データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

遍路のこころ(平成14年度)

(1)伝承による食の伝播②

 工 甘藷栽培並びに芋菓子製造の導入

 (ア)越智郡島しょ部の甘藷栽培

 愛媛県越智郡の島しょ部の甘藷(かんしょ)(さつまいも)栽培について、『おへんろさん』(松山市教育委員会編)は、大三島瀬戸崎(現上浦町)の下見(あさみ)吉十郎が、正徳元年(1711年)亡児の菩提供養のため、「六部となって回国の旅に出、薩摩国から持ち帰った芋種に始まったものと言われる。そのお陰で享保17年の大飢饉にも救われた島民は吉十郎の徳を称えて芋地蔵と称し、尊崇してきた。これなどは巡礼が文化伝来に果たした顕著な代表的事例である。(㊳)」と、直接の四国遍路ではないが、回国巡礼者の文化伝播者としての側面を記している。
 吉十郎は芸州(現広島県)竹原の土屋氏より妻をめとり四子をもうけたが、みな夭逝(ようせい)したので発心修行して六部(ろくぶ)行者となり諸国を回国している(㊴)。彼は『日本廻国宿帳』に、正徳元年6月23日「与州大三嶋瀬戸村出ル(㊵)」と書き出し、正徳3年(1713年)4月21日までの648日の長旅を記録にとどめている。この回国遍歴は、南は鹿児島県から北は山形県・宮城県の各地に及び、その間には、西国三十三か所・坂東三十三か所・秩父三十四か所などの霊場巡拝を行っている。その旅の最後、正徳3年2月20日からは今治を札始めにして、四国遍路の旅に出て讃岐・阿波・土佐と回り、4月21日の山ノ内村(現越智郡大西町)で筆を止め、諸国回国の旅の記を終えている。
 甘藷栽培の導入を企てたのは、この長旅の途次のことである。
 正徳元年11月22日の「宿報謝帳」には、薩摩国伊集院村(現鹿児島県伊集院町)の土兵衛宅で、「土兵衛殿ヨリ芋種子所望致 帰リ候事(㊶)」とある。この間の事情についての伝承は、「薩摩国日置郡伊集院村の百姓土兵衛から甘藷種子のいくばくかを貰いうけ持ち帰った。(㊷)」、「薩摩国日置郡伊集院村の土兵衛の家で甘藷が飢饉に耐えうるものであることを知り、ひそかに郷里に持ち帰って、付近の農民に栽培方法を教え凶荒に備えさせた(㊸)」とか、「百姓土兵衛宅に宿泊したときいもがゆのもてなしを受けた。その味のよさと豊肉なのに驚き、いろいろたずねるうちに、栽培の容易なこと、薩摩では農民の常食であることなどを知り、これを大三島に持ち帰りたいと思った。しかし甘藷は薩摩藩では国外持ち出しを禁じており、また提供者は死罪ということである。よって吉十郎はひそかにいも種を荷物にかくし持って出国し、苦労のすえ翌年帰国して、郷里で甘藷の栽培をはじめた。(㊹)」などと諸誌は記している。しかし、諸国回国の吉十郎が、芋種子をどのようにして伊予の地に送ったかは記録されていない。『愛媛県史』によると、筑前国すゑ村(現福岡県須恵町)で越年の折としている(㊺)。たしかに『日本廻国宿帳』12月22日には「同国粕屋郡すゑ村 乙之助殿江参 はかた町上ノばん浜口町 綿屋源七殿請人二而越年仕筈相極中候」と記され、その後正月2日までと1月14日から24日までの記録がない(㊻)。これについて、本村三千人氏は正徳元年12月21日から翌年1月29日までの日記の本文を抜き出し、「この最初の12月21日とか1月28・29日の書き方が全体をとおしての普通の内容である。それにくらべてみると、正月2日から27日までの書き方は不自然であり、そのうえ途中に2回も10日ほどの記録が欠けている。」として、確たる史料はないが、陸路であれ、海路であれ、この間に郷里に持ち帰ったことは考えられるとしている(㊼)。
 いずれにしてもこの後、越智郡の島しょ部では甘藷栽培が盛んになり、甘藷は主食であるとともに飢饉(ききん)に備えての食物であった。この地域では享保・天保の飢饉に際しても甘藷によって生きながらえたのであった。吉十郎は宝暦5年(1755年)8月に病没した。現在、上浦町内の向雲寺境内には、吉十郎の銅像(写真2-1-9)が立ち、顕彰碑が甘藷(いも)(芋)地蔵堂の前に建てられている。甘藷を持ち帰った吉十郎の人徳と功績を尊崇し、農民は地蔵としてその霊を祀(まつ)った。甘藷(いも)(芋)地蔵と呼ばれ、今も香花が絶えないという。

 (イ)芋菓子の製造

 この燧灘(ひうちなだ)の島しょ部で盛んになった甘藷(かんしょ)を菓子に製造して売り出したのが岩城島(現岩城村)の芋菓子である。
 この芋菓子について、「甘藷(サツマイモ)を拍子水切りにし、油で揚げて砂糖をまぶした乾菓子(かんがし)。(中略)岩城特産の芋菓子の製法は、大正8年(1919年)、岩城村浜地区の益田谷吉(ますだたにきち)によって確立された。谷吉は元治元年(1864年)の生まれ。船乗りであった若いころ、神戸の果物問屋で芋菓子と出会い、岩城で生産過剰気味の甘藷を利用しようと岐阜市の製法元へ製法の習得に行ったが、門外不出として教えてもらえなかった。以後20数年の研究を重ね、50歳を超えてようやく成功した。(中略)味は今も日本一の評価を受けている。(㊽)」と昭和60年(1985年)発行の『愛媛百科大事典』には記している。翌昭和61年発行の『愛媛県史(㊾)』及び『岩城村史(㊿)』もほぼこの内容と一致している。
 ところが、この芋菓子製造についても遍路と関係するという伝承がある。近藤日出男氏は当村の人からの聞き書きとして、「(土佐の芋ケンピと)同じ菓子が瀬戸内海に臨む今治と尾道との間の島、岩城島にもあります。昭和初期、お遍路さんが途中、島に立ち寄り体調を崩し苦しんでいた時、島民の手厚い看護のおかけで助かりました。これも弘法大師さまのおかけと感謝し、『岐阜にこんな菓子がある。作ればきっと売れるでしょう』と詳しく製法、技術を教えて立ち去ったということです。昭和11年、島の人が用事があって岐阜へ立ち寄ったところ遍路さんの言う通り作っておりました。((51))」と伝えている。

 オ 古代茶の伝播とその伝承

 茶の原産地は東南アジアの照葉樹林といわれるが、日本にも昔からあったという説もある。
 茶の加工方法は大きく分けて発酵茶と非発酵茶の二通りがある。非発酵茶は、中世に始まる茶葉を蒸して酵素の働きを止めた後、もみほぐしてから乾かす抹茶・玉露・煎茶・番茶の系列と、生葉を釜で煎(い)り上げる釜煎り茶である。この非発酵茶の抹茶は、日本では中世に栄西が宋(そう)からもたらし、その後葉茶の煎茶などが日本に伝えられ、抹茶・煎茶・番茶として普及していくが、庶民に広く飲用されるようになったのは、1900年代以降であるといわれる((52))。
 一方、中国の唐の時代に飲まれていたといわれる発酵茶は、上等の茶葉を摘み取り、筵(むしろ)に積み重ねて発酵(前発酵)させてから、さらに桶(おけ)などに漬け込んで乳酸発酵(後発酵)させたものを丸めて干したもので、団茶(カタマリ茶)ともいわれる。この団茶については、唐代の陸羽の『茶経』に記録され、現在では幻の茶とも呼ばれるが、その飲み方が遣唐使(最澄や空海など)を通じて日本に伝えられてきたものと考えられ、現在一般にお目にかかれない古い形の茶であるという。発酵方法に若干の違いはあるが、この7世紀の製法による団茶が四国の山間地にわずかに残存し伝承されている。徳島県那賀郡相生町の「阿波晩(番)茶」、徳島県那賀郡木頭村の「木頭番茶(桶茶)」、愛媛県周桑郡小松町の「石鎚黒茶」、高知県長岡郡大豊町の「碁石茶」などである。これらは山岳重畳たる四国の山地にあり、しかもそれぞれがかけ離れた地域にある。
 近藤日出男氏は、これらの地域をつなぐ旧産地が他にもあったはずと考えて、これらの山地を訪ね歩き、「愛媛県宇摩郡新宮村・伊予三島市金砂・徳島県山城町藤ノ谷川上名の桶茶(木頭番茶)を知るに至った。((53))」として、「四国発酵茶の分布」図を作成している。
 近藤氏は、これらの地域を結ぶ道として旧官道と修験道山伏の往来する道を想定している。
 都から四国への文物の交流をもたらした旧官道は、養老2年(718年)と延暦15年(796年)との二度の駅路改正による変遷をみるが、その改正後に開かれた道と峠から峠をつなぐ山伏の往来する修験の道を結ぶ線上に古代茶の製造址が点在するというのである。
 弘法大師空海は青年時代四国山地で修業し804年遣唐使と共に中国にわたり2年後に帰国し、真言宗と同時に茶と茶の実も伝えた。四国各地、特に霊山石鎚の北麓にある寺院には空海とのつながりが伝承され、近藤氏は「山から山への稜線づたいの修験道山伏の道往来を考えると、古法を伝える阿波晩茶・大豊の碁石茶・石鎚の黒茶は恐らく7~8世紀の遣唐使と共に渡った僧侶たちの中国伝来の団茶作りの技法と布教を引きついだ修験道行者たちによる成果とみなしたい。((54))」と述べている。

 力 その他の食の伝播

 (ア)宇和島地方の丸ずし

 宇和島地方では、冠婚葬祭などの特別の日のもてなしには豪華な盛り付けの鉢盛料理が用意される。この盛り付けの中に「丸ずし」が含まれている。米に恵まれなかったこの地方の人たちが、すし飯を握るかわりに、すし同様に味つけしたおから(豆腐の絞りかす、うの花)を握り、酢でしめた魚で包んで作った料理で、横から見た姿が丸いのでその名が付いたといわれる。おからは包丁で切る必要がないので「きらず」ともいわれ、結婚式の祝膳(ぜん)には縁を切らず…の意を込めて、花嫁の母親の手づくりで加えられた縁起ものの料理であるともいう((55))。
 この魚とおからを使った料理は、愛媛県の東・中予地方でもみられ、「いずみや」と呼ばれている。
 東予地方の「いずみや」の語源は、元禄の初めころ、新居浜の別子銅山を開発に来た住友氏の祖先「泉屋」が大阪から伝えたものらしいが、宇和島地方の「丸ずし」は、「明和年間(1764~72年)に山崎屋徳右衛門という者が、某遍路に教えられて作りはじめ、それが流行したとか。」と伝えられている((56))。この丸ずしの伝承は『愛媛県史』や『おへんろさん』などにも載せられている。
 『宇和島・吉田両藩誌』には、「食物は極めて質素なるものにて半麦飯に時々粥、雑炊、ハッタイを交へ副食物は野菜に限られたるものヽ如く、農家が生魚を食ふは祭禮又は特別の客事に限り、祭事と雖も多くは野菜と豆腐蒟蒻にして魚類は僅に數尾を用ふるに過ぎざりき((57))」とあるように近世の庶民の生活ぶりからして、この丸ずしが珍重されたであろうことは推察できる。

 (イ)小松町のよしの餅

 『小松町誌』に「めしや菓子舗によれば、」として、よしの餅の出来が記載されている。
 その由来書によれば、伊予小松藩一万石の八代藩主一柳頼紹の時代、天保9年(1838年)3月ごろのこと、菓子舗の主人が四国八十八ヶ所巡拝中の大和国(現奈良県)の老高僧に接待宿を頼まれたので応じたところ、その老高僧は病気にかかり寝ついたので、親切に介抱した。間もなく病状も回復に向かい元気に八十八ヶ所巡りを続けた。その介抱の御礼として老僧は時の帝にも献上したという餅菓子の作り方を伝授して去ったという。その菓子を、その時介抱した老婆の名をとって「よし乃餅」と名づけ売り出したのが今の「よしの餅」の始まりという((58))。この店は金毘羅街道にあり通行人も多く、その当時は、菓子といっても駄菓子程度で餅菓子は大変珍しいので、近隣近在の評判になり良く売れたという。

写真2-1-9 下見吉十郎の銅像

写真2-1-9 下見吉十郎の銅像

上浦町向雲寺境内。平成14年7月撮影