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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 商店街振興のために

 (1) 平井町商店街振興組合

  ア 街路灯の設置

 「私(Aさん)が商店街振興組合の理事長をしているときに、商店街の通りに初めて街路灯を設置したのですが、今の街路灯は3代目です。商店街のある通りは美川松山線という県道なので、勝手に街路灯を立てるわけにはいきません。ほとんどの街路灯は道路から後ろに下げて商店街の店の土地に立てられています。ただ、バランスよく立てていこうとしてどうしても立てられないときには、県道に立てる許可をもらうために県にお願いに行きました。
 ポールの先端に付けられた水銀灯はスズランの形をしているので、周囲の人からは平井の商店街はすずらん通りと呼ばれることもあります。自分たちで名前を付けたのではないのですが、自然とそう呼ばれるようになりました。」
「平井町の名前を知らなくても、すずらん通りという名前を知っている人はいます。知り合いに『すずらん通りでしょ。』と言われて、『すずらん通りってどこ。』と聞き返すと、『あなたの所でしょ。』とあきれられたことがありました。『水銀灯がスズランでしょ。だから皆がすずらん通りと呼んでいるのよ。』と言われたのですが、実際に住んで店を営んでいる私(Bさん)たちが、平井町がすずらん通りと呼ばれていることを知りませんでした。」

  イ お客さんのために橋を作る

 「昔は川を渡る橋が少なかったので、水泥町から平井町まで来るためにはわざわざ遠回りをする必要がありました。それではお客さんに不便だということで、昭和50年代のことだと思うのですが、商店街からも私(Aさん)たちが出て、基礎を3か所作って、近くの鉄工所に上の部分は作ってもらい自転車が通れるくらいの橋を自分たちで作ったことがあります。その頃はお客さんに来てもらいやすいように、そのようなことをしていたのです。
 ただ、橋が老朽化してしまって、ところどころ上から下が見えるようにもなっていたので、数年前に県から指導を受けて撤去しました(図表1-2-1㋠、写真1-2-6参照)。」
 「その頃は小野川にホタルがたくさんいたので、その橋をほたる橋と名前を付けていました。なくなってしばらくたちますが、私(Bさん)はいまだ橋を渡れると思って、行ってから気付くことがあります。やはり少しのことが遠いので、橋があると便利でした。」

  ウ 土曜夜市

 「商店街では昭和50年(1975年)頃から土曜夜市を実行しているのですが、最初から私(Aさん)が中心となってやってきました。現在はスポーツ少年団も関わってくれていますが、以前は商店街と小野中学校PTAに手伝ってもらっていました。夜市の行われる夜の6時から9時まで25人くらいの人をPTAから出してもらって、その人に対して商店街から報酬が支払われます。それをPTAの活動費の一部に充ててもらっていました。商店街からは男性が出るのですが、店を空けるわけにはいかないので、そこをPTAに補ってもらっていました。そのため中学校と一緒にやっていましたが、小学校には児童にブラスバンドで出てもらっています。また、幼稚園からも園児に踊りで参加してもらっていました。中学校や小学校に参加してもらうのは、私の考えでは、夜市は小野校区の夏祭りという感覚だからであって、商店街は屋台で利益を出すためではありません。土曜夜市は伊予市でも松山でもやっていますが、小野地区の保護者が子どもをそこまで連れて行くのは大変なので、ここで楽しんでもらおうということでやっていました。
 現在では商店街振興組合は解散したので、新しく東さんが地域の有志と土曜夜市実行委員会を作ってやっています。今はメンバーが10人くらいいるのですが、私は口を出さないようにしています。私が商店街振興組合を解散したのは8年くらい前のことになります。私も店を続けることが難しくなり、商店街にももう店が少なくなったのでそうせざるを得ませんでした。土曜夜市もやめるつもりだったのですが、東さんは『土曜夜市がなくなったら寂しいので、私がなんとかする。』と言ってくれたのです。私は『難しいぞ。』と言ったのですが、東さんは『私がする。』と言ってくれました。」

  エ 歩行者天国

 「土曜夜市のときは、商店街を通る県道に車が入れないようにして歩行者天国にしています。歩行者天国にする許可は簡単には取れず、私(Aさん)も苦労しました。ただ、この商店街を通る県道には旧国道11号を始めとしてう回路が幾つかあるので、特別に許可をもらいました。きっかけは昭和61年(1986年)に新しい平水橋ができたことです(図表1-2-1㋡参照)。橋ができる前は川の左岸沿いの道は砂利道だったのですが、アスファルトで舗装された立派な道ができたのです。それで、松山南警察署に許可をもらって歩行者天国にすることができたのです。250mほどの区間ですが、南署の署長に現場を直接見てもらって、許可を出してもらいました。」
 「署長が代わったときに『ここを止めたら、車が通れなくなるので許可できない。』と言われたこともありますが、前の署長に『平井町に行って、実際に見てきてください。そうするとどういう風になっているのか、通れることが分かりますよ。』とわざわざ言ってもらって、無事許可をもらったことを私(Bさん)は憶えています。」

  オ 女神輿

 「女神輿(みこし)は、30年ほど前に宮大工の大西さんから夜市のときに女神輿を出したらにぎやかになって良いのではないかと言われたところから始まりました。それで、大西さんに『私が作るから手伝ってくれ。』と言われ、私(Aさん)たちも参加して新しい神輿を作ることになりました。最初は1体の神輿で土曜夜市のときに出していたのですが、夜市のときは人が多くて神輿を出すことが難しいので、土曜夜市ではなくて秋祭りのときにすることにして、多いときで7体の神輿が参加するまでになりました。1体は商店街で作成した神輿で、あとは素鵞神社など周辺の神社の神輿です。当初は女性が神輿を担ぐことに反対する声もあったのですが、10月7日の本神輿ではなく、女神輿は10月6日の晩なので良いのではないかということになったのです。新型コロナウイルス感染症禍での中断はありましたが、現在でも商店街が頑張っていることのアピールのためにも続けており、今年(令和6年〔2024年〕)は6体の神輿が出て盛り上がりました。全盛期には約400人がかき手として参加しましたが、現在ではかき手も足りなくなっており、平井の外から友達にお願いして来てもらっているそうです。
 商店街はどこでもそうだと思うのですが、周辺から集まって店を出して成立したものが多く、平井町でも町全体としてまつっている氏神はなく、県道を挟んで北が西宮神社、南が素鵞神社と氏神となる神社が別々となっています。」

  オ スーパーマーケットと商店街

 「私(Aさん)が商店街振興組合の理事長をしているときに、近くにスーパーZというスーパーマーケットができるというので、商店街の何人かと一緒に反対の座り込みに行ったことがあります。しかし、県の要綱で売り場面積が一定以下であれば営業は止められないというので、認めざるを得ませんでした。スーパーZができるときも、そごうマートができるときも商工会に何度も足を運びましたが、どうしようもありませんでした。
 ただ、このスーパーZとそごうマートには、商店街振興組合の理事長として店に行って『開店は認めますが、30人ほどの組合員がいる商店街の店は振興組合に年会費を払って運営しているのだから、そちらも年会費を負担して欲しい。』と話しをしました。できることはそのくらいで、その頃は30軒ほどあった商店街の店も現在は4、5軒となってしまっています。大型店にはかなわず、店をやってもお金にならないので、一旦外に出た人が帰って後を継ぐことはありません。
 それで平成29年(2017年)には商店街振興組合も総会を開催して、解散を決めました。現在は任意団体である平井商店会という組織を東さんが作って、街路灯の管理などをやってもらっています。」

 (2) 土曜夜市の存続のために

  ア アズマデンキ

 「もともと私(Eさん)は久万高原(くまこうげん)町の出身なのですが、父が久万で電器店を経営していて、古川にも支店を出していました。それで昭和62年(1987年)に、私の父が平井商店街の永井洋品店の生まれということもあり、3店目としてこちらに出店することになりました。最初は現在のふれあいサロンのところに店を出したのですが、借りてやるよりは良いと考え、現在のところに店舗を移しました。
 私の店は日立チェーンストールといって、日立の家電販売をメインに行っています。量販店や通信販売、ネットショップが主流の家電業界で、小さな町の電器店ですが、今の厳しい状況の中、なんとか営業しています。」

  イ 平井商店会の結成

 「現在の夜市は新しい組織が運営し始めて8年になります。以前の組織は平井町商店街振興組合という組織でしたが、この振興組合を解散しますという話になりました。そして、立っていた街路灯を一部撤去して、夜市もやめますということになっていたわけです。私(Eさん)は本当にやめてしまって良いのか、夜市もおんなの秋祭りもやめてしまって良いのかと思いました。しかし、十人が十人から存続は無理だと言われ、私もこのまま流れに任せてやめた方が楽だとも思いました。ただ、学校のPTAなどからはなんとか続けて欲しいという声が上がっていました。さんざん悩みましたが、私が平井商店会という組織の会長になって土曜夜市の存続を目指し、手探り状態で始めました。
土曜夜市存続のために、この地域で様々な活動に取り組んでいる有志に小野地区土曜夜市実行委員会という会を作ってもらい、平井商店会と土曜夜市実行委員会で共催という形にしています。お金がなく松山市の補助金を当てにしているので、平井商店会が松山市の補助金をいただき、土曜夜市実行委員会とともに使うという形でやっています。新しくなって3年はうまくいきましたが、次の3年は新型コロナウイルス感染症禍で実施できませんでした。去年久しぶりに実行して、46回目の今年(令和6年〔2024年〕)で新しくなって8年たっています。」

  ウ 街路灯の維持管理

 「平井商店会では街路灯の維持も行っています。昔は平井の商店街で50基以上立っていたらしいのですが、商店街振興組合を解散するので街路灯も撤去することになりました。しかし、ある程度は残して欲しいとお願いして、新しい平井商店会の所有にしていただきました。電気代も掛かりますし、壊れることもあるので、平井商店会街路灯管理組合というものを作って、寄付を募って、私(Eさん)が管理をしています。商店街に住んでいる人にも電気代の支払いをお願いしているのですが、月1,000円の電気代を負担している人と負担していない人に分かれています。継続した支払いをお願いしているのですがなかなか大変です。
 ただ、街路灯があるから夜市もおんなの秋祭りも実行できていますし、一般の街路灯よりもかなり明るく、防犯面でも役に立っているので、やれる間はなんとか維持したいと思っています(写真1-2-7参照)。」

  エ ボランティアで運営

 「土曜夜市も私(Eさん)や有志がボランティアをしているのでなんとか続けられています。夜市は7月から8月に掛けて土曜日に4回開いていますが、その際は午後1時から準備をして、午後6時から午後9時までの夜市の後に片付けをしますので終わるのは午後10時、11時です。その間、土曜日ごとに私は炎天下を2万歩以上歩きます。さらに電器店はエアコンの取り付けなど夏場が繁忙期なので肉体的にも厳しいのですが、なんとかやっています。今65歳ですが、自分でもよくやれているなと思います。
 人手も足りないので、有志のボランティアをしてくれそうな人に声を掛けて、1回でも2回でも参加してくださいとお願いしています。もう少し参加してくれる人を増やしたいのですが、ボランティアなのでなかなかお願いするのも大変です。商店街で実施していたときは、商店街の店舗の数も多く、商店街のメンバーが出てくれました。しかし、今は商店街に店が少ないので実行委員会のメンバーだけで回すのですが、ボランティアの人に4週とも来てくれというのは難しく、結局人がいないわけです。
 夜市での出店は中学校のPTAやスポーツ少年団、それから自主防災組織など小野地区で活動している人に参加してもらっています。現在は、ごみ捨て賃や電気代などの費用は平井商店会が負担し、出店者は参加料として1週間につき1,000円くださいということにしています。4週出店したところは4,000円で1週だけのところは1,000円です。それでもうけたお金は全て団体が持って帰ります。中学校のPTAやスポーツ少年団などは結構な売り上げになるのですが、それを地元で子どものために使ってくれれば良いと考えています。そうして、子どもたちを喜ばせて、なおかつPTAやスポーツ少年団の活動経費を稼いでもらって、そのお金を子どものために使ってもらうというシステムです。小野地区土曜夜市実行委員会、有志の皆さん、梅本の里さん、小梅さん、自衛隊さん、たくさんの方々の協力のおかげで成り立っており、子どもたちや地域の皆様には喜んでいただいているのではないかと思います。私も地域や商店街に恩返しをしたいと思いますが、実際のところはとてもしんどい思いをしながらやっています。ただ、私たちの行動で子どもたちや地域の人が喜んでくれているので大成功ではないかと思っています(写真1-2-8参照)。」

  オ コロナ禍での苦労

 「商店街振興組合が解散したので、新しい組織を作っても資金がゼロです。それで、最初は土曜夜市実行委員会の有志の人に6万円ずつ借りて、マイナス30万円のところからスタートしました。貸してくれた人も有難かったのですが、私(Eさん)も自分のことながら良くやったと思います。十人が十人無理だというイベントが成功したのだから、これは奇跡が起きたからだと皆には言っています。それで初めの3年間はずっと右肩上がりで人も利益も増えてきました。
 ところがコロナ禍で、それでも2年間実行できなかったのは仕方がないのですが、3年目は実施するということになって、1週間前には準備も完了して、月曜日に折込チラシを入れる直前の日曜日に、新型コロナが急に増加しました。それで中学校のPTAの方から中止にして欲しいという要望がありました。準備ができて、仕入れも終わっているのだから今更中止にはできないと言ったのですが、強く要望されて仕方がなく中止にしました。PTAの皆さんの手伝いがなければ夜市は実行できないからです。月曜日にやりますという折込チラシを入れて、木曜日には中止ですという折込チラシを入れました。
 お菓子などはそごうマートさんが返品を受け入れてくれたので助かったのですが、玩具は買っており、1年間抱えておくのは難しいので、秋に農協を借りて、『土曜夜市みたいな子どもの秋祭り』というイベントを昼間1日だけ行いました。そうするとびっくりするほど人が来て、10時から15時の間に1,000人以上が来て、大にぎわいでした。子どもたちには喜んでもらえましたが、運営する私の方はなかなかハードでした。」

  カ 自衛隊の協力

 「今年(令和6年〔2024年〕)から土曜夜市に自衛隊さんが来てくれたのはラッキーでした。小野地区には自衛隊松山駐屯地小野地区協力会という組織があって、それに私(Eさん)が参加したときに、司令と話をさせていただく機会があったので、参加していただけないかという話をすると、司令が土曜夜市を見に来てくれました。その司令は転勤されたのですが、きちんと引き継いでくれていたので今年初めて参加していただきました。
 お互いに良いことで、自衛隊さんは地元への貢献をアピールできますし、私たちも自衛隊さんに参加していただくことで、イベントが一つ増えます。本当に有難いことで、地域交流には十分になっていると思います。」

  キ 子どものために

 「もともと小野地区は地域活動や子どものための活動に熱心な地区です。その中でも中心人物になっているのが小野地区土曜夜市実行委員会のメンバーです。だから、土曜夜市がやれているのはもともとあった小野地区の特色を生かしているからだと思います。
 住んでいる住民からは、小野地区は良いところだという話をよく聞きます。確かに夜市を実施しているだけでも小野地区の子どもは得なのではないかと思います。自転車でも来られますし、夜市ではほとんどが1回200円で遊べます。昔は150円だったのですが、それでは運営できないので、200円に上げさせてもらいました。
 結局、子どもを喜ばせるということがメインテーマなので、そのメインテーマがあるからこそ手伝ってくれる人もいるし、これをずらすわけにはいきません。手伝ってくれる人も皆が結構楽しいと言ってくれます。手作り感満載で、たいしたことはないものも多いのですが、その代わり安いので楽しんでくれているのではないかと思います。PTAさんやスポーツ少年団さんからはアルバイトとして人を出してもらっており、安全安心を売りにしているので、それだけの保護者がいれば、子どもも安心して楽しめるのではないかと思っています。
 楽しみにしてくれている人が多いというのは分かっているので、できる限り、続けたいと思っています。私(Eさん)ができなくなると夜市がなくなるということではいけないので、後継者も作っていかなければなりません。今年(令和6年〔2024年〕)は無事にイベントが成功しましたが、今までになかった倉庫、賃借料など新しい問題が出てきました。厳しい問題ですが、平井商店会、小野地区土曜夜市実行委員会の仲間たちと検討していきます。がんばっていると良いことがあるもので、今年平井商店会は松山市福祉大会市長賞をいただきました(写真1-2-9参照)。」

参考文献
・ 松山市立小野小学校「ふるさと小野」編集委員会『郷土読本(第一集)ふるさと小野』1982
・ 松山市立小野小学校「ふるさと小野」編集委員会『郷土読本(第三集)ふるさと小野』1984
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1984
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991


写真1-2-6 撤去されたほたる橋

写真1-2-6 撤去されたほたる橋

松山市 令和6年8月撮影

写真1-2-7 維持された街路灯

写真1-2-7 維持された街路灯

松山市 令和6年8月撮影

写真1-2-8 子どもたちでにぎわう夜市

写真1-2-8 子どもたちでにぎわう夜市

松山市 令和6年7月撮影

写真1-2-9 表彰された平井商店会

写真1-2-9 表彰された平井商店会

松山市 令和6年9月撮影