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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(3)茶のある風景

 茶が普及し、茶の飲用が日常化するにつれ、茶を生産しない地域でも、茶に代わる飲み物が求められるようになってきた。それは、茶が単に渇きをいやす、うまい(おいしい)といった理由以外に、人づきあいに欠かすことのできないものになったからだといわれる。客があれば、「すかさず茶をだす」ことが日常の心得となり、1杯の茶を飲んで主客共にくつろいでから用談に移るというつきあいの形式が、いつの間にか成立したのである。日本人にとって、茶は意思疎通を図る媒体であり、生活に深く溶け込み、愛飲されているのである。

 ア 茶堂に集う

 東宇和郡の城川町や野村町などには、かつての土佐国と伊予国を結ぶ往還(おうかん)沿いに、弘法大師像・庚申(こうしん)像・地蔵像などの諸像を安置した堂が見受けられる。1間(約1.8m)四方の方形の建物で、近年再建されたものを除き、屋根は茅(かや)ぶきなどの宝形(ほうぎょう)造りで、三方を吹き放ちにして奥の背面だけに棚を設けて、諸像を祀(まつ)っている(写真4-3参照)。
 この堂の由来は定かではないが、江戸時代になって建立されたものと考えられ、村人にとって、田畑などでの野良仕事の行き帰りに立ち寄って、茶飲み話に打ち興じる社交親睦(しんぼく)の場であり、お大師様の縁日に立念仏を奉納したり、虫送りなどの村の主要な行事の数々を四方山(よもやま)に語り合い、諸行事を行う堂でもあった。また、土佐と伊予を行き交う旅人や行商人、地四国(新四国、ミニ四国ともいう。)魚成八十八か所などを回る巡拝者やたまに訪れる四国遍路が歩き疲れて、この茶堂で堂の管理者や村人が用意した湯茶や茶菓子などの接待を受けて、一息入れた安息の場であったともいわれる。
 城川町魚成地区蔭之地(かげのち)にある蔭之地茶堂について、魚成地区の**さん(大正5年生まれ)、**さん(大正10年生まれ)、**さん(大正10年生まれ)、**さん(昭和6年生まれ)に話を聞いた。
 「蔭之地茶堂は昔ながらの様式を残しております。茶堂正面には大日如来座像、弘法大師座像、馬頭観音座像、地蔵立像が祀(まつ)られています。この茶堂は、かつて宇和島に通じる道筋にあたり、また新四国の遍路道でもあり、龍澤(りゅうたく)寺(曹洞宗の中本山。地四国魚成八十八か所88番目の地)の手前2kmほどの所にありますので、道往く人々や野良帰りの人々の休息の場として現在も使われています。牛市の盛んなころには、9月19日は大日如来の縁日として畜産繁栄のおこもりも行われ、茶堂前の広場や周辺はウシや人があふれにぎわいました。現在も8月には茶供養を行っています。茶供養には近在の集落から2戸が順送りでお茶番に当たり、供物のお茶や米を堂内の諸仏に捧げ、お線香を上げます。また、接待用のお茶や茶うけを堂内に準備しておきます。茶うけには、『自家製のらっきょう漬けやウリ・キュウリなどの漬物、たくあん、梅干し、またダイズの煮物』など、また最近はせんべいのような日持ちのよい菓子なども置いています。通りすがりの旅人などが自由に立ち寄り一息を入れ、村人も気ままに立ち寄り話の花を咲かせます。」と話す。茶堂で憩っているとき、道行く人がいると、「寄んなはいや、ちょっとお茶でも飲んでいって。」と気軽に声をかけていた。ただ、戦中・戦後のころには、物乞(ものご)いの遍路が茶堂を一夜の宿に利用していたという。同町の**さんも、同じころ高野子(たかのこ)地区の杖野々(つえのの)茶堂でも、同様の遍路が茶堂に宿泊しているのをよく見かけたという。

 イ 茶のひととき

 茶に含まれるカフェインは、神経を興奮させる作用があるが、そこまでいかなくても茶の渋味や香気などで手軽に気分を一新することができる。茶を飲むことが、日常生活のなかでの区切りをつける役割を果たしている。例えば、茶を飲むことによって、食事という一続きの行為の終了を告げるのである。あるいは、労働時間の区切りをつけるのが茶のひとときである。そこで、仕事の間にとる間食は茶の子とか、お茶にするといわれたりしている。
 山仕事、畑仕事に出た折に火あぶり茶を作って、休憩のひとときがもたれた。
 久万町下畑野川地区の**さん(大正14年生まれ)は、「山仕事に出た折など、男衆(おとこし)が近くにある自生の茶や他の樹木の枝を折ってきて、その葉を採り、火にあぶってから沸かした湯に入れ、即席の茶を作ってよく飲んでいました。結構飲めましたし、仕事の合間の楽しみでもありました。」と山仕事の合間に飲む茶のひとときを語っている。このように山仕事の場で火あぶり茶を作り、香ばしい香りを楽しんだ様子は各地域で例外なく語られた。自生茶があればよし、なければいろいろな木の葉を使った。松野町蕨生(わらびお)地区の**さん(昭和11年生まれ)は、「野イチゴの葉を火にあぶって即席の茶を作ったこともありました。」と言う。カキとかビワなどの葉も使った。結構おいしい茶が飲めたという。笹の葉をあぶって茶にした話も聞いた。川内町の**さんの夫は山仕事の経験もあり、この付近にある木の葉で毒になるものはないとまで言って、山に入り適当な木の枝を取ってきて茶にしたという。このように火あぶり茶は、自生茶の枝などを折り取り、たき火にかざして、少々焦げたのをヤカンに入れて飲む。見ばえはよくないが飲んでみると案外によく、茶のひとときが楽しめていたらしい。
 茶酒盛りといわれて、酒の代わりに茶を用いて、共に飲食し興じることがあるが、上浦町の**さんは、「そこまで大げさでなくても、“何ぞ事”(何か特別な事)の集まりなどに、茶・菓子を用意して皆で茶を飲みながら茶談義に花を咲かせるのが楽しみでしたが、それも年に数える程度の集まりでした。」と言う。縁側で茶をはさんで日向(ひなた)ぼっこしながらの語らいなど、規模・場所は違っても日常茶飯事(さはんじ)に茶は姿を見せるが、茶が広く一般化するのは戦後になってからであるといわれる。それまでの食後の茶の一服、とりわけ個人用の箱膳(はこぜん)を利用していたころは、食事が終わると茶碗(ちゃわん)に湯茶を入れ、箸(はし)や茶碗をきれいにして、お茶や白湯(さゆ)はそのまま飲んだ。そのとき茶碗についた菜や漬物の辛味が溶け出ておいしかったという。また、茶の木のない農家では平素は白湯を飲み、来客があった時だけ飲み残りの茶葉をやかんに移して家族で楽しんでいたともいわれる。

写真4-3 城川町高野子地区の本村茶堂

写真4-3 城川町高野子地区の本村茶堂

平成15年7月撮影