データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
1 参川のくらし
(1) 参川の生業
ア 上川
「昭和40年(1965年)ころ、上川では多くの家が山を持っていましたが、林業だけで生計を立てている家はほとんどなく、米作を主とした農業中心で生計を立てていました。当時、上川は林道が整備されておらず、木材の搬出が難しかったからです。その後、林道が整備されましたが、木材価格が低迷していたため、やはり林業専業となる家はほとんどありませんでした。
私(Aさん)の家も農業中心で生計を立てており、米以外に、主に自給用としてトウキビ(トウモロコシ)やコンニャクイモを作っていました。また、ミツマタも栽培しており、山にスギやヒノキを植林した間にミツマタを植えていました。ミツマタの栽培は私が高校を卒業するころまで続けており、近所では私の家が最後だったと思います。また、私の家ではしませんでしたが、一時期、上川で葉タバコの栽培が行われていました。
耕運機が普及する前、私の家では牛に犂(すき)を引かせて田畑を耕していました。家の近所では、それぞれの家が耕牛を飼育しているのではなく、専門に飼育している人がいて、その人から牛を借りて耕していました。私の家でも牛を飼っていましたが、田畑を耕すためではなく繁殖を目的とした牛で、『子出し』と呼んでいました。産まれた子牛は博労が買い取りに来ましたが、雌は繁殖に使えることから、雄よりも高く売れました。
私は農業で生計を立てて行くのは難しくなると考え、高校卒業後は就職して忙しいときだけ家の農作業を手伝っていました。同級生もほとんどが就職して、専業農家となった人はいなかったと思います。」
イ 中川
「私(Bさん)の家も含めて、この辺りの農家は米が貴重な収入源で、自分たちが食べるための米はほとんど手元に残らずに売っていたと思います。昭和30年(1955年)ころ、役場の初任給と米1俵(約60㎏)の価格が同じくらいだったと記憶しています。そのため、水を確保できて平らなところがあれば、少々離れた土地であっても、狭い土地であっても水田を作り、細い山道を通って米作りに行っていました。
米作が中心でしたが、自家用の小麦も栽培していました。収穫した小麦は、必要なときに農協へ持って行って小麦粉にし、その小麦粉でいわゆる『たらいうどん』を作って食べていました。ふだんは、それほどうどんを食べませんでしたが、結婚式などの祝い事や葬式、祭りのときには、うどんはなくてはならないもので、どの人も『おいしい。』と言って、必ず食べていました。うどんは別腹で、何か食べた後でも、うどんが出されると、残さずに食べていたことを憶えています。
昔の農作業では牛が欠かせず、どの家も牛を飼っていました。農耕用の牛は、博労がやって来て、年をとった牛を買い取って、若い牛を売っていました。朝から農作業をしていると、牛も疲れてきて、なかなか動かなくなります。すると、父が『ほら行けよ。』と言いながら、牛を棒でたたくのですが、それを見て『かわいそうだな』と思ったことが忘れられません。
私が高校を卒業するころから、この辺りでも耕運機が普及してきており、私の家も、私が高校を卒業した2年後くらいに耕運機を購入して、農耕用の牛を飼わなくなりました。私は牛が好きで、高校を卒業する前から飼い始めた繁殖牛を、特に大事に飼っていました。穏やかで人懐っこいだけでなく、子出しの良い牛だったので、3、4人の人から買い取りの打診がありました。父は私にその牛をどうするかの判断を任せていて、私は最終的に、大事に飼ってくれそうな人に売ったことを憶えています。その後、2頭の牛を繁殖用に飼いましたが、農業普及員から『これからは、肉牛を飼育しないと生計を立てていくことは難しい。』言われました。私は肉牛を飼おうとは思わなかったので、牛を飼うことをやめて、養蚕やシイタケの栽培を始めました。養蚕は昭和60年(1985年)ころまで続けたと思います。」
ウ 本川
(ア) 野村の生業
「私(Dさん)は現在、本川の中心部で暮らしていますが、出身は麓から200m上った場所にある野村集落です(図表3-1-1参照)。私が野村で暮らしていたころ、全部で30戸ほどの家がありました。1戸あたり5、6人の家が多く、150人ほどが暮らしていました。約20年前から住人が減り続け、一人暮らしも増えてきており、現在は10戸ほどになっています。
私が子どものころ、私の家では養蚕をしており、蚕を年に3回育てていました。野村全体では私の家も含めて5、6軒はしていたと思います。養蚕はやがて衰退していき、野村では葉タバコの栽培に切り替わっていきました。それまで野村までの道は、リヤカーが通れるかどうかの道幅しかなく、車は通れませんでした。昭和43年(1968年)に野村への道が整備されて車での出荷が可能になったこともあって、葉タバコ栽培が始まったのです(写真3-1-1参照)。葉タバコの栽培は、野村全体で17、18軒くらいの家がしていたと思います。野村の土壌が葉タバコの栽培に向いていたのかどうかは分かりませんが、品質の高い葉タバコができていました。当初は、各自が乾燥場を作って葉タバコの乾燥を行っていましたが、それぞれの乾燥場が古くなってきたこともあり、共同の乾燥場を作って、助け合いながら乾燥を行うようになりました。
野村ではほかにも、いつまでしていたかは憶えていませんが、コウゾを栽培する家がありました。また、母からは瓦を製造していた家があったと聞きました。」
(イ) 郵便局で働く
「私(Cさん)は、高校卒業後、地元の郵便局で働きました。働き始めたころ、山奥の方まで配達に行くと、まだ茅葺(かやぶ)き屋根の家があったことを憶えています。昭和38年(1963年)の三八豪雪のときほどではありませんが、この辺りでは冬は雪深くなり、配達に苦労します。私が働いているころは長靴を履いて配達していましたが、明治から昭和のはじめころ、樏(かんじき)を履いて配達をしていたと年配の先輩は話していました(写真3-1-2参照)。樏は普通の地面では歩きにくいですが、雪の上では沈まずに進むことができたようです。
私は、配達に使うオートバイや自動車の管理を任されました。そのため、年に1回、久万警察署へ行って、オートバイや自動車の点検を受けていました。警察署に行った際に、交通標語を作って提出したのですが、私の標語が選ばれて、警察署の入り口に横断幕のような状態で飾られたことを憶えています。
保険の集金である人の家を訪ねたとき、別棟に使われていない自在鉤(かぎ)(囲炉裏の上から下げて、釜や鍋を掛けてつるすもの)があるのを見かけました。どうしてここにあるのか尋ねると、その人の父親が作ったもので、燃やして処分するのもためらわれて、そのままにしているとのことでした。譲ってもらえないかお願いしたところ、好きな人に使ってもらうのが良いとのことで、譲ってもらいました。その自在鉤は、平成22年(2010年)に私が自分で建てた、5坪(約16.5㎡)ほどの広さの遍路小屋で使用しています。」
(2) 協力し合う
「この辺りでは、昔から近所同士で協力して生活する風潮があり、素晴らしいことだと、私(Aさん)は思います。葬式などのときに5軒ほどが一つの集まりとなって助け合う習慣が現在でもあり、『ゴチョウ』と言います。最近では戸数が減ってきているため、2軒になることもあります。また、葬式など以外でも、農作業などで忙しいときにお互いに助け合う『イイレ』という習慣もあります。どちらの習慣も昔から耳でよく聞きますが、どのような字を書くのかは分かりません。」
「私(Bさん)の家では田植えのとき、近所の人に手伝いに来てもらって、苗が縦横にそろうように印を付けた竹を置いて5、6人が並んで植えていきました。逆に近所の人が田植えをするときには、親が手伝いに行っていましたが、このような助け合いのことを『イイレ』と呼んでいました。また、葬式の際には、『ゴチョウ』という組で互いに助け合って世話をしていました。近所同士で助け合うということが当たり前に行われており、この『ゴチョウ』はとても大切にされていました。」
(3) 日常のくらし
ア 質素な食生活
「私(Bさん)が子どものころのくらしは、今になって考えると貧しいものでしたが、周りの人たちも同じように生活しており、それが当たり前でした。私は小学5年生くらいまで、茅葺き屋根の木造の家で暮らしていました。竹板張りの茶の間には囲炉裏があり、むしろを敷いて囲炉裏を囲んで座っていました。囲炉裏に四隅から薪を入れて燃やして、暖を取るなどしていました。食事は米が1、2割くらいしか入っていない麦飯が主食で、おかずはジャガイモやナスビなどの自家野菜で、粗末なものでした。
中学生になるころまでは、各自が小さなお膳で食事をしていました。お膳には茶わん、汁わんと皿を2枚くらい載せていたと思います。今になって考えると不衛生ですが、食事後は食器をお茶ですすぐくらいで、特に洗わずにしまっていました。そのため、食中毒で亡くなる子どももいたそうです。私もひどい下痢をして危険な状態になったことがあったと聞いています。」
イ ごちそう
「祝い事のとき、たらいうどん以外にはばら寿司(ずし)が欠かせませんでしたが、ほかにも自家製の豆腐やこんにゃくも出されました。自分の畑で作った大豆やコンニャクイモで豆腐やこんにゃくを作る時代だったのです。
祭りのときには親族や友人を食事に招待したりされたりと、それぞれが呼び合っていました。私(Bさん)が祭りのときに楽しみにしていたのが、肉を食べられることです。卵を産まなくなったニワトリをさばいて、すき焼き風にして食べました。ふだん、肉を食べることはほとんどなかったので、大変なごちそうでした。
このように、結婚式や葬式、祭りのときにはごちそうが出るため、大勢の人が食事に集まりました。そのため、ふだんよりも大きな釜で御飯を炊くのですが、釜の底の方に焦げができてしまいます。焦げていないところはばら寿司にしましたが、焦げたところは塩を軽く振りかけておにぎりしていました。おにぎりができると、子どもたちに配られましたが、とてもおいしくて喜んで食べたことを憶えています。」
ウ 物を運ぶ
「私(Cさん)が子どものころ、運搬手段は木製の手押し車やリヤカーでした。ストーブの燃料であるおがくずをリヤカーに載せて運んだことを憶えています。リヤカーは割と多くの物を積むことができますが、米2俵(約120㎏)くらいまでにしないと、坂道を上ることはできませんでした。また、この辺りでは自転車を持っている家はほとんどありませんでした。私の小学校での同級生は104人いましたが、自転車を持っていたのは医者の息子の一人だけでした。」
エ 豊かな水
「上川は水が豊富で、昔から水に困ることはありませんでした。この辺りでは、現在の水道が整備される前にから簡易的な水道が利用されていました。私(Aさん)のところも私の家を含めて10軒で利用していて、水源地から少しずつ出ている水をためて、本格的な鉄管パイプを使って各家庭へ水を引いており、現在も利用できます。水源地の水温は一定で、夏は冷たく、冬は温かくて湯気が出るほどです。昔、実施された水質検査では、小田町で一番きれいだったと聞いています。現在の水道は、合併して内子町になるころに整備されたと思います。水源地からの水量が減ってきており、水質検査の金銭的負担もあって一本化しようということで導入が決まりました。」
オ 結婚式
「私(Bさん)が子どものころ、結婚式は嫁ぎ先の家で行っていました。三々九度の盃は、親戚や近所の子どもが新郎新婦に注いでおり、私もしたことがありますが、初めてのときには失敗したことを憶えています。妹と一緒に注いだのですが、新郎新婦だけでなく参加者全員に注いでしまいました。厳粛な雰囲気だったので、大人たちも『もう注がなくてもいい。』と言い出せなかったようです。
結婚は仲人が世話をしており、見合い写真を見せて、独身の人に結婚を勧めていました。私の親世代のころには、見合い写真もなく、結婚式で初めて相手の顔を見ることもあったそうです。私が結婚するころ、恋愛結婚の人もいましたが、まだ多くの人が仲人に世話になっており、私も世話になりました。当時は、なるべく金銭的な負担が大きくならないように、結婚式を簡素化しようという風潮がありました。友人同士で助け合って、会場準備などをするもので、私の結婚式のときもそのように行ってもらい、有り難かったです。ただし、若者主導で行うため、少々羽目を外してしまう結婚式もあったようです。」
カ 葬式
「昔は葬式も自宅で行っていました。私(Bさん)が小学6年生のときに、祖父が亡くなって葬式が行われたのですが、そのときのことが印象に残っています。遺体を棺桶(おけ)に入れる前に、湯かんをして身体をきれいしてから死に装束を着せるのですが、祖父がみんなの前で裸にされて5、6人の女性に身体を拭いてもらうのを見て、『死んでも恥ずかしいな』と思ったことを憶えています。
棺桶は一般的な寝かせる物ではなく、座った姿勢で入れる物でした。姿勢が崩れないように、遺体を棺桶に入れるのに苦労したようです。葬式が終わって出棺する際には、家の前で棺桶を3回ずつ回してから、火葬場に向かいました。火葬場といっても、簡易的なもので、焚(た)き物や炭を火葬場に持って行き、親族が焼いていました。なお、この辺りでは、祖父が亡くなる数年前まで火葬場がなく、土葬が行われていたそうです。」
(4) 祭り
ア 参川地区の祭り
「参川地区では上川の太森神社、中川の三島神社、本川の広瀬神社の秋祭りが10月15日行われます(図表3-1-1参照)。それ以外にも、上川では11月13日のハツネさん、中川では11月28日の龍王さん、本川では旧暦10月初めの亥(い)の子祭りという6つの祭りがありました。その祭りの最中に大勢の人たちがごちそうを食べるために、行ったり来たりして行列ができていました。私(Bさん)の家は本川との境目辺りにあり、中川では一番端にあるため、最後に食事にやって来て、終わるのが午前2時ころになっていました。遅い時間でなかなか大変でしたが、いろいろな人と遊んだり話したりすることは楽しかったです。
また、それぞれの祭りのときには神社の周辺にはたくさんの出店が出ていて、子どもたちはそこで買い物をしたり遊んだりするのを楽しみにしていました。出店の中に、三つの器を動かして、サイコロが隠れている器を当てると景品がもらえる店がありました。1回10円で遊ぶことができたのですが、私は子どものころ、何回やっても当てることができなかったことを憶えています。」
イ 上川の祭り
「10月15日に行われる太森神社の秋祭りでは、2体の神輿(みこし)が出ていました。太森神社の神輿は、参川の中で一番重たいとも言われ、神輿を担ぐ人たちは『こんなに重たい神輿を作って腹が立つ。』などと文句を言っていたことを、私(Aさんは)憶えています。その重たい神輿を若い衆が担いで、長い石段を下って道まで出ますが、とても大変でした(写真3-1-3参照)。道に出てからは、台車に神輿を載せて上川を回り、最後は石段ではなく裏の道から上がって本殿に戻っていました。
一時期、子どもの数が増えた時期には、子ども神輿も出ていました。子どもたちが神輿を担いで、1軒ずつ家を回って小遣いをもらっていました。11月13日に行われるハツネさんでは、神輿は出ません。昔は12月10日に行われていたのですが、寒い時期なので、日程を変えたそうです。」
ウ 中川の祭り
「中川の祭りでは、一時期、三島神社の祭りよりも龍王さんが盛んでした。神輿が出ていたのは三島神社の祭りです。もともと神輿3体と牛鬼が出て、太鼓を鳴らして渡御をしていましたが、やがて神輿は2体になりました。また、昭和50年代の子どもの数が多かったころには、子ども神輿も2体出ており、子どもたちが喜んで担いでいました。やがて子どもの数が減ってくると、子ども神輿は1体になりましたが、もう1体は女性が担ぐ女神輿になり、5、6年続いたと私(Bさん)は思います。」
エ 本川の祭り
「広瀬神社の境内末社である恵比須神社では、旧暦10月の初亥の日に亥の子祭りが行われます。昔は大勢の参拝客でにぎわい、久万町や高知県からも徒歩でやってきて、親戚や友人の家に多くの人が泊まったと、私(Cさん)は聞いています。
ここ数年はコロナ禍で行われていませんが、近年でも数は多くはないものの、高知県から車で参拝に来る人もいます。亥の子祭りのときには物々交換から発展した市が開かれて大変な活気があり、コロナ禍前もその名残がありました。」
「亥の子祭りの前日には、子どもたちが各家を回って、家の前でワラスボをついていました。ワラスボをつくと、その家の人からお金や菓子をもらっていました。もらったお金は、祭り当日の子どもたちの小遣いになるので、子どもたちは楽しみにしていたと、私(Dさん)は思います。」
オ 小田市
「祭りではありませんが、小田町全体から人々が集まり、一番のにぎわいを見せていたのが、小田市です。小田市は唐津(陶磁器)を扱う市で、年末に小田町役場の前で開かれていました。小田町の人は、茶碗などの焼き物は、小田市のときに買っていたと思います。唐津市が中心ですが、それ以外にも様々な品物が売られていました。近所の人が小田市に出掛けて帰ってくると、身が見えないほど塩をまぶして真っ白になったサバを担いで帰ってきたことを、私(Bさん)は憶えています。当時は冷蔵技術が発達していなかったので、サバが腐らないように、塩をたっぷりとまぶしていたのだと思います。」
(5) 巨木のあるくらし
ア 世善桜
「県の天然記念物である御嶽の世善桜ですが、林道が整備されるまでは、地元の人でも訪れる人はほとんどおらず、私(Aさん)も訪れたことはありませんでした(図表3-1-1、写真3-1-4参照)。この場所は、約350年前に現在地に移転されるまで、太森神社の境内でした。伝承によって世善桜の存在そのものは知られていましたが、山奥にあるためにたどり着くのが難しかったのです。残念ながら2本あったうちの1本は枯れてしまいましたが、林道が整備されてからは、人々が訪れるようになり、貴重な文化財を守っていこうと、保存活動が行われるようになりました。挿し木によって、子孫を残そういう取組が行われています。」
イ 三島神社の巨木
「三島神社には幾つかの巨木があります。兄弟カヤと呼ばれる2本のカヤの木にはいずれも、おそらく昔、本殿が焼失した際のものと思われる焼けた跡が本殿側にあります。大変立派なカヤの木ですが、そのうちの1本は落雷のため樹勢が衰えてしまい、一昨年(令和3年〔2021年〕)に残念ながら伐採されました。県の天然記念物である乳出のオオイチョウは、私(Bさん)の一つ年齢が下の知人が、子どものころに上まで上がって遊んだことがあると話していました。」
ウ 広瀬神社の巨木
「広瀬神社の境内には、県の天然記念物にも指定されている3本の巨木があります。2本のケヤキと1本のイチイガシで、いずれも樹齢1,000年以上と伝わっています。2本のケヤキは幹の空洞化が進んで樹勢が衰えてきたため、空洞を樹脂で埋めるなどの対策を施し、うち1本には換気のための煙突が付いています。イチイガシは幹回りが太く、根元に大木な空洞がありますが、子どもが20人くらい入ることができると、私(Cさん)は聞いています(写真3-1-5参照)。」
(6) くらしの変化
ア 上川
「高度経済成長期を経て、上川でもほとんどの家が自家用車を持つようになり、生活が変わったと、私(Aさん)は感じました。それまでは、県道は通っていても、家のある場所までの道路が整備されておらず、県道から歩いて家まで行かなければなりませんでした。ところが、高度経済成長期に道路が整備されて、県道から自動車で家まで行くことができるようになり、自家用車を持つようになったのです。
ほとんどの家が自家用車を持つようになった一方で、路線バスの便がなくなっていきました。一時期は私の家の近所まで路線バスが運行されており、夕方に松山からの普通便、続いて急行便が上がってきて停車し、朝になると普通便、続いて急行便と時間をずらして出発していたことを憶えています。
最近では高齢化が進み、自家用車を運転することが難しい人が増えてきており、移動には町営のデマンドバスを利用する人が多くなっています。買い物については、移動スーパーがこの辺りまで来てくれるので、商品の価格は多少割高ですが、助かっています。また、高齢者は近所への移動は電動車いすを使う人が増えています。」
イ 中川
「この辺りの生活は高度経済成長期を経て、劇的に変わったと思います。私(Bさん)が小学生のころ、私の住んでいる集落には20軒ほどの家がありましたが、白黒テレビが家にあったのは1軒だけでした。当時は力道山が活躍するプロレスが大人気で、プロレス中継があるときには、白黒テレビを持っている家の人が『プロレスがあるから、見に来なさい。』と集落の人たちに電話をしてくれました。集落中の人たちが白黒テレビのある家に集まったため、全員が家の中に入ることができず、私は庭の方から白黒テレビを見たことを憶えています。高度経済成長期に入り、私が中学生のころになると、各家庭に白黒テレビや洗濯機、冷蔵庫といった『三種の神器』が普及していきました。
家はどんどん茅葺き屋根から瓦屋根に変わっていきましたが、家本体はそのままで屋根だけを変える、『小屋下げ』と呼んでいた方法で変わっていきました。私の家も私が中学生になるころに変わったと思います。茅葺き屋根の時代は火事が多く、近所にあった私の友人の家も火事に遭うなど、年に数件は発生していました。かまどや風呂など火を使うことが多く、火の粉が茅に燃え移ったり、火の不始末があったりしたためだと思います。火事のときには、道が狭くて消防車が入ることができないので、地元の消防団がリヤカーのようなものにポンプを積んで現場まで行って、消火活動を行っていました。また、婦人会が進めていた生活改善運動によって、土間にあったかまどからタイル貼りのきれいなかまどになり、炊事場の雰囲気が随分変わったことを憶えています。」
写真3-1-1 野村地区道路開通記念碑 内子町 令和5年9月撮影 |
写真3-1-2 樏 内子町 令和5年9月撮影 |
写真3-1-3 太森神社の石段 内子町 令和5年9月撮影 |
写真3-1-4 御嶽の世善桜 内子町 令和5年9月撮影 |
写真3-1-5 広瀬神社のイチイガシ 内子町 令和5年9月撮影 |
写真3-1-5 広瀬神社のイチイガシ 内子町 令和5年9月撮影 |