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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)トウキビに頼って

 『農業技術体系』によると、トウキビ(トウモロコシ)は世界各地で広く栽培されていて、人類の食生活に大きく貢献をしている。しかし、米は同じ熱帯原産でありながらその主な生産地はアジアに限定されている。これは、米に比べてトウモロコシの方が環境に対する適応性が高いことによるものであるとしている(①)。

 ア 日吉のくらしとトウキビ

 日吉村は県の南部、宇和島市から約35km隔たった山間部にあり、高知県境に接し、1,000m級の山々に囲まれた盆地である。この地域は水田に恵まれない山間地のため、昭和初期まで、常食用として、トウキビ(在来のトウモロコシ)やソバが盛んに作られていた。日吉村の人口は、昭和5年(1930年)の3,513人に対して45%も減少し、平成12年は1,933人となり、人口減少の著しい地域である。
 昭和39年(1964年)刊行された『愛媛県民俗資料調査報告書 第一集』には、日吉村犬飼(いぬかい)地区の食の様子を次のように記している。
 「主に玉蜀黍(とうきび)の『すりわり』に米2割程度まぜたものをたべ、麦はほとんど使わなかった。またあわ、高黍(たかきび)、クズの根、ワラビ粉、ソバ粉などを常食とした。米の飯を食べる時は、正月、盆、祭りなど特別な場合に限られた。ハッタイ、甘藷(かんしょ)も間食とし、米は極力使わなかった。(中略)副食物、味(み)そ、漬物、野菜は日常使う。山でとれた場合獣肉(うさぎ、猪鳥類など)を買うて食べるということはない。海藻、魚類は祭りのとき祝いごとなど以外には買わなかった。塩さば、いりこの類は明治に入ってから食べた。食事の名称と時刻。朝食、朝はん、午前5時~7時。昼食、おひる。午前10時~11時。后食。おこんま、またはお茶午後2時~3時、おもにはったい粉であった。夕食、夕はん午後6時~8時。食事場所、茶の間(いろり端)でたべる。調理具はまな板とほうちょう1丁だけ、それとなべと釜以外のものは何もなかった。お膳箱、各人ごとにこれをもっており、めいめい食器を納めておき、食事時に出して使う。今でもほとんどこの方法によっている。(②)」
 日吉村生活改善グループの一員である**さん(日吉村父野川(ちちのかわ) 大正14年生まれ)に、昭和20年(1945年)前後から30年ころの食とくらしについて聞いた。
 「昭和19年に結婚してこの日吉村父野川に来ました。嫁いできた当時はランプが頼りで、昭和23年にやっと電気がつきました。主食といえば、とても固いトウキビが中心でした。自分で作ったものを自分で食べるという文字通りの自給自足の生活でした。
 水田の少ない地域でありながら、戦時中のため供出(きょうしゅつ)(食糧管理制度のため民間の物資、食糧などを、半強制的に政府に売り渡すようにさせること)をしなければならず、家に置く米もあまりありませんでした。その上家族が多かったこともあり、それまで食べたこともない丸麦やトウキビの中にわずかに米の入ったご飯を食べました。特にとうきびご飯は、冷えたら固くてとても食べづらかったのですが、お腹(なか)がすけば仕方なく食べました。この近くの水田を持たない家庭では、麦とかトウキビばかりの生活だったと思います。
 たとえ妊娠していて陣痛(じんつう)が始まったとしても、お腹を押さえながら動けなくなるまで、田を耕すために牛を引っ張った事もありました。子どもが生まれた後は、どんな仕事をするときでもいつも子どもを背負って仕事をしなければなりませんでした。田畑を耕したり肥桶(こえおけ)を担ったり、どんな仕事をするときにでも、子どもがいることを理由に仕事ができないなどと泣き事をいうことは許されない時代だったのです。」

 イ 食卓の料理

 (ア)とうきびご飯は卵飯

 **さんは続けて語る。
 「トウキビは、収穫後皮をはぎ、家の南向きの軒下一面に吊(つ)って干していました。乾いたトウキビを足踏みの臼(うす)で搗(つ)いて粒を落としたり、夜なべ仕事に粒をもいでいました。これを臼で米粒ぐらいにひき割り、米を入れて一緒に炊き、主食の代わりにしました。米が麦ご飯のときより多く入っているときは、トウキビの黄色が鮮やかで、熱いうちはおいしく感じたこともあります。黄色のトウキビを卵、たくあんの漬物を卵焼きなどと呼んだこともありました。
 水田は4反(40a)ぐらいあり、貸している土地を含めると8反(80a)ぐらいあったと思います。おかげでわずかですが白米を入れて食べることもありました。麦は、押し麦ではなく丸麦で食べました。丸麦を2時間ぐらい炊いて、ある程度柔らかくしてから、お米を少し入れて二度炊きしたものが主でした。私の実家のある広見(ひろみ)では押し麦でしたので、ここの丸麦に慣れるのには苦労しました。
 普段の食事は4食で、朝食は6時ころ、昼食は10時ころ、2時ごろの食事は“おこんま”を食べるといっていました。電気のないころには明るいうちは外の仕事をして、夜暗くなってから夕食をとりました。
 朝の食事は、味噌(みそ)汁があればいい方でした。味噌汁の具は菜っ葉みたいなものばかりで、豆腐などは、普段は作りませんから入りません。たくあんの漬物、菜っ葉の塩漬けととうきび飯でした。昼は、朝と同じようなもので、季節の野菜があればいいほうでした。夜は、その時々の有り合わせの野菜などを煮ておかずにしていました。冬はよく雑炊をしました。サツマイモを入れたり、カボチャを入れたり、小麦は自給できましたから、時には小麦でいちび団子(だんご)(小麦粉を練り団子状にしたもの)を作り雑炊に入れ、出来るだけ温かいものを食べるよう心がけていました。
 私が嫁に来たときにはありませんでしたが、祖父母の時代には、祖父と長男が隠居(いんきょ)部屋で米のご飯の食事をして、他の者はトウキビや麦の食事であったと聞いています。弟たちが長男と隠居部屋に行って食事をしたがったそうです。昭和の初めまでは、家の中で食事の違いがあったと聞いております。」

 (イ)祭りの料理

 村人にとって祭りは一年の中で楽しみな行事の一つである。祭り料理について、さらに**さんに聞いた。
 「秋のお祭りには、お餅(もち)が必ずありました。広見の実家では、もち米の赤飯(せきはん)でしたが、ここでは必ず餅を搗いていました。母はお客があると必ず黒の塗り椀(わん)に丸のままのシイタケを入れたお吸い物を出していました。シイタケは普段の料理には使いませんでした。シイタケはそれだけ貴重で珍しかったのだと思います。
 ご飯は、ちらしずしを大きなはんぼう(底の浅い飯びつ)で作っていました。各家庭が畑で小麦を作っていましたから、一年の区切りの行事やお正月、田植えの終わった後などの時に必ずうどんを作りました。自家製の豆腐やこんにゃくも、祭りや“何か事”(何か特別な事)の定番でした。豆腐は石臼でダイズを挽(ひ)いて粉にしてから作っていました。豆腐作りにはにがりが必要ですが、塩を以前はかます(わらむしろを二つに折り、左右両端を縄で綴(つづ)った袋)で買っていましたので、かますの荒塩が貯蔵中に分離して出来るにがりを使っていました。祭りの料理を彩る寒天羊羹(かんてんようかん)、巻き羊羹などもよく作りました。
 祭りのときには、子どもたちが心待ちにしていたお菓子や餅(もち)があって、白いご飯がふんだんに食べられるということであったと思います。」

 (ウ)日吉の伝統料理-イダ料理

 日吉村は海から遠く、海の魚がなかなか手に入らないので、川魚の中でもやや大型で、銀色にきらきら光るイダ(ウグイ)がよく料理に使われていた。寒イダは30cm程度にもなる。イダは愛媛県では、宇和海や太平洋に流入する河川に多く生息している魚であり、瀬戸内海に流入する河川では、肱川のみに生息している。『日本大百科全書』には、地域によってはイダはハヤ、アカウオ、アカハラ、クキなどと呼ばれるが、日本では沖縄県を除く全国に分布し、淡水域のみで一生を過ごすもの、一生の大部分を海で過ごし産卵期に川へ遡上(そじょう)するもの、一生のうちに海と川を何回も往復するものとさまざまな生活史を示す魚だとある(③)。
 **さんは、「海の魚は塩物を食べる程度でしたが、川魚はたくさん食べました。竹で編んだ籠(かご)に餌を入れ川(写真3-3-1参照)につけておくだけで少し水が出たときなどは一晩に50匹も60匹も籠の中が一杯になるほどとれました。」と言う。
 日吉村生活改善グループ連絡研究会の人々によると、海の魚があまり手に入らないころは海の魚に代わるものとしてイダがよく使われてきた。すり身にして油揚げに詰めて揚げたり、ぶつ切りにし、酢に漬けて柔らかくした酢の物を作ったり、その他、さつま、甘露煮(かんろに)、南蛮漬(なんばんづ)けなども作っていたという。

写真3-3-1 広見川と棚田

写真3-3-1 広見川と棚田

日吉村父野川。平成15年12月撮影