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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)山里の食材

 喜多郡河辺村は、県のほぼ中央部に位置し、標高700~1,000mの高峻(こうしゅん)な山地が全村域に連なりを見せている。河辺村では、水田は全村面積の2%にも満たず、畑は2.5%で、急傾斜地という悪条件が、昭和初期に至るまで、産業経済の発展を阻害してきた。その上道路事情が悪く、河辺村の物資の流通は、専ら肱川・河辺川の水運に頼らねばならない不便さがあった。自給自足の食生活が一般的であった。国鉄バス(現JRバス)が昭和25年(1950年)12月に河辺村神納(じんのう)地区まで開通し、他地域との交流がようやく便利になった。

 ア 山里の食とくらし
  
 河辺村北平(きたひら)の用(よう)の山(やま)地区に住む**さん(明治42年生まれ)に食とくらしについて聞いた。平成15年現在、用の山地区の戸数は17戸である。
 「私は祖父母に育てられました。私の家の場合、祖父と跡取りになる男の子が一緒に白米のご飯を食べ、祖母や他の者はトウキビ、麦などの雑穀を食べるというふうに、祖父、長男と他の家族の食事が、家の中で違っていました。
 食事はとうきび飯が主で次に麦飯でした。気温が低いためか、日照不足のためかサツマイモの成育がよくありませんでした。そのころの水田は、現在、山林になっていますが、私の子どものころ(大正から昭和の初期)は1町(約100a)程作っていました。米は、盆や正月・祭りの折などに家族が食べられる程度で、他は換金して生活の糧になっていました。
 祖父が元気なころですから、大正から昭和の初めころであったと思いますが、そのころ用の山一帯は焼畑が一般的でした。一度火をつけて焼きだしたら消すということをしなかったので、いくら焼けてもお構いなしでした。祖父は、地区の人たちに山を焼くのをやめて植林しないかとよく言っていたそうです。また、祖母は、春先になると焼畑をやっている人たちが火を消さないので、その火を消すのに苦労したとよく言っていました。山を焼いた後、ソバ種をまいて作っていました。立派なソバの実ができていました。そばがき(そば粉を熱湯でこねて餅状としたもの)にしたり、めんそばにしていました。戦後も昭和30年(1955年)ころまで焼畑があったと思います。
 わが家では、主食のトウキビはこの家の近くの畑で収穫して、臼で挽き割って、はな粉をのけてから、米粒程度の適当な大きさの粒を炊いて食べていました。ご飯に米が少しでも入っていればいいほうで、ほとんどがトウキビだけでした。家の近くの谷川に小さな水車を作ってトウキビや麦を搗くようになったのが昭和11年(1936年)ころで、水車を使うということは以前に比べて画期的な加工の方法でした。水車が出来る前は、そうず(添水唐臼(そうずからうす)といって水力で唐臼をつく道具)を使っていました。
 そうして出来るはな粉をお湯で練って、菜っ葉などを入れてどろどろにして食べていました。トウキビを炒(い)ったものを臼で挽いて粉にしたものは、はったい粉と呼んでいました。はったい粉をお湯かお茶で練る、はったい練りという食べ方もありました。子どものころ、麦ご飯を食べる前にこのはったい練りをよく食べさせられました。これを食べさせておけば、あとの食があまり進まず、主食の節約になるということでした。ちょっとぜいたくな人は、その中に米と季節の野菜や山菜を入れて炊いて、はな粉雑炊にしていました。
 畑は約6反(60a)はあったと思います。その畑に、トウキビを春植えて夏収穫し、その後麦を植えて翌春収穫するというふうに毎年トウキビと麦の繰り返しでした。トウキビの1俵は約17貫(約64kg)はあったと思いますが、40俵ぐらい収穫出来ました。普通、20俵以上も作る農家は大きい農家でした。麦の方は4~5俵ぐらいでした。
 お祭りの時は、ちらしずし(ばらずし)がご馳走で、餅も搗(つ)いていました。もち米は自分の水田で自家用に少し作りました。他にアメノウオを釣って作るさつまもありました。あのころは小田深山(おだみやま)までよく歩いて釣りに行ったものです。」

 イ さつま料理

 河辺村横山(よこやま)に住む**さん(大正14年生まれ)、**さん(昭和9年生まれ)に、山間部のさつま料理について聞いた。
 「私が子どものころ、現在のようなぜいたくな食は、ほとんどありませんでした。一番重宝されていたのがいりこでした。いりこを生魚の代わりに使い、夏の暑いときにさつまを作り、麦ご飯にかけて食べました。いりこをちょっと焼くか、炒(い)ってから、細かく刻み、すり鉢ですり、いりこの出し汁でのべて、それにあり合わせの野菜を入れたり、生のダイコンをさいの目に切って入れていました。味噌をすりつぶして汁に仕立てる、素朴な味のさつまでした。この地域では、さつまではなく、ひや汁といっていました。今風(いまふう)にいうといりこさつまです。味噌は少し焼くと風味が増してよかったと思います。ダイコンは歯ざわりがよく、ダイコンのうまみ、苦味が出て何ともいえないよい味でした。このさつま料理は、普段はなかなか口にできる機会がなく、ご馳走中のご馳走でした。
 いりこの代わりに使ったものに、川魚がありました。河辺川でハヤやドンコ(カワアナゴ科の淡水産の硬骨魚で色は黒褐色である。)をとり、保存するためにはらわたを出して、竹串に刺して焼き、わらで作ったすぼに刺し乾燥させて保存していました。ドンコは特にたくさんとれました。
 子ども心に待ち遠しかったのは、チンチマンマ(白飯)を食べさせてもらえる毎月の15日(多くの農家が農作業を休む日としていて白米を炊いて神様、仏様に感謝の意を表していた。)でした。ぼた餅も待ち遠しかったものの一つで、黄な粉をつけたのと、あんこをつけたのと二種類ありました。もち米を少し入れてつなぎにした、とうきび飯のぼた餅もありました。まわりにあんこをつけていましたから、見た目には白飯のぼた餅かとうきび飯のぼた餅か中身が分かりませんでした。子ども心に食べるときにはとうきび飯のぼた餅が自分に当たらないようになどと考えたことがありました。」

 ウ いろいろなさつまと食材

 昭和30年(1955年)ごろまでは県内の道路事情が悪く、海岸部と山間部の交流に乏しく、それぞれの地域で自給自足を原則とした生活が営まれていた。したがってさつまのように同じ形式の料理でも、地域によって使う食材にさまざまな違いがあり、特色のあるさつま料理がそれぞれの地域で受け継がれてきた。新鮮な魚と、古くからの調味料である味噌を使ってさつまが出来た。そして、味噌を焼くことによって香ばしさと独特の風味をだす工夫もされた。
 さつま料理は、薩摩(さつま)(現鹿児島県)から伝わったなど諸説があるが、定かではない。船乗りたちが海の幸を利用して船上で作った料理であったともいわれている。
 さつま料理には次のようなものがある。
 「きゅうりさつま」は、多くはキュウリがおいしい夏に作られ、さつまの中に刻んだキュウリを入れたものである。
 「こんにゃくさつま」は、細かく切ったこんにゃくをゆでて具にしたもので、季節に関係なく作れるところに特徴がある。
 「植上(いあ)げさつま」について、瀬戸(せと)町三机(みつくえ)の**さん(昭和10年生まれ)は、「三机では昭和30年ころまで、麦まきが終わったり、いも植えが終わったりすることを『植上げ』と言っており、そのときによくさつまが作られたのでこのように呼ばれたのではないですか。魚はタイ、ハゼ、コノシロ、アジ、エソやいりこなどさまざまなものを使いました。」と話す。
 そのほか南予(なんよ)地域の山間部や内陸の河川流域では、いりこさつま、あゆさつま、あまごさつまなども見られる。河辺村や南宇和郡内の町村では、ひや汁という呼び方が一般的であり、中に入れる魚はさまざまである。