌」として発達した。なめ味噌には、直接なめ味噌として醸造したものと、味噌を加工してつくったものがあり、いずれもそのまま食べられる。
 このうち、醸造なめ味噌の代表的なものに前述の金山寺味噌が挙げられる。金山寺味噌は、一般的にはダイズを炒(い)って挽(ひ)き割り、これに煮た麦を合わせ、ねかせて麹にし、ウリまたはナス・マメ・麦などを入れ、塩・シロウリの汁を入れて圧し、ショウガ・シソ・アサの実などを加えたものである。
 『聞き書 愛媛の食事』には、重信(しげのぶ)町で作られる金山寺味噌の記述がある。それによると、普通は8月下旬から9月上旬ころに、玄米・小麦・ダイズを各1升ずつの3升で作る。これらをねさせて麹にしてから、瓶に移して実もの1升につき醬油を5合の割合で入れる。ぎょうせん(水あめ)を入れると味がよく、カビ止めにもなる。この後、コンブを刻み込み、次に塩漬けしたナス、ナタマメをよくしぼり、天日に干して刻んで入れる。1週間くらいで味噌がなれて食べられるようになる。金山寺味噌はぜいたくななめ味噌で、だれでもが作るものではない。しかし日持ちがよくおいしいので、不意の来客にも間に合う常備菜とある(⑰)。また、同書の肱川(ひじかわ)流域の項には、なめ味噌は「しょいのみ」ともいい、「しょいのみかす」(後述「醬油の実」)とともに普段の代表的なおかずである(⑰)とある。
 上浦町甘崎地区の**さん(大正7年生まれ)は、「なめ味噌は、4分搗(つ)きくらいの米と裸麦に炒ったダイズで作る味噌に、ナスやニンジン・レンコンを入れました。副食として弁当のおかずにもしました。」と言う。広見町畔屋地区では、「しょいのみ」として、味噌の麹1升を干したものに醬油を入れて混ぜ合わせる。その際、ダイズや小麦を炒って砕いたものを合わせて菜として食べていた。


*5:鑑真 中国唐代の高僧。日本律宗の開祖。天平14年(742年)日本の留学僧からの招請の懇願を受諾したが、幾度かの
  渡航に失敗した末、天平勝宝5年(753年)にようやく来日の志を果した。来日後、東大寺戒壇院、唐招提寺を創建し
  た。
*6:覚心 鎌倉時代の臨済宗の僧。建長元年(1249年)宋に渡り建長6年帰国した。この際に径山寺豆豉を持ち帰ったとい
  われる。
*7:精進料理 仏教の教えから来た植物性の食材だけで調理した料理。野菜や海草などのほかに豆腐や油揚げ、納豆などがよ
  く用いられる。中世以降、内容も多彩になり、正規の料理として内容が整えられた。民間では法事に際してよく作られる。

図表4-3 裸麦使用の麦味噌

図表4-3 裸麦使用の麦味噌

1斗=10升=約18ℓ、1升=10合=約1.8ℓ、1合=10勺=約0.18ℓ、1勺=約0.018ℓ。

図表4-4 小麦使用の麦味噌

図表4-4 小麦使用の麦味噌


図表4-5 米と麦を使った合わせ味噌

図表4-5 米と麦を使った合わせ味噌


写真4-5 フカの湯ざらし

写真4-5 フカの湯ざらし

宇和島市錦町。平成15年11月撮影