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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)新鮮な食材を生かして

 ア 沢津地区のくらしと野菜栽培

 新居浜市は県の東部に位置する。元禄4年(1691年)に別子銅山が開坑されて以来、銅鉱の積み出し基地として発展し、住友系の企業が次々と立地していった。昭和39年(1964年)には東予新産業都市の指定を受け、四国屈指の臨海工業都市となっている。
 新居浜市沢津(さわつ)町は市内を流れる国領(こくりょう)川の河口右岸にあり、昔は豊かな自然と穏やかな瀬戸内海に面した静かな村であった。旧沢津村は永禄12年(1569年)小野元治により開村され、30戸程度が入村した。昭和初期には170戸となり、現在は2,000戸に増加している。開村された当時、海岸近くの一帯はアシ沼が広がっていたことから沢津の名前がついたと伝えられている。
 しかし、干拓開始時から農業用水には苦労した。地下水はあるものの川水が少なく、米作りには家族総出で三尺(約0.91m)井戸からはねつるべで水をくみ上げた。このような水事情のため、米作りより水を必要としないサトイモやスイカを栽培して出荷した。特にサトイモは品質が優れ、名産地として名を馳(は)せた。
 長年農業を営み、特産品のサトイモやスイカなどを作り続けている**さん(新居浜市沢津町 大正15年生まれ)に話を聞いた。
 「昭和初期の沢津は各家庭とも裕福ではなかったように思います。私の家は農家で、子どものころには米・麦・スイカ・サトイモ・サツマイモ・ダイコン・サトウキビなどを栽培していました。また、昭和15年(1940年)ころまではタバコや養蚕(ようざん)もやっていました。時期がくると家中の畳を上げて場所を作り、カイコを春、夏、秋の年3回飼いましたが、大変忙しかったです。
 日常の食事は、麦ご飯に味噌汁と野菜、漬物などで、また家族は各人が箱膳(中に食器をしまい込める箱型の膳)を使用し、食事の後は茶碗(ちゃわん)や箸(はし)をお茶でゆすいで箱膳にしまい、毎回食器を洗ったりはしませんでした。
 “何ぞ事”(何か特別なこと)には、ばらずし(ちらしずし)やごもく飯・ぼら飯・とりかい飯・田いも飯・雑炊・いも粥(がゆ)・ぜんざいなどを作ったり、ジャコ(小エビ)の天ぷら、シャコの塩茹(ゆ)で(口絵参照)、小魚やウナギ・川ガニ・川エビなどを焼いたり煮炊きしたもの、豆腐・こんにゃく・シュンギクで作った白和(あ)え、ワケギ・トリカイ・味噌で作るぬた和え、おから・ゴボウ・こんにゃく・トリカイの入った卯の花、トリカイ・豆腐・ネギなどの煮物、白味噌・豆腐・油揚げ・サトイモ・野菜を煮込んだ味噌汁などを作りました。
 4月に行われる春祭りは、17日に地神祭りと青年団の演芸会や浪曲会、18日は鎮守(ちんじゅ)社沖津神社祭礼と子ども相撲(すもう)大会が行われ、この相撲大会は地域をあげて応援をしました。春祭りの料理は、すしのほかにホゴやメバルの煮魚、サトイモ・ニンジン・ゴボウなどの野菜の煮物、ワカメの酢物、タイやサヨリの吸い物などでした。
 10月の秋祭り(太鼓祭り)には青年団が中心となり、豪華絢爛(ごうかけんらん)で勇壮な太鼓台を地域全体が結束してかきあげます。また、料理も一年で最高のご馳走を作ります。押しずし、巻きずし、押し抜き赤飯、刺身、茹でたガザミ(写真3-1-13参照)、煮魚、おひら(サトイモ・ニンジン・ダイコン・レンコン・トリカイ・コンブ・こんにゃく・高野(こうや)豆腐・油揚げなどの煮物)、なます(トリカイ・ダイコン・カブ・キュウリ)、トサカ(海藻類)の酢物、吸い物、茶わん蒸しなど大変豪華で、特に押しずしとカニが特徴でした。日ごろは一生懸命働き、子どもも手伝いながら、この祭りの行事とご馳走を楽しみに指折り数えて待ったものです。
 また昭和50年(1975年)ころまでは、小組合ごとに共同で籾摺(もみすり)を行い、終わるたびに各家々で作ったすしやごもく飯、小魚、なます、豆腐汁などを食べて疲労回復を図りました。近所の子どもにもおにぎりが振る舞われ、子どもの大きな楽しみでした。隣組との懇親会では、年に1、2回すき焼きやいも炊きをして楽しみました。
 風習としては、毎年サワラがとれ出す5月には、5kgもある大きなサワラを買って炭俵で巻き、“嫁年貢”として嫁の実家にお礼に持たせました。また、すしやごもく飯、赤飯を作ったり、珍しいものや魚などをいただいたときにはよく近所へおすそ分けをしました。風呂も隣と互いにもらい風呂をしていました。このように近所との物のやりとりや助け合いを行い、つながりを大切にしてきました。
 砂糖、味噌、醬油などの調味料も自家製でした。砂糖はサトウキビを2畝(せ)(2a)ほど作り、それから黒砂糖を搾りましたが、1年間に4斗(約72ℓ)桶(おけ)で2桶ほど消費しました。
 昭和25年(1950年)から43年まで農協に勤務した後は、専業農家として米のほかにハクサイ・ネギ・トマト・ナス・キャベツ・サトイモなどの野菜を栽培してきました。しかし、輸入野菜などが年々増加し、農業も大変になってきました。」

 イ 魚介類いろいろ

 川之江市は県の東端に位置し、古くから海陸交通の要衝として栄えてきた。近年は「紙のまち川之江」として隣接の伊予三島市とともに、全国有数の紙の産地となっている。また伝統工芸品の水引細工でも知られている。農業は稲作とミカン栽培が中心であるが、大部分は兼業農家である。水産業は全国屈指のちりめんや煮干し(いりこ)の生産地となっている。
 燧灘(ひうちなだ)は紀伊(きい)・豊後(ぶんご)両水道からの外洋流が離合するところであり、漁場はサクラダイやカタクチイワシの宝庫としてよく知られている。特に川之江沖は泥砂(でいさ)質の遠浅海岸で、エビ類などの好漁場となっている。漁獲される魚介類の種類も、カタクチイワシ・エビ・タイ・コチ・ハモ・アジ・メバル・カレイ・タコ・イカ・ガザミや貝類などと非常に多い。漁獲量はカタクチイワシが増加している一方で、タイ、アジ、エビなどは大幅に減少している。イワシの煮干し加工は昭和52年(1977年)ころから盛んになった(⑪)。
 煮干し加工工場を経営している**さん(川之江市川之江町 大正15年生まれ)に、イワシ漁や煮干し加工、食生活などについて聞いた。
 「父はカタクチイワシをとり、煮干し製造を専門に行っていました。昭和20年(1945年)から父を助けて製造に当たりましたが、昭和37年父が死亡した後は自分が後を継いで経営してきました。
 イワシ網は、昭和25年ころまでは地曳(じびき)網でしたが、以降パッチ網(小型機船船曳網)に変わりました。漁期は、戦後は5月15日から1月15日の期間でしたが、現在は6月中旬から9月末までとなっています。操業時間は、お盆までは午前5時30分に出港し、午後6時30分に網寄せを行います。お盆過ぎからは6時出港、網寄せは午後6時になります。
 5月になると解禁日に心を躍らせ、解禁日当日は船に炊事道具や薪、水などを積み込んで船に飛び乗りました。港から30分ほど船を走らせたところで一番網を入れますが、その後網上げまでに30~40分かかるため、船上での朝食は、6時過ぎにご飯やうどんを入れた味噌汁、漬物などを食べました。昼食・夕食はご飯と網に乗った魚を煮炊きしたものやいりこ、漬物などで、夕食は午後3時ころでした。また水は陸上から担いで船の水樽(みずだる)に入れなければならないために、大切に使いました。
 また、当時はイワシの群れを見つけるのは人の目で確認しましたが、私は日時や場所、漁獲量などを綿密にノートに記録しておき、それをもとに翌年漁をするとイワシの群れに当たりました。しかし現在は魚群探知機を使用しているため、間違いがなく漁ができるようになりました。
 日常の食事は、米飯と魚が中心で、副食物はほかにはあまりありませんでした。ご飯は一度に多く炊き、あじかなどは使用せず、釜においたままで一日中食べました。時間がたちにおいが出ても、お茶をかけてにおいを消して食べました。すえると干して乾かし、黒砂糖をまぶしてお菓子にしました。魚はイワシ・カマス・グチ・キス・エビ・タコ・イカなどを焼いたり、煮炊きして食べましたが、野菜は嫌いであまり食べませんでした。米や麦は物々交換で手に入れましたが、いりこ1俵(3kg)と米は5升(約9ℓ、約7.5kg)、麦であれば1斗(約18ℓ)と交換しました。
 秋祭りにはすしの他にチヌやスズキの刺身、ハモの吸い物、キュウリの酢物などを作り、親戚や知人をもてなしました。また5月の解禁日の前には“網おろし”と言って大安の日にお祝いをし、1か月後には“誕生”と言って大きなぼた餅を作りました。
 現在は、曳き舟2隻と高速運搬船2隻の4隻を所有し、夏場には海上の漁獲の仕事に10名、陸上での製造の仕事にアルバイトを含めて15名ほどの合計25名程度で製造を行っています。
 漁法と煮干しの加工法については、1日に10回から12回網入れを行い、網上げの都度、魚の鮮度が落ちないうちに、2隻の運搬船ですばやく港まで運びます。港からは直径20cmほどのパイプを連結したフィッシュポンプで加工工場へ吸い上げます。そこで水洗い、選別した後、熱湯の中を通して網に広げ、乾燥室に送ります。このように加工はほとんど機械化されており、漁獲から加工までの時間が大幅に短縮され、良質の煮干し(いりこ)が製造できるようになりました(写真3-1-14参照)。
 出来上がった煮干し(いりこ)は大きさにより五段階に分けられ、一番小さいものをちりめん、やや大きいものをかえり、続いて小羽(こば)、中羽(ちゅうば)、最も大きいものを大羽(おおば)と言います。近年、カタクチイワシ漁は操業時間を短縮して、資源確保に努めています。」
 魚介類について、新居浜市沢津町の**さんは、「農作業の合間には小船でキス・チヌ・小ダイ・ギザミ(ベラ)・カレイ・フグ・イイダコなどを釣ったり、ガザミを捕まえました。12月から2月にかけてはトリカイを、4月から6月にかけてアサリをとりました。トリカイは非常にたくさんとれるので、かますに入れてねこ車で運びました。大潮の干潮時には玉網(たまあみ)や金突きを使ったり、手でオコゼ・小魚・ウナギなどをとりましたが、オコゼにはよく刺されました。しかし、オコゼは淡白ですばらしい味でした。魚介類は煮付けや焼き物、酢物などにしたり、干して保存食にしました。小魚は金山寺(きんざんじ)味噌に混ぜて食べるとおいしく、麦飯でも腹に飛び込みました。また魚を食べたあとはお茶をかけてスープにして飲みました。」と語る。

 ウ 郷土料理を楽しむ

 川之江市から新居浜市にかけては、とりかい飯やサワラの姿ずし、いずみや(写真3-1-15参照)、えび天、シャコやガザミの塩茹(ゆ)でなどの郷土料理が作られる。トリカイは、7月から翌年の4月ころまで多量にとることができた(⑫)。しかし現在ではほとんど見られない。
 いずみやはコノシロや小ダイ、アジなどの魚に、うの花(豆腐を絞ったあとの残りかす。おから)をつめた料理である。いずみやとは、住友家の屋号である「泉屋」から名前がついたと伝えられている。うの花は包丁を使う必要がなく、「きらず」とも言われる。「縁を切らず」に通じることから婚礼の祝儀の膳にも並べられた(⑫)。エビは燧灘(ひうちなだ)沿岸では非常によくとれた。そのエビの頭をとり、殻のまますりつぶして豆腐と混ぜ、油で揚げたのがえび天である。食べると口の中がザラザラするが、カルシウムが豊富で、豆腐のたんぱく質とともに栄養満点である。シャコやガザミは少なくなってきている。
 トリカイなどについて、**さんは、「旧沢津村ではトリカイの漁期は冬季のみで、また小さい貝はとらない安定生産でした。ところが、現在は全くいなくなり、稚貝を放流してもそこにいつかなくなってしまいました。原因はいろいろあると思いますが、要は海底の地質が変わってしまったためと言われています。サワラも現在ではあまりとれなくなり、5月ころに1年に一度食べることができるかどうかという貴重品となってしまいました。サワラの姿ずしは沢津には伝わっておりません。」と言う。
 シャコやガザミについて、**さんは、「美味なシャコやガザミは9月中旬から10月末までが主な漁期ですが、その後も底曳き網やマンガン漁(鉄の爪がついた漁具を用いてとる漁法)でとっています。このシャコやガザミは川之江から新居浜地域の沿岸の浅瀬で産卵し、大きくなって今治地域の深い海のほうへ移って行きます。エビは干しえびにして、酒の肴(さかな)やそうめんのだしなどに用います。カマスやでべら(干したマコガレイ)などの白身の魚を使ったさつま汁は、子どものころよく作ってもらいました。」と言う。

写真3-1-13 茹でたガザミ(ワタリガニ)

写真3-1-13 茹でたガザミ(ワタリガニ)

新居浜市沢津町。平成15年12月撮影

写真3-1-14 煮干し加工工場

写真3-1-14 煮干し加工工場

川之江市川之江町。平成15年8月撮影

写真3-1-15 いずみや

写真3-1-15 いずみや

新居浜市垣生。平成15年7月撮影