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遍路のこころ(平成14年度)

(1)マス・メディアによる発信と普及

 ア 新 聞

 (ア)愛媛新聞社の遍路シリーズ

 地元の日刊紙である愛媛新聞社が四国八十八ヶ所に本格的に取り組んだのは、約25年前。外勤記者を動員して取材し、『お四国さん』という一冊の本を出版したころからである。以来、霊場そのものの紹介は、日々のニュースやシリーズなどで時折取り上げられてきたが、バブル景気がはじけた10年ほど前から、取材の方針が大きく変わったという。人々が豊かさと利便性、スピードと快適性を求めていた高度成長期には、取材記者たちの目は「霊場」のみに向けられていた。しかし、バブルの崩壊とともに人々は、真の豊かさとは何か、便利な世の中で失ったものは何か、それを取り戻そうと真剣に考えるようになった。遍路する人々の心の中にも、そんな時代のニーズが反映し始めた。そして、四国霊場を巡る遍路とはもともと歩くもの、足元を見つめて歩き、遍路の原点を取り戻そうという取材を展開するようになったという。
 平成7年に16回にわたって掲載された「こころの旅路 えひめ遍路人間模様」など、遍路関係の取材に長く携わってきた愛媛新聞社に勤務する**さん(昭和22年生まれ)は、編集方針について、次のように語る。
 「四国遍路の魅力は、変化と感動にある。四国の気候は温暖で変化も緩やかだといわれる。しかし、歩くと四季の変化ははっきりとしている。歩く速度と四季の変化の速度が絡み合うというか、日々の変化を楽しみながら歩くことができる。東・中・南予でワラグロの形が違うとか、その土地の風土や景色が新鮮に映る。道中で出会う人々のその土地のなまりがある。素朴な土地柄に触れて退屈しない。
 敗戦を契機に経済大国へと進み、『自然と対決』してきた日本。その中で四国は開発から取り残されてきた。でも、それがよかったのではないか。なぜなら、全国的にみると、『利潤、能率、快適、便利』といった戦後の価値観のために、失われたものが多い。山河は荒れ、衣食足りて礼節を忘れ、『形』あるものに心奪われてきたからだ。恥の文化も感謝の心も失いつつあるのではないか。
 遍路道を歩くと、『危険、不安、不足、不便』を感じるかもしれない。しかし、そのことが思いやりや感謝、我慢と団結、信仰といった大事な心を培ってくれる。四国霊場は世界でただ一つの循環式巡礼の霊場であり、霊場間を結ぶ遍路道の果たす役割は大きい。いわば、点(霊場)と点を結ぶ『線のリゾート』である。祖先がいろいろな願いを込め、汗と涙で踏み固めてきた遍路道は、われわれの心のふるさとである。自然に溶け込み、先祖崇拝、人生回顧、充電、リフレッシュという多様な機能を持つのが遍路道である。弘法大師は、四国霊場めぐりという名作を残してくれた。霊場は88章の目次である。歩いて名作の全編を味わってほしい。愛媛新聞社は、そうした全国に自信を持って発信できる『宝の山』の魅力を読者に紹介してきた。」
 平成14年4月には、岐阜県出身の写真家の小野庄一さんが徒歩遍路した記録「空を歩く、海を歩く・1400キロ」が、『愛媛新聞』に16回にわたって掲載された。その最終回の記事で小野さんは、「遍路とは、今の自分をリフレッシュして、小さな幸せを活きる糧に変えていく術を手に入れる、古くて新しい旅だった。(①)」と記している。また、平成13年には、毎月1回「四国の遍路道」と題された記事が掲載され、懐かしい、昔の面影が残る遍路道の風景を映した6、7枚の写真と歩きの遍路道ルートが紹介された。
 四国の四つの新聞社とNHK4局、NHKきんきメディアプラン主催の「国宝弘法大師空海」展が開催された平成11年には、8月から9月にかけて、「密教美術の精華(29回)」、「四国に残る 大師伝説 今もなお(5回)」、「弘法大師とわたし(5回)」、「今に生きる“大師文化”(4回)」、「空海と四国(4回)」などのシリーズが『愛媛新聞』に掲載された。
 一連の記事の中には、「直線的で、行ったら引き返す聖地が多い中、円環という発想がいい。何度でも回れ、置かれている状況で空間が変わる。寺から寺への道中で自分を見つめ、教えられ、見えなかったものが見えてくる。世界に誇れる巡礼コースです。(②)」といった見解や、「不思議なくらいの数々の出会い。こんなに優しくされるとはと思うほどのお接待。遍路に行く前は近くて遠かった四国は、遍路を終えると“お四国”という懐かしくて魅力的な“一つの国”になった。(③)」といったメッセージが書かれていた。

 (イ)「平成お遍路~こころ砂漠の時代に~」(『読売新聞』)

 平成12年5月17日から平成14年5月1日まで足掛け3年88回にわたり、「平成お遍路~こころ砂漠の時代に~」が『読売新聞』紙上に掲載された。八十八ヶ所それぞれの寺ごとに、一人あるいは二人の遍路に聞き取り取材を実施し、記事にまとめたものである。なぜ遍路に出たのか、実際に回ってみて気持ちがどう移り変わっていったかを中心に取材したという。気持ちの整理がついた遍路がいる一方、まだ整理はついていないが歩くことによって何かをつかみたいという思いを抱く遍路の記事が多くみられた。また、遍路ばかりでなく、遍路を接待する人や遍路宿の女将(おかみ)を取り上げた記事も見られた。このシリーズは、四国4県にある読売新聞社(高松総局と3支局)の記者が、テーマが重複しないよう留意しながら、取材し制作したという。
 「何気ない現代の家族や親子、少年を取り上げた記事の反響が大きかった。」と、読売新聞松山支局に勤務する**さん(昭和29年生まれ)は語る。なかでも、平成12年5月24日に掲載された、五十三番円明寺で取材した「『自分』見つけた少年」の記事は、大きな反響があったという。17歳の少年の事件が多い年であり、取材対象者もちょうど17歳の少年だったので、より詳しく話を聞くためにその少年を追っかけて取材した。自分の居場所が分からない、何をしてよいか分からない少年が、遍路道を歩くことによって変わっていったという記事は、読者にとって興味深いものであったようだ。記事の概要は次のとおりである。

   線香が漂う夕暮れの境内では、観光バスで巡ってきた菅笠に白装束のお遍路さんが、出発時間を気にしながら急ぎ足で参
  拝する。その境内のベンチに、疲れた表情の若者がいた。(中略)水戸市から一日かけてバスを乗り継いで四国霊場めぐり
  に来た17歳の通信制高校生だった。(中略)
   「今日も一日、無駄に過ごした。周りから取り残されるのではないか。」もやもやが募るだけで、仕事を持つ母(42)
  や二人の兄と話しても、自分がもやもやの正体がわからないため、うまく伝えられない。将来への不安が大きくなる一方
  だった。そんな昨春、不登校を続けていた中学生の時にテレビで見たお遍路が頭に浮かんだ。田舎道を歩き、寺を巡る一人
  旅。「自分の体力、気力へ挑戦してみたい。そうすれば何かがあるかも。」何かが見えたような気持ちになり、家族には
  黙って計画。(中略)
   1番札所の徳島県鳴門市の霊山寺には4月16日到着。それからは徒歩やヒッチハイクなどお金をかけない巡礼の旅。ひ
  ざや足首、かかとが痛い。野宿は心細い。しかし、八十八か所すべてを巡るという目標からやめられない。
   「毎日ちょっとずつでも前に進んでいる。この旅を終わると体力、行動力がつく。」自分に言い聞かせた。(中略)
   いろんな人と会話して、自分にない考えや生き方を聞き、これまでの自分のわがままや甘さも分かるようになった。民家
  に泊めてもらったこともあり、親切が身にしみたとも。(中略)
   この間、愛知県の主婦刺殺、バスジャック事件を宿泊所のテレビや新聞で知った。同世代による犯罪。「僕も、どこにも
  ぶつけようのない憤りがこみ上げ、何に対しても悲観的になった事がありました。でも僕の場合は答えはなかったが、母親
  が話だけは聞いてくれた。あの人たちは誰にも相談できなかったのだろうか。」彼らを思いやる。
   6月1日が18歳の誕生日。「遍路で、成長したと思います。前に進めば何とかなると実感しました。将来への不安も薄
  らぎました。」初夏の陽光に焼けた少年はこの旅で、自分を見つけ出したようだ。

 このシリーズの制作意図について、**さんは、次のように語る。
 「このシリーズは、当時の四国4県の総・支局長会議で決まった企画である。癒(いや)しの時代、心の時代といわれている現在、現代人の心の癒しにつながる、今の四国遍路をテーマに書いてみようということになった。
 四国霊場八十八ヶ所を巡るお遍路さんは、年間20万人とも30万人ともいわれ、その魅力に引き付けられる人の数は、一向に衰えを知らない状況である。最近は、徒歩巡礼をする人の数が増え、新たな関心を呼んでいるようにも見える。人はなぜ、四国遍路に出るのか。『こころ砂漠』の時代のお遍路事情に迫りたいと思った。
 記事の主なる内容は、遍路の心の移り変わりであった。なるべく、現代社会の問題点を映し出したテーマを取り上げたいと思った。取材対象者は、その場(寺)で無作為に選んだ。顔を見て話してくれそうな人に話しかけて、話してくれるのを待つ。取材には結構時間がかかるので、相手の人が急いでいる時は、何か所も寺を追っかけていった場合もある。」
 88回にわたる連載記事の中で最も多く取り上げられていたテーマが、「自分探し」であった。この「自分探し」を目的とした遍路の増加という現象を、平成14年3月25日付『読売新聞』の「四国遍路特集」では、「物が豊かになり、心の豊かさを求める時代。『自分はどんな人間か』『生きがいとは何か』『自分に何ができるか』。遍路を続けることによって、素直な自分が見えてくる。そんな自分と向き合い、自身の生き方や人生を問いかける。春の四国霊場を『考えるお遍路』が行く。」と紹介している。
 遍路関係の特集を掲載すると、記事をスクラップしている読者から、1回でも飛ばしてしまうと、「どこに行ったら手に入るのか。」といった問い合わせや、「本になるのか。」といった問い合わせが多くあり、読者の関心の高さに驚いたという。

 イ テレビ

 (ア)『四国~こころの旅~』(いやしのくに四国映像情報発信事業)

 平成12年9月、愛媛・香川・高知・徳島の四国4県は、四国のいやし文化を広く情報発信することを目的に、「いやしのくに四国交流推進協議会」を設立した。同協議会は、四国共通の財産である「遍路に代表されるいやしの文化」を育んだ四国の特質を国内外に発信するため、フランス人の目で見た四国の姿を描くテレビ番組を制作し、平成15年3月フランス及び国内で放送する予定である。平成14年11月現在、『四国~こころの旅~』(仮題)と題されたこの番組は、番組を貫く象徴的なテーマとして四国遍路を取り上げ、併せて四国に住む人々の生き様(ざま)や精神、その背景にある歴史的風土を紹介する約52分のドキュメンタリー番組となる予定である。
 いやしのくに四国映像情報発信事業テレビ番組『四国~こころの旅~』基本構想では、番組の概要について、次のように記している。

   この番組は、単に自然や祭りといった四国の表面ではなく、そこに住む人々の生き様や精神、その背景にある歴史的な風
  土を活き活きと紹介するものです。その歴史的な風土を支える要素“こころ”の背景として「四国遍路」が大きな役割を果た
  しています。
   この番組は、お互いが関連し合う複数の短い章からなるオムニバス・スタイルで構成しています。四国には、現代と歴史
  的伝統、近代的な都市の生活と豊かな自然の中の昔からの生活という両面があります。各章で取り上げる主人公はこうした
  四国あるいは日本の現状を紹介できる人物です。
   又、全編を通して紹介される「四国遍路」に纏わる四国の人々の思いや、その伝統を慈しみ伝えるこころは、フランス人
  の視聴者が四国を理解する上で大きな効果があるでしょう。四国は単に遍路たちが巡礼する場所ではなく、あらゆる巡礼を
  快く受け入れる人々が活き活きと生活する“精神風土に充ちた場所”なのです。

 以上のような観点で四国を描くために、七つのポイントを設定し制作にあたったという。一つは、遍路タクシーの運転手を中心に四国を回る遍路グループ(6人の遍路)を想定し、四国遍路の歴史や八十八ヶ所の詳細、運転手がじかに接した遍路の人間模様が語られていくこと。二つ目は、四国の伝統文化の厚さを伝えるという大きな目的のために、有形文化財である歴史的な建造物や町並みはもとより、無形文化財である四国遍路、俳句、各地の祭りなどが紹介されていること。三つ目は、四国の人々の豊かなこころを育んできた自然、その自然と調和する四国の人々の営みを紹介すること。四つ目は、お接待に代表される四国の人々の他人への思いやりを具体的に伝えること。五つ目は、四国が伝統の上に新しい時代を築く進取の気分に充ちたところであることを描くこと。六つ目は、四国が21世紀の日本にふさわしい自然と調和した都市づくりを進めていることを紹介すること。七つ目は、四国に深い感銘を受け四国と関わり続けている人々を紹介すること(④)。
 ディレクター兼カメラマンの**さん(1951年生まれ)を中心とする6名のロケ・スタッフが、平成14年の7月中旬から8月下旬にかけて2回四国各地を回り、取材活動を行った(写真3-2-9)。**さんは、四国と遍路文化について、次のように語る。
 「今回四国を回って、古い日本家屋のすぐ隣に近代的なガソリンスタンドが立っている光景や、墓地の横に自動販売機が何台も設置されている光景を日本人が普通の姿だと思っていることに違和感を覚えた。日本は、西洋の生活スタイルが急激に入ってきて、それまでの生活様式や価値観が一変した。その大きな変化の中で、現在の日本人は自分たちの進むべき道、あるいは、この先どういう風に生きるべきかを捜し求めているのではないかと思う。
 自分としては、段々畑や四万十川流域での昔ながらの生活に見られるような、自然と共生してきた四国の人々の生活に魅力を感じた。また、四国遍路への接待は、どこでもとても自然に行われていた。これこそが四国の心だと思う。国が異なっても、心と体の癒しを求める現代人の思いは変わらない。私の友人も、親しい人がエイズで亡くなった時、スペインのサンティアゴ巡礼に出た。サンティアゴヘは一本道で、四国遍路は回るという違いはあるが、癒されたいという人々の思いは同じだと思う。」

 (イ)『四国八十八か所』(NHK松山放送局)

 平成10年4月から平成12年3月まで、NHK総合テレビでは毎週日曜朝6時30分から、BS(衛星)ハイビジョン放送では毎週土曜朝7時から放映され、心身を癒すテレビ遍路として大きな反響を呼んだ番組が、NHK松山放送局制作の『四国八十八か所』である。視聴者から再放送の要望が多く寄せられ、2回目が平成12年4月から平成14年3月にかけて放映され、3回目が平成14年4月から平成16年3月にかけて放映されている。
 この番組の制作意図を、直接制作にかかわったNHKきんきメディアプラン四国制作センターに勤務する**さん(昭和17年生まれ)は、次のように語る。
 「『四国八十八か所』に先立って平成2年4月から4か月余りにわたって放送したテレビエッセイ『四国八十八か所・けさの霊場』はBS生中継番組として、その可能性を切り拓いたと同時に、混沌(こんとん)の時代にあって人々の疲れた心を癒す一服の清涼剤の役割も果たし、大きな反響があった。
 この番組が企画された平成10年は世紀末であり、戦争と混乱の20世紀を生きてきた我々に、改めて心の豊かさが求められた時期でもあった。そこで、日本人の心の原点でもある四国八十八か所を取り上げた。1,200年前に弘法大師空海が修行するなど、大師ゆかりの地である八十八か所はいつしか大師を慕う庶民の『こころの道場』すなわち遍路道となり、連綿と現代に引き継がれている。
 山あり海あり人情あり、そこには懐かしい『日本』がある。番組では、四国の自然と心の豊かさ、1,400kmの道のりと八十八の霊場を鮮明な映像で余すところなく紹介する。人情も含めた日本の原風景を紹介することで、21世紀に向けて平和のメッセージを送りたいと考えた。」
 四国八十八ヶ所と高野山、東寺の計90の寺を紹介したこの番組には、22人の「旅する人」が登場する。俳優や映画監督、作家やミュージシャンなど様々なジャンルの有名人が札所を巡っている。この「旅する人」の人選や撮影上の苦労などについて、NHK松山放送局で番組制作を担当している**さん(昭和27年生まれ)は、次のように語る。
 「番組のコンセプトとして、21世紀へのメッセージを残したいと考えていたので、一般的に名の知れた人の中で、自分の言葉でメッセージを表現できる人、伝えることのできる人を選んだ。『旅する人』は撮影日の直前に四国へやってきて、一週間の予定で翌日から1日1か寺のペースで撮影した。この場所で、こういう話をしてほしいといった程度の打ち合わせはするが、台本はなかった。また、何を話すかは、『旅する人』次第であった。
 『旅する人』の日程的な制約があったので、撮影日の天候に気をもんだ。十番切幡寺から十一番藤井寺へ行く途中の吉野川にかかる潜水橋を渡っていく場面では、前日の大雨のため水が橋ぎりぎりまで増水していたため、かなり危険な状態であったが、撮影を強行したこともあった。
 実際の撮影スタッフは約10名。ハイビジョンカメラで撮影するカメラマン2名、照明1名、音声1名、クレーンショット関係3名と演出担当者が1、2名。ハイビジョンの紀行番組として撮影したので、可能な限りきれいな映像を撮ることを意識した。また、約10mの高さのクレーンを使って、目の届かないところから目の高さまで一気に視点を変えて撮影し、映画に近い、高さと広がりのある迫力ある映像を映すことに留意した。」
 最初に番組が放送された平成10年、『四国八十八か所』の年間平均視聴率(総合放送)は関東で4.0%、関西で4.8%、松山地区で7.0%と日曜日の早朝の時間帯としては、高い視聴率を維持していた。このため、全国の拠点局が平成10年度に発信した新番組の中でも視聴者からの意見・要望、問い合わせの件数は群を抜いて多かった。全国集計では、5,704件の反響があり、四国に限ると1,200件、NHK松山放送局が制作した番組としては、過去最多の反響であったという。3回目の放送となる今でも、問い合わせが寄せられている(平成13年の問い合わせ件数が80件。平成14年4~6月は35件。)。
 この反響について、NHK桧山放送局で視聴者センターを担当している**さん(昭和24年生まれ)は、「反響の大半は、問い合わせで占められていた。この中で特に多かったのが、1か寺ごとに順番に見ている、○○番札所はいつ放送になるのかとか、テーマ曲は何か、テーマ曲のCDはあるのか、ビデオの販売はあるのかなどの問い合わせであった。ビデオに撮っている視聴者が多いのもこの番組の特徴で、金曜日の再放送を休止した時には、その後の放送予定の問い合わせが多くあった。
 視聴者は年配の人で、一度は八十八ヶ所巡拝を経験した人が多く、『懐かしく思って見ている。』、『普通の遍路では、寺の秘仏を見ることはできないが、番組では見ることができる。』、『カメラワークで寺が新鮮に見える。』、『寺だけではなく、お接待とかの遍路周辺の状況を知ることができる。』などという意見が多く寄せられた。中には、『自分も歩きたいがどうすればよいか分からない。どこに聞けばよいか。』、『毎回楽しみに見ています。将来は歩きたいと考えています。そのための材料として見ています。』、『時代にふさわしい、すばらしい番組である。私も遍路旅をしたいと思っている。』など、番組を見て八十八ヶ所巡りをしたくなったという声も多く寄せられた。」と語り、反響の大きさに驚いたという。

 (ウ)『娘三味線へんろ旅~1400キ□・心を探す道~』(南海放送)

 平成13年5月24日、㈶放送文化基金が主催する第27回「放送文化基金賞」に、南海放送が制作した第15回民間放送教育協会スペシャル『娘三味線へんろ旅~1400キロ・心を探す道~』(平成13年2月12日全国放送)が決定した。放送文化基金は「視聴者に感銘を与えた優れた番組」を表彰する機関で、テレビドキュメンタリー・テレビドラマ・テレビエンターテインメント・ラジオ番組の4部門あり、NHK及び民放各社の制作者が目標とする権威ある番組コンクールである。しかも今回は「テレビエンターテインメント番組賞」だけでなく、個別分野賞として優れた出演者に贈られる「出演者賞」が番組の主人公である東京在住の三味線奏者・月岡祐紀子さんに贈られ、珍しいダブル受賞となった。番組の概要は次のとおりである。

   盲目の旅芸人・瞽女(ごぜ)の三味線を受け継ごうとしている月岡祐紀子さん(当時24歳)。彼女は、自らの決意を確か
  めるとともに瞽女の旅を追体験しようと、四国遍路の道を歩いて旅することにしました。その道のりは1,400キロ、2ヵ月
  にも及ぶたった一人の「歩き遍路」です。彼女が三味線を奉納しながら歩いていく道には、多くの若者遍路達との出会いが
  ありました。突然のリストラに傷ついた若者、高校時代からのひきこもりに悩む若者、さらに自分白身の存在意味さえわか
  らなくなってしまった若者……。そこにある「心模様」は現代日本人の縮図と言えるものでした。青い海、険しい山々、空
  そして花々。月岡さんは遍路道を歩きながら、そこで出会った四国の豊かな自然、人々の心などを織り込んだ三味線の曲を
  作ることを思い立ちました。歩くことでていく遍路道……。彼女が弾く三味線の音色と歌声は人々の心にしみ入っていきま
  す(⑤)。

 第27回放送文化基金賞を特集した『HBF放送文化基金報』の講評には、「番組では『願い事』や『心の悩み事』を抱えたお遍路さんとの出会いをよく取材し、地元の人々の心優しいお接待の風習も取り入れられているが、その点が数多い有名人を使った紀行番組、あるいは歴史を解説した旅番組とは、ひと味違った爽やかさを感じさせる。放送が終わった途端、放送局の電話が鳴り出し『心暖まる番組だった』とすごい反響が寄せられたという。(⑥)」と記されている。
 番組を見た視聴者からの反響で最も大きかったのは、「番組の最後に月岡さんが唄った『遍路組曲』がよかった。」というものであった。「このことはイコール『彼女の旅に共感してくれた。』ということであったと思う。」と、この番組を制作した**さん(昭和34年生まれ)は語る。四国以外の人からは、「自分も遍路をやってみたい。」という声が一番多かったという。
 なぜ四国遍路なのか、なぜ月岡さんなのかを、**さんは次のように語る。
 「民間放送教育協会スペシャルというのは、協会加盟の全国33の放送局が、企画を出し合って行われるコンペである。ローカリティーと時代性、普遍性のある全国に通用する企画ということになると、愛媛の場合遍路が適当であると考えた。
 また、最近若い歩き遍路が急激に増加しているという情報を得ていた。かつては、病や貧困を原因に回っていた遍路が、一時期観光化し、こんどは若者の歩き遍路に変わってきている。この現象の中に、今の時代を象徴するものがあるのではないか。一人で回っている若者を中心とした現代の遍路の姿を、心をキーワードに描いてみたいと考えた。『自分とは何か』を問うために歩いている若者遍路の増加は、ひきこもりに象徴される今の若者世代の特殊な構造に関係があるのではないかと考えた。
 自分自身や自分の将来に漠然とした不安を持ち、悩んでいる現代の若者の代表として月岡さんという女性に行き当たった。彼女も三味線のことや、プライベートなことで悩んでいた。消えゆく瞽女(ごぜ)三味線を志し、受け継いでいこうということに関しては、彼女なりの葛藤(かっとう)があったと思われる。撮影時の月岡さんは、大学を出て就職するか、邦楽の世界で生きていくかという人生の岐路に立ち、三味線の世界で生きていけるかどうかという将来への不安を抱いていた。番組上では、人生の岐路に立った24歳の女性の心の変化を追うという形で取材した。」
 番組を制作するに当たっては、3月中旬から5月上旬までの55日間、月岡さんが歩く後を4名のスタッフがついて歩いた。シナリオもなく、歩いている月岡さんがどういう人と出会うか、その後どう展開するかといったことは、予想がつかない状況であった。また、月岡さんが出会う歩き遍路たちが、どういうことを考えて歩いているかも番組構成上の大きな要素であったので、制作側も出会いを期待しながら歩いた。番組中に出てくる歩き遍路は、すべてが偶然の出会いであった。演出を担当した**さん(昭和48年生まれ)の頭の中にあった「こうなるだろうな。」という期待は、ことごとく裏切られたという。このような状況で、30分テープ約300本に撮影した150時間を超えるフィルムを54分の番組に編集した。
 撮影時の苦労や月岡さんの変容について、**さんは次のように語る。
 「カメラが一緒に歩いていたので、お接待とか遍路との交流といったことは、実際よりは少なかった。また、遍路同士だと、カメラの前では話せない事情をお互いに話して、癒されたり、自分のことを見つめなおしたりしているが、カメラの前では、本当の心を打ち明けてくれない。生きるか死ぬかの事情を抱えて歩いている遍路を取材し、番組に取り入れたいと考えていたが、なかなか大変だった。後でカメラが一緒でない時の遍路との交流話を月岡さんから聞かされると、取材できない歯がゆさがあった。
 番組の中で月岡さんは、四国の人たちの温かさに触れ、毎日のようにお接待をうけた。そういう感動が蓄積された結果、宇和町の明石寺を打った(参拝した)あと訪れた、遍路道からは離れた保内町にある瞽女(ごぜ)峠で『遍路組曲』ができたのではないかと思う。月岡さんが初めて泣いたのが、徳島を歩き始めて2日目、七番十楽寺でお接待をうけて、涙々の状態だった。四国の人の『心のお接待』に感動して、心が開放されていったと思われる。」

 ウ インターネット

 近年急速なコンピュータの発展・普及により、新たなメディアとしてインターネットが注目されている。このインターネット上にホームページを開設し、自身の遍路体験を公開したり、遍路を始めようとする人々に交通機関や宿泊所などの情報を提供する活動に取り組んでいる人々が増えている。ここでは、遍路文化の理解を広めその普及をめざす活動に積極的に取り組んでいる、特色あるホームページを3例取り上げる。

 (ア)インターネット博覧会『いやしのみち』

 前述の「いやしのくに四国交流推進協議会」が、平成12年12月31日から1年間開催された政府主催のインターネット博覧会に出展したパビリオンが『いやしのみち』である。
 ホームページ『いやしのみち』は、「いやしのくに」、「遍路旅」、「ふれあい広場」、「もぎたて四国」、「掲示板」、「リンク」、「English Page」、「お知らせ」、「今日のいやしの風景」の各コーナーで構成され、四国の自然・風土や遍路に関係する民俗、札所と札所周辺の観光スポットなどを写真と説明文で紹介している。
 「遍路旅」のコーナーは、「1000年以上も昔、その長く険しい旅は始まった。そして現代、その旅は『いやしの旅』として、多くの人々の共感を呼んでいる。巡り、悟り、空海、同行二人、自然、ふれあい。四国八十八ヶ所遍路旅、それは歩くことからはじまる……何処有南北」という文字が、音楽とともに45秒間流れトップページが開かれる。その内容は、空海と遍路の関係、その人物像を紹介した空海展、四国遍路に関する様々な事象を紹介した遍路ミュージアム、寺と寺の間に存在する様々な癒しの地を紹介した遍路周辺アラカルトの三つからなっている。
 空海展は、空海にまつわる五つのエピソードを紹介した生涯のページ、弘法清水など四つの伝説を紹介した伝説のページ、板彫弘法大師像(神護寺蔵)など12の文化財を紹介したギャラリーのページで構成されている。
 遍路ミュージアムは、遍路の歴史といろは、遍路の伝説・伝承と遍路文学、八十八ヵ寺情報、それぞれの巡りのページで構成されている。遍路の歴史といろはのページを開くと、遍路の始まりを紹介した遍路の歴史、遍路をはじめ四国固有の風習、文化を紹介した遍路の豆知識、次の寺に行くまでの車での移動時間と距離をまとめたお寺の距離・時間が紹介されている。
 遍路の伝説・伝承と遍路文学のページを開くと、7か寺の遍路にまつわる伝説・伝承と寺や周辺の詳細な情報を掲載したガイドブック4冊、先達の詳細な旅の行程を知ることができるエッセイ5冊、気軽に遍路気分が味わえるエッセイ5冊、遍路の本質と神髄に触れることができるエッセイ11冊、著名人が記した四国遍路記3冊、四国遍路を舞台とした文学作品2冊、四国と四国遍路にまつわる人物伝7冊が紹介されている。
 八十八ヵ寺情報のページには、四国地図に札所の位置を示した八十八ヵ寺ポイントマップと札所番号、所在地、山・院号、寺号をまとめた表が提示されている。ポイントマップの下にある4県の名称をクリックすると、各県ごとの地図が拡大して表示される。地図中の札所番号をクリックすると、各寺の歴史・全体像、本堂・大師堂、境内、見所、各寺にまつわるコラムが写真つきで紹介されている。さらに、後述する遍路周辺アラカルトのページへもリンクできるようになっている。
 それぞれの巡りのページでは、瀬戸内海に点在する、小豆島(香川県)・淡路島(兵庫県)・大島(愛媛県)など5か所の島四国霊場と全国各地に受け継がれている、知多(愛知県)相馬(茨城県・千葉県)など9か所の新四国霊場が紹介されている。
 遍路周辺アラカルトのページでは、八十八ヶ寺周辺のいやしのスポットとして、みち、花、観光名所、グルメ、宿温泉が紹介されている。マップ、ジャンル、一覧からそれぞれの詳細な情報にアクセスできるようになっている。
 「ふれあい広場」のコーナーには、四国一周ふれあい旅日記のページがある。香川県在住の27歳の若者が、平成13年7月末から57日間かけて四国八十八ヶ所を歩いて巡った様子を、リアルタイムで日記風に紹介したコーナーである。
 インターネット博覧会の期間中のホームページ『いやしのみち』のアクセス件数は、107,818件、「遍路旅」は19,457件、「いやしのくに」は6,721件、「ふれあい広場」は9,087件であった。
 インターネット博覧会は平成13年12月末に終了したが、ホームページ『いやしのみち』(http://www.shikoku-iyashi.org)はいやしのくに四国交流推進協議会の情報発信の場として現在も活用されている。

 (イ)ホームページ『遍路学事始め』

 前述の**さんが、平成10年6月から開設しているホームページが、『遍路学事始め』である。**さんは、平成8年以降新居浜市の生涯学習大学で遍路文化に関係する講座を開講していたが、自身の思いつくままに興味あるテーマを取り上げてきた講座の在り方に対して、学問的体系化の必要を痛感し、ホームページを立ち上げたという。
 平成10年から平成12年までの2年間に、『遍路学事始め』のページにアクセスした人は約2,000人、平成12年6月、サーバー変更後『続講:遍路学事始め』(http://www2.ocn.ne.jp/~e-kiyo/)を開設したが、現在までのアクセス数は約5,000人である。掲載内容は、**さんが担当している新居浜市生涯学習講座の紹介、これまで出版した本の紹介、**さんの徒歩遍路記「辺路独行」、遍路研究の好著案内などで構成されている。
 ホームページの運営について、**さんは「文字情報による自分の研究報告を中心に構成しているので、アクセス数はやや少ないが、最近の新しい動きとして、卒業論文や修士論文で四国遍路をテーマに取り上げる学生が増え、学生からのアクセスやメールによる問い合わせが増えている。この現代機器を活用して、遍路研究の世界への問題提起を続けていきたい。」と語る。

 (ウ)ホームページ『掬水へんろ館』

 遍路を計画している人、遍路体験を共有したい人、そのほか四国遍路に関心を持つあらゆる人々のための「情報のお接待所」を目指して、歩き遍路を中心に四国遍路の実践のための情報を提供しているホームページ『掬水(きくすい)へんろ館』(http://www. kushima.com/henro/)を開設している人が、横浜市在住の**さん(昭和25年生まれ)である。**さんは、平成8年から平成11年にかけて、6回の区切り打ちで歩いて四国八十八ヶ所を巡った。四国遍路の体験から得たものを、**さんは次のように語る。
 「実際に歩いてみると、都会の利便性から離れた時間を過ごして、成り行きに任せることの快感とか、プラス思考の喜びを実感しました。特に、日ごろ自己主張をしていないと生きていけない人生を送っていますが、ひとたび白衣を身にまとい一笠一杖を携えて歩き始めれば、四国の人々がやさしく無条件で認知し、受け入れてくれることに感動しました。肉体的・精神的な負荷がかかった状態で、お接待などのもてなしを受け、さらには他人に合掌されるという体験を通じて、自分自身が成長する気がしました。」
 このような体験から、歩き遍路の本質は人々との出会いにあると考えた**さんは、そのすばらしさを他人にも伝えようと遍路日記を書き、出会った人々に送ったり、ホームページに公開する活動を始めた。平成8年1月から開設していた**さんのホームページ『掬水の果て』に、6月から遍路関連の内容を掲載した。平成10年9月には、遍路関係を独立させて、現在の『掬水へんろ館』となった。「掬」という字は「すくう」と読むが、「むすぶ」とも読む。片方の手の甲を片方の手の平に乗せて重ね合わせることで、その手の形をもって水などを掬うのである。「掬水」について、**さんは「流花去難掬(流花去りて掬し難し)」という面を強調される。「これはいい」と思ったものも、それに気がついて川の流れに手を入れて掬ったころは花も流れ過ぎてしまって、掬い上げた手には透明な水が残るばかり。これまでの自分にはそういう後悔に似た部分が多かったということだろうか。これからはできるだけ早くいいものに気がつき、掬い上げた手に透明な水だけでない何かが残っていて欲しい、という思いからのネーミングである(⑦)。このような活動を始めた思いを、**さんは次のように語る。
 「初めは、単に遍路日記を公開して、他の方の参考にしてもらうとか、同じ遍路を体験した方々との交流が目的でした。そのうち遍路ブームが盛り上がってきたせいもあって、いろいろなノウハウ情報に対するニーズを強く感じるようになりました。『自分にできることで何かお遍路に役立つことをしてみたい。それも“もの”ではなく何か“内面”からくるもので役立ってみたい。』と思いました。そこで、四国で得たお接待に対するお返しとして自分にできることは『情報のお接待』だと思うようになり、積極的に情報発信に力を注ぐようになりました。
 世の中には遍路に行きたいと思っている人はいくらでもいるはずだ、だからそういう気持ちになっている人の背中を、『そっと押してあげる』という活動が、様々なお接待や出会いを自分に与えてくれたお四国に対して、自分の力の範囲でできるお返しなのだと考えました。」
 『掬水へんろ館』から発信される情報は、歩き遍路を中心とした遍路のための実践情報(行程、服装、装備など)や遍路にまつわる様々な事物に関するエッセイ、**さん自身の遍路日記や寄稿された遍路日記(9編)、遍路に関する出版物の紹介や遍路に関連したニュース、読者同士の双方向コミュニケーションを目指した談話室など多岐にわたっている。さらに、『掬水へんろ館』からリンクしているサイトは、歩き遍路関係の77サイトをはじめ合計238サイト(平成14年8月4日現在)あり、毎日のアクセス数は300から400件、月間1万件程度のアクセスがあるという。
 このようなホームページでの情報提供の問題点や今後のあり方について、**さんは次のように考えている。
 「私のサイトのようにインターネットで情報を提供するということは、安直な遍路を助長するのではないかという懸念を感じています。またそうしたマイナス面がネット上に現れると、無責任な場で面白おかしく扱われ、遍路を志す心のやわらかい方々を傷つけるのではないかと心配しています。
 あまりに至れり尽くせりだと『感謝』の心に至らないという面があるのも事実だと思います。そういう意味では、ホームページでも、最初の一歩の手助けはしても、何から何までマニュアル化してしまうことは避けたいと考えています。
 ただ、何百年も続いてきた大師の道ですから、世相の影響で揺れ動く部分があったとしても、根幹は変わらず、人々を受け入れ続けてくれるものと信じ、私なりの活動を続けていきたいと思っています。」

 工 生涯学習講座

 近年の生涯学習に対する期待と関心の高まりの中で、様々な生涯学習講座が、各地で開催されている。ここでは、遍路文化を対象とした特色ある講座を開講している例を二つ取り上げる。

 (ア)「ふるさとおもしろ講座-四国遍路-」(愛媛県生涯学習センター)

 愛媛県生涯学習センターで開講している「ふるさとおもしろ講座」では、平成3年の生涯学習センター開館以来、研究科を中心に進めてきた「愛媛学」(愛媛県内の地域学調査)の成果を講座の形で発表してきた。平成12年度以降は3か年計画で遍路文化の調査研究を実施しており、翌平成13年度から四国の遍路文化の講座を実施している。四国遍路の歴史を統一テーマとして、平成13年度に実施された8回の講座内容は図表3-2-2のとおりである。
 愛媛県内の遍路道を統一テーマとして、平成14年度に実施されている9回の講座内容は、図表3-2-3のとおりである。
 各講座は、前年度の報告書を分担執筆した研究科員が担当し、1講座2時間で開講されている。また、愛媛県生涯学習センターだけではなく、宇和町にある愛媛県歴史文化博物館、新居浜市にある愛媛県総合科学博物館でも同様の講座が開講されている。
 平成13年度、愛媛県生涯学習センターで実施した「ふるさとおもしろ講座」では、定員30名のところに249名の申し込みがあり、抽選により150名の受講者で開講した。講座終了後の受講生のアンケ一卜によると、「四国遍路にまつわる事柄が体系的に、総合的に学習でき、認識を新たにした。」、「八十八ヶ所参拝はしたが、知らないことがたくさんあり勉強になった。」、「次の遍路巡りで受講して得たことを基に新しい発見につなげたい。」といった感想が多くみられた。

 (イ)「遍路学事始め」(新居浜生涯学習大学)

 愛媛県東部に位置する新居浜市では、平成3年に生涯学習大学を開始した。発足当初から生涯学習推進員としてかかわってきた**さんは、平成8年に新居浜生涯学習大学の一環として「遍路学事始め」の講座を立ち上げた。この年は、年4回、火曜日に2時間の講座で実施し、真念や仏海上人などを中心に、江戸時代の遍路世界を紹介した内容であったという。平成9年からは年6回の講座を組み、加えて現地研修も取り入れた遍路道ウォークを1、2回実施している。
 今後の講座運営について**さんは、「郷土資料の発掘に努め、受講生が興味・関心を持って取り組める内容を心がけていきたい。また、遍路道ウォークを充実させ、遍路道を歩く楽しさを味わってほしい。」と語る。

 オ 雑誌等

 平成の遍路ブームの中で、四国遍路特集を組んだ様々な雑誌や多くの遍路体験記が発刊され、遍路関係の情報は多岐にわたっている。ここでは、遍路文化の普及という点で特色ある内容を掲載している雑誌や月刊誌を紹介する。

 (ア)月刊『へんろ』

 昭和59年(1984年)4月、弘法大師御入定1150年御遠忌(おんき)と伊予鉄道順拝バス運行30周年を記念して、発刊された新聞が月刊『へんろ』である。順拝バスの報恩謝礼の意味も込め、客に還元できるもの、乗客に情報を提供するものとして、伊予鉄道としては持ち出し覚悟の事業であったという。3、4名のスタッフで取材や投稿記事の選定などを行い、四国八十八ヶ所霊場会が監修し、伊予鉄観光開発が発行するという創刊当時のスタイルで現在も継続している。平成14年現在の発行部数は約1万部。購読者の内訳は、全国の先達(せんだつ)が7,500部余り、霊場関係が約900部、その他の読者が約1,600部である。その他の読者は、遍路経験者や遍路に興味を抱いている年配者が多いという。B5判大の紙面は、季節感あふれる巡礼者と寺の写真を掲載した1面からはじまり、遍路や八十八ヶ所関係の情報や読者からの投稿(エッセイと俳句、川柳、詩、短歌)からなっている。
 月刊『へんろ』発刊の思いやその編集方針について、平成12年11月に発行された第200号の中で、伊予鉄道社長の森本惇さんは次のように書いている。

   四国八十八ヶ所を順拝する人は、年々増加しております。
    “癒し”を求める近年の世相に加え、相次ぐ瀬戸大橋の開通やNHKの番組などが追い風になったと思われます。
   「へんろ道を、ユネスコ世界文化遺産に登録しよう」という運動も活発になってまいりましたが、四国巡拝は、お大師様
  の徳を慕い、「同行二人」でその足跡をたどるものと心得ます。
   「へんろ文化」を表面から見るばかりでなく、心を感じ取ってほしいと願う次第であります。
   「月刊へんろ」に与えられた命題も、「へんろ」の心を伝えること。そして、一人でも多くの方に「四国へんろ」に来て
  くださいと呼びかけること。
   そのために、いっそう幅広く親しみのあるニュースをお届けいたします。

 現在編集を担当している**さん(昭和14年生まれ)は、次のような思いで編集にあたっているという。
 「豊かさの中で自分を見失っている人が増え、世の中が不安定な今の時代は、一人ひとりに自分を見つめなおす作業が必要とされているのではないだろうか。慌ただしい日常生活の中で自分を見つめなおすことは難しいが、遍路に出ると遍路道の途中で、あるいは札所でいろいろな人に出会う。その人とコミュニケートすることによって、相手と自分を対比しながら、自分を見つめなおすことができる。
 この新聞を読んで、より多くの人に遍路を体験してほしい。実際に遍路に出ることができない人にも、月刊『へんろ』の記事を読んで、遍路の心に触れてほしい。」
 既刊の224号(平成14年11月現在)までの中で、最も反響が大きかったのは、創刊から17年目に出た第200号。「よく200号まで続いた。これからも頑張ってください。」という激励の声が多かったという。また、反響が大きかった記事としては、早坂暁さんの講演(「平成の哲学遍路」㊤お遍路が置いて行った子 ㊥自分は何者、何ができるか ㊦四国は列島の魂の救い所)や佐藤孝子さんの講演(「歩いて歩いてお四国の風になろう」㊤体で分かった同行二人 ㊦凄いですよ“お遍路病院”)をまとめた記事であった。「読みやすく、共感できた。」という感想が多く寄せられたという。
 月刊『へんろ』の今後について、**さんは、「明徳短期大学の歩き遍路体験や高知女子大学の遍路の講義、香川大学の遍路のゼミナールなど、若い人の間に遍路をめぐる様々な取り組みが始まっている。そういった動きを紹介していくとともに、一緒になって四国遍路の情報を発信していきたい。いずれ、カラーページで仏教美術なども取り上げたいと考えている。」と語る。

 (イ)『四国へんろ』

 学生時代の東海道五十三次踏破以来、歩くこと、特に巡礼の道に魅せられ、西国三十三観音霊場や四国八十八ヶ所などを歩き続けている**さん(昭和45年生まれ)が、平成11年末より毎週水曜日にメールマガジン『週刊へんろ』を発行し、さらに平成12年3月1日に創刊した月刊誌が『四国へんろ』である。歩き遍路を志す人へ山道の状態や遍路道沿いの銭湯やコインランドリーなどの情報を提供したり、歩き遍路を通じて生き方を問う記事を特集したり、托鉢(たくはつ)の手法や考え方なども掲載していた。
 **さんは、祖父から形見に遍路装束を譲られたことをきっかけに四国遍路に興味を抱き、平成5年夏から、歩いて区切り打ちで四国八十八ヶ所を巡っている。托鉢と野宿をしながら、平成14年10月現在2周目を終えようとしている。その道中は、自分の足で自然と対話し、それを通じて自分を知る日々であり、感謝させられることの連続であったという。
 月刊『四国へんろ』の出版を始めたきっかけや思いを**さんは次のように語る。
 「自分でもよく分からないが、大きなきっかけは、40日間にわたる法海上人堂再建へのお手伝いの日々であったと思う。**さんをはじめとする、名もない無数のお遍路さんの足跡をどこかに残しておきたい。一般の報道では伝えられない遍路の真の姿を伝えたいと考えた。」
 平成11年10月22日、室戸岬を目指して歩いていた**さんは、「へんろさん“力”を借してください」という文の下に、「美しい空と海にまもられて法海上人堂はよみがえろうとしています」というキャッチコピーで始まるお堂再建の主意説明文を目にし、**さんと出会った(⑧)。この日から**さんとともにお堂再建に取り組むことになった**さんは、体を動かして歩くこと、働くことがいかに私たちの心身にとって大切であるか、人はそれぞれの役割があって、また必要とされて生きているということを学んだという。その時の思いを自身の遍路記に次のように書いている。

   私たちはもはやここで単にお堂の再建を手伝っているわけではなかった。無償の手伝い、すなわち無財七施の中の身施の
  及ぼす影響が、施される側だけでなく、施す側をも変えていくという事実を眼前に、今、歩むべき道を誰かに、指し示して
  もらっているような、そんな安心感さえも感じ始めていた(⑨)。

 このような思いを込めて、月刊『四国へんろ』は創刊されたが、歩き遍路偏重の内容であったためか、読者数が頭打ちとなり、採算性の問題から、継続が困難になり、平成14年3月号を最後に休刊している。現在**さんは、休刊を惜しむ多くの読者の声に支えられて、『四国へんろ』復刊の準備をすすめている(平成15年2月季刊誌として復刊予定)。四国遍路に関する真実の情報をより多くの読者に伝え、歩き遍路の役に立つ雑誌を提供し続けたいと考えている。

写真3-2-9 取材中のフランス人を含むスタッフ

写真3-2-9 取材中のフランス人を含むスタッフ

五十一番石手寺境内。平成14年8月撮影

図表3-2-2 平成13年度 ふるさとおもしろ講座

図表3-2-2 平成13年度 ふるさとおもしろ講座


図表3-2-3 平成14年度 ふるさとおもしろ講座

図表3-2-3 平成14年度 ふるさとおもしろ講座