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遍路のこころ(平成14年度)

(2)遍路の宿と人々の交流②

   a 一本松町から宇和島市までの遍路宿

 伊予と土佐の国境(くにざかい)にある標高300mの松尾峠は、昭和の初め一本松と宿毛間の国道が開通するまで、南予と土佐の幡多地方を結ぶ宿毛街道上にあり、役人や旅人のみならず遍路もすべてこの峠を利用した。峠には両藩の領界石が立ち、茶屋もあったという。『四国遍礼名所図会』に、「峠に土佐伊予宇和島両国の境標石有り。(中略)坂を下り麓茶屋有、支度いたす、小山村、番所切手をあらたむ、小坂こし。同村一宿。(①)」とある。坂道を降りた麓(ふもと)、小山の番所近くに「茶堂」という屋号の遍路宿があったが、終戦後間もなく廃業している。遍路道は先に進み、中道と篠(ささ)山道の分岐点の旧広見村(現一本松町)札掛に至る。『四国遍礼名所図会』に、「是を越て広見村村放れに篠山道有、爰(ここ)に荷物置是へ戻る。(中略)是より先の広見村迄戻る。追分茶店有。(②)」と記している。初めての遍路で月山(高知県大月町)を参詣(けい)していない者は、先に観自在寺に参り、再びこの地に打戻り、篠山の観世音寺に参詣した。この札掛でお札(ふだ)や遍路地図などを売っていたという田中家を中心に茶屋や宿が数軒あったが大正期に廃業している。
 宿毛街道は三つのルートからなるが、主道は江戸幕府が将軍の代替りごとに、幕領・私領の施政・民情の視察のため全国に派遣した巡見使(じゅんけんし)も通った中道である。中道は上満倉上大道(うわおおどう)で灘道と分岐し、城辺町緑を通り、大岩道(だいがんどう)・小岩道の二つの峠を越して津島町岩渕の満願寺に至るが、厳しい山坂のため遍路道としては早い時期から消滅したとみえ、宿や遍路道標も見当たらない。一方、札掛から分岐した篠山道は、譲(ゆずり)谷を越え正木に至る。正木には「戸たてずの庄屋」として有名な庄屋蕨岡(わらびおか)家と歓喜光寺があり、「正木屋」「京屋」などの遍路宿があったという。『四国遍礼名所図会』によると、「正木村六良右衛門殿一宿此所ハ宿相対にかさず、庄屋より指宿をいたす。(③)」と庄屋が民家を指名して宿をとらせている。この篠山道も中道同様、かなり早い時期に遍路道としての役割は消滅したと考えられる。遍路は標高1,064mの篠山にあった観世音寺や篠山権現を巡拝し、津島側の御槇(みまき)へ下った。津島町の御内(みうち)には番所もあり、遍路宿もあったというが屋号や場所は分からない。篠山道は横吹川に沿って下り、津島町大町で中道と合流し、野井坂を越え宇和島市祝森柿の木に至る。
 一方、灘道は伊予で最初の札所である四十番観自在寺を目指す。ここで「海の遍路道」について少し触れておく。県境の難所である松尾峠を避け、宿毛市片島から城辺町深浦まで船便があり、遍路もよく利用している。昭和2年(1927年)に出された『四國霊場礼讃』によると、「乗船の方は約1里(約4km)片島へ 40番1里手前深浦行、大和丸出港 午前8時30分・正午12時・午后5時 海上4里、1時間(賃金50銭)礼讃者2割引(④)」と記されている。賃金とは船賃、礼讃者とは巡拝者・遍路のこと、巡拝者は2割引とサービスしている。高群逸枝も逆打ちで、深浦からこの船で土佐に渡っている。深浦港には「高森」「菊地」の宿があったが、終戦後間もなく廃業した。「海の遍路道」は深浦からさらに平城、長崎、柏崎などに寄港して宇和島と結んでいた。
 陸の遍路道は、宿毛市の三十九番延光寺から約30km進むと、御荘町平城の観自在寺である。梅村武氏が「この参道口付近、旅館多く、前身はへんろ宿であろう。(⑤)」と記しているとおり、山門前には「てんまや」「つるのや」「とらや」など6軒の宿が軒を連ねていたという(写真1-2-8)。しかし武藤休山の『四國霊場礼讃』に記された、札所門前にあったという「吉田屋」など2軒の場所は、今回の聞き取りでは確認できなかった。参道沿いの遍路宿は昭和初期や昭和30年代に廃業し、現在営業しているのは1軒だけである。遍路道は次の札所三間町の龍光寺まで約48kmの長丁場のため、途中柏坂か岩松で宿をとることになる。
 遍路道は御荘町の西方、菊川の梶屋地区に至る。ここは室手(もろで)坂の麓に成立した集落で、井関ミツ宅をはじめ数軒の宿があったが大正期から昭和10年代にやめている。御荘町の室手海岸を過ぎると内海村、山腹の遍路道を進むと間もなく柏である。
 柏は内海村役場のある中心集落で、灘道の難所「柏坂」の入口に位置する。澄禅は「夫ヨリ二里斗往テ柏ト云所ニ至、夫ヨリ上下二里ノ大坂ヲ越テハタジト云所ニ至ル、此所ノ民屋ニ一宿ス。(⑥)」と記し、柏から向こう側の津島町小祝(こいわい)まで全道程65丁(約7km)はさほどの距離ではないが、「坂上21丁、よこ8丁、下り36丁」という坂上(上りの急坂)21丁、標高450 mの高さは至難の道程である。「柏坂」の峠を挟んだ津島側の山中に茶堂という集落と遍路道が国道56号と出会うところに大門(だいもん)という集落があり、ともに早くから遍路宿があった。『宿毛街道』には、「柏の入口に遍路宿があった。その当家は今も残っている。これから柏坂越えをひかえて人々はここに足をとめたことであろう。(⑦)」と記され、入口の遍路宿とは、昭和の初めごろまで営業していたという「好岡屋」であろうか。柏には「好岡屋」を入れて8軒の木賃宿が遍路道沿いにあったが、今は1軒も営業していない。この地区で最も大きな木賃宿「紺屋」は、明治末には早くも廃業し、他の宿もほとんどが大正末から昭和初めに廃業している。
 祖父が「好岡屋」という宿を始めたという**さん(大正11年生まれ)は、「屋号は『好岡屋』といい、私の祖父の代に始め、この地区で最も古い旅館です。昭和9年(1934年)に祖父が亡くなるまでずっと旅館をしていました。祖父が亡くなってから4、5年間だけ遍路も泊めたと思います。当時の遍路道は私の家の前を右手にそれ、法性寺を経て庄屋前から坂元に出て、そこから柏坂に登ったのです。現在の『四国のみち』のコースとは違います。」と話す。
 遍路宿の廃業時期は、海岸線沿いの新しい県道の開通と宿毛~宇和島間の沿岸航路が開業した時期とほぼ一致する。「柏坂経由が海岸線に計画を変更され、大正8年(1919年)鳥越隧(ずい)道が開通することによって宇和島・一本松間が整備された。こうして灘道の柏坂は現代の道路として改修されることはなかった。(⑧)」と『宿毛街道』に記されているように人の流れはおのずと山越えの灘道から、ほぼ平坦な海岸を通る県道と浦伝いの沿岸航路へと移り、新しい道路や航路の開業と交通機関の発達は、柏地区の宿の必要性を無くしてしまった。なお、明治29年(1896年)に南予運輸㈱が創設され、平城(現御荘町)~宿毛間と長崎(現御荘町)~宇和島間が開業し、第1・第2御荘丸が就航している(⑨)。
 さらに、遍路道は「よこ」といわれるなだらかな木立の中を過ぎ、津島町上畑地の茶堂につく。茶堂は旧畑地村に属する山間部の集落で、大正年間に海岸沿いに新道が開通するまでは、城辺と宇和島を結ぶ幹線道路沿いにあった宿場町的な集落であった。その後、新道が開通し、それが整備されるとともに峠道がさびれてきた。四国八十八ヶ所の巡拝者は、昭和10年(1935年)以降急速に減少する。その結果、茶堂の遍路宿も急速にさびれ、昭和30年代後半で廃業し、長い歴史を閉じたのである。
 『旧街道』には、「茶堂は藩政時代から明治初期にかけては栄えたところで、有名な茶ガマがあったところからその名がついたといわれる。同部落に住む**さん(53歳)の家は安政時代から続いており、昭和14、5年ごろまでは柏坂越えの旅人や遍路に茶を接待し、また宿を提供していた。(⑩)」と茶堂集落の由来やそこの遍路宿「てんや」(写真1-2-9)について記している。その「てんや」の跡取りの**さん(昭和7年生まれ)は、「大平はこの西谷(茶堂)に2軒、東谷に1軒の遍路宿があったのです。『てんや』の母屋は、明治の初めに建てたもので、現在100年を越えています。8畳の間が四つあり、50人の収容力があったのですが、春のシーズンには100人も泊めていたと祖母から聞きました。それでもあふれた時には、向かいの納屋を臨時の宿にしておりました。母屋の縁側でお遍路さんによくお接待をしていました。お礼の納札を俵に入れて屋根裏にしまっていました。昭和30年(1955年)ごろからお遍路さんが通らんようになったのです。」と話してくれた。今は奥さんとともに山をおり麓(ふもと)に住んでいるが、津島側の「柏坂」の管理を1人で行っているという。
 灘道は津島町大門で国道56号と交差して岩松に向かう。岩松は岩松川の河口に立地した町である。目の前に松尾峠を控え、また宇和島まではかなりの距離があるため、町の入口の遍路専門宿「和田屋」をはじめ、「新生旅館」「万福」など4、5軒の宿があったが、新しい国道が岩松川の対岸にでき、昭和30年代にはすべて廃業した。
 旧街道は松尾峠を越え、灘道と中道の合流点、宇和島市柿の木に至る。古老によると、現在の県道沿いにある柿の木のバス停近くに「松平(びら)」という2階建ての遍路宿が昭和7、8年(1932、33年)ころまであったという。隣の旧街道沿いの清水地区に、昭和の初めころまで山腹の遍路道沿いで「とらや」という屋号で先々代まで遍路宿をしていたという家があり、かつて遍路に土産として売った仏画の版木がたくさん残っていた。
 神田(じんでん)川に架かる橋を渡り旧佐伯町番所を通過すると、宇和島城下に入る。JR宇和島駅近くに番外霊場龍光院があり、その石段下に「虎屋」という遍路宿があったというが今はない。さらに次の札所に向かう道筋にも「伊勢田屋」など数軒の木賃宿があったという。
 真念は『四国邊路道指南』に「下村こん屋庄兵衛宿かす。(⑪)」と記し、さらに元禄3年(1690年)の『四国徧礼功徳記』に、「与州宇和島下村ニ、こんや庄兵衛といふ人、大師を信仰し、遍礼も病身にてかなハず、たゞ随喜して、宿をかし馳走し、悪病人といへども沮(はば)む事なし。(⑫)」と記している。高群逸枝は宇和島の宿について、「そこで宿屋に宿をもとめたら遍路はお断りと云ふ。什うしよう、天下泊る可き家もなくなつたのか。途方にくれて彳(たたず)んでゐると、路傍に若い男の方がゐて、親切にも私の家に泊めて上げようと仰言つて下さる。(⑬)」と『娘巡礼記』に記している。

    b 宇和島市から内子町までの遍路宿

 国鉄(現JR)予讃線が宇和島まで開通したのは終戦直前のこと。三間(みま)方面へは私鉄の宇和島鉄道が大正12年(1923年)に開通し、次の札所龍光寺に向かう遍路はこの鉄道をよく利用した。
 高串から宇和島街道と分かれ、窓ノ峠(とう)を越え三間町にある四十一番龍光寺に至る。参道には大正期からという古い遍路宿「赤松屋」が1軒残っていたが最近廃業した。さらに鳥居前に「一力」という木賃宿が昭和の始めころまであったというが今はない。この参道界隈(わい)には昔10軒近くも遍路宿があったというが、その内7軒は確認できる(写真1-2-10)。また、則(すなわち)地区にある四十二番仏木寺山門前にも「藤本屋」「かぎなか」など3軒の遍路宿があったが、昭和30年代にやめている。この則から歯長(はなが)峠越えの峠道にかかる。
 歯長峠を越すと宇和町下川(しとうかわ)である。ここの道引大師堂の隣に2軒の木賃宿があった。小林雨峯は『四國順禮』の明治40年(1907年)4月30日の記述に、「下川(しもがは)(ママ)の木賃(ぼくちん)に宿(やど)る。一水(すゐ)を隔(へだ)てゝ渓山前(けいざんまえ)に峙(そばだ)つ。二軒(けん)の木賃(ぼくちん)あり競(きそ)ふて杖(つえ)を引(ひ)く、若(わか)き女主頗(ぢよしゆすこぶ)る勞(いた)はる。此夜(このよ)、予等(よら)の宿(やど)りし木賃(ぼくちん)の客(きゃく)十五六人(にん)ありて、ガヤガヤゴタゴタ遍路(へんろ)始(はじ)めて以來(いらい)の大勢(おほぜい)なり。(⑭)」と木賃宿と客引きの様子を記している。また、下川の旧遍路宿「三好屋」の**さん(大正9年生まれ)の話では、「三好屋は大正の中ごろには廃業したと思います。私の宿の隣に、もう1軒木賃宿がありましたが今はありません。歯長峠を越えてきた遍路は疲れているので、この下川に宿が要るのです。」と峠の麓という地形的な理由から宿の必要性を話す。
 遍路道は宇和川沿いを遡(さかのぼ)り四十三番明石寺に至る。境内の納経所前に「入船屋」という遍路宿が昭和の初めまであったという。これは宿坊や通夜堂でもなく珍しい例といえる。宇和町は札所周辺では道木(どうき)と卯之町界隈に数軒の宿があった。さらに卯之町から大洲との境・久保地区までの宇和島街道沿いの各集落ごとに宿が点在し、信心深い人たちによる接待所や善根宿もあった。鳥坂(とさか)峠下の久保地区に住み、先代が善根宿をしていたという**さん(大正10年生まれ)は、「私の子どものころ、山から見ると白装束のお遍路さんが道に迷うことが無いほど、番所に向かって行列をなして登ってきました。一番多かったのは4月です。今の国道からこの上の番所までの間に木賃宿が5、6軒ありました。」と話す。
 大洲藩領鳥坂峠を越え、かつて松並木が続いていたという宇和島街道を行くと野佐来(やさらい)の札掛に至る。「(札掛の)寺の前と横にも宿屋があったが、いまは、1軒もなくなった。(⑮)」と『旧街道』にあるように、門前にあった「冨永屋」と「ふくしま屋」はともに昭和20年代までに無くなっている。遍路道は山を下り大洲城下に入る。『四国遍礼名所図会』には、「町へ入、二丁目吉左衛門殿一宿。(⑯)」と大洲城下で泊まったことが記されている。橋の架かる前の肱(ひじ)川には「渡し」があったが、遍路にとって大水の出た川は難儀であったと想像される。町中には「ふもとや」「米沢屋」「鍛冶屋」などの宿が遍路案内記に見られるが廃業時期は分からない。
 遍路は番外霊場十夜(とよ)ヶ橋に向かう。昭和33年(1958年)4月から八十八ヶ所を巡礼した西端さかえ氏は十夜ヶ橋永徳寺について、「十夜ヶ橋はいまはコンクリートの橋になっているが、下が弘法大師の露宿(ろじゅく)の遺跡で、橋のたもとに13平方メートルぐらいの大師堂があり、県道をへだてて前に十夜ヶ橋茶堂(通夜堂)があった。(⑰)」と記している。ここは距離的にも通過点であったのか、この界隈では遍路宿の記述は出てこない。間もなく大洲市東端の新谷(にいや)に着く。真念は、「にゐやの町、調物よし、はたご屋も有。(⑱)」と記しているように、陣屋町である新谷は大洲街道の要所で、旅籠(はたご)もあり古くからにぎわっていたと思われる。町の入口には「(大)印大坂ツヤ」「中野屋」など5、6軒の木賃宿があったが、早くは昭和10年代、遅くは50年代に廃業している。
 五十崎(いかざき)町の黒内坊(くろちぼう)には、昭和10年(1935年)ころまで営業していた「丸竹屋」という宿があった。小さな峠を越えて内子町に入る。内子は物資の集散地で古くから商いが盛んな町のため、多くの宿屋や「えびす屋」「増田屋」「入川屋」などの木賃宿もあったが、多くは昭和10年代にやめている。遍路道は大洲街道と分かれ、水戸森峠を越えてしばらく行くと大瀬地区に入る。大瀬は小田川沿いの東西に長い山深い地域である。手前の成屋(なるや)(成留屋)地区には「田村旅館」「玉谷」「上本」など4、5軒の宿があったが、数軒の木賃宿は戦前に無くなっている。
 遍路道は小田川に沿って乙成(おつなる)や川登を経て、小田町に接する梅津地区に入る。この大瀬地区は、次の札所までかなりの距離があるうえ厳しい峠があるため、谷筋の遍路道沿いに宿が点在し、昔は善根宿も多かったと古老は言う。昔の遍路道は山の中腹を通っていたが、大正の2、3年(1913、14年)ごろ小田川沿いに新たに道路がついた。
 大瀬地区東端の梅津には、「小西屋」という遍路宿があった。遍路で「小西屋」を知らない人はいないと言われるほど大規模で格式のある遍路宿であったという。高群逸枝は、「『梅津についたら小西屋に泊まるがよい。お四国一の遍路宿で、昔庄屋をつとめた家柄、信心からの宿屋稼業だから、親切第一をモットーにしておる』と聞いたことがあるが、いかに親切でも、一銭の宿賃などはないはず。向こうが親切なら余計にこちらでも気の毒だわいと、これはおじいさんの言葉。(⑲)」と『お遍路』の中で記している。ここは中務茂兵衛の定宿(じょうやど)で、遍路案内記にもよく紹介された遍路宿であったという。当初の宿は山の中腹を通る道に沿って建てられていたが、大正の初め、街道が谷筋に変わったので、それに伴って下に降りた。「掛けや造り」の3階建ての建物が2棟、100人は泊まれるという大規模なものであった。太平洋戦争後もしばらく続いたが、ついに昭和27年(1952年)ころに長い歴史に終止符をうっている。この時期は、四国遍路の転換期と重なっている。2棟の大きな建物は今年(平成14年)2月に取り壊され、今は昔の面影を偲(しの)ぶものは何も無くなった。戦後、**家に養子に入った**さん(大正15年生まれ)は、「私が昭和20年(1945年)9月に兵隊から戻ってみると、叔父さんは亡くなっており、お婆さんが細々と宿を経営していました。昭和23年に**家に入り、以後2年半くらい居ましたが、私が小西屋を出た後、間もなく廃業しました。」と言う。これから遍路道は小田町突合(つきあわせ)を経て、次の札所大宝寺を目指す。

写真1-2-8 権自在寺山門前のかつての宿

写真1-2-8 権自在寺山門前のかつての宿

御荘町平城。正面は札所の山門。平成14年5月撮影

写真1-2-9 茶堂集落のかつての遍路宿「てんや」

写真1-2-9 茶堂集落のかつての遍路宿「てんや」

てんやの母屋(左)と納屋(右)。津島町大平茶道。平成14年5月撮影

写真1-2-10 龍光寺参道のかつての遍路宿

写真1-2-10 龍光寺参道のかつての遍路宿

三間町戸雁。平成14年5月撮影