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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(4)終戦以降の昭和の食生活

 ア 食の窮乏

 (ア)戦後の食料不足

 食料不足が最も深刻だったのは、昭和20年(1945年)の終戦後しばらくの間だといわれる。都市住民は郊外の農家に買出しに出かけ、手持ちの衣類などを1枚ずつ食べ物と交換して飢えをしのいだが、これを“タケノコ生活”と呼んだ。さらに自分の大事な物まで手放さざるをえなくなり始めると、1枚むくごとに涙が出るという意味で“タマネギ生活”などといわれるようになった。
 こうした厳しい食料事情を改善するために、愛媛県では引き続いて食料増産が図られた。戦災地その他の空き地に作物を植えること、県下各学校に学校農園を作ること、といった通達が次々と出されたのである。例えば大洲市春賀(はるか)地区の三善(みよし)小学校に残る昭和20年当時の学校日誌を見ると、戦中だけでなく終戦後も学校活動としてしばしば農作業がなされていたのが分かる。この日誌によると、終戦の翌日である8月16日はダイズ畑と水田の除草が行われ、以後8月から11月にかけても、峠の山の開墾・ソバ畑の草取り・運動場のサツマイモ掘り・稲刈り作業・ダイコン畑の耕作といったさまざまな農作業が記録されている(㊵)。
 終戦後の食料事情を物語る一例として、山里の美川村東川地区に住むある男性の回想記を取り上げる。彼は、終戦を迎えた時には小学生であり、父親が広島県の軍需工場から引き揚げて来て一家の戦後生活が始まった。家族は、食糧自給のため親類・知人の雑木山を借り受けて開墾し、トウモロコシ・サツマイモを栽培した(㊴)。そして、「空腹になれば何でも口にした。イタンポ(イタドリ)やスイジ(スイバ)などをはじめ山柿(やまがき)、山梨(やまなし)、アケビ、野イチゴ、グイミ、(中略)毒でないものはどんなものでも食べたような気がする。(㊴)」と述べている。
 男性の通学した当時の小学校では、児童全員が野外授業で留守の間に、遅刻して居残っていた連中が他の者の弁当を失敬(しっけい)していたこともしばしばあった。弁当に米の飯を入れて来る者はまずいなかった。麦飯やきび飯などはまだいいほうで、サツマイモや焼いたトウモロコシを持って来る者が多かった。田畑を多く持っている家の子どもが、時折、家の人に黙って軒先に干しているほしかいも(サツマイモの切干し)を一吊り持って来ることがあった。そんな時、その子は親分気取りである。彼のご機嫌をうまく取り結べた者は2、3枚のホシカ芋をもらうことができたので、皆、悔しくても彼の命令に従って気に入られるように努めたという(㊴)。
 終戦後の昭和20年代前半には、こうした食の窮乏(きゅうぼう)が続いたのである。

 (イ)上向く食料事情

 日本がこうした厳しい食事情を乗り切った要因の一つとして、アメリカからの援助などによる輸入食料の存在があげられ、特に学校給食においてはその恩恵が大きかった。
 日本における学校給食は明治22年(1889年)の山形県の私立小学校から始まったといわれるが、戦前まで全国的な広がりは見られなかった。その後、昭和22年(1947年)以降、占領軍及びその関係機関から小麦粉や脱脂粉乳(牛乳から脂肪分と水分を抜き取り粉にしたもの)などの食料物資の援助を受けられるようになり、全国の小学校でパン・ミルクと若干のおかずによる給食が普及していったのである。そして、現在のような学校給食の体制が全国的に整備されたのは昭和27年(1952年)ころとされている(㊶)。愛媛県全域に学校給食がいつごろ導入されたか正確には不明だが、県内で給食が始まると、栄養士が各学校を巡回して脱脂粉乳の溶き方を指導し、あるいは穀物粉・代用砂糖類を利用した栄養不良児対策を行ったといわれる(㊷)。
 給食で食べた食物と味が、後にその人の食の好みを決定するうえで大きな要素になるといわれる。学校給食で食べたパンや洋風のおかずが成人後も続けて食べられるようになり、その後の日本人の食生活に大きな変化をもたらすことになった。特に、この時に登場したパンは戦前までの菓子パンとは異なり、やがて日本人の主食の一角を占めるに至るのである。
 県内の、昭和20年代中ごろの食料事情の好転を物語る資料として、昭和25年度の『愛媛県政報告書』がある。この報告書では、太平洋戦争末期から終戦直後にかけての時期を回顧しつつ、「斯(か)くも悪化した食糧事情も、国内産食糧の増産と輸入食糧の増加によって復興の槌音(つちおと)と共に逐次上昇線をたどり(㊴)」、昭和25年(1950年)には「米・麦をもって二合七勺の配給(二合七勺は約0.49ℓであり、1日の一人分の食料に該当する。)が実現し、長い間抑制せられた食生活に光明を与えるに到(いた)り、終戦当時に較べ格段の好転をみたのである。(㊸)」と記している。さらに報告書の筆者は、「どんぐりまで喰(く)った過ぎし日と、外米(がいまい)(外国からの援助米)の辞退がなされる今日を考え合わせるとき、われわれの胸中にはまことに感に堪えないものがあろう。(㊸)」と書いて、食料不足を脱した喜びを感慨深く表現している。このころを境に次々と各種食料が出回り始め、やがて配給制度の時代は終わりを告げたのである。

 イ 豊かな時代へ向かって

 (ア)食生活改善の進展

 かつて愛媛県の生活改良普及員として、県内農家の生活改善指導に携わった経験を持つ**さん(松山市小栗 昭和3年生まれ)に、昭和20年代から30年代前半にかけての食生活改善の取り組みについて聞いた。
 **さんは、戦後農家の生活改善はかまどの改善から始まったと言う。
 「当時の農家の多くは、母屋の軒下や別棟にかまどを据えていました。この別棟はカマヤ(釜屋)と呼ばれ、電気が通じていないため薄暗く、煙突がないため煙が充満するような場所でした。そのような中で、農家の婦人たちは早朝や夜遅くに炊飯を行わなければならなかったのです。
 そこで私たち生活改良普及員は、昭和23年(1948年)から28年にかけて、かまど改善の取り組みを始めました。かまどの改善とは、従来のかまどの上に煙突をつけて煙を外に出し、下にはロストル(かまどの底に敷く鉄製の格子で、通風を良くして熱効率を高める。)を設置することです。そのためには費用がかかりますから、まず、それを一家の主(あるじ)たちにどう納得させるか考えました。実験を行って炊飯に必要な薪が3分の1になることを確認したうえで、彼らに、かまど改善によって薪が節約できるし、炊飯の時間短縮によって農作業にまわせる時間が増えるからと説得していったのです。その結果、改善されたかまどが比較的短期間で全県的に普及しました。」
 **さんたちは、続いて食事内容の改善に取り組んだ。
 「昭和20年代後半は、食べ物の質より量が重視された時代です。当時の農家は自給自足を基本とする生活でしたが、それでも栄養が不足しがちで、しかも炭水化物に栄養が偏っていました。そこで、動物性たんぱく質をとるために家でヤギ・ニワトリを飼うことや、ニンジン・キャベツ・タマネギなど新たな種類の野菜を栽培することを勧めて回りました。また、栄養あるおいしい料理を紹介するために、村々で料理講習会を開くなどしました。このようにして、農家の食事の改善運動を進めていったのです。
 昭和30年(1955年)ころからは、食生活改善の対象を農家から一般家庭にも広げることになりました。その取り組みの一つとして、『三色料理の歌』を県で公募して作り、栄養バランスのとれた食事の普及につとめたことが挙げられます。『三色』の赤色は『血や肉をつくる』魚や肉など、緑色は『体の調子を整える』果物や野菜など、黄色は『働く力と体温になる』ご飯やパンなどをさしています。この歌詞の通り実践したら栄養バランスがとれるという歌で、踊りの振り付けもついていたと思います。
 昭和32年(1957年)からは、キッチンカーが県下の津々浦々を回りました。これは、ライトバンなどに調理の設備一式やプロパンガスを積み、荷台で料理の実演を行うもので、行く先々で多くの人たちが集まりました。生活改良普及員・栄養士・各地の公民館主事の三者がキッチンカーの運営に当たったのです。生活改良普及員と栄養士が料理を作り、公民館主事はキッチンカーの運転や、時として健康体操の指導などを行いました。この試みは10年以上続いたと思います。」
 **さんは、農家の食事改善について画期的なことは農繁期の共同炊事だと語る。
 「農家の人々は、農繁期は重労働のために体重が2、3kg減ります。昭和20年代後半から農繁期の健康対策に重点を置き、栄養をとるために共同炊事を推進する運動を始めました。稲作農家であれば、田植えの時期に各地域やグループごとに共同で昼食・おやつ・夕食を作り、それぞれ家に持ち帰って食べるのです。県下200か所ほどで実施され、地域により規模の大小はありますが、1回に200食程度作る場合が多かったのではないかと思います。料理の一番人気は魚の南蛮漬けで、そのほか酢豚・筑前煮(ちくぜんに)・コロッケなどさまざまなものがありました。おやつは、おはぎの評判が高かったと思います。何よりもまず、婦人たちが家での毎回の食事作りを気にせずに農作業ができることを目指しました。
 料理講習会の料理はなかなか普及しませんでしたが、講習会で作るような栄養料理を共同炊事によって初めてみんなが食べ、これはおいしいと気づきました。そして、おいしいものを食べるには料理に時間がかかることを男性たちが理解したため、普段の農作業の時でも、婦人たちは少し早めに帰宅して新しい料理を作る楽しみが持てるようになりました。家族みんなが栄養豊かでおいしい料理を食べることで、健康な生活を送れるようになっていったのです。」
 **さんによると、共同炊事は、稲作農家では農作業の機械化の進展と共に途絶えたが、ミカン農家では現在も収穫期に行っている地域があるとのことである。

 (イ)「もはや戦後ではない」という時代へ

 昭和31年(1956年)の経済白書に「もはや戦後ではない。」と書かれたように、日本は昭和30年代から高度経済成長の時代に入った。昭和30年から生活水準の向上を目指して全国で新生活運動が開始されたが、愛媛県では「食生活の改善」による新生活に的を絞り、推進機関として愛媛県食生活改善運動推進協議会を設置した。前述のキッチンカーによる啓発活動は、この取り組みの一環としてなされたものである(㊹)。
 昭和30年代の食生活向上に大きな役割を果たしたものとして、県内各地の生活改善グループによる実践活動が挙げられる(㊹)。生活改善グループは、婦人会と同一組織の所もあれば若妻グループ・有志のグループなどの所もあり、地域によりさまざまな形態があった。構成員が入れ替わりながら現在まで続くグループも多いが、特にこの時期の活動にはめざましいものがあった。
 例えば、川之江(かわのえ)市川滝(かわたき)町葱尾(ねぎお)地区の「槙(まき)の木グループ」の女性たちは、味噌の改良やナスの麹(こうじ)漬け加工、季節料理の講習、いりこ・コンブの共同購入などに取り組んだ(㊺)。また、越智郡大西(おおにし)町九王(くおう)地区のグループはパンの共同加工で自家製のおやつ作りを行い、東宇和郡宇和町笠置(かさぎ)地区のグループはニンジン・グリンピースといった新しい野菜の栽培に取り組むなど(㊻)、各地で展開された生活改善グループの活動は着実に成果をあげていったのである。
 高度経済成長に伴う県民の生活水準の向上を知る資料として、昭和37年(1962年)発行の愛媛県『県民生活白書』がある。以下、この白書に書かれた内容を幾つか紹介したい。
 まず家計全体に占める食料費の割合であるが、県内全域で昭和26年(1951年)に57.6%だったものが9年後の昭和35年には44.4%に減少した(㊸)。家計における食料費の比率(エンゲル係数)の低下は、生活水準全体の向上を示すものといえる。さらに白書は、食生活に洋風化・高級化の傾向が見えること、米食が増加したことなどを指摘し、具体的な食べ物については、「牛乳、卵など動物食品、脂肪の利用拡大、果実類利用の増加、これと反対に緑、黄色野菜の減少、イモ類、雑穀などの減少もめだつ。(㊸)」と記している。主食に米の飯が多くなり、小麦や雑穀を混ぜた混合飯の時代は徐々に終わりを迎えつつあった。
 また、昭和36年(1961年)時点の県内家庭における台所用品の普及状況については、ガスコンロ(県内家庭の60%余り)と電気ガマ(同じく52%)は、すでに県内の半数以上の家庭で使われている。トースター・電気冷蔵庫・ミキサーなどもそれぞれ20%前後の普及率を示しており(㊸)、食生活に密着した電化製品が着実に県内の家庭に広がりつつあったことが分かる。電気ガマの登場による炊飯労働の大幅な軽減は画期的なことであり、また、トースターはパン食の広がりを示すものといえよう。

 (ウ)高度経済成長期の家庭の食事

 国立民族学博物館(大阪府吹田(すいた)市)による昭和59年(1984年)の聞き取り調査の報告書から、新居浜市に住む明治43年(1910年)生まれのある女性の家庭の食卓風景を見ていきたい。これは、高度経済成長期の昭和30年代から40年代前半における愛媛県民の食生活の一例である。
 女性の居住地は、新居浜市の中でも民家・商店・工場が入り交じった町である。彼女の家では、8畳の食事部屋が台所とは別のスペースになっていた。食事部屋は、食事以外にも家族の団欒(だんらん)や子どもたちの遊び場としても使われ、ラジオやテレビはここに置かれていた。お膳と呼ぶ四角いちゃぶ台を囲んで、この部屋の最も奥の席に夫が座り、続いて5人の子どもたち、台所に近い席に彼女という順番で座って食事をした(㊼)。
 普段の朝食の副食は味噌汁・漬物・魚の干物などで、昭和35年(1960年)ころからはパン・紅茶・目玉焼きなどを週に1回くらい食べるようになった。昼食の副食は漬物・前日や朝の食事のおかずの残り・常備菜などで、休日は麺(めん)類が多かった。夕食の副食は魚や野菜の煮物・味噌汁・漬物・常備菜などである。魚の切り身の大きいものは、給仕役の彼女が夫や息子に出した。野菜の煮物・漬物・常備菜などは共用の器に盛り、各自が自分の取り皿に取って食べた(㊼)。
 食事は「いただきます」のあいさつから始まり、「ごちそうさま」のあいさつで終わった。食事中は、主に日常的なことを話題に全員がそれぞれ話をした。共通の知人や親戚(しんせき)のこと、学校のこと、家の畑のこと、料理のことなど話題はさまざまである。食事中にしてはいけないことは、大声で話すこと、下品な話題を出すこと、食べ物を口に入れたまましゃべること、給仕以外の目的で途中で席を立つこと、食べること以外に箸(はし)を使うこと(箸で遊ぶ。箸で食器をたたく。)などであった。食べ終わるとそれぞれが湯飲み茶碗でお茶を飲み、彼女と娘が食器をさげて洗い、戸棚に片付けた(㊼)。
 昭和41年(1966年)に、最後の子どもが独立して夫と二人暮らしになったのを機に家を改装し、ダイニングキッチンにした。この時に、食卓をちゃぶ台からいす式のテーブルに変えた。床は板間にし、テーブル・いすの下にじゅうたんを敷いた。食事の内容は以前と大きくは変わらないが、週2回くらい、彼女は朝食にパン・紅茶・ジャム・果物を食べるようになった。夫は毎日ご飯である。家族が二人だけになったので、茶碗・汁椀・取り皿などのほかは食器を共用するようになった(㊼)。
 以上が、高度経済成長期における彼女の家庭の食事のあらましである。

 ウ 食の多様化と画一化

 昭和30年(1955年)から48年(1973年)にかけての高度経済成長期と、オイルショックを挟んだその後の安定成長期を通じて、忙しい日々をおくる人々は食生活に利便性を求める傾向を強めていった。そして、家庭内の調理の手間を省きたいという願望に応える形で、電子レンジなど新たな電化製品が次々と登場した。
 また、以前は料理の食材を取りそろえるため、野菜は八百屋、魚介類は魚屋といったふうに別々の小売店で買い求めていたが、スーパーマーケットの登場により、それらが1か所ですべて手に入るようになった。愛媛県内のスーパーマーケット第1号は昭和32年(1957年)に松山市に開店した「主婦の店」で(㊽)、それ以後、昭和44年(1969年)までにその数は185店に増加した。都市的な便利さ・気安さを売り物に、農村部にも農業協同組合などが経営するスーパーマーケットが次々と進出し、やがてスーパーマーケットは県内の日常消費の主役に成長していったのである(㊹)。
 利便性追求の波は、食品そのものにも押し寄せてきた。象徴的なのは昭和33年(1958年)に登場した、湯をかけて2分間待てば食べられる即席ラーメン(現在は3分間だが、発売当初は2分間だった。)である。当初は問屋の人から、「こんなけったいなもの、どないもなりますかいな。持ってお帰り。」と冷たくあしらわれたというが、いざ発売されると初年度だけで1,300万食を売る大ヒット食品となった(㊾)。食のインスタント時代の幕開けであり、続いて昭和40年(1965年)ころから家庭用冷凍食品、昭和44年から温めるだけで食べることのできるレトルト食品、昭和46年からカップラーメンの販売が始まった(㊿)。袋入り食品の普及により、“おふくろの味”が“ふくろの味”になったといわれたものである。
 家庭で調理したものを家庭内で食べることを内食(ないしょく)と呼び、それに対して、店で調理したものを持ち帰って家庭・職場などで食べるのを中食(なかしょく)、店で調理したものを店で食べるのを外食(がいしょく)と呼ぶ。中食には、スーパーマーケット・惣菜(そうざい)店のおかずを買って帰る場合や、コンビニエンスストア・持ち帰り弁当店の弁当を利用する場合があり、出前をとって食べるのも中食の一種といえる。また外食は、レストランや料理屋などでの食事がそれにあたり、ハンバーガーや牛丼(ぎゅうどん)・フライドチキンに代表されるファーストフードも含まれる。こういったさまざまな食事形態が、徐々に日本人の日常生活のスタイルとして定着していったのである。
 なおコンビニエンスストアは、その第1号店が昭和49年(1974年)に東京都江東(こうとう)区に開店して以来、深夜営業の利便性を武器として急速に全国に広がった(㊿)。ただ、愛媛県での本格的展開は大都市部に比べるとやや遅れたようで、昭和60年(1985年)発行の『愛媛県百科大事典』によると、この当時は、「大都市周辺では、大資本系列がチェーン展開をはかるなど、最近急速に伸びてきている((51))」が、「県内では、全国規模のチェーン店はほとんどみられず、ナイトショップと呼称される店が多い。((51))」といった状況であった。その後、県内にも大資本によるコンビニエンスストアの進出が相次ぎ、近年に至って県民の食生活に少なからぬ影響を及ぼす存在となった。
 以上のように、利便性が要求される時代の訪れとともに、食の分野においてもさまざまな新しいものが登場して食生活の多様化が進んだ。食における健康志向・グルメ志向・高級化志向の高まりも、多様化の進展を後押しした要因である。しかし一方で、このような傾向は全国どこでもほぼ一律に見られたことであり、その意味では全国的に食の画一化が進んだことにもなる。食の画一化は、結果として郷土料理など各地方独特の食の文化を衰退させることにもつながったのであり、それは愛媛県においても例外ではなかった。