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遍路のこころ(平成14年度)

(1)遍路道整備の取り組み①

 四国八十八ヶ所を巡拝している人々に少しでも遍路道を気持ちよく巡ってほしいと、遍路道の整備に取り組んでいる様々な人々がいる。道路は一般に国、県、市町村などに所属する公共的なものである。道の機能は、人と物が行き交うことが基本であり、それぞれの地域の長い歴史的文化・習慣・風土に基づいて道が作られてきた。遍路道もその一つである。遍路道と現在の国や地方公共団体の整備する道のかかわりなどについて整理した(図表3-1-1)。次にこれらの道の整備と古い遍路道の整備について具体的に述べる。なお、「四国のみち」については平成12年度の学術整理報告書『四国遍路のあゆみ』で既に述べたのでここでは省略する。

 ア 新四国のみち

 平成12年度から「新四国のみち」事業が始まった。昭和56年(1981年)度からの「四国のみち」整備事業によって遍路道も含めた歩道、標識などの整備が実施されたが、地域住民の理解や施設の維持管理といった点で不十分な面が見られた。そのような面も解消し、それぞれの地域に密着した新しい四国の道づくりを、遍路道も含めて作っていこうというのが「新四国のみち」である。この事業は、それぞれの地域住民が主体性を持って行う道づくりや街づくりを、国が財政的に支援しようとしているもので、「新四国のみち推進協議会」事務局を高松市の国土交通省四国地方整備局地域道路課に置き、道づくりを通じて、その地域の風土や慣習を次の世代に引き継いでいく事業である。つまり地域の人々と行政が一体となって、地域の特性を活かした個性と魅力にあふれた地域づくりを実現する道の整備事業である。具体的には、遍路道、歴史的街道に沿う地域と、鉄道駅、港等の交通拠点や道の駅等の休憩所を結ぶ道をより安全快適なものにしようとして、地域住民、地域の団体が、道路管理者である行政と一体となって整備することを目的としている。
 『歩いてまわろう新四国のみち』(四国のみち推進協議会編)には次のように記されている。

   四国には、四国霊場八十八ヶ所に代表される歴史文化遺産や美しい自然等の資産があります。また、健康志向の高まり、
  余暇時間の増大で「歩く」ことは、多くの人々に見直されています。豊かで住みよい四国を作るためには、こうした歴史・
  文化・自然を生かした、安全で快適に歩くことができる道づくりが有効と考えられます。「新四国のみち」は、地域の資産
  となり地域外の人たちにとっても魅力的で、より安全快適な歩行者空間の整備を、地域の人々が主体となり関係機関ととも
  に行う事業です(①)。

 以上のような観点から、行政機関は道づくりに必要な様々な支援を行っている。また、平成13年2月に「新四国のみち」対象地域を、9か所決定し、さらに平成14年2月に4か所を追加決定した。その対象地域は次の通りである。
   愛媛県…砥部町砥部、宇和町卯之町、大洲市肱南地区(追加指定)、西条市(追加指定)
   香川県…さぬき市長尾地区、善通寺市善通寺
   徳島県…鴨島町鴨島、神山町(追加指定)
   高知県…安芸市安芸、野市町西野、梼原町東区、大月町、大野見村(追加指定)
 指定された13か所の「新四国のみち」のうち、四国八十八ヶ所の札所をルートに取り込んでいる宇和町(愛媛県)、さぬき市長尾地区(香川県)、野市町(高知県)を取り上げ、それぞれ遍路道をどのように位置づけているかを調べた。

 (ア)歴史と文化に触れ合う「宇和文化の里」

 大洲市と宇和島市を結ぶ宇和島街道の宿場町として栄えた宇和町が「新四国のみち」整備対象地区に選定された。
 愛媛県で指定されている4か所のうち、唯一札所である四十三番明石(めいせき)寺を含むルートを設定している「新四国のみち」の事業は、従来から町で設定していた宇和文化の里ルートが、「宇和文化の里」としてスタートした。
 四国の道路を考える会発行の『四国路』(2001年春号)には、「新四国のみち」宇和文化の里を次のように記している。

   歩きの出発点となるJR卯之町駅は、標高220m、愛媛県では一番高いところにある高原の駅です。周囲を山に囲まれた
  盆地の冬は厳しく、時には20cm程度の積雪を見ることがあります。(中略)町の中心地、卯之町にある中町は、江戸・明
  治の古い建物が軒を連ねる町並みです。幕末には、シーボルトの高弟二宮敬作がここに蘭方(らんぽう)医を開業、オランダ
  おイネが敬作に学び、高野長英も身を潜めた歴史に彩られています。周辺には西日本最古の小学校である開明学校、日本一
  長い木造廊下を持つ宇和町米博物館、ふるさとの先賢の偉業を展示した宇和町先哲記念館や、観光客をもてなす休憩所があ
  ります(②)。歩いて回るにもほどよい道のりで、歴史散策には持ってこいのスポットです。

 明石寺から中町(なかんちょう)までの「新四国のみち」に指定された旧遍路道を卯之町本町組の人々が長年にわたって整備してきた。卯之町地区の**さん(大正9年生まれ)に遍路道整備の様子を聞いた。
 「行政と地域の住民が一緒になって、新しく道の整備を考えることは大変よいことだと思います。道を利用しているのは、私たち住民です。地域に住んでいる者、他所(よそ)から来られる人にやさしい道づくりが出来ればと思っています。
 明石寺は8月9日が縁日で、町内だけでなく各地から参詣(けい)にみえるので、長年その前に明石寺から中町にかけての山道の整備を地域の住民でしてきました。現在は、毎年縁日前の日曜日に行うことに決めています。この道の整備は、物心ついたころからしていました。もちろん私も学生のころ出た記憶があります。戦時中もこの道の整備は欠かしたことはなく、70年、80年は続いていると思います。自分たちも明石寺へ行く時にこの道を利用しているし、最近では歩き遍路の方が多く利用されています。明石寺の裏山には新四国八十八ヶ所の道があります。新四国が天保2年(1831年)に創設されているので、この道の整備は明治以前からされていたと思います。
 中町から明石寺に通じる山道の整備は、卯之町本町組が中心になって、各戸1人ずつは出るので、200人以上で行っています。信仰心というのではなく、自分たちの身近な札所という意味で、先人が続けてきたものを自分たちが受け継いで、後世に伝えたいものだと思います。」
 明石(めいせき)寺のある明石(あげいし)地区は、明石地区独自に、明石寺境内と明石地区側の「新四国のみち」に指定された旧遍路道の整備を地区の行事として長年続けている(写真3-1-1)。その様子を明石地区の**さん(大正14年生まれ)に聞いた。
 「明石寺には檀家がありません。しかし同じ地区に、このような札所があるということで、近くに住む者として地区全体でできるだけ援助していくことが約束事になっています。今日の行事にも100人以上の者が出てきています。私は終戦時、愛媛師範の学生のときにこの道の整備に来たことがあります。地区とお寺は切っても切り離せないものがあります。地区の信仰の中心であるということで、地区からも総代を出して、このお寺を援助することにしています。峠を境として、明石側を我々明石地区の者が、卯之町側を卯之町本町組の者が毎年一回清掃に出ます。私の記憶にある以前から、この道の整備は行われていました。地区の行事で、これほど皆さんに協力していただける行事はありません。それだけに明石寺への思いが、皆さん強いということでしょうか。山道は時々整備しないと通行不能になってしまいます。これからも地区の行事としていつまでも残していきたいと思います。」
 明石寺から「新四国のみち」に指定されている旧遍路道を歩くと卯之町の中町に出る。そこには、町が中町の民家跡を買い上げ休憩所として整備した「宇和文化の里休憩所」がある。地元の婦人会有志グループがボランティアでこれを運営し、お遍路さんや観光客にお茶のお接待をしている。新四国のみち「宇和文化の里」をよりよいものにしていくために活動している人たちがいる。
 宇和文化の里休憩所で世話をしている**さん(昭和10年生まれ)に聞いた。
 「私たち宇和婦人会有志グループは、やすらぎグループといって、常時12~13名で活動しています。観光客や歩き遍路の方が立ち寄られたらお茶のお接待をさせていただきます。歩き遍路の方が時々寄られます。町の施設ですが、運営は私たちに任されています。グループで毎日交代でここに来ています。お遍路さんや観光客の方、いろいろな方とお話ができてためになりますし、元気が出ます。これからも責任者の**さんを中心に活動していきたいと思います。道が整備されていろいろな施設ができればよいと思います。」

 (イ)「へんろ道・南海道」

 香川県東部に平成14年に町村合併して成立した、さぬき市長尾地区の「新四国のみち」は、「へんろ道・南海道」としてその事業がスタートした。そのルートは、当願堂~(4km)~八十七番長尾寺~(5km)~前山おへんろ交流サロン~(6.2km)~多和小学校~(4.8km)~八十八番大窪寺に至る約20km余の道である。四国の道路を考える会発行の『四国路』には、長尾地区の「新四国のみち」について次のように記している。

   この町には四国霊場八十七番長尾寺と八十八番大窪寺があります。この二つの寺を結ぶ道は、風情豊かな「へんろ道」や
  心潤う「四国のみち」、展望を楽しむレクリエーションの道、車のための観光や産業の道など、多岐羊腸に幾つもの道筋が
  あり、最後はひとつに結願の寺へと向かいます。町内には、古代の幹線道路である南海道が通っていたこともあり、古くか
  らの歴史の足跡が点在し、へんろ道には道標や丁石、遍路墓も多く残っています。弘法大師や漂泊の俳人種田山頭火もた
  どった長尾の道(③)。

 (ウ)「野開きのみち」

 高知県香美郡野市町の「新四国のみち」は、「野開きのみち」としてその事業がスタートした。この「野開きのみち」という名称は、江戸時代に野中兼山によって新田などが開発された歴史的な意味と、平成の世にも新たな野市を開く道になるようにとの思いを込めて付けられた。このコースは「自然と歴史にふれあいながらいきいきウォーク」として従来から野市町の健康ウォークが実施されてきた。そのコースが「新四国のみち」に多く取り入れられており、道そのものの整備はかなり進んでおり、今後は維持、管理面での整備が待たれている。
 JRのいち駅~(約16分)~岩松橋~二十八番大日寺~(約50分)~高知県立青少年センター~(約10分)~野中兼山ゆかりの三又(みつまた)~物部川河岸~(約45分)~三又~野々宮神社~(約40分)~JRのいち駅が「新四国のみち」である。
 四国の道路を考える会による『四国路』には、野市町の「新四国のみち」について次のように記している。

   高知市から車で約40分。物部川に沿った肥沃な香長(かちょう)平野の中枢に位置し、土佐の穀倉地帯として開けてきた
  町。(中略)今では住みよい地も、かつては荒れ果てた野市台地でした。しかし、江戸時代に野中兼山によって用水路が築
  かれ、(中略)その歴史の用水路は「みずみち」と名付けられ、水辺の道は散策路として整備が進められています。また、
  四国霊場二十八番大日寺へと向かうへんろ道もあり、太陽と緑につつまれた水と歴史をめぐる野市の道は、「野開きのみ
  ち」として、町の人々の手によって心地よい歩き道へと整えられているのです。(中略)岩松橋から、鯉が泳ぎ、季節に
  よっては、白サギ、青サギ、セキレイの姿も見られる鳥川沿いを歩きます。大日寺のある山が近づいてくる辺りで、農道橋
  を左岸へ渡り、県道に出るとまもなくへんろ道の風情を残した草道を登ります。(中略)大日寺の奥の院の脇には、大師の
  御加持水といわれる清水があり、県の名水百選にも選ばれ、古くから枯れたことがないといわれているのです(④)。

 イ いやしのみち

 徳島県では、十一番藤井寺のある麻植(おえ)郡鴨島(かもじま)町の「空海をたどるいやしの道ルート」が「いやしのみちづくり事業」として決定された(図表3-1-1)。このルートは「新四国のみち」の対象地区の一つとしても決定されている。
 徳島県発行の『いやし通信』には、次のように記している。

   もともと鴨島町・神山町・市場町・川島町で結成された「最後まで残った空海の道ウォーク実行委員会」が毎春「最後ま
  で残った空海の道ウォーク」を開催していました。いやしのみちをたどっていくウォークイベントで同委員会は実際に道を
  歩いて問題点や課題を見つけ、改善しようとしていました。それが母体となり平成13年に、鴨島町が「四国いやしのみち
  づくり事業」の第1号に登録されました。平成13年7月13日に鴨島町で開かれた「いやしのみちづくり推進会議」ではこ
  れからのいやしの道に必要な『もの』や『こころ』について話し合いが行われました。『もの』の課題は・風化した道しる
  べをなおす・休憩所にトイレをつくる・草刈をして道を歩きやすくする・お遍路さんが宿泊できる施設をつくる。「ここ
  ろ」の課題は・声かけや挨拶をする・善根宿や草刈のボランティアの募集・ルート周辺住民の協力・本当に必要なものだけ
  整備する(地域で維持管理できないものは作らない)・何もかも整備して過保護になりすぎない(⑤)。

 このようにして、鴨島町では「いやしのみち」づくりを行ってきた。「空海をたどるいやしの道」のルートは、次の通りである。
 吉野川粟島(あわしま)渡船場跡~十一番藤井寺~瑞山(はばやま)休憩所~長戸庵~神山町境(焼山寺に続く)に至る8.7kmの道である。このルートに江川(えがわ)湧水源を経由するサブルート3.2kmを加えた、計11.9kmが「新四国のみち」であり、「いやしのみち」である。
 平成14年3月3日に四国いやしのみちづくり元年記念イベントとして鴨島町と神山町を舞台に「いやしのみちフォーラム&ウォーク」が開催された。ウォークイベントは鴨島コースと神山コースに分かれて実施された。鴨島コースは、藤井寺~長戸庵~樋山地(ひやまじ)(約5km)で徒歩2~3時間、参加者100名であった。神山コースは、鍋岩[おへんろ駅]~衛門三郎杖杉庵(えもんさぶろうじょうしんあん)~十二番焼山寺(約3km)で徒歩1~1.5時間、参加者100名であった。
 愛媛県では平成14年度に上浮穴郡小田町から久万町にかけて「いやしのみちづくり事業」が始まり休憩所3か所の設置が決定され、その維持管理については地元住民が行うことになった。

 ウ 歴史文化道-「松山歴史文化道」

 四国歴史文化道とは、四国地方建設局・四国運輸局(現国土交通省四国地方整備局)と四国4県、四国経済連合会、4県商工会議所連合会などが中心となってつくった「歴史・文化推進協議会」が、四国内10か所の歴史的テーマをもつ地域を選定し、行政と民間とが一体となって整備しようというものである。歴史文化道推進協議会が発行した『四国歴史文化道』には次のように記されている。

   四国は、古くから、奈良の都につながる南海道や海上交通の大動脈瀬戸内海などによって、各地と盛んな交流を行い豊か
  な文化を育(はぐく)むとともに、空海ゆかりの四国霊場八十八ヶ所など心の安らぎを感じさせる独自の風土を生み出してい
  ます。また、阿波おどりをはじめ伝統あるエネルギッシュな祭りも数多く、さらに明治維新など時代の節目には日本を動か
  す幾多の歴史的人物を輩出してきました。「歴史・文化道」は、より多くの人々に、こうした四国の歴史・文化に触れ親し
  んでいただくために、官民が一体となって平成9年度から整備に取り組んでいるものです(⑥)。

 愛媛県では、「松山歴史文化道」…城と温泉と文学の道、「南予歴史文化道」…城下町と伊達文化の里、「ひうち灘歴史文化道」…祭りと近代産業遺産を辿(たど)る里、「芸予諸島歴史文化道」…水軍と国宝の島々といった4地域がそれぞれモデル地域として指定され、国道196号、松山北条港バイパス、県道松山港線、国道56号宇和島道路などが関連の整備路線に選定されている。事業の実施例としては、道路の改良、渋滞解消、駐車場、標識の整備等があげられている。
 このうち、多くの札所をルートに取り入れている「松山歴史文化道」は、松山市を中心とする地域で、ここは古くから開けた道後温泉と近世には松山15万石の城下町として栄えた地域である。札所に関係するルートは、松山東部環状線(県道40号)沿い、四十九番浄土寺、五十番繁多寺、一部国道317号を経て五十一番石手寺に至っている。石手寺から県道六軒家線(187号)、国道437号、県道辰巳伊予和気停車場線(183号)などを経て五十二番太山寺、五十三番円明寺に至る道、また、県道六軒家線から国道196号を経て県道松山港内宮線(39号)、県道183号にて円明寺、太山寺に至る道などである。
 このルートをよく歩いている松山市の**さん(昭和18年生まれ)と、このルートをよく運転された伊予鉄道㈱室(むろ)町バス営業所の**さん(昭和23年生まれ)の二人に話を聞いた。
 「私は、八十八ヶ所を歩いて回るだけの体力に自信がないのでせめて松山にある札所ぐらいは歩いてお参りをしたいと思い、父の死をきっかけにその供養もかねて始めました。今年(平成14年)が父の13回忌になりますが、お遍路にかかわり始めたのは、平成3年からでした。歩くのは大体春先か、5月のゴールデンウィークを利用しています。私の家が山越にありますから、石手寺方面へは逆打ちになりますが、石手寺から繁多寺、そして浄土寺までの区間は途中歩道のない部分があります(写真3-1-2)。ここはとても怖くて本当に歩きづらい道です。繁多寺から桑原八幡神社前を通って県道40号に出るまでの約1km弱の道は季節によれば果物が実っていたり、稲穂があったり遍路道らしくてとても歩きやすい道です。石手寺から太山寺、円明寺も度々歩いています。いろいろな道を利用して歩きますが、国道196号は歩道もありますし一番歩きやすいと思います。国道沿いに札所への標識が多くできたので目標に向かって歩きやすくなりました。円明寺から太山寺までは一直線なので分かりやすいし、車の方も国道196号から円明寺、太山寺と行かれる方が多いのではないかと思います。しかし、順打ちをしたいという方は、国道437号を歩いて三津から太山寺、円明寺と歩かれます。私も三津から太山寺のコースを歩くことがありますが、距離が長いので大変疲れます。太山寺から歩いて三津に出て電車で帰るということもあります。
 歩道もない道を歩くのは車に気を取られて、歩き本来の周囲の景色を楽しみながら札所を目指すことはできないし、趣もありません。自分自身の歩きにゆとりがなくなってしまいます。歩道が全て整備され、市内の景色の移り変わりを楽しみながら札所めぐりができればいいと思います。」
 「松山歴史文化道として指定されているこの道は、近年行政の努力により歩道が増えたり、標識が新たに設置されたりして、バスで市内の霊場を回って運転するのが大分楽になりました。しかし大型バスはなかなか入れないところがあります。国道は、歩道が整備されて歩く人への配慮がなされてきたと思います。浄瑠璃寺から石手寺、太山寺、円明寺への車道は、ゆとりを持って運転というわけには行きません。特に浄土寺から繁多寺、石手寺、道後に至る道は歩道のない所があります。また、円明寺から太山寺も一部道の狭い箇所があります。特に休日は、これらの道は、車遍路の方、巡拝バスで来られる方、徒歩の方で混雑して大変です。歩道のないところに歩道が早く出来て、車を運転する者にも、歩く人にも配慮した道づくりをお願いしたいものです。他県から来られた方、初めてこの歴史道を運転される方にとって、運転しやすい、やさしい道であってほしいものです。このことが遍路の心に通じるのではないでしょうか。」

図表3-1-1 四国遍路にかかわる道の概要

図表3-1-1 四国遍路にかかわる道の概要

平成14年度愛媛県土木部道路維持課提供資料より作成。

写真3-1-1 明石寺から中町の旧遍路道整備

写真3-1-1 明石寺から中町の旧遍路道整備

宇和町明石。平成14年8月撮影

写真3-1-2 石手寺から道後への遍路道

写真3-1-2 石手寺から道後への遍路道

松山市石手。平成14年10月撮影