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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)茶をつくる

 ア 小松町の石鎚黒茶
 
 (ア)伝承される発酵茶
  
 前述した守屋毅氏は、「愛媛県下ではほとんど形跡をとどめていないが、阿波や土佐の一部に、きわめて特異な茶の製法が伝えられているのも、四国における茶の文化の根深さをものがたるといわねばなるまい。(②)」と徳島県相生(あいおい)町などで作られる阿波(あわ)晩(番)茶や高知県大豊(おおとよ)町で作られる碁石(ごいし)茶などにふれているが、小松(こまつ)町石鎚(いしづち)地区にも古くから伝承されてきた黒茶がある。この茶は、かつて小松町石鎚地区、西条市大保木(おおふき)地区、周桑郡丹原(たんばら)町などの石鎚山系の北山ろくで作られていたが、現在は小松町石鎚地区の**さん(大正14年生まれ)のみが製法を伝えているといわれる。
 小松町石鎚地区は、石鎚山(標高1,982m)の山腹、標高500~600mの南向きの緩やかな斜面に拓(ひら)かれた深い山里である。石鎚山に対する山岳信仰のため、早くから神社や寺院が創建され、また登山道も開かれかつてはにぎわっていた。しかしこの地区も、昭和30年(1955年)当時には、195戸・1,108人を数えていたが、現在(平成16年1月末)は、4戸・6人と過疎化している。
 **さんは、「古法を残す石鎚の黒茶の伝来をめぐって」の論稿で、「ここで作られる黒茶は、古代、遣唐使が往来した時、中国から日本に伝来したとみられる発酵茶の一種が保存され続けたものである。(⑧)」と記している。
 **さんや**さんの話によると、発酵茶の製法は次のようである。
 夏の盛りに成熟した葉を刈り取ったあと、納屋の中に筵(むしろ)を敷き、その上に蒸した茶の葉を積み重ね、筵をかぶせておくと、まもなく発酵し始める。温度の上がり具合で時々全体をひっくり返し、1週間ほど置く。これを前発酵という。次にこれを大桶(おおおけ)にぎっしり詰め込んで重石(おもし)でしっかり押さえつけ、途中、中を見て桶内の温度が高すぎるようだと差し水をする。そうすると今度は新たな発酵が起こり、菌の働きで、やや匂いが出てくる。乳酸のにおいである。これを後発酵という。この2段階の発酵を経て、桶から取り出した直後の葉は、草色を帯びた褐色だが、太陽光にさらすと、紫外線の働きや空気中の酸素などで真っ黒な茶に仕上がる。この発酵がうまくいかないと黒くならず、褐色に終わる。この色から“ウマングソ茶”とも呼ばれていたという(⑧)。
 西条市大保木地区中奥の**さん(大正6年生まれ)は、「かつて住んでいました(大保木地区の)前田集落の30戸ほどの家々では、昭和20年代ころまで黒茶を作っていましたが、次第に釜炒(かまい)り茶に変わっていきました。その理由(わけ)は、夏の暑い盛りに作るうえに、たいへん手間ひまがかかります。山はスギやヒノキの植林で茶畑が急激に減っていきました。交通の便も次第によくなり、町との往来も増え、行商その他現金収入の方法もでき、おいおいに止(や)まりました。黒茶はおいしいので作っていましたが、『石鎚黒茶』という名は知りません。」と語っている。

 (イ) 石鎚黒茶を継承する天狗黒茶

 現在、小松町生活改善クラブさつき会(会員7名)で黒茶の製造を行っている。この製茶にかかわっている小松町大頭(おおと)地区の**さん(昭和9年生まれ)によると、発端は平成8年(1996年)、全国的にも珍しい茶が小松町で作られているというテレビ番組を見て、**さん宅に通って製法を学び、会員が話し合って始めたという。当初は**さん所有の畑で栽培されている茶を利用して製造を始めたが、現在は他の農家で栽培される茶も加えて加工している。製茶は**さんの教えに従い、容器など**さんが使っている物が充足できない場合は他の方法を工夫して進めている。
 **さんは、「当初は蒸した茶葉を町なかの倉庫でねかしましたが、白カビが生えず、黒カビが出てうまくいきませんでした。そこで、次の年からは町のすぐ裏手にある山のふもとで発酵させることにしました。今年(平成15年)からは、**さんの助言もあり、**さんの住む石鎚地区の冷涼な気象条件の地を活用しようということで、標高600mほどの石鎚山のふもとにある空き倉庫を借りて製茶を続けています。長い時間をかけ、しかも暑い盛りの作業で、会員だけでは足りないために、現在はボランティアの力も借りて生産を続けています。」と言う。
 石鎚黒茶の評判は全国的に高まっているが、**さんは自家用にしか作っていないので、さつき会で作った黒茶を「天狗(てんぐ)黒茶」と名づけて希望者に頒布している。名前の由来について、**さんは、「**さんの作る石鎚黒茶の味には及びませんので、石鎚山系の一峰天狗岳の名を借りて名づけました。今後も黒茶の製造は続け、少しでも石鎚黒茶の味に近づけたいと思います。ただ茶葉の提供にしろ、人手にしろ、まだ多くの方の協力が必要です。設備が整って人手が多ければ続けられるでしょう。黒茶は保存がききやすく2年経っても飲めます。普通は煎(せん)じて飲み、茶殻は捨ててしまいますが、ある健康グループでは、黒茶をさらに挽(ひ)いて粉末にし、茶として飲む以外に、ご飯とか他の食料品に混ぜ入れて、すべて使い切っているそうです。血圧、腸によい発酵食品として見直されてきています。」と語っている。

 イ 伊予市唐川のびわ葉茶

 伊予市唐川(からかわ)地区は、東西に流れる森川沿いに位置し、日照時間は長く、排水のよい山の急斜面を利用したビワの栽培を行い、「唐川ビワ」というブランド名で知られている。しかし、高齢化・過疎化に伴い放置のびわ園が増え、栽培面積、生産量ともに減少傾向にある。かつて地元の人が火あぶり茶として飲んでいたびわ葉茶を活用した地域おこしに取り組んでいる伊予市上唐川地区の**さん(大正12年生まれ)に話を聞いた。
 **さんは手始めに、地域の住民がビワを食用以外にどのように使っているかを聞いたところ、さまざまな用途例の回答が返ってきたという。中でも、びわ葉茶を飲用している人から、「びわ葉茶を飲み始めてから、風邪を引かなくなった。」とか、「血圧が下がって調子がよい。」、「病気で療養中であるが、びわ葉茶のお陰で一定の健康を維持している。」などと、その効用についての回答が多く寄せられたという。
 **さんは、「この話に意を強くしまして、特定の人が飲んでいたびわ葉茶を地域おこしの核の一つに取り込もうと考えました。また、京都では、びわ葉湯は清涼剤として夏負けや暑気あたり、また、食中毒の予防に一種の保健薬として庶民に親しまれ、『京都烏丸(からすま)の枇杷(びわ)葉湯はいらんかえー』と、かつて京都の烏丸通りでびわ葉湯売りが店を出していたという一文を目にしました。ビワの葉が古来より生薬(しょうやく)として重宝され、最近ではビワの葉には血液を浄化するというアミグダリン(ビタミンB17)が豊富に含まれていることも分かってきました。そこで、びわ葉茶作りを始めることにしました。」と言う。
 さらに、「びわ葉茶作りに当たっては、ビワの葉は、無農薬で、かつ2~3年の成熟した葉、春から夏の成長期の葉ではなく、成分豊かに成熟した秋からの葉を利用することにしました。ところが、葉を採取するとビワの実つきが悪くなりますので、働き手がなく放置されているびわ園数反歩(1反=300歩〔坪〕=約991.7m²)を借り入れて、必要な無農薬の葉を確保することにしました。
 また、成熟したビワの葉の裏にある硬くなった繊毛を取るための方法に苦心しました。現在は、採取したビワの葉を4~5mm幅に裁断してから、まず、機械で揺すり落としをし、水を換えて2度の手洗いを重ね、さらに洗濯機での洗いと丁寧な作業を経てから蒸し、その葉を干して乾燥させ、さらに最後の繊毛落としの工程としてふるいで振るって製品化しています。このびわ葉茶は、高齢者の能力開発による加工品作りの一環として、放置園の管理から収穫葉の選別、製茶や袋詰め作業など、すべて高齢者の手によって行われています。地域では率先してびわ葉茶を飲むことを申し合わせています。飲み方は、水1ℓにびわ葉茶2、3gを入れ、十分沸騰してからさらに4、5分ほど煎じてしばらく(約5分)置きます。温かいうちは、ほのかな香りが楽しめますし、冷やしてもおいしくいただけます。」と言う。
 びわ葉茶は煎(せん)じると紅茶の色に仕上がり、ほんのりとしたビワの果実の香りが漂う。この茶が血液をサラサラにし、内臓を浄化するといわれ、健康茶として静かなブームを呼んでいる。