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遍路のこころ(平成14年度)

(1)宿の分布

 札所前や遍路道沿いには、遍路を対象にした木賃(きちん)の遍路宿、個人の善意による善根宿、また寺院境内には通夜堂や宿坊など多種多様な遍路の宿泊施設があった。
 天保13年(1842年)、小松藩郡方が萩生村(現新居浜市)庄屋宛(あて)に出した旅籠(はたご)木賃代等の「通達」について、喜代吉榮徳氏は、「『申し置き候、当町方へ左の通達これ有り候間その村に於いても同様相心得申すべく候、以上。旅人髪結賃廿文 旅籠百五十文以下 旅籠常商人百廿文以下 旅籠木賃四拾八文以下 右の通り申し達すべく候、以上』を取り上げ、『旅籠』賃が百五十文以下の規定であるが、その他に『商人』宿と『木賃』宿を区別してある。木賃は長旅の遍路や所持金の少ない者が利用したわけで、当然に四十八文以下と安い。(①)」と述べている。
 この項でいう遍路宿の中には、遍路だけを泊める純粋な木賃の遍路専門宿のほか、商人や旅人が主で一部遍路も宿泊する商人宿も含まれる。また、専業の遍路宿はまれで、農業を行うかたわら、春や秋のシーズンだけ看板を出す副業的な遍路宿が大部分である。
 愛媛県内の遍路道は、おおむね近世の旧街道と重複しながら各札所を結んでいる。具体的には、宿毛街道の高知県境~宇和島間、宇和島街道の宇和島の一部と卯之町~大洲間、大洲街道の大洲~内子間、三坂越えの土佐街道の久万(くま)~松山間、今治街道の松山~今治間、西条街道の今治~西条間、讃岐(金毘羅(こんぴら))街道の小松~伊予三島間は遍路道と旧街道はほぼ重複するが、宇和島から三間経由~卯之町間、内子~久万間などは、旧街道から分かれ独自のルートの遍路道となる。
 今回の調査では、愛媛県内の遍路道沿いの市町村教育委員会に、現在は廃業しているが、かつて営業していた明治以降の遍路の宿について基本調査を依頼した。さらに、多くの遍路案内記や文献などからも検索を行い、これらの資料をもとに現地に赴(おもむ)き、地域に詳しい人や古老から聞き取りを行い、県内のかつての遍路宿の場所、屋号、廃業した時期などを探った。しかし、廃業した後に相当な時間が経過した宿が多く、それを直接知る人や伝え聞いた人も高齢化し記憶も薄れる中で、遍路宿やその廃業時期等を明確にできなかったものもある。

 ア 遍路宿と廃業時期

 図表1-2-7は、高知県境の一本松町から徳島県境の川之江市までの31市町村にまたがる、総数407軒のかつての遍路宿数と廃業時期をまとめたものである。その内、文献や聞き取り等で廃業時期が判明したのは239軒(59%)、不明は168軒(41%)である。文献とした遍路案内記は、『四國道中記』(明治16年)五弓吉五郎編・丸亀講中、『中務茂兵衛諸日記』(大正9年のみ)、『四國巡拝道順案内』(大正12年)四國道人編著、『四國遍路同行二人』(大正15年)三好廣太著、『四國霊場礼讃』(昭和2年)武藤休山編である。これらの案内記は、かなり古い時代のものが多く、廃業時期など不明が多い一因と考えられる。なお、南・中・東予の各地域のかつての遍路宿と廃業時期の表記は、遍路案内記そのままを用いた。
 廃業時期が判明した239軒の内訳を五つの時期に分けてみると、昭和期終戦前が134軒(56%)で最も多く、次いで昭和期終戦後が71軒(30%)、大正期が20軒(8%)、平成期が11軒(5%)、明治期が3軒(1%)の順となっている。図表1-2-8は、かつての遍路宿と廃業時期を地図上に市町村単位でまとめたものである。
 さらに、昭和期-終戦前、終戦後の廃業時期をより詳細にみたのが図表1-2-9である。それによると、終戦前では全体134軒のうち、昭和5年までが最も多く48軒(36%)、次いで11年から15年までが39軒(29%)、20年までが36軒(27%)などとなっている。昭和初期の廃業の理由として、経済恐慌、陸上・海上交通機関の発達や保健所の寂しい衛生設備指導のため採算がとれず営業を停止したことなどが要因と考えられる。さらに、昭和10年代は戦争が色濃く影をおとし、国全体が戦時体制下の非常時であるので、遍路が減少し宿の廃業につながっていったと思われる。一方、戦後では全体71軒のうち、終戦後間もない昭和25年までが21軒(30%)、次いで30年までが18軒(25%)、30年代が17軒(24%)などとなっており、終戦直後の混乱期のため、遍路加減少したためだと考えられる。また昭和30年代の廃業は、経済の高度成長に伴うモータリゼーションの影響を受け、多くの遍路の参拝方法がかつての歩き遍路から車遍路に変化したことなどがあげられる。したがって終戦前、終戦後を通じた昭和期に、全体の50%にあたる205軒が遍路宿を廃業している。
 星野英紀氏は、『四国遍路の宗教学的研究』の中で、大正期から終戦前までを次のように述べている。「大正期の終わりから昭和にかけて、日本には一種の旅行ブームが到来する。(中略)この傾向はさらに続き、昭和11年には日本人の旅行は盛況をきわめたという。昭和初期以降、生活内容の高度化・近代化が進んでいった。しかし、昭和12年の日中戦争勃発後はその事情が一変し、国民生活は戦争遂行政策のもとに統制経済という耐乏生活を強いられるようになった。(中略)つまり、昭和10年から18年にかけて、日本人の生活は高い水準から急激に窮屈な生活レベルへ変容していったことになる。(②)」
 さらに、その後について山本和加子氏は、「太平洋戦争末期から敗戦直後にかけては、国家非常事態、食糧不足、そして敗戦の混乱といった事態の進行のなかで、遍路はまったくその姿を消していった。霊場には閑古鳥が鳴き、建物も手入れがゆき届かず荒れるにまかせ、四国遍路もこれまでの長い歴史の幕を閉じたかのように見えた。(③)」と『四国遍路の民衆史』の中で記している。

 イ 遍路宿の分布

 愛媛県内の遍路宿の分布について具体的に見てみたい。まず札所門前に集中して分布する場合がある。特に札所の門前や参道に集中した例として、御荘町の四十番観自在寺前、三間町の四十一番龍光寺前、久万町の四十四番大宝寺参道、松山市の五十二番太山寺参道などがある。札所ではないが菊間町の遍照院や宇和島市の龍光院、土居町の延命寺、川之江市の常福寺(椿堂)などの番外霊場にも、少数だが遍路宿が集まっている。
 次に峠や大川のような自然の障害を挟んだ両側に分布する場合がある。峠を挟んだ例として南予地域では、内海村と津島町にまたがる柏坂を挟んだ柏と茶堂、津島町と宇和島市にまたがる松尾峠を挟んだ岩松と柿の木、三間町と宇和町にまたがる歯長峠を挟んだ則(すなわち)と下川(しとうかわ)、宇和町と大洲市にまたがる鳥坂(とさか)峠を挟んだ久保と札掛。中予地域では、小田町と久万町にまたがる下坂場(しもさかば)峠を挟んだ中田渡(なかたど)・臼杵と二名(にみょう)、久万町と松山市にまたがる三坂峠を挟んだ東明神と桜や榎、北条市の鴻之坂を挟んだ下難波と浅海。東予地域では、新居浜市と土居町にまたがる関ノ戸(峠)を挟んだ関ノ戸と関ノ原、川之江市と徳島県にまたがる境目峠を挟んだ七田(しちだ)と徳島県側の遍路宿などは代表的な例である。また河川の渡河地点に遍路宿が分布した例として、大洲市の肱(ひじ)川、松山市南部の重信川、今治市の蒼社(そうじゃ)川、丹原・小松両町にまたがる中山川、西条市の加茂川、新居浜市の国領川などがあり、川を挟んだ両側に遍路宿が分布する場合が多い。
 さらに、街道筋や街道の分岐点(追分)に分布した例として、一本松町の札掛地区、宇和町の卯之町地区と宇和島街道沿いの坂戸・東多田・久保などの地区、内子町の大瀬地区、松山市南部土佐街道沿いの窪野地区、今治市の郷桜井地区、小松町の駅前地区、西条市の大町地区、新居浜市の喜光地地区、土居町土居地区などがあげられる。また、特殊な例として、遍路の打戻り地点に分布した例として、一本松町の札掛、久万町の下畑野川河合、小松町の大頭(おおと)などがある。さらに、道後温泉の周辺に多くの遍路宿が集まったのも特殊な例といえる。
 なお、愛媛県生涯学習センターが平成13年度に刊行した『伊予の遍路道』での地域区分では、「南予地域」を札所や遍路道の関係から、一本松町松尾峠から大洲市十夜ヶ橋までとしたが、今年度は行政区分に従い、一本松町から内子町までとした。

図表1-2-7 愛媛県市町村別かつての遍路宿数と廃業時期

図表1-2-7 愛媛県市町村別かつての遍路宿数と廃業時期

判明分:239軒(59%)、不明分:168軒(41%)。

図表1-2-8 愛媛県内のかつての遍路宿と廃業時期

図表1-2-8 愛媛県内のかつての遍路宿と廃業時期


図表1-2-9 昭和期-終戦前・終戦後の廃業時期

図表1-2-9 昭和期-終戦前・終戦後の廃業時期