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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(3)しし鍋を囲んで

 玉川町は、高縄(たかなわ)半島の中央部に位置し、三方を山地に囲まれている。町の中央部を蒼社(そうじゃ)川が北流し、これに流入する川沿いにわずかな平坦地(へいたんち)があるほかは、スギやヒノキなどに覆われた急峻な山地をなしている。農林業が主体であるが、兼業農家が多く、今治市への通勤者が多い。蒼社川とその支流に沿って棚田状に水稲栽培がみられ、段畑はキュウリ、ピーマン、シュンギクなどの産地となっている。シイタケやタケノコの生産も盛んである。

 ア 農林業にいそしむ

 玉川町鍋地(なべじ)地区は、町の中心から西に1.5kmほど入った山峡(やまかい)にあり、戸数45戸・人口138人(平成14年3月現在)の集落である。耕地面積が狭く、米や野菜などの農産物は主に自家用として栽培されている。
 この地区に居住する**さん(昭和7年生まれ)、**さん(大正15年生まれ)、**さん(昭和2年生まれ)に当時のくらしや食生活について聞いた。
 **さんは、「鍋地には水田面積が12町(12ha)ほどありましたが、山田で小さい田が多く、農業をやっていくには必ずしも良い環境とはいえません。主に米や麦を作っていましたが、手間がかかるために朝早くから夜遅くまで仕事をしました。麦をまいた後の冬季の農閑期には、かまどの煮炊きや、風呂(ふろ)を沸かすための木を雑木林で切り、細く割ったタケで縛って持ち帰りました。また、収入を得るために山仕事には特に精を出しました。木を切り倒し、斧(おの)で割って割り木を作り、大八(だいはち)車(木製二輪の物資運搬用車両)で今治へ燃料用として売りに行きました。こうして農閑期には、収入を得るために自分の持ち山があればその木を切り、持ち山がなければ山林を持っている地権者と交渉して木を購入し、虫の入らない時期に切り倒して売りました。
 タケも鍋地地区のものは粘りがあり良質のため、竹屋や桶屋(おけや)が好んで買ってくれました。家の建築資材や流下式塩田に多量に使われたり、衣装箱やほうき類、かごやしたみ(大型のざる)などの竹細工にも使用されるため、農閑期のかなりな収入になりました。また村人同士で何事も助け合い、奉仕作業も協力して行いました。作業後は、炊き込みやいりこ飯などを作り慰労しました。」と語る。
 **さんは、「昭和32年(1957年)に農家に嫁ぎ米・麦を栽培しましたが、山田でぬかるむうえに総面積が2反(20a)足らずしかないにもかかわらず、田の数は42枚もありました。畦(あぜ)が多く、草刈りも大変で泣くこともしばしばありました。しかし山を多く持っていたので、雑木の売買で生活することができました。炭焼きもしていましたが、薪(まき)や木炭を作って売るより収入が多いからと知人に勧められて、しいたけ栽培を始めました。農作業の合間にシイタケの原木となるナラ・クヌギ・シイなどを伐採し、植菌をして家の近所で栽培しました。最初は自分の家で食べる量があればと思っておりましたが、徐々に栽培熱が上がっていきました。」と話す。
 **さんは、「実家は農家で米・麦のほかに家庭用の野菜を栽培していました。また農耕用のウシを飼い、肉牛としても売りましたが、飼料には稲わらやぬか、ダイズの殻、畦の刈草などを使用し、糞尿(ふんにょう)は田畑の肥料としました。炭焼きも行い、そのための木を切った後は野焼き(焼畑)をしてソバをまきましたが、非常に多く収穫することができました。
 いつもは麦飯と野菜や味噌などの質素な食事でしたが、“何か事”(何か特別なこと)には時間をかけて、さまざまな料理を作りました。正月には餅を1、2俵(ひょう)(1俵約60kg)搗き、カズノコ・塩ダラ・煮しめ・酢物などを作り、サンバイアゲ(田植えの終わり)にはおこわ・すし・うどん・しば餅などを、10月の秋祭りには餅・すし・煮しめなどを作って食べました。」と話す。

 イ イノシシの捕獲としし鍋

 玉川町の狩猟(しゅりょう)組合会長である**さん(玉川町鈍川 大正13年生まれ)と**さんにいのしし猟(りょう)やしし鍋料理、イノシシによる作物の被害などについて聞いた。
 **さんは、「私は長く農林業を営んでいましたが、林業が主体でした。スギやヒノキの植林、間伐(かんばつ)や枝打ち、木材の搬出などが主な仕事でした。米・麦・サツマイモ・ジャガイモ・トマト・ネギ・ウリなどを栽培しましたが、これは自家用でした。あれこれと仕事をしながらも、狩猟解禁の時期が近づくと落ち着きませんでした。最初は旧龍岡(りゅうおか)村のグループで狩猟を始めましたが、解禁日の11月15日には気持ちが抑えられなくて、午前0時に家を出て仲間と集まったこともありました。猟期は11月15日から2月15日までの3か月です。猟の当日は6時30分ころに家を出て、昼までにイノシシがいるかどうかを足跡から確認します。情報を持ち寄り、一同で逃げ道や性別の判断をします。午後2時ころから狩猟を再開し、昔は猟犬が少なかったので2、3頭(現在は10頭から13頭)を連れて行き、15人ほどの勢子(せこ)(狩猟の場で、鳥獣を駆り立てる人夫)とともに、年配のリーダーの指示で射手(しゃしゅ)のほうに追いつめていきます。イヌはイノシシに飛びついて耳や鼻、喉(のど)等をかみついて仕留めますが、大きいイノシシの場合には、逆にイヌが怪我(けが)をさせられたり殺される場合もありました。イノシシを撃った時の仲間の集合や帰りの連絡などは、タケやイタドリで作った笛で知らせました。また撃ったイノシシはすぐに血抜きなたで血抜きをした後、フジやクズのかずらでしばり、かき棒で二人でかき出しました。
 山を出れば、ふもとの農家を宿に借りてイノシシを解体しました。解体は筵(むしろ)の上で行います(現在はテーブルの上で、ナイロンシートを敷いて行っている。)が、まずきれいに水洗いしてごみやダニなどを除いた後、一人が包丁(ほうちょう)で皮を剥(は)ぎます。足から剥ぎ始め、尻尾(しっぽ)から喉(のど)まで包丁を入れて剥いでいきます。60~70kgのイノシシの皮剥ぎは1時間ほどで終わります。その後、首と胴の前後に切断し、肉と骨は平等に分けて各家庭に持ち帰りますが、首から上も射手の取り分となります。
 解体が終われば料理に取り掛かり、分けた後の肉や骨、内臓はしし鍋に、背身(せみ)・肝臓・心臓は刺身にしてしょうが醬油で食べます。しし鍋は、大きい鉄製の平鍋に水を満たし、肉や骨を入れて煮ますが、あくが出るのでていねいにすくい出します。その中にこんにゃく・豆腐・ゴボウ・ネギを加え、砂糖・塩・酒・醬油で味付けをします。ご飯を炊いてぼっかけにもしますが、あばら肉が最もおいしいです。そのほかに網焼きもしますが、これも非常に味が良い。網焼きは、肉や内臓を切って容器に入れ、味噌と塩こしょうを加えてよく混ぜた後、酒を加えて10分程度置き、炭火で焼きます。味噌は匂い消しの役割も果たします。
 近所の人も集まり、30人から40人がしし鍋を囲んで酒を酌み交わし、ご馳走を食べながら歓談します。午後8時ころから午前0時ころまで続きますが、長い時には午前1時を過ぎることもありました。各家庭でもぼっかけなどにして食べ、近所へおすそ分けもしました。
 以前は、イノシシは一年間に10頭程度しかとれませんでしたが、現在では玉川町全体で200頭以上とることができます。昔は奥山でクリなどを主に食べていたイノシシが、雑木林などの伐採のため食べ物がなくなり、里山に下りて来るようになったのです。里山にはえさとなる農作物などが豊富にあり、頭数が大幅に増加していると考えられます。またイノシシは1年に一回交尾し、一度に3~4頭程度生んでいたのが、現在はイノブタが多くなり、1年に二度6~7頭以上生むために増え続けているようです。禁猟区を設けているのも頭数が増加した一因ではないでしょうか。
 イノシシの頭数が増加したため、農作物に大きな被害が出ています。そこで被害農家もしくはそれに代わる者が駆除の申請をします。町は鳥獣保護司を交えて現地調査した後、町長が猟期以外でも駆除の許可を出すことになっています。駆除は毎年3月1日から3月31日までの1か月間行われ、現在のメンバーは16名です。イノシシ以外にも、山林のスギやヒノキの皮を剥ぎ、被害を与えるシカのオスも駆除しています。」と語る。
 水田の被害について、**さんは、「イノシシが田に入ると、一晩でイネの穂がなくなるほどの被害が出ます。そこで地域の水田の周りに柵を作り、電流を通しています(写真3-1-6参照)。そうするとイノシシも怖がって入りません。やはり人間と動物が共生できるようなバランスのとれた環境を作ることが大切だと思います。」と話す。

 ウ タケノコとシイタケ

 鍋地地区では、タケノコは古くから栽培されており、立地条件の良い所では3月中旬から収穫を始め、個人で市場へ出荷していた。しかし個人出荷では、労力もかかり、適期の掘り取りが遅れがちで収量も低いので、昭和24年(1949年)より共同出荷を始めた。栽培方法は自然栽培が大部分を占め、比較的小規模な生産方式ではあるが、短期間に現金収入をあげられる特徴がある。また春の地方祭りの魚代の換金作物としても重宝がられてきた(④)。
 シイタケも同様に古くから栽培されてきたが、すべて自家用であった。組織的な販売を目的とする栽培が行われるようになったのは、昭和36年(1961年)以降である。その後、昭和41年9月に生産農家60戸による玉川しいたけ生産組合を結成するとともに、中山間地域(*2)の自然条件を活(い)かした基幹作物にすべきであるとの意欲によって、シイタケ生産の拡大は順調に進んだ。なお、生産量のほとんどは生シイタケとして、京阪神市場に出荷された(④)。
 **さんと**さんに、タケノコやシイタケを使用した料理などについて聞いた。
 「タケノコは3月中旬から5月初旬まではモウソウチク、5月中旬から6月中旬までハチクやマダケが収穫できます。ハチクやマダケの収穫時期は大変忙しい田植えの時期と重なりますが、収穫して料理するととてもおいしいです。タケノコは、株の柔らかいところを刺身や煮物、木の芽和(あ)え、天ぷら、茶わん蒸し、炊き込みご飯、たけのこずしなどにします。
 また、マダケの皮は肉屋で肉の包装用に使われていたので、大きな収入源となりました。時間があればその皮で草履を作りましたが、軽くて非常に丈夫でした。みのや三度笠(さんどがさ)にも使用しました。またタケの皮は殺菌作用や臭いを消す性質があり、おむすびを包んで山仕事などに持って行きました。
 秋には、きのこ狩りにもよく行きましたが、特に祖父は多い時には大皿に山盛りのマツタケを採って来ました。しかしマツタケも次第に少なくなり、そのようなときに山で老木に自生していたシイタケを持ち帰り、料理すると薄くて小さいけれど大変おいしかったです。そこで、農協(現JA)に相談して栽培を始めましたが、最初は職員が金槌(かなづち)でクヌギの木に穴をあけ植菌してくれました。昭和42年(1967年)ころになるとマツタケはほとんど生えなくなる一方で、シイタケの栽培熱は一段と上がっていきました。
 シイタケは生のまま炊いたり、焼いてしょうが醬油などで食べるほか、天ぷら、すしの具、佃煮(つくだに)、しいたけ茶などに使用しました。また最近は、乾燥しいたけを粉にしてうどんと混ぜ、風味のあるしいたけうどんを作ったり、乾燥しいたけを水に戻してこまかく切り、オレンジジュースと砂糖とともに炊き、小麦粉の中に混ぜて蒸し、甘酸っぱい味の蒸しパンを作っています。」


*2:中山間地域 平地と山間の中間に位置する地域のことで、全国の森林の約8割、農地の4割が中山間地域に属している。

写真3-1-6 イノシシの被害対策

写真3-1-6 イノシシの被害対策

周囲に電流を通した水田。玉川町鍋地。平成15年7月撮影