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遍路のこころ(平成14年度)

(2)遍路の宿と人々の交流④

   a 小田町から久万町までの遍路宿

 遍路道は、小田町突合で下坂場(しもさかば)峠越えと真弓峠越えの道に分かれるが、ここでは小田町中田渡(なかたど)・臼杵経由下坂場峠越えで久万町(まち)に向かう。中田渡には「冨岡屋」「橋本屋」など3軒の宿があった。新田神社前の「冨岡屋」は遍路案内記にも紹介された宿であるが、昭和30年(1955年)に廃業している。さらに下坂場峠を越えた麓の久万町二名(にみょう)地区には「みなと屋」「きく屋」「ふじ屋」など10軒もの遍路宿が遍路道沿いにあった。その多くは戦後まもなく廃業したが、家屋はほとんどそのまま残っている。道は鴇田(ひわだ)峠を越えて久万町の中心地久万町(まち)に入る。
 久万町は、松山藩の在町(ざいまち)として、また土佐街道の宿場町として発達したが、とくに四十四番札所である大宝寺の門前町として栄えた。大正9年(1920年)4月、県道松山~高知線として認定され、この県道が現在の国道33号の母体となり、新道が開設され、旧道は街道の機能を失っていった。久万川に架かる総門橋を過ぎた大宝寺の参道の北側には遍路宿が軒を並べていた。大宝寺下の「とみ屋」は“赤のぼり”と遍路に親しまれた遍路宿で、放浪の俳人種田山頭火も昭和14年(1939年)、ここに泊まっている。武藤休山の『四國霊場礼讃』に、「44番麓赤のぼり・とみや」と紹介されている。この参道筋の遍路宿はみな戦前に無くなったが、「とみ屋」だけは昭和30年ころまで営業した。前の札所宇和町の明石寺からここまでの距離は70kmを越し、伊予路最大の長丁場で3日間の道程である。真念は『四国邊路道指南』の中で、「久万の町、荷物おきすがう山幷いわ屋へまうづ。此町ハ辺路をあわれむ人多し。調物自由なり。(⑳)」と記し、真念は久万の町から次の札所岩屋寺を打戻りしている。杉の大木に覆(おお)われた大宝寺を打ち終え、峠御堂(とうのみどう)を越えて下畑野川河合の集落に着く。
 下畑野川河合地区は10軒を越す遍路宿が遍路道沿いの狭い地域に集中して立地して遍路宿集落であった。昔から下畑野川河合は四十五番岩屋寺を往復する「打戻り」場所で、遍路の休憩地ないし宿泊地点として重要であったことがうかがえる。
 高群逸枝は、「昨日は岩屋寺から打戻りで畑野川(はたのがわ)の宿についた。事情を話して宿賃を負けて貰ったところ、親切な宿屋さんで、負けた上にお米を五合接待してくれたようにおぼえている。(㉑)」と宿泊の様子を『お遍路』に記している。
 この下畑野川河合の遍路宿集落は、有枝川右岸の下河合地区と有枝川に架かる住吉橋を渡った左岸の南狩場地区の総称である。下河合には最盛期10軒の遍路宿があったがほとんどが昭和12年ころにやめている。数軒の遍路宿を除いては零細農家であり、遍路宿の兼業が経済的に必要であったことがうかがえる。古老の話では、遍路を大事にして農繁期で仕事をしていても、客があれば仕事をやめて接待したというが、それには経済的な事情もあったと思われる。中でも宿、料理屋、仕出しのほか、雑貨商まで幅広く営んでいた河合地区最大の宿「加登屋(かどや)」(写真1-2-12)は、この地区で最も遅く昭和60年代まで営業した。また、南狩場地区には「加登屋」と並び称された大規模な木賃宿「大黒屋」をはじめ、「立石屋」「だるま屋(元広田屋)」の3軒があったが、「大黒屋」が昭和60年代に廃業したのを最後に遍路宿の灯(あ)かりが消えた。
 元「加登屋」の女主人、**さん(昭和2年生まれ)は、「お泊まりのお客様は、お遍路さんも多かったですが、お役人、行商人から薬屋さんまで幅広いお客がいました。年間を通すと一般の方のほうが多かったですね。春先のお遍路さんは、多い日には40~50人も泊まり、年間を通して1人もお客がないという日は無かったです。今は昔のにぎわいがうそのようです。」と語る。また、祖母が遍路宿「新屋」を営んでいた**さん(大正14年生まれ)は、「この河合は遍路宿が多いので、『呼び込み』と称して子どもらが、夕方になるとチリンチリンと鈴をならしてお遍路さんが来ると、上の峠御堂に出かけ、『お泊まりしませんか』と言うて競争で誘ったものです。」と回想する。春のシーズンには、この地区全体で1日300人くらい泊まっていたという。年中開いていた専業の宿は「加登屋」と「大黒屋」の2軒だけで、「加登屋」は宿屋、「大黒屋」は木賃の遍路宿の代表だったと**さんは言う。ほかの遍路宿は春のシーズン以外は農業や山仕事をして生計を立てていた。下畑野川の遍路宿が消えていった原因として、戦後の交通機関の発達はいうまでもないが、「宿泊所としての設備の完備を要求する保健所の指導をうけていたのでは兼業程度の遍路宿にとっては経費がかさむばかりで、減少の極に達した遍路宿泊者を考慮すれば全くひきあわないことなどがあげられる。(㉒)」と『久万町畑野川の地理的共同調査』に記している。
 遍路道は千本峠を越え、国道33号と交差しながら旧街道を北上すると三坂峠に至る。途中、東明神の大橋のたもとの「東屋」、横道地区の「かじや」など10軒ほどの遍路宿が点在していたが、昭和10年代にほとんどなくなった。
 三坂峠の木賃宿について、桧山の繁多寺から逆打ちした小林雨峯は『四國順禮』で、「午後(ごご)七時半(じはん)峠(とうげ)の旅店鈴木屋(りょてんすずきや)に宿(しゅく)す。是(こ)れ予等生(よらうま)れて始(はじ)めて遭遇(そうぐう)せしボクチン式(しき)の旅館(りょかん)とす。宿(やど)に着(つ)きては敎(をし)えられる式(しき)の如(ごと)く、まづ錫杖(しゃくじょう)を洗(あら)ひ床(とこ)に安置(あんち)して遍照金剛(へんじょうこんごう)を唱(とな)ふ。カンテラランプを沈頭(ちんとう)に翳(かざ)すに、油煙(ゆえん)の臭氣(しゅうき)、長(なが)く堪(た)ゆべからず。早(はや)く吹(ふ)き消(け)し、寝前(しんぜん)の續經(どきょう)を濟(す)まして寝(い)ねたり。上下(じやうげ)一枚(まい)づゝの煎餅(せんべい)ぶとんにくるまる。(㉓)」と三坂峠の宿の様子を綴(つづ)っている。ボクチン式とは木賃のこと、宿に着けばまず錫杖を洗い床(とこ)に置いた。この宿は、軽食・喫茶が中心で、宿も営むお茶屋の「鈴木屋」のことで、昭和10年代に廃業している。

   b 松山市窪野町から道後温泉までの遍路宿

 三坂峠から旧街道の急坂を駆け下り松山市窪野町の桜集落に至る。真念は『四国邊路道指南』で、「くだり坂半過、桜休場の茶屋。大師堂、是堂ハ此村の長右衛門こんりうしてやどをほどこす。(㉔)」と記している。明治25年(1892年)四国新道(現国道33号)ができるまで、この土佐街道が唯一の遍路道であった。桜地区は峠下の位置にあり、「坂本屋」など5軒の遍路宿があったが昭和12年(1937年)ころにやめている。さらに道を下ると、網掛大師堂がある榎地区には、遍路宿が3軒あったというが、網掛石横の「橘屋」(写真1-2-13)以外確認できなかった。「橘屋」の宿賃や食事の内容などについて、梅村武氏は原本名は不明としながら「宿賃25銭(飯代を含まず)、当時白米一升は15~20銭、夕食はおかずが煮物など2品ていど、朝食は豆腐の味噌汁に漬物。料理は精進料理がたてまえだが、だしをとるため煮干しを布袋に入れて用いたと云ふ。8・4・3畳の3部屋を宿に提供し、春の旧暦2月から4月を中心にほぼ年間を通して数人ないし20人の宿泊者があったといふ。前日久万山泊、当日当所泊、翌日道後泊が多かったようで、遍路の中には宿で酒を求めるものもあったと云ふ。(㉕)」という文章を引用している。さらに下の丹波地区には「谷屋」「かず屋」など3軒が確認されたが、桜地区と同じころ廃業している。
 遍路道は御(み)坂川を渡ると関屋(旧坂本村)の出口(いでぐち)地区となり、橋のたもとの「吾妻屋」のほか「上野屋」など4軒の宿がありにぎわったという。桜地区の**さん(昭和5年生まれ)は、「松山の三津で仕入れた生魚を、この出口で請けて、それを桜の男5、6人が天秤棒(てんびんぼう)で担いで三坂まで運んでいました。また昭和の初めまで馬で生活物資のしょう油、酒、魚の干物や煮干など、あらゆる物を運んでいました。」と話す。この出口地区は渓(谷)口に立地した小さな宿場町で、山海の幸の交易地となり、人や物資の交流が盛んであったことがうかがえる。
 道はさらに進み、浄瑠璃町の四十六番浄瑠璃寺、四十七番八坂寺に至る。札所周辺には「長珍屋」をはじめ4、5軒の宿があった。道路の拡張や新設にともなう大型バスの運行や自家用車の普及によって、宿泊者が道後地区に集中するようになり、旧坂本村全体でかつて12軒あったという遍路宿も、今は浄瑠璃寺前の「長珍屋」だけとなった。「長珍屋」は大正年間の遍路案内記や中務茂兵衛の『遍路諸日記』にも記載された100年を超す老舗(しにせ)で、四国有数の遍路宿として現在に至っている。
 松山平野の南部を流れる重信川(古くは伊予川)の手前、小村町には「榮屋(榮居屋)」という遍路宿があった。大きな川の両岸にはよく渡津(頭)集落が発達する。その小規模な例として、「榮屋」に対して川向こうには「かどや」という遍路宿があった。父親が明治の中ごろ、遍路宿「榮屋」を始めたという**さん(大正12年生まれ)は、「特に大水が出た時、川が渡れんからお遍路さんは宿に10日も15日も逗留(とうりゅう)して、上(かみ)の上林や下林まで修行(托鉢(たくはつ))に行き、お米やお餅(もち)をもらってきていました。修行の8割はお米でした。昭和10年(1935年)ころ、木賃の宿賃は15銭、ええのが20銭でした。」と話す。一方、対岸の浮穴郡高井村(現松山市)の南端、重信川右岸の堤防下の「かどや」は、先の「榮屋」とほぼ同じ終戦の直前まで営業していた。昭和21年「かどや」に嫁いできたという**さん(大正14年生まれ)は、「宿をやめたのは昭和19年、戦争中で宿などするどころではありませんでした。祖父は相撲取りで大きな男だったので、橋の出来る前はお金をもらい、遍路を背負って渡していました。昭和の初めころは、丸太を3、4本組んで、長さ2、3間(げん)くらいの橋を2本架けて通行させていました。」と話す。道はすぐ高井町の四十八番西林寺に至る。終戦前まで山門前にあったという宿は分からない。真念の『四国邊路道指南』には、「たかゐ村、九郎兵衛・吉左衛門其はかもやどかす。(㉖)」とある。
 西林寺を打った後、四十九番浄土寺に向かう。久米の町に「ふじや喜助」という遍路宿があったというが分からない。また「八幡宮の左側の、あやめ小三郎が組合(㉗)」と書かれ、組合の指定宿があったと、大正期の遍路案内記に記されているが場所は分からない。次いで畑寺町の五十番繁多寺を打ち、道後に近接する石手の五十一番石手寺に至る。
 遍路は五十一番札所を打ち終え、日本最古の温泉といわれる道後温泉の街に入る。長旅の遍路は、道後温泉で心身を癒(いや)したと思われるが、時代の変化により遍路に対する処遇も大きく変化する。遍路自体の質的変化によるものと思われるが、遍路が道後の一般旅館に宿泊することが困難になっていくのである。
 大正7年(1918年)に遍路した高群逸枝は、「道後温泉町に着いたのは午後五時頃であつたらう。或る旅人宿を訪ねたら、『お遍路さんはお断りして居りますから』と云ふ。仕方が無いので又復(またまた)汚ない宿に追ひ込まれて了つた。(㉘)」と宿を断られている。当時、多くの遍路宿は松ヶ枝町入口付近にあったらしい。
 道後育ちの**さん(昭和3年生まれ)は、「松ヶ枝町の入口から道後温泉本館までの通りに遍路宿が集中していました。お遍路さん中心の宿は『木賃宿○○屋』というように看板を出していました。この道筋は比較的裕福なお遍路さんが泊まっていたと思います。お金を持たないお遍路さんは、道後温泉本館からずっと下(しも)の木賃宿に泊まっていたと思います。遍路宿は終戦後も細々と営業していましたが、時代の流れか遍路中心という木賃宿は無くなり、一般客も泊まれる、いわゆる一般の旅館に変身したのです。だんだん世の中も落ち着さ、景気がよくなったころ、宿の体裁を整えて比較的安い普通の旅館やビジネスホテルに変わっていったのです。さらにこの道筋は道幅が狭く大型観光バスが入れないから、自動車時代になっていっそう廃(すた)れていったのです。風呂銭は本館が大人10銭の時、本館の南側にあった鷺湯が5銭、現在の椿湯付近にあった西湯は2銭、子供は1銭でした。私らは西湯専門だったです。」と話す。
 湯月町の「布袋屋」「末広」「吉野屋」などの宿は、戦後しばらくしてほとんど廃業したが、一部は装いを新たにして旅館などに変わった(写真1-2-14)。一方、西湯・砂湯から下手には、山頭火も泊まった「筑前屋」などの木賃宿が集まっていたが、昭和の初めころ廃業している。昭和2年(1927年)武藤休山の『四國霊場礼讃』には、道後温泉場歓迎宿舎として「わだや・そがや・たのや・風早屋・ゑびすや・あさひや・みたらいや・芸州屋・池田屋・岩徳屋・ゆたかや(㉙)」が記載されているが、これらは遍路には縁遠い、いわゆる普通の温泉旅館だと思われる。道後温泉を後にし、松山城の北側を通り抜け、五十二番太山寺に向かう。

写真1-2-12 河合地区最大の宿「加登屋」と遍路道

写真1-2-12 河合地区最大の宿「加登屋」と遍路道

久万町下畑野川河合。平成14年5月撮影

写真1-2-13 網掛石横のかつての遍路宿「橘屋」

写真1-2-13 網掛石横のかつての遍路宿「橘屋」

松山市榎。旧綱掛大師堂横。平成14年5月撮影

写真1-2-14 木賃宿が並んでいた宿屋街

写真1-2-14 木賃宿が並んでいた宿屋街

松山市道後湯月町の一角。平成14年5月撮影