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遍路のこころ(平成14年度)

(1)近世の宿②

 ウ 18世紀の宿

 (ア)概 況

 18世紀は、佐伯藤兵衛の泊まった宿を中心に検討することで、この時代の特徴を整理した。彼は、登禅から約100年後の延享4年(1747年)に遍路記を残した人物である。藤兵衛についての詳しいことは分からないが、讃岐国丸亀藩領内の豊田郡井関村(現大野原町)の庄屋で、やはり上層農民の遍路である。
 その遍路記は『四国辺路中万覚日記』と題され、前半はどこに参拝したか、どこに泊まったかが簡明に記されており、後半は銀と銭の交換を記した「銀両かへ覚」と支出記録である「銀払方」が記されている。彼の同行者は4人であったが、木賃は1人分で記入されている。一覧表中の針の欄は、宿泊先に針を渡した本数を示している。3月25日にはその家の小使にも針を渡しているし、木賃を支払った上に渡した所もある。針は当時かなり高価な物であったろうが、針を渡した意味については意見が分かれている。新城氏は、針を木賃代わり(㊻)、喜代吉氏は善根宿への謝礼ではないかとしている(㊼)。もし、木賃代わりとすると、藤兵衛の宿泊先全体に占める木賃宿の比重はかなり高くなる。ただ、針を置いていったのは、土佐国との境の村である伊予国正木村(現一本松町)を除いてすべて土佐国であるという特徴が見られる。米はほとんど毎日購入している。
 彼の旅は43日間、42泊であった。その内、2回は雨のため連泊しているから、宿泊先は40か所である。その内訳は、寺が6か所、民家が30か所、遍路屋1か所、出見世(でみせ)(簡単な店屋である。)2か所、不明1か所で、民家が圧倒的に多い。なかに、庄屋宅があるのは、彼自身が庄屋であったことによるのであろう。
 彼の取った宿の中で最も注目されるのは、木賃を払った宿である。次に、17世紀に遍路の宿として利用された遍路屋がここでも記されていることである。さらに新しく遍路に宿を提供する出見世(出店)が記されている。これらを軸に18世紀の宿を述べる。

 (イ)木賃宿の成立

 藤兵衛の泊った宿で特徴的なのは、寺の内2か所、民家の内7か所、出見世で1か所、遍路屋で1か所合計11か所で木賃を支払っていることである。寺や遍路屋はともかく、民家のそれは明らかに木賃宿である。矢野一円がわずか1か所で記録した木賃宿は、明確な形で姿をあらわしてきた。
 木賃宿とはどのような宿を指すのか、『国史大辞典』で丸山雍成(やすなり)氏は次のように述べている。「中世以降、野宿から旅籠に移行する過渡的な宿泊形式として、街道佐駅などに普及した宿屋。木賃とは木銭、薪代のこと。戦国時代(中略)庶民は米・糒(ほしいい)漬物・銭などを携帯して旅行し、宿屋から薪を得てみずから飯を炊くか、または温湯に糒をいれて軟らかくして食べ、宿屋には木銭を支払ったので、木銭宿・木賃宿といった。(中略)木賃宿泊の一歩前進したのが、木銭米代の宿泊で、これは宿屋があらかじめ用意した米を旅人は購って自炊するとともに、薪代と米代を支払う宿泊方法である。(㊽)」江戸時代に入っても木賃宿は継続されたが、料理を提供する旅籠が普及すると、「木賃宿泊は大きく上下に分極化した。一方は本陣における参勤交代の大名などの自身賄いであり、他方は宿場端れや町裏における安宿である。」という(㊾)。遍路の宿として提供されたのは安宿の方であるが、客が零細庶民であるのに呼応するように、安宿の経営者も自作地を持たない農民や零細農が多かったとされる。木賃宿は、明治以降も存続した。なお、旅籠が木賃宿を兼業する場合もある(㊿)。
 さて、このような宿が遍路道沿いに成立した背景には、それだけの旅行者、特に遍路が存在したのであろう。愛媛県生涯学習センター編『四国遍路のあゆみ』によると、遍路の数は、17世紀前半には漸増し始め、佐伯藤兵衛が遍路をした18世紀中頃には急増したことが記されている((51))。木賃宿は、まだ少数ではあるようだが((52))、遍路の急増に対応して増加しつつあったと思われる。木賃宿は、17世紀から遍路の宿として利用され始め、その後遍路宿として遍路の宿の主流となっていき、太平洋戦争前まで宿を提供し続ける。
 藤兵衛の支払った木賃は、単純平均すると1軒当たり約7文である。ほぼ同年代の宝暦3年(1753年)、伊予国の幸吉という人物が、伊勢及び西国巡礼をして『伊勢参宮西国道中日記』を残している。それによると、木賃の平均は約16文であり、この時の米代1升平均で約37文((53))と比較すると、木賃が大変安価だと分かるが、それが四国の旅になるとさらに格安で半額以下である。3月20日の木賃は12文とやや高めだが、水風呂付きとぜいたくをしているのでやむを得まい。藤兵衛は米を毎日のように購入しているが、購入量を記入していないので、米の単価は分からない。

 (ウ)遍路屋の変化

 佐伯藤兵衛は、3月18日大雨に遭い、しかも同行の喜四郎の足の痛みが激しいため逗留(とうりゅう)することに決めた。ところが、土佐藩では領内通過の旅程順(日次(ひつぎ)あるいは日継)の変更は、相対(あいたい)で決めた宿(遍路と宿主が直接交渉して、合意の上決めた宿)ではできないと断られた。そこで「辺路屋へ罷出泊り、目(ママ)次御断可申とて、暮前二辺路屋細工町庄屋庄兵衛殿方へ参、一宿御頼申候所、辺路屋殊之外ふきれい二而難義仕候」と記している((54))。今後の旅程を変更するために仕方なく遍路屋へ行ったのであるが、それは遍路屋を庄屋が管理しており、庄屋なら旅程変更を許可できたからのようである。しかし辺路屋の余りの汚さに閉口している様子がうかがえる。庄屋の許可で旅程変更ができたのだろう、運良く近所の人が宿を貸してやるというのでそれを良いことに、遍路屋を逃げ出してしまった。
 ほぼ同時代、宝暦14年(1764年)、藤兵衛に遅れること17年目に四国遍路を行い、『四国道之記』を記した古川古松軒も、土佐国大谷村(現野市町)で遍路屋に遭遇している。彼は、その間の事情を次のように記している。「大雨にて同行ぬれ鼠となり、大谷村と云ふ里にて、日も暮れ、村長の家に至り宿をこひしに村法なりとて遍路屋におくらる。行て見れば筵(むしろ)敷の土間にて、賤敷乞食悪疾の者も交り居る事なり。此時には捨身の修行もなりがたく、大に屈しまだまだ村長の家にかへり、此よしなげきしかば心ある人とて、少しよき民家に止宿せり。((55))」遍路屋の実態がうかがわれる史料である。
 この時代に新しく建設された遍路屋がある。元文5年(1740年)に丸亀藩西平山(現丸亀市)に建てられた遍路屋と、明和5年(1768年)に吉田藩則村(すなわちむら)(現三間町)に建てられた遍路屋である((56))。丸亀藩の遍路屋の建設は、町が願い出て藩庁の許可により行われたもので、その運営は「町会所」にゆだねられている。吉田藩の場合は、藩が村に命じて作らせたものである。ただ、吉田藩の場合には、その目的が送り遍路(病気のため自力歩行が困難となり、村継ぎに送られる遍路)で、かつ悪病などのため一般農家へ宿泊させるのが困難な遍路の宿泊と限定しているところが、丸亀藩と異なっている。
 以上、藤兵衛と古松軒の記す遍路屋、さらに丸亀藩と吉田藩領に建設された遍路屋の四つの例をあげたが、これら18世紀の遍路屋には、17世紀の遍路屋とは異なる共通した特徴がある。
 一つには、17世紀の遍路屋は、藩や熱心な仏教信者などが作っていたが、18世紀の遍路屋は、村や町が作って運営するということである。丸亀藩の例では、町が願い出て許可され町会所の運営であるとしているから明確であるが、藤兵衛・古松軒の場合も、共に宿泊は庄屋の指図であったように村の管理下にあった。特に古松軒の場合は庄屋が「村法」と言っているように、遍路が宿を求めて来たら遍路屋に宿泊させると村で決められていたらしい。吉田藩の場合も、藩が命じたとはいえ、村に作らせたのだから、まず村の運営と考えてよかろう。作られた施設も、17世紀は大師堂など仏教関係の施設であったが、18世紀にはそのような宗教的な傾向は見られず、村や町の公共的施設の色合いが強く出ているといえる。
 二つには、17世紀の遍路屋は澄禅のような一般の遍路が宿泊していたが、18世紀の遍路屋は、主な宿泊者が病気や貧しい遍路たちであるということである。これから後の遍路記には遍路屋に宿泊した例を見なくなる。遍路記を残すような裕福な遍路は、相対で宿を取っているわけで、18世紀の遍路屋は、一般の民家(木賃宿を含めて)を相対で取れなかった遍路たちのみの宿泊場所であったことをうかがわせる。吉田藩の場合は、対象を送り遍路と限定しているから、当然利用者は病気遍路であるが、その他の藩でも相対宿が行われていれば、結局のところ行き場のない遍路、つまり病気や貧しい遍路が宿泊する場所になっていったと思われる。
 18世紀になり、運営主体といい、利用者・施設の性格といい、新しいタイプの遍路屋があらわれた。それとともに17世紀のかつての遍路屋は固有の名前で呼ばれることが多くなったのであろうか。例えば藤兵衛は高知城下細工町の施設を遍路屋と呼んでいるが、真念庵は「一野瀬大師堂」と固有の名前で呼んで、遍路屋とは呼んでいない。真念庵や駅路寺はもともと固有の名で呼ばれる場合が多かったであろうが、時代が下って19世紀の遍路記に記される宿泊可能な大師堂なども遍路屋とは呼ばれていない。
 藤兵衛の話に戻って、彼の宿泊した真念庵に言及しておこう。3月25日の記事である。「昼四つ過ニ一野瀬大師堂迄参着、荷物庵ニ置ク、久保津浦勘六殿ニ一宿((57))」つまり午前10時過ぎに市野瀬大師堂(庵)で荷物を預け足摺に向かったのである。これは、三十八番金剛福寺を打った後、打ち戻りで、再び市野瀬(現土佐清水市)に帰り、そこから三十九番延光寺へ向かうコースを取ったということである。そして26日、「天気能、蹉跎山御札納、一ノ瀬へ帰り大師堂庵ニ一宿、木賃六もん」と記している((58))。この庵とも呼ばれている市野瀬大師堂について、喜代吉氏は、「この大師堂こそは真念庵のことと考えられる。」とし、「この真念庵(大師堂)は辺路屋としての機能も多分に有していたが、この佐伯氏の場合のように、木賃六文を取って宿屋的側面もあったことが知れる。」と述べている((59))。足摺打ち戻りのポイントとされた市野瀬村にあった地の利を生かしたものであろう。

 (エ)出見世

 佐伯藤兵衛は出見世(でみせ)で2泊しているが、出見世とは何であろうか。時代は下るが、19世紀初頭の英仙本明の『海南四州紀行』には、「茅屋出店」など度々使用されており、よく見られるものになっていくようである。『海南四州紀行』から、出見世の状況をていねいに書いているところを紹介しよう。
 「往テ小屋アリ、出店ナリ、此ニシン子アリ、菜ハアラメノ汐焚ナリ、土州ノ出店ハ凡スゝ竹ヲ以テ葺キ構イ中板シキ、或ハ竹坐ナリ。((60))」と記している。新香やアラメなどの商品を置いている店で、建物は竹で屋根を葺(ふ)き、床も竹や板を敷いた簡単な小屋掛けのようである。喜代吉氏は「出」とは、「仮の」の意味で、簡単な仮小屋による商いであろうとする。このような出見世でも遍路を泊めており、新しいタイプの宿が現れたことが分かる。藤兵衛は、一軒の出見世では木賃を支払っているから、木賃宿も兼業していたようである。

 (オ)宿を介した交流

 18世紀にあった宿を介する交流をあげて、当時の遍路の姿、宿の意味を理解する手助けとしたい。新城氏は、四国遍路に対する善根宿を含む多くの接待例をあげた後、「遍路は帰国後もその好意を永く忘れなかったであろう。そしてもしも、その接待者と遍路とが、その後、再会することでもあれば、かつての遍路は、接待者に報恩の誠を表すであろう。つぎのような実例が見られる。天明5年(1785年)長崎磨屋町の文蔵なるもの、切手なき廻国者伊予松山の恵鏡をしばらく滞在させたため、発覚して罰せられた。これは五年前文蔵が、遍路の途次松山で煩った折、恵鏡に世話になった縁故によるものであった。遍路と接待者の心の交流は、数百里を越えてその後も永続するものがあり、文蔵は法を犯し、身の危険を看(ママ)みず、かつての恩義に報いたのである。((61))」と、遍路と接待者の強固な心の結びつきについて述べている。

 工 19世紀前半の宿

 (ア)概 況

 19世紀は、江戸時代で遍路人口がピークとなった時期であり((62))、遍路記も多彩である。そのため、参考文献について、年代順に一括して紹介する。なお、『四国中諸日記』と『四国遍礼名所図会』は、19世紀ではないが、ほぼ同年代のため、この項の参考文献とした。

   ① 伊予上野村(現伊予市)の庄屋玉井元之進の『四国中諸日記((63))』
     寛政7年(1795年)に、同行5人で四国遍路を行った記録で、道中の金銭支出に詳しく、木賃宿を知ることがで
    きる。
   ② 九皋主人写の『四国遍礼名所図会((64))』
     寛政12年(1800年)。札所の絵図付きで宿所や茶屋・茶堂の動向か分かる。
   ③ 英仙本明の『海南四州紀行((65))』
     文化元年(1804年)に、伊予国久谷村(現松山市)の円福寺の僧の紀行文で、札所を中心に茶屋などの建築物が詳
    記され、善根宿も分かりやすい。
   ④ 土佐朝倉村(現高知市)兼太郎の『四国中道筋日記((66))』
     文化2年(1805年)に四国遍路をした記録である。金銭支出で単価が分かるように記載され、宿の種類が分かりや
    すい。
   ⑤ 升屋徳兵衛の『四国西国巡拝記((67))』
     文化6年(1809年)に京都の商人が家族で遍路した記録で、宿泊施設などの状況が記されている。
   ⑥ 新井頼助の『四国日記((68))』
     文政2年(1819年)に土佐国西谷村(現北川村)の名本(庄屋)である新井頼助の二人旅で、旅の様子が詳述さ
    れ、宿の事情も具体的である。
   ⑦ 天保の大飢饉(ききん)の最中に遍路をした野中彦兵衛『四國遍路中并摂待附萬覚帳((69))』
     天保7年(1836年)。武蔵国中奈良村(現埼玉県熊谷市)の名主で、遍路の宿に対する藩の政策が記されている。
   ⑧ 同年の天保7年に遍路をした松浦武四郎の『四國遍路道中雑誌((70))』
     伊勢国(現三重県)の郷士で、札所寺院の伽藍(がらん)の配置や道中の茶屋・茶店の記述が詳しい。

 上記の各遍路記の中で、宿の種類がよく分かるのは兼太郎の遍路記である。この兼太郎の記録に加えて、上記の多くの遍路記を利用しながら、当時の宿の特徴を記述していく。兼太郎は、村役人の職には就いていないが、かなりの農地を所有する裕福な農民であったらしい。彼の旅は、連泊は無く全日程31泊32日の旅でかなりな健脚と思われる。その間の宿は、寺が2か所、民家が25か所、不明4か所である。木賃を支払ったのは、民家が10か所、寺が1か所、不明の箇所が2か所で、合計13か所である。
 19世紀の宿の特徴を、兼太郎の行程から拾ってみると、まず、18世紀に比べて木賃宿が増加していること、次に庄屋の指図で宿を取った記事があることである。また、彼以外の遍路記から分かることは、これまでの宿とは異なる起源を持つ新しい宿が出てきたこと、また大師堂などの利用や宿の内部の様子などである。これらの特徴を中心に述べていく。

 (イ)木賃宿の動き 

 この時代に道中の支出を記録しているのは、兼太郎と玉井元之進である。したがって彼等の遍路記からは木賃宿を明らかにすることができる。
 18世紀の遍路佐伯藤兵衛が木賃を支払った所は(寺・遍路屋を除く)全宿泊箇所の20%であったが、19世紀の遍路兼太郎になると41%に急上昇する。身分的には藤兵衛は庄屋、兼太郎は役付きの百姓ではないが、それほど考慮する必要は無いであろう。庄屋である玉井元之進も、宿の50%が木賃宿であり、藤兵衛の時代と比べ木賃宿が増加してきているのが分かる。しかし、後述する宿の様子から、民家そのままの設備で木賃を取り始めた宿がほとんどであったろうと推測される。
 また、兼太郎が支払った木賃の平均は約11文で、先述した50年前の伊勢参宮の例と比較しても、まだ安価である。
 さて、『四國日記』を書いた新井頼助は、旅籠・木賃宿・大師堂・善根宿・その他様々な宿に宿泊した遍路である。その彼が讃岐国金毘羅町(現琴平町)で宿を取った時の記事に、「鞘橋ヲ入りて壱丁行、右ノ方ニ紅葉や茂八方ニ宿ヲかり、辺路ノ事なれバ、木賃ニ而米ハ買入、着る物ニハ垢付て甚くさく、髪ニ油ノ気もなく、御辺路御辺路と、風呂ニも漸々跡湯ニ入リ、人ノ位勢ハ衣類ニよるものなり。((71))」とある。これは木賃宿を兼業している旅籠に宿泊した時の記述であるが、遍路はその旅の有り様からして不潔だから、旅籠に泊まらせても木賃宿のコースで宿泊させるという考え方がみられる。風呂の順番は最後に回されている。
 これは、宿の都合で遍路が区別された例であるが、さらに、遍路の側の都合からみても木賃宿を選ぶ傾向があった。その理由は、遍路の旅が長旅で少しでも安価な宿を求めたこと、さらに遍路が托鉢(たくはつ)(「修行」とも言う。)しながら米などを得、それを宿に持ち込んで自炊する旅であったことによると思われる。これまで見てきた富裕な遍路たちは、ほとんど米を購入していたが、多くの遍路たちにとっては、托鉢は当たり前のことであった。例えば、松浦武四郎は「此地ニ而は、日々人の門ロニ立而、一手一銭の功徳(くどく)をうけて廻るものを上遍路と云ひ、左もせで廻るものを中遍路と號(なづけ)、合力を連、是ニ荷物を負ハセて歩行を下(げ)遍路と云る也。((72))」と記し、托鉢という修行をする遍路こそ本当の遍路であるとする考え方を紹介している。また、土佐藩の天保8年(1837年)の史料に、「辺路の托鉢に施しをしてはならない。」との禁令((73))が出されているが、これは逆にいうと、多くの遍路たちにとっては、托鉢が一般的だったことを示している。
 このように、遍路は旅籠から敬遠されがちであったこと、さらに遍路にとっては木賃宿が合理的であったことなどから、遍路と木賃宿の結び付きが強まり、やがて遍路は木賃宿に泊まるものとの考え方が生まれてきた。四国にはもともと遍路を対象とする木賃宿が多かったこととも相まって、遍路が泊まる木賃宿を、遍路宿と表現するようになっていく。

 (ウ)活発な善根宿

 善根宿は、遍路の宿としては最も早く生まれたと考えられるが、現在も行われているように、近世以来どの時代にも記録が見られる。兼太郎の場合、便宿(無料の宿)や寺を除くと、「よきやど」と記している2か所、それに「木賃なし」の2か所は明らかに善根宿と考えてよいと思われる。木賃の記されていない箇所にも消極的な善根宿が含まれていた可能性はあるが、便宿・寺を除いた29か所に宿泊して、明らかな善根宿が4か所という回数は、多い方ではない。
 『海南四州紀行』を書いた英仙は支出簿を記していないが、善根宿については「施宿」と記して他と区別しているのでその例を引こう。はっきりしている英仙の総宿泊箇所は44か所であるが、その内寺社関係の7回と便宿3回を除くと34か所が善根宿を提供される可能性のある宿泊箇所となるが、その内で実際の善根宿の回数は、讃岐国1、阿波国6、土佐国1、合計8回の善根宿である。阿波国が飛び抜けて多いが、この傾向は他書にも見られる。天保4年(1833年)に遍路をした讃岐国の人(氏名不詳)の記録である『四國順禮道中記録』も同様である。喜代吉氏によるこの記録の分析では、連泊した所は1か所として計算し、合計39か所の宿泊中、9回の善根宿を接待されるが、内訳は讃岐国4、阿波国4、伊予国1となっている((74))。阿波国の村をあげての善根の様子が分かる『海南四州紀行』と、伊予国船木村(現新居浜市)の熱心な善根宿を記している『四国日記』の史料を右に掲載する((75))。家業を置いてでもという善根と毎夜の善根宿が記されている。

 (エ)新しい形の宿

   a 茶屋・茶店と茶堂

 遍路などに有料で茶を振る舞う茶屋については、真念の記述の中に幾例か見出すことができ、既に17世紀の後半にはあったことが分かる。しかし、茶屋での宿泊については言及して居らず、この当時は旅人の休憩が主目的の施設であったと思われる。また真念は、茶店・茶堂については言及していない。
 茶屋について、喜代吉氏は、『四国徧礼霊場記』に描かれた絵図を例に引き、「『茶ヤ』と言うのが井土寺図(現在の十七番井戸寺)に出てくる。境内ではなく門前の傍らである。また観自在寺(現四十番)には『太守ノ茶屋』が寺の近くにある。こちらは粗末な『茶ヤ』とは違って、大掛りな建物である。次に太山寺の『茶屋』。寺域が広く、本坊より本堂に参る間に複数軒あったようだ。ここは参詣者の軽食喫茶的な要素が強かったのではなかろうか。((76))」と、様々な茶屋の存在をあげて、その規模や店の性格に大きな差があることを記している。遍路を対象とした茶屋は、五十二番太山寺や井戸寺に見るような一般的な茶屋であろう。また、茶店は軽食・喫茶を提供する一般的茶屋に近く、やや小振りの店のようである。また、ここで取り上げる茶堂は、喜代吉氏の言う、寺の境内にあり、営業目的ではなく、茶の接待を行う施設である((77))。
 寛政12年(1800年)の『四国遍礼名所図会』では、茶屋・茶店・茶堂などの言葉が出てくる。おおむねそれらは、支度する(昼食をとる)場所として利用されている。しかし二十番鶴林寺に「茶堂永代常接待有、日暮の時ハ此堂ニとめる」、あるいは二十二番平等寺では「門前茶屋にて一宿」の記事が見える((78))。それぞれ、茶堂や茶屋が宿泊に利用され始めていることが分かる。
 次いで、文化元年(1804年)に回った英仙は43か寺で茶堂の存在を記録し、しかし「客舎ヲ兼ヌ」とした茶堂がいくつか紹介され、吹きさらしであった茶堂にも囲いができ始めたことを記す((79))。
 そして天保7年(1836年)、松浦武四郎の記録によるとこれらの宿泊施設は一気に増加している。茶屋・茶店の総数は70か所を超える。しかし「止宿するニよろし」と書かれた箇所は40か所を超える。茶堂はそれほど宿泊に適してはいなかったらしいが、総数が60余か所、内10余か所が宿泊に適していると述べている。茶屋や茶堂が遍路の宿として提供され始めているのが分かる。なお、茶屋については文化6年(1809年)四国遍路をした升屋徳兵衛が、実際に宿泊し、その様子を記しているので、後述の「宿の様子」の項で史料を掲載した。
 茶屋、茶店の宿泊は有料であるが、茶堂の宿泊が無料であったかどうかは明らかではない。一例では、松浦は六十番横峰寺の茶堂の注書きに「止宿するニよろし。一夜木セん十二銅ヅゝ燒(ママ)明せんとて出す。((80))」とあり、灯明銭の名目で木賃をとっているのが分かる。ほかの茶堂では料金は記しておらず、したがってこれは珍しい例である。

   b 通夜堂

 本来通夜(つや)とは、仏堂に参籠(さんろう)し終夜祈願することで、参籠する場所が通夜堂であった。しかし、時代が下るとともに通夜という言葉の意味が、ただ夜間に寺院に行くだけで通夜と呼ばれるように変化してくると、通夜堂も「そのような信仰上の性格が薄れ、たんなる宿泊所としての役割だけしかはたさなく((81))」なった。こうして、通夜堂とは札所や番外霊場などに作られた宿泊所の意味になってくる。この通夜堂には、食事や風呂など付かない小さな無料宿泊所としての通夜堂と、賄い付きの有料の大通夜堂がある。遍路たちは、いずれの通夜堂も利用している。ここでは、19世紀の史料に初見する通夜堂を整理した。
 寛政12年(1800年)『四国遍礼名所図会』の著者は六十五番三角寺の奥之院仙龍寺へ行っており、「毎夜五ツ時に開帳有り、(中略)終夜大師を拝し夜を明す((82))」と、通夜堂で午後8時ころから夜を徹しての通夜が行われる通夜堂の様子が述べられている。この通夜堂は、同書の絵図から見ると、現在のものとあまり変わらない姿である(写真1-2-1)。文政2年(1819年)に遍路をした土佐の新井頼助もこの通夜堂に宿泊し、「我等一所ノ通夜五百人計、御燈明銭ヲ上ケヨと云、御開帳銭ヲ上ケヨと云、米壱升たき申スニ拾文((83))」と記し、賄い付き有料の通夜堂であったことが分かる。仙龍寺には澄禅も宿泊しているが、宿の様子は記述しておらず、通夜堂については不明である。
 この仙龍寺には大師講があり、もともとは縁日にやってくる信者たちを宿泊させるために作られた通夜堂であるが、遍路はそれに便乗させてもらったものであろう。その意味では、食事無し無料の通夜堂こそが遍路を対象とする宿であろう。この無料の通夜堂の歴史は古いのではないかと思われるが、証明するものがない。あるいは、『四国徧礼霊場記』にある五番地蔵寺の境内の前述した遍路屋などは、遍路屋と明記されてはいるが、境内にある宿泊施設であり、通夜堂の古い形であったかも知れない。

 (オ)村堂その他

 大師堂々観音堂あるいは地蔵堂などの村堂について、19世紀前半に遍路記を残した裕福な遍路たちは、宿泊施設として利用したり、推薦したりしている。例えば、寛政7年(1795年)に遍路をした玉井元之進は、土佐国「ひ具び村庵へ泊ル」とあり、あるいは伊予国三坂峠のふもとと思われる所でも庵(17世紀に既にあった桜の大師堂であろうか。)に宿泊している((84))。先述した『四国遍礼名所図会』(1800年)も、六十六番雲辺寺近くの山中で「庵、山の中程にあり、行暮の節ハ宿をかす、甚だ美麗なり。」と推奨している((85))。また、文政2年(1819年)『四国日記』を書き記した新井頼助も、同行の体調不良のためにやむを得ず伊予国長沢(現今治市)の「細キ庵」に泊まり、あるいは阿波国の高染村(現海部町か)で「此大師堂至て奇麗なるゆへ宿す。((86))」と記している。また、天保7年(1836年)の松浦武四郎も、土佐国「いふり村 村内大師堂有。止宿するニよし。((87))」などと、大師堂だけでも4か所を推薦している。さらに甲斐国の犬目村(現山梨県上野原町)の兵助は、同じ天保7年、甲州郡内騒動の首謀者であったため、逃亡生活を送りながらの遍路中、宿泊に観音堂や大師堂を利用している。
 野宿をしたり托鉢をしながら四国を回る遍路の姿は、遍路記には見えてこない。甲斐の兵助が、姫路(現姫路市)でのことではあるが、野宿の記録を残している。「当日ハ仕(施)行御座無候ニ付無余義城下より二十丁程前ニ而山之脇(と)申場ニ而野宿仕候所、よるの八ツ半時より大あめふり出申候。ことの外なんぎ致候。((88))」と書いている。托鉢しても何ももらえなかった時、木賃宿はもちろん食事もできないことになる。四国での彼の宿泊は、善根宿や木賃宿がかなりを占めているが、やむを得ないときには、上述の大師堂・観音堂あるいは納屋で宿泊したり、宮で野宿などをしたと記している。
 なお、病気で村継ぎされていた送り遍路がいたことは、吉田藩の遍路屋建設で触れてきたところである。19世紀、病気で歩けなくなった遍路たちはどのように扱われたのであろうか。弘化2年(1845年)、伊予国風早郡中通村(現北条市)の史料に、(病中入用之儀者、村入用之内江人為相済申候。(中略)但、途中ニ而病気ニ付打臥居候節者、小屋掛ケ致遣、藁竹等之類少々ツゝ出し合取斗、(中略)病中給物等差遣候儀、家近ニ御座候得者、方角之者申合遣有合之丸薬等為給((89))」とあり、ここでは看病の仕方、費用の出所が述べられている。村で、藁(わら)や竹で小屋掛けをし、食べ物や薬を村民が持ち回りで持っていって養生させたのである((90))。かつて18世紀の遍路屋が担った役割の一部を、19世紀においてはこの臨時の小屋がしていることが分かる。

 (力)宿取りの制度(指宿と便宿)

 ここでは、遍路が宿を取る方法について整理をする。既に、遍路と宿主が直接交渉をして宿を取る相対宿については述べてきた。この方法以外に、庄屋が遍路の宿を指示する「指宿」や「便宿」の制度もみられる。宇和島藩では、「相対宿」、「指宿」、「便宿」の各言葉が見られ、それに関する史料も豊富なため、主に同藩を取り上げて宿取りの制度を探った。
 宇和島藩の遍路への対応は、他藩と大きな差は無いと思われ、一般の旅人に対するほど厳しくはないが、その通行に対しては監視を怠らないという状況であった。例えば、日ごろ善根宿を施している人物に褒美(ほうび)をやっているかと思えば、享保2年(1717年)には「一、都而廻国辺路僧俗共二訳有之、慥成ものと承届一宿為致候ハハ、只今迄之通證文を以、御目付迄早速断可申旨、((91))」との命令を出して、遍路通行の情報を集めているのである。遍路の宿取りに対する同藩の政策も、このような政策の延長線上にあったものと思われる。
 宇和島藩の宿取りに関する最初の史料は、天明2年(1782年)のもので、「辺路宿、庄屋ヨリ宿申付来候処、迷惑之趣ニ付、辺路通行之村相対宿申付、尤宿不差支様可取計旨((92))」との命令を出している。つまり、農民たちから、強制的に遍路の宿を庄屋から申し付けられるのは迷惑であるとの苦情が出て、「相対宿」の制度に変更するというものである。したがって、この法令が出されるまでは、庄屋より宿を申し付ける制度であったが、天明2年からは「相対宿」に変更になったことになる。事実、寛政7年(1795年)に玉井元之進が遍路をした時には、宇和島藩内4か所で宿泊しているが、すべて木賃を支払って宿泊している。
 しかし、寛政12年(1800年)の『四国遍礼名所図会』には、「此所ハ宿相対にかさず、庄屋より指宿をいたす。((93))」と、「相対宿」の制度が無くなり、庄屋が遍路の宿を決定し、宿主と遍路に指示する指宿という制度になっている。天明2年以前の宿取りの制度も、「指宿」と同じような制度であったことは明らかである。
 ところが、文化元年(1804年)に遍路をし、『海南四州紀行』を著した英仙の宇和島藩領内での記録には、次のような宿取りの制度が記されている。英仙は、宇和島藩領の柏村(現内海村)・下村(現宇和島市)・加茂村(現宇和町)で宿泊しているが、柏村では「柏邑八蔵ニ泊ルナリ、先ニ庄ヤニ至リ宿ヲ請フ、名付ノ手札ヲ渡ス、当領ハ便宿ニテ料ヲ出サズ。」とし、下村では「下邑庄ヤニ至リ宿ヲ請フ、即権太良ニ便宿ヲ命ス、料ナシ。」とも記す。加茂村でも同様で「無料ナリ」と記している((94))。こうしてみると、彼の記す宿取りの制度「便宿」は、遍路が宿を取りたい時、庄屋の所に希望すると、農家を割り振って宿に提供してくれる制度で、宿泊料金は無料である。『四国遍礼名所図会』の著者と英仙が遍路した時期は、わずかに4年の差である。両者の言う「指宿」と「便宿」はおそらく同じ制度を指したものと考えられるが、その特徴は、「相対宿」を認めず、庄屋が宿を指示し、その宿は無料であるということである。次いで、文化2年(1805年)に遍路をした兼太郎であるが、彼の宿をまとめた記録に、「庄屋差配ヲ以宿取((95))」とあるのは、宇和島藩領下村でのことである。「指宿」とも「便宿」とも表現していないが、明らかに同じ宿取りの制度である。しかも、兼太郎は米も購入せず、木賃は「なし」と明記している。こういった制度は、遍路にとってはありがたいものであったろうが、藩にとっては、遍路の保護と監視の両面を持った政策で、庄屋に遍路の動向を掌握させる意味を持っていたと考えられる。
 この「指宿」あるいは「便宿」は、いつまで存続したのであろうか。宇和島藩では、文化8年(1811年)2月に「市中より辺路宿願出、当年限九月迄承届ル((96))」の触れが出されている。その後、同様の願いが毎年のように提出されるようになる。遍路の往来が頻繁となる2月から9月まで城下で公的に遍路宿が許可されるようになったのである。このこと自体が遍路の宿の大きな動きであるが、こうして市中で有料の遍路宿が経営され始めると、無料の「便宿」を農家に押しつけることは無理になったのではないか。その意味で、この時が「便宿」の終了を示すのかも知れない。そうとすれば、復活した「便宿」はわずか10年余しか続かなかったことになる。
 その後、宇和島藩領を通過した遍路に、天保7年(1836年)の野中彦兵衛がいる。彼は、宇和島藩入口の小山(現一本松町)の番所で「止宿ハ相対ニテ宿取、若し差支候節ハ村々庄屋へ相懸リ、泊リ可申候((97))」と記す。「相対宿」が復活し、それで宿が取れない時に庄屋が指示する制度になっている。庄屋が指示する制度は残っでも、「相対宿」が承認され、その「相対宿」はおそらく有料であったろうから、庄屋が指示した宿も有料になった可能性が高い。いずれにしても、「相対宿」を承認したことで、これまでの制度が中止されたのは明らかである。
 他藩の様子はどうか。「指宿」の制度は幾つかの藩で見られるが、宿泊料の有無、「相対宿」の制度との共存などについては、史料が乏しく一概に論じられない。玉井元之進は、土佐ひめ野井村(現大月町)の泊まりで「此村者庄屋言付宿悪シ((98))」と、庄屋指定の宿に言及し、木賃は支払っていない。土佐藩での「指宿」は、佐伯藤兵衛や古川古松軒にも見られた。京都の商人升屋徳兵衛も大洲藩領臼杵村(現小田町)で「庄やよりさし宿なり((99))」と記す。また、松浦武四郎は、阿波国出国の時に「遍路之者共、行暮宿無節は皆村々之庄屋よりさし宿を致し呉((100))、(中略)ありがたき國政とぞ思われたりける。」と述べ、「相対宿」が取れないときは、「指宿」になることを示唆している。武四郎の記録を見ると、「相対宿」と「指宿」が共存しており、天保7年の宇和島藩の制度と同じである。その意味では、「指宿」は、庄屋が遍路の宿を指定する制度を広く表現する言葉のようであり、「相対宿」を許さない、宿泊は無料などの条件が加わったものが「便宿」である可能性がある。史料に乏しく、「指宿」と「便宿」の違いについては明確にすることができないが、四国の諸藩でも、何らかの形で庄屋が遍路の宿取りにかかわっていたことを推測できる。

 (キ)宿の様子と交流

 具体的な宿泊の状況は、これまでの史料ではあまり見られなかったが、升屋徳兵衛の『四国西国巡拝記』は、この点を補完してくれる。これは病気がちの息子の平癒を祈って、息子夫婦と荷物持ちの4人連れで四国遍路と西国巡礼を行った112日間に及ぶ大旅行記である。下記は、彼の宿に関する記述から、各国一日ずつ選んだものであるが、宿の種類については、茶屋が判明するのみで、他の宿は不明である。升屋は、荷物持ちを雇ったくらいだからかなり裕福な商家だと思われる。したがって、宿代を節約したとは思えないが、次のような状態であった。

   ○ 三月九日(讃岐)
     (中略)仏生寺前(ぶつしやうじまへ)の茶(ちや)や一宿ス、壷(つぼ)風呂ふとんなくわひすまひ、畳(たゝみ)はあれ
    とも墨(すミ)を塗(ぬり)たることく扨々(さてゝゝ)水悪(ミづあし)き
   ○ 三月十五日(阿波)
     (中略)七ツ時半、焼山寺の廿五町麓(ふもと)にて一宿す、夜風(よかぜ)の音(おと)は身(ミ)にしミ、ふとんとても
    なく、いたわしくも土中(どちう)に丸太を揃(なら)へ、其上(そのうへ)に板(いた)をならへ、古(ふる)き筵(むしろ)を
    敷(しき)なし、風呂(ふろ)はおろか水(ミづ)も弐三町渓間(たにま)へ汲(くミ)に参(まい)る事、夜更(よふけぬる)ぬ
    (ママ)つけては、狼(ろう)猿(ゑん)のこゑ山(やま)に響(ひヾ)く、その恐(おそ)ろしく、鹿猪(ろしや)なとは往来
    (ゆきゝ)の道(ミち)へもたらへ(ママ)、たゝたゝ帋袋(かミのふくろ)を我家(わがいへ)と定(さだ)め、寒(さむ)きを
    防(ふせ)ぐなり、誠(まこと)に都(ミやこ)を袋(ふくろの)うちよりは、なつかしくそんし暮(くら)し日(ひ)もあり、
    たゝ焼火(たきび)をちからとそんじるなり
   ○ 三月廿七日(土佐)
     (中略)いおき村新宅(あたらしきいへ)にて後家(ごけ)、一人住ス、筵(むしろ)ニ候へ共、きれい心能休(こゝろよ
    くやすみ)ミ候、夜(よ)に入て男壱人宿へとまりにけり、しかれとも風呂(ふろ)はなく二三町の隣村(となりむら)へ湯
    (ゆ)やへ参るなり
   ○ 四月廿三日(伊予)
     (中略)五十九番札所国分寺(こくぶんじ)いづれ参(さん)ず、同所にて宿す、筵(むしろ)にて備前(びぜん)の人は別
    (へつ)の家居(いへい)をかり、藁(わら)屋いぶせき裏(うら)やにて水は悪き、風呂もなく、ふとんハもとより、(中
    略)備前の人朝尋参り候へとも草臥、あとより発足す((101))

 上記の宿の中で、升屋徳兵衛が比較的高い評価を下したのは、土佐のいおき村(現安芸市)だけである。畳が無く筵(むしろ)敷きであったり、風呂はもらい湯だったが、当時としては珍しいことではなかったのであろう。彼の宿泊箇所は、連泊を1か所に数え、宮島参拝や西国巡礼を除くと42か所である。施設について記述のあるところだけで比較をすると、風呂があったのが10件、無かったのが17件、布団があったのが5件、無かったのが9件、畳があったのが4件で、14件は無かったとしている。当時の宿の状況は大体把握できるであろう。彼は注意書きに「帋大袋(かミのおゝふくろ)は一人宛持参(つヾちさん)がよろし」としているが、これは紙製の寝袋であり、布団がない時の必需品であった。
 彼は宿の食事についても記している。総論として「食事(しやくじ)といへは四国(しこく)にては七ツ半ニ泊(とま)りでは夕朝昼(せきちやうひる)迄弁当迄(べんとうまで)もたき置、朝飯(あさはん)さいなく胸塞(むねふさがり)りけるとて吃(たべ)ざりけれは、冷飯(れいはん)を茶漬(ちやづけ)にて流(なが)し込(こミ)」と記す((102))。朝食に菜(副食)が無いとあるが、個別の宿での記録にも「さいはなく」とか、有ったとしても「さいのものはわらひ茶斗なり、」とか、あるいは「したしもの梅干を玉ふなり」など簡素な様子がうかがえる。善根宿でさえ「湯をたき、ちじやのしたし物くれ候故、醬油代(しやうゆだい)とて十銅つゝ出(いだ)すへきよう((103))」などと心配をしている。ちなみに英仙は、その遍路記の中で、持参物の注意事項に「味噌、香ノモノ(竹皮ニツゝム、切ラスベカラス)」あるいは「干大根(キザミ)、ヒジキ、アラメナド(□染テヨク干テ持行ベシ)」と細かく食品をあげており((104))、同じく玉井元之進が各所で味噌を購入しているのも、このような状況があったからである。味噌を副食にして長距離を歩く旅であるが、前節で見たように道中で受ける接待では上等の食事が与えられることもあった。また、英仙は、茶屋などで、アラメ、芋ノ茎、トコロテン、モチ、モチマンチウ、タンゴ汁などを売っていたと記している。
 文政元年(1818年)備後国(現広島県)の母子3人が宇和島城下の世渡屋甚助の家に宿泊した。ところが母親が病死し、続いて弟も病死し、ひとり兄の蘭吉だけが残されることになった。母が病気になって以来、宿主の甚助は親切に看病をしてきたというので、奉行からお褒(ほ)めの言葉をもらっている。蘭吉は子供なので、生まれ故郷へ送り返してやった。その後、備後からお礼のあいさつにやってきて、町役人や宿主さらに蘭吉を故郷まで連れて行った面々に進物が届けられたという。また、この年には、同じ備後国の遍路が冨野川村(現野村町)で病気になり、親切にされたのであろう、後に備後の町宿老からあいさつと進物が届いている。さらに文政5年(1822年)、周防国(現山口県)の遍路が宮下村(現宇和島市)で死亡した。幼少の娘がいたのでその養育をしていたが、結局その子も亡くなった。残念ではあったろうが、長州藩侯より庄屋へ銀5両さらに十蔵へも銀百目が与えられたという((105))。

写真1-2-1 現在の仙龍寺通夜堂

写真1-2-1 現在の仙龍寺通夜堂

新宮村。平成14年10月撮影