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遍路のこころ(平成14年度)

(1)近世の宿①

 四国遍路がいつ始まったかはともかく、具体的に宿についての情報を知りうるのは遍路記が残され始めてからである。遍路記は、17世紀が初見であり、江戸時代後期にはかなりの数の遍路記を見ることができる。近世については、この遍路記を中心に宿の変遷を整理していく。ただ、遍路記を書き残す遍路は、社会の上流に位置していた人たちであり、しかも個人の旅行記であるから一般性に乏しく、他の史料も加えて整理した。

 ア 不自由な宿

 一般の旅人の営業的宿泊施設としては賄い付きの旅籠(はたご)と素泊まりの木賃宿があった。旅籠の成立期については種々の説があるものの、遅くとも17世紀半ばには成立しており、木賃宿は中世からあったとみなされている(①)。しかし、元禄2年(1689年)に門弟の曽良を連れて奥羽に旅した松尾芭蕉も決して宿に恵まれた旅だったわけではない。『日本の宿』の著者宮本常一氏は、曽良の日記を参考にしながら、次のように述べている。芭蕉は、一般の旅宿(りょしゅく)に泊まることもあったが、庄屋などに泊めてもらっていることがきわめて多い。また、前夜泊まった家で添え状をもらい次の宿に泊まった例もある。風呂(ふろ)に入ることも稀(まれ)であった。風呂を沸かしてもらったことを日記に特筆しているほどである。また、『奥の細道』に「土坐に筵を敷てあやしき貧家也。ともしびなければいろりの火かげに寝所をもうけて臥す」とあるように、貧しい民家に泊まらねばならないこともあった(②)。芭蕉研究家の井本農一氏は、「蚤虱 馬の尿する 枕もと」という芭蕉の句について、これは事実とまったく掛け離れたものではないであろう(③)と述べている。
 これに対して遍路の旅は信仰の旅であり、一般の旅とは異なって地域民衆の支えがあった面もある。諸藩の対応も、一般の旅に比べれば寛容であった。しかし、封建的規制がなかったわけではない。例えば、土佐藩領内での通行日数制限は、幕末には30日以内と制限されているし、宇和島藩領内でも7日以内である。日数制限だけではなく、遍路道を離れての通行は厳しく制限された(④)。両藩だけではない。出身地が武蔵国(現埼玉県)である野中彦兵衛は、船で来て讃岐国丸亀(現香川県丸亀市)へ上陸しているが、その時役所から、150日以内に四国をすべて打ち終わるよう一札を渡されている(⑤)。四国全体の宿泊日数についても制限されていたことになる。
 遍路のいわゆる捨て往来手形(⑥)を見ると、通行手形により形式上多少の差異は認められるものの、次の4項目は必ず記載されている。①身元の証明、②関所の通過願い、③行き暮れた場合の宿の提供依頼、④病死した場合の処置、である。行き暮れて宿泊場所に困った時の宿の提供は必ず記入されており、遍路にかかわらず旅人にとって、宿はそれほど重要なものであった。
 文化元年(1804年)に四国遍路をした英仙本明の『海南四州紀行』の巻末に「用心」と題して記された14の項目がある。大変具体的な注意事項(⑦)であり、米の値段1項目、藩札の扱い5項目、便所1項目、独行の夜歩き1項目、両替1項目に加えて、宿に関する次のような注意事項がある。遍路は、宿所では家名や地名を聞いて記入しておくこと、宿や休息所を出る時には忘れ物が無いようにすること、讃州は宿所が得がたいこと、月山道も同じであること等、宿泊関係の注意事項が5項目にわたって記されている。宿泊についての関心が高かったことを示す例である。また、文政2年(1819年)に四国遍路をした新井頼助が『四国日記(⑧)』の末尾に付記した、旅で気を付けるべき6か条を見ると、頼助の場合も、6か条のうち4か条までが宿関連のもので、宿でのけんか、食事、寝方、宿を出発する時の注意事項が記されている。

 イ 17世紀の宿

 (ア)概 況

 17世紀の宿について具体的記述が見えるのは、京都智積院の学僧であった澄禅が、承応2年(1653年)に遍路をした記録『四国遍路日記』と、豊後国子灯村(現大分県国見町)の弁差(べさし)(弁指(べんさし)のことで、庄屋の補佐役あるいは村の旧家)であった矢野一円が、元禄4年(1691年)に遍路をした記録『四国遍路覚』の二つの遍路記である。
 また、遍路記ではないが四国遍路の案内書として、澄禅と同時代に遍路をした真念が、貞享4年(1687年)に『四国邊路道指南(みちしるべ)』、元禄3年(1690年)に『四国徧礼功徳記』を発行しており、さらに真念の知見に基づいて寂本が四国霊場の案内書『四国徧礼霊場記』を元禄2年(1689年)に著している。
 17世紀の宿は、最初の遍路記で宿所の記述も詳しい澄禅の記録を中心に、上記の史料を交えながら整理していく。
 澄禅の旅は、承応2年(1653年)の7月25日に阿波国(現徳島県)の十七番井戸寺を打ち始めに91日間に及ぶものであったが、雨天のためとか、住持僧の要望とかによって数日の滞在をしており、連泊を1か所とした宿の実数は68か所である。内訳は、寺院が40か所でその内札所寺院で泊まったのが18回に及び、寺での宿泊が全宿泊か所の6割弱を占める。次いで多いのが民家である。民家・民屋・在家などと記述されているが、特別な違いがあるとは思われない。これが合わせて19か所である。ほかに遍路屋が2か所。残る7か所については、「窪川ト云所二一宿」のように地名のみで家についての記述がない。地名のみの所はおそらく民家であろうと推測される。
 澄禅に遅れること38年、矢野一円は元禄4年(1691年)2月30日に伊予国の大洲(現大洲市)から歩き始めて、48日間の行程であった。連泊は1か所と数えて宿所の総計は45か所で、内訳は、僧侶であった澄禅とは異なり民家が38か所と8割弱を占めて最も多く、寺院泊は5か所と少ない。また、遍路屋や大師堂にそれぞれ1回宿泊している。

 (イ)寺 院

 まず、澄禅が利用した宿泊施設は、寺院が最も多い。彼の場合は、著名な新義真言宗の学僧であり、他宗派の寺院にも泊まっているが、真言宗の寺院が圧倒的に多いのは当然といえよう。では、この時代、寺は宿泊施設として一般の遍路にも開放されていたのだろうか。社寺参詣史の研究を行った新城常三氏は、中世における寺院の役割に言及し、「寺院が旅宿として貴重な存在であったほか、僧侶・俗家の建立にかかる幾種かの慈恵的な宿泊所ないし休息所がある。中世の旦過堂及び接待所等もその一つである。(⑨)」(旦過堂は、旅僧が一宿する所。)とし、四国遍路や西国巡礼等については「札所及び参詣寺院のほか、一般寺院や辻堂等もまた宿所その他に、巡礼が容易に利用し得たことは疑いない。(⑩)」と述べ、寺や仏教関係の施設も宿泊機能を果たしていたことを記している。これらの機能が、近世にも受け継がれたため、矢野一円のような一般の遍路も四十五番岩屋寺などの札所に宿泊しているのであろう。

 (ウ)善根宿としての民家

 澄禅が宿泊した宿で、次に多いのが民家である。仮に地名のみの記述にとどまる7回を加えると26回となる。民家が営業ではなく無料で遍路に宿泊を提供した場合を善根宿というが、澄禅がこれら民家に宿泊料を置いたかどうかは不明であるため、そのすべてが善根宿であったかどうかは分からない。新城氏は、この中でも、亭主の信仰心による接待が特筆されている宿について、「伊予宇和島の今西伝助、同久米村の武知仁兵衛ごときは、無類の後生願で、澄禅を宿泊に誘ったし、さらに伊予戸坂の庄屋清左衛門亦同様であり、これらいずれも善根宿であろう。(⑪)」と述べる。これらの人々についての記述は、遍路記における善根宿の最古の例であり、少し詳しく紹介する。今西伝助の場合は次のように記されている。「其夜ハ宇和島本町三丁目今西伝助ト云人ノ所二宿ス。此仁ハ齢六十余ノ男也。無ニノ後生願ヒ(二)テ、辺路修行ノ者トサエ云バ何モ宿ヲ借ルヽト也。(⑫)」とあるように、今西伝助は、澄禅という高僧だから泊めたのではなく、遍路とみれば誰にでも宿を貸したと紹介されている。
 また、武知仁兵衛の後生願は特別で、澄禅は、仁兵衛と四十九番浄土寺の門前で出会い宿泊を誘われた。しかもまだ午後2時ころという時間帯である。普通は宿を勧める時間帯ではなく、かなり熱心な勧誘であったと思われる。家には持仏堂を構え、近くに寺まで作って僧侶を住まわせていたという。さらに、戸坂(現宇和町)の庄屋清右衛門(新城氏の引用文中の清左衛門は、この清右衛門である。)は、「四国中ニモ無隠後生願ナリ、遍路モ数度シタル人ナリ。(⑬)」と記され、熱心な弘法大師の信奉者であったといえる。澄禅は、阿波国(現徳島県)の民家でも「終夜ノ饗応」を受けている。
 この他、真念の『四国徧礼功徳記』には、宇和島下村の「こんや庄兵衛」が、「たゞ随喜して、宿をかし馳走し、悪病人といへども沮(はゞ)む事なし。」と記し、今治の余村(現今治市)では、遍路をいたわり宿を貸す治右衛門という人物を記している(⑭)。また、矢野一円は『四国遍路覚』に、伊予国「はんた村」(現川之江市)で「殊外ノ馳走二あい申候(⑮)」と記し、阿波国石井村(現石井町)でも同様に記している。これらの宿は典型的な善根宿であったと考えて良いであろう。
 一方、真念は、『四国邊路道指南』に、遍路に宿を貸す人々を、三つの記載方法であげている。一つは、『おゑつか弥三右衛門遍路をいたはりやどかす。(⑯)』のように、その人物を説明しながら記載しているもの、次に単に名前だけあげて「宿かす」と記載したもの、さらに土佐国くれ村(現高知県中土佐町)では、宿を貸す人名をあげた後に「そのほかこヽろざし有人有。」とか、讃岐国(現香川県)では、「たい村、皆々志有、やどかす。(⑰)」などのように人名もあげずに、多くの人々が宿を貸すと記載したものである。
 新城氏は「宿かす」の記述について、例えば「・‥(伊予)よむら次左衛門やとかす…」のように単に宿主名のみを記しかものは、「これは、本書が案内記としての性格から、この村に着けば、誰々の所に泊まれるということを示したまでであろう。」としている。しかし、何らかの説明が加えられた人物については、「たとえば、土佐窪川で、七郎兵衛やどをかし、善根なる人あり等で、そのほか、『志ふかき人』とか、『志あり』とか、『いたはり』とかが宿主に付けられている。この5人の中には、無償でしかも積極的に宿を提供するものがあったものと考えられる。(⑱)」として、説明文のある人物については、積極的な善根宿の提供者である可能性が高いことを示唆している。
 同じく宿を提供するにしても、信仰の立場から、積極的に無償で行うのが善根宿であろう。しかし、それだけでは理解できない民家が存在する。矢野一円の『四国遍路覚』には、民家に「木賃」を支払った記述が1か所だけある(⑲)。木賃を支払った1か所と「馳走」に逢い善根宿と考えた民家2か所を除いて馳走も木賃も記されていない民家宿泊が35回ある。金銭支出について、澄禅はなにも記していないが、一円は1回だけでも記しており、残る35回のすべてが記載漏れであるとは考え難い。そうすると、35回の民家への宿泊形態はどのようなものであったのか。
 本説では、消極的で遍路に請われた結果であっても、無償で宿が提供された場合は、その宿を善根宿として解釈する。一円の記す民家35軒は多くがこのような善根宿であったと考えられるし、澄禅の場合も、特筆した人たち以外に、多くの消極的な善根宿提供者がいたはずである。また、真念が単に「宿かす」とした記述の中には、上述した下村の「こんや庄兵衛」のように別書で積極的な善根宿の主として書かれているような例もあるが、多くは、請われれば、無償で宿を提供する人々であったと思われる。その証拠に、一円は、真念が単に「宿かす」と紹介した宿の内、「のね浦」(現東洋町)の五郎衛門(真念は五郎右衛門とする。)、「いたむら」(現大方町)の弥兵衛方に実際に宿泊している(⑳)が、両者ともに「殊外ノ馳走」を受けたとも木賃を支払ったとも記していないのである。
 このような各地の善根宿はどのようにして生まれたのであろうか。新城氏は、中世日本の閉ざされた社会では、一般に旅人を温かく迎えたとは考えにくいとしている(㉑)。また、宿の研究をしている笹本正治氏も、旅人は自分たちが持っていない特殊な能力や技術を有する反面、悪いことを村に持ち込む可能性を秘めた人間としておそれや嫌悪の感情を持たせる存在であり、進んで村内に迎え入れようとはしなかったとしている(㉒)。では、なぜ人々は進んで遍路を受け入れるようになったのか。
 新城氏によれば、中世においても、僧侶に関しては様々な援助や便宜が図られていた。それは、人々の旅僧等への支援が、やがて仏の慈悲に浴し、白身の信仰的要求を充たす因縁となるものと信じられていたからである(㉓)とする。このような僧侶に対する考え方は、古くは9世紀の『日本霊異記』や12世紀の『今昔物語』などの説話によって庶民の間に流布していたものと思われる。この考え方は、僧侶だけでなく遍路にも適用された。その旅人が遍路である場合は、一般の旅人と事情が異なり、それは聖なる行為の実践者として、僧侶に準じる敬意が払われた。遍路に対して援助を行えば、僧侶に対したと同じように神仏の慈悲が、善行者に還るとの考えからである(㉔)。
 真念の『四国徧礼功徳記』には、遍路を大切にするとどのような功徳をもたらすか、逆に遍路を軽んじるとどのような罰がかえってくるか多くの類話を採録して示している。四度栗の話は、そのうちの一つの例で遍路に宿を提供し栗を馳走(ちそう)したために、1年に四度実がなる栗の木を得たという話である。真念は、そのような説話を紹介した後、最後の第27話に「遍礼人をあしくすれば忽ばちあたり、崇敬しける人はさいはひあり。四国にハ、おほくめに見、耳にきヽける事あるがゆへに、こヽろある人ハ、遍礼をヽろそかにせず。近年分別して善を修する人おほし。接待をし、宿をかしなどこヽろざしあさからず見えける。(㉕)」と締めくくっている。澄禅や矢野一円に宿を提供した民家の人々、あるいは真念が「宿かす」とした人々の多くは、こうした思いを持つ接待者の善根宿ではなかったかと思われる。

 (エ)遍路屋

 17世紀の史料には、遍路屋・辺路屋・遍礼屋(へんろや)などと記された施設が見られる。澄禅の『四国遍路日記』には辺路屋と記された所が6か所、真念の『四国徧礼功徳記』には遍礼屋と記された1か所、矢野一円の『四国遍路覚』には辺路屋・遍路屋と記した所がそれぞれ1か所ずつある。また、『四国徧礼霊場記』には絵に描かれた4か所の逞路屋がある。ただ、澄禅の泊まった「弥谷の麓の遍路屋」と一円が宿泊した「讃岐国弥谷の山の遍路屋」は同じものと考えられるから、史料に記された遍路屋の合計は12か所である。表記は様々であるが、同様の施設と思われ、以下では遍路屋と表記する。
 遍路屋とは、どういう施設でどういう起源を持つものであろうか。新城氏の意見を要約してみる。遍路屋とは遍路の無料宿泊施設で、古代の布施屋、中世の旦過庵などに見られるような無料宿泊所の一つであり、必ずしも近世特有のものではないとし、そのような無料宿泊所は四国以外にも各地で見ることができるという。ただ、これほど多く広汎(こうはん)な地域に見られるのは、四国特有の現象であるとしている。遍路屋の起源は明らかでないが、『長曾我部地検帳』に「辺路ヤシキ」の言葉が見える。これは天正の末(16世紀末)ころに辺路ヤシキがあったか、もしくはそれが地名化していたことを示しており、遍路のための宿泊所つまり遍路屋に相当する施設が、四国内にすでに存在していたことの証拠であろうと推測している(㉖)。
 新城氏の論を参考にしながら、遍路屋と記された施設を幾つかのタイプに分類してみる。
 まず、澄禅が遍路屋の一つとして把握しているものに駅路寺がある。駅路寺は慶長3年(1598年)阿波の2代藩主蜂須賀家政が指定したもので、明確な史料が残っている。行き暮れた遍路を始めとする旅人に宿を提供し、また監視するための寺である。その役割のために「堪忍分十石」が寺に支給されていて、「似合之馳走」とあるから、おそらく食事も用意されたのであろう。この駅路寺に指定されたのは、長谷寺(木津村[現鳴門市])、瑞運寺(引野村[現上坂町]、のち安楽寺と併合)、青色寺(佐野村[現池田町])、長善寺(中庄村[現三加茂町])、福生寺(川田村[現山川町])、梅谷寺(桑野村[現阿南市])、円頓寺(宍喰浦[現宍喰町・廃寺])、これに打越寺(山河内村[現日和佐町])を加えて、合計8か寺である(㉗)。澄禅は、「海部ノ大師堂二札ヲ納ム。是ハ辺路屋也。」とか「鹿喰ト(云)所二至ル。此所迄阿波ノ国ノ内也。爰二太守ヨリ辺路屋トテ寺在リ。往テ宿ヲ借タレバ、坊主樫貪第一二テワヤクヲ云テ追出ス。」、さらに「此佐野ノ里二関所アリ、(中略)北ノ山ギワニ辺路屋在リ。」と記している(㉘)。これらの寺は、それぞれ海部郡の打越寺、鹿喰(宍喰)の円頓寺、佐野の青色寺と考えられており(㉙)、このことからすると、遍路道沿いの駅路寺は遍路屋と考えて良いであろう。これが一つ目のタイプである。
 次に、澄禅が記す遍路屋には、大師堂がある。なお、本説で取り上げる大師堂は、札所にある大師堂ではなく、遍路道沿いに建てられている村堂の一つとしての大師堂であるが、澄禅は、野根の大師堂と宇和島の大師堂をあげている。また、真念の『四国徧礼功徳記』は、真念が遍路屋を建てたと記している(㉚)。のちに真念庵と呼ばれるこの遍路屋は、『土佐国堂記抄録』に、天和2年(1682年)大坂寺島(現大阪市西区)の真念が四国遍路のために建てたものであると紹介され、地蔵と大師が祀(まつ)ってあったという(㉛)。さらに、矢野一円は、伊予国大洲藩領で「上瀬二辺路屋有、本尊阿弥陀(㉜)」と記す。上瀬は大瀬(現内子町)だと思われるが、真念の『四国邊路道指南』の記述とは合っていない。真念は、大瀬村に寿松庵という大師堂があると記し、隣村の川のぼり村(現内子町)に阿弥陀堂がある(㉝)としている。本尊か村名のいずれかをどちらかが間違えたのであろう。いずれにしても、一円も大師堂あるいは阿弥陀堂などの村堂を遍路屋と記している。この大師堂などの村堂が二つ目のタイプである。
 次に、寂本の『四国徧礼霊場記』が遍路屋と記すのは4か所である。阿波国五番地蔵寺の境内図に2か所、篠山観世音寺に1か所、伊予国六十番横峰寺の境内図に1か所、遍路屋と記された建物が描かれている(㉞)。札所の境内にあるのが特徴で、澄禅や一円が泊まった七十一番弥谷寺の麓の遍路屋(㉟)もあるいは同様のものであったかも知れない。後述する通夜堂(札所や番外霊場にある宿泊施設)を思わせるが、実態は明らかでない。これが三つ目のタイプである。
 こうしてみると、遍路屋は、阿波藩侯による駅路寺、遍路道沿いの大師堂などの村堂、あるいは札所の施設などを総称していう言葉と考えられる。共通しているのは、遍路を宿泊させる無料の施設であったろうということである。

 (オ)村堂と旅籠

 ここでいう村堂とは、小地域の信仰で建てられた仏堂の意味であり、本尊が何であるかは問わない。先に、大師堂や阿弥陀堂の村堂が遍路屋であった例をあげたのであるが、遍路屋とされていない多くの村堂は遍路の旅には無縁であったのか。真念の『四国邊路道指南』は、通過する遍路道沿いの村々の名を次々とあげながら、極めて簡明に道筋を記している。ところがそのような中にあって、村名に続いて大師堂、地蔵堂、薬師堂、観音堂などの村堂が、数十か所で記されている。記述の仕方は、「桜休場の茶屋。大師堂、是堂ハ此村の長右衛門こんりうしてやどをほどこす。」など詳しく書かれた所と、「むた村、大師堂、」とか「なりゑ村、観音堂、大師堂。(㊱)」と至って簡単な記述の所がある。これらの村堂が四国遍路の案内書に書かれている理由は何であろうか。
 詳しく書かれた所は、桜(現松山市)の場合などで明らかなように、遍路に宿を提供する村堂である。例えば、大瀬村(現内子町)の項には、「大瀬村、大師堂、雲林山寿松庵是有。此ところにすまいする曽根の清左衛門、先祖経営して永くミほとけの御弟子に奉り、辺ろの人を憩(いこわ)しむる所とせり(㊲)」と書かれている。これも、宿泊を提供したと思われる。さらに真念は土佐国「でうりんじ村」(現南国市)、伊予国「はらわら」(現津島町)にも宿を施す村堂があるとし(㊳)、合計4か所を記している。
 簡単な記述の所は、詳述された所よりはるかに多い。新城氏は「これらの村堂は四国以外でもどこでも求道者や貧しい旅人の仮の宿あるいは野宿として利用されているように、貧しい遍路もまた大師堂そのほかの村堂を一夜のねぐらとすることの多いのは疑いない。(㊴)」とし、真念が特別な説明を加えずに記している村堂も、遍路の宿泊があったと推測している。一例ではあるが、真念と矢野一円が同じ土佐国以布利(現土佐清水市)の大師堂に言及している。真念は、「いぶり村、大師堂。」と至って簡単、一円は「以布理浦大師堂休意庵二壱宿」と記している(㊵)。両者の記す大師堂は同じものであろう。とすれば、簡単な記述の村堂も一円のような裕福な遍路の宿泊場所になっていたことになる。
 このような村堂の一部が遍路屋とされ、多くが遍路屋と書かれていない理由は不明である。
 次に、この時代の営業的宿屋である旅籠(はたご)と木賃宿については、真念と一円がそれぞれ一例ずつ記している。一例しかないのは、遍路の宿としてまだ一般的ではなかったのであろう。
 真念の『四国邊路道指南』に、「にゐやの町、調物よし、はたご屋も有。(㊶)」と記されている。このことから、かなり早い時期に「にゐや」(現大洲市新谷町)に旅籠屋が成立しており、遍路の案内書に記してあるため、旅辰屋にも遍路が泊まっていたと思われる。
 矢野一円は、讃岐で「仏生山ノ麓ノ町惣左衛門殿二かちんニテ泊ル。(㊷)」と記している。彼が宿泊した民家38軒中の1軒だけであるが、遍路の宿として初めて木賃宿が記されている。
 江戸後期になると、遍路が利用する宿は、高級な宿である旅籠に宿泊するよりも木賃宿が一般的となっていく。

 (カ)宿の苦労と交流

 僧侶として多くの寺院に宿泊することができた澄禅にしても、けっして宿は十分な数ではなかった。本来、遍路の宿泊に充てられるはずの駅路寺も、円頓寺では追い返されているし、夕刻に訪れた二十八番大日寺では、寺の事情もあったようだが宿泊を断られている。澄禅はこの間の事情を記録した後「ケ様ノ物思イニ依テカ、日暮ニテ宿ヲ借ケレドモ無情云テ追出ス。然間、カヲ失ヒ、山ヲ下リ」と記しており、長途(ちょうと)の旅の疲労感が目に見えるようである。また、同月2日には、「貧キ在家二一宿ス。一夜ヲ明シ兼タリ。」という経験もしている。さらに「其夜ヲ(ハ)大雨ニテ古寺ノ軒雨モタマラズモリケル間、枕ヲ敷兼(㊸)」ねる状態であった。大雨といえば、野根の遍路屋でも、台風のために一睡もできないという経験をしている。
 一方で、楽しい交流もあった。土佐国菩提寺(現野市町)という所で石田三成の家臣であった雨森四郎兵衛に出会い、その夜のことを「終夜ノ饗応中々面白キ仁也。」と感想を記している。翌日の宿泊先田島寺では、「前ノ太守長曽我部殿譜代相伝ノ侍」という僧侶に出会ったが、大の酒好きで、手酌で飲みながら「夜モスガラ昔物語ドモセラレタリ。(中略)大笑。(㊹)」と記しており、楽しい雰囲気が伝わってくる。もっとも、ここが上記の雨漏りのひどい寺である。澄禅が遍路をした時代を感じさせる人々との交流である。二十四番最御崎寺の宿泊では、ここの僧侶が長谷寺で新義真言宗を学んだ人物で、澄禅とは同じ教義を信奉する人物であり、「終夜談話旅行ノ倦怠ヲ安セリ」としている。さらに、七十七番道隆寺の旦那(だんな)(有力な信者)が「光明真言ノ功能ナド」を訊(き)くので伝授した、と彼の知識が役立っている。澄禅は、承応2年(1653年)7月24日に阿波に上陸し10月26日に遍路を終えるまで91日間かかっているが、友人と旧交を温めるなど(㊺)得るところも多かったに違いない。