データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
2 ブドウ栽培と観光農園
(1) ブドウとの出会い
ア 戦中・戦後の廿日市地区の農業
(ア)廿日市地区で暮らす
「私(Dさん)が暮らす廿日市地区は旧内子町の中心街から離れていましたので、『ここは内子町の最果てだ。』とよく言われていました。私が子どものころは周りに住宅もそれほど建ってなくて、辺り一面水田が広がり見晴らしが大変に良かったことを憶えています。現在は自宅の前にJRの高架橋があり、それと並行して県道56号が通っています。高架橋は昭和61年(1986年)に開業した国鉄内山線設置に伴って造られたもので、それまでは県道の場所に大洲から伸びていた線路が通っていました。国鉄内子駅の建設、さらに高速道路のインターチェンジが廿日市地区にできたことによって住宅が増え開発が進んで、私が昔から見ていた光景は大きく変わっていきました。私の家は代々農業を続けていまして、私が11代目になります。私が聞いた話では、この辺りはどの農家も養蚕を行っていたそうで、かつての私の家も、私が幼少期まで米作りのほか養蚕業も精力的にやっていました。しかし私が生まれたころは戦時中であり、父の戦死と戦後の農地改革により母は苦労の中、私たち3人の兄弟を育ててくれました。母はクリやモモ、ブドウの栽培や葉タバコ栽培、米作りを小さい田畑でしながら何とか生計を立てていました。
子どものころは家で乳牛を飼っており、種付けをして業者に売っていました。私が農業を継いでから4、5年は乳牛を飼っていましたが、その牛を農作業に使ったことはありません。昭和30年代に入ると、農耕牛から機械に変わっていき、初めはテーラーと呼ばれる耕運機を使って耕していました。この廿日市地区では、ブドウ栽培が始まるまでは水田耕作にクリやモモといった果樹栽培を合わせた農業をしていましたが、段々畑が中心でしたので大規模な農業は行われていませんでした。」
(イ)巨峰との出会い
「家の農業を継ぐ立場にあった私(Dさん)は、高校を卒業後、県の農場試験場に研修に行って落葉果樹の栽培について学びました。特にクリの木の苗木作りや接ぎ木の方法を学び、地元に帰ってから苗木屋と共同で苗木栽培をして収入を得ていました。しかし、それでは大した現金収入が得られなかったので、別の品種の栽培を考えていたところ、ブドウに興味を持っていた私はその栽培を試みるようになりました。その後、巨峰の苗木を取り寄せて育ててみたところ、果実の大きさと甘さにとてもびっくりしたことを憶えています(写真2-2-4参照)。巨峰の栽培面積を増やして収穫した巨峰を内子市場に出したところ、他にはない品種だったので高い値が付き、私は巨峰に人生を懸ける思いで本格的に栽培するようになりました。それまでこの地域で巨峰は栽培されていなかったので、巨峰栽培の仲間作りにも努め、何人かの仲間で巨峰作りを始めることができました。
巨峰の収穫量が増えたこともあって、我々は独自に組合を結成し、さらには内子町の農業組合の中にある果樹同志会に加えてもらうようにしました。同志会にはクリやモモ、ナシの部会があったのですが、昭和48年(1973年)に新たにブドウの部会を立ち上げてもらったのです。」
イ ブドウ農家を志す
「私(Cさん)の家は、旧内子町の北部に位置する立川地区で農業を営んでいて、カキやモモ、ブドウといった果物を栽培していました。父親は郵便局員をしていましたが、私が4歳のとき戦地で亡くなりました。子どものころは川遊びが好きで、近くの谷川や中山川に行ってウナギを捕まえたり、川魚を釣ったりしていました。中山川では潜ってウナギを捕まえていましたし、この地域では『じんど』と呼んでいたわなを仕掛けていました。じんどは筒状になっていて、奥に餌となるドジョウを入れて、ウナギがそれに釣られて奥に入ったら逆戻りができないようにしています。近所の農家では竹細工をよく作っていましたし、内子の中心街では竹細工が多く売られていました。
高校生のとき、校長先生や担任の先生は大学進学を勧めてくれたのですが、早く就農して稼ぐことを考えていた私は、高校卒業後に家の農地を引き継ぎました。当時サラリーマンの月給が8千円、先生に聞いてみると教員が1万2千円で、土木作業員が『240円もらってニコヨンサン』と言われていたころですから、日当がそれくらいの金額だったのです。私は農業で現金収入を得られれば、それらの収入を超えることができると思い、当初からブドウ栽培を考えていました。私がブドウ栽培を選んだのは、何よりもブドウが好きだったことにありました。
もともと、私の家にはブドウ畑があったのですが、広い面積で栽培を行うには最初に設備投資のための資金が必要でした。そこで高校を卒業すると同時に、畑にキュウリの苗を植えていきました。キュウリは畑に植えて60日くらいで収穫ができ、いち早く出荷することができていたからです。昭和30年代の前半、7月1日から10日までに出荷したキュウリは1本10円から15円の良い値で売れていました。家の畑が50aありまして、そこにキュウリを植えるだけでなく、当時はあまり行われていなかったのですが、隣接するよその畑も借りて合わせて70aの畑にキュウリを植えていきました。7月に入ると1日に1,000本のキュウリを収穫して、直ちに松山の市場に出荷していきました。そのときは段ボールが普及していませんでしたから、鮮魚店から魚を入れるトロ箱を購入し、近所の女性を雇って収穫をしてもらい、自分は軽トラックを運転して出荷していました。当時の国道56号は舗装されていない砂利道で、犬寄トンネルも開通していませんでしたから、犬寄峠をぐるぐると回って伊予市の市場に降りて行き、そして松山市の土橋にある青果市場に運んでいました。
農作業で牛を使って耕作する風景はまだ残っていましたが、私のところはかなり早い時期から機械を購入して使用していました。初めはアメリカ製の耕運機を購入しましたが、農作業の負担を少しでも軽くしたいという一心で買いそろえていったのだと、今振り返って思います。キュウリの値段が、自分が予想していた値よりも良かったので、たちまち2千万円のお金を手にすることができて、それを元手にブドウ畑を広げていきました。」
(2) 観光農園を始める
ア 観光農園との出会い
(ア)開園までの道のり
「農協にブドウ部会を立ち上げてもらい、私(Dさん)は農協を通じて市場に収穫物を出していきました。ところが、市場には需要と供給のバランスがありますから、どんなに品質の良い巨峰を作っても市場に出回る量が多いときには思うような値段が付きませんし、年ごとの変動もあって価格が安定しませんでした。
これを解決する何か良い方策はないものかとブドウ栽培の先進地を巡るようになり、そこで観光農園に出会うことができました。私は『これだ』と思い、自らも観光農園を開くことを夢見るようになりました。私とブドウ栽培仲間の4人が農協を出て、昭和57年(1982年)に内子観光ブドウ組合を結成しました。夢と不安が入り交じる中、勉強や視察を重ねながら準備していきました。同じころ、八日市・護国地区の町並みが重要伝統的建造物保存地区として四国で初めて選定された時期でもあり、『歴史の町並みでブドウ狩り』をキャッチフレーズに掲げました。
これに先立って、昭和51年(1976年)に私は70aの畑を造成していましたが、廿日市の地で観光農園の取組が広がった理由の一つに、国営パイロット事業によって山林が農地に開拓されたことが挙げられます。この事業は当時の大洲市、内子町と五十崎町、河辺村が対象で、私の周辺では廿日市集落の西から西南に広がる山地が開拓の対象となりました。自宅の裏の山地にもともと畑はあったものの、段々畑でまとまった農地が確保できない状況でしたが、国営パイロット事業によってなだらかな斜面地の畑が1町(約1ha)単位で取得することができたのです。その後国営パイロット事業が行われ、事業完了後の平成7年(1995年)に、観光農園の経営が評価され、農林水産省構造改善局全国土地改良事業団体連絡会が主催する土地改良事業地区営農推進優良事例表彰に選ばれて、私は管理組合の代表として自分たちの取組を発表し表彰を受けました。」
(イ)開園当時の苦労
「開園した年、来園してくれたのは知り合いや親戚ばかりで、一般のお客さんはほとんどありませんでした。その年は天候不順で、品質の良いブドウを収穫することが難しかったこともあり、なかなかブドウが売れない年でもあったことを私(Dさん)は憶えています。このままではいけないと思い、私たち組合ではポスター等を作製して宣伝に回るようになりました。東予・中予・南予の各地域を手分けして出掛けていって、各自治体の観光協会を回ったことを憶えています。その甲斐あって、次の年からは徐々にお客さんが来るようになりました。巨峰はとても好評で、来園者は皆『おいしい。』と言ってくれ、その後は口コミで私たちの観光農園のことが広まって、ようやく多くの客でにぎわうようになったのです。」
(ウ)繁盛する観光農園
「国営パイロット事業によって広い農地を得ることができましたが、観光農園に車を入れるには、内子運動公園からの道路1本に頼っていました。しかし、距離があるために来園者には不便な道路であり、どうにか農園に直接乗り入れできる道路が造れないかと考えて内子駅から近いもう1本の道路を造ることにしました。約230mの道路を造るために他の地権者の理解が必要でしたが、関係の皆さんの理解と協力を得て農園に最短距離でつながる道路が完成し、さらに町道にしてもらえたことを私(Dさん)は憶えています。
国営パイロット事業で開かれたこの地は『泉ヶ峠団地』と呼ばれていますが、何軒かの観光農園が集まっています。観光農園が最盛期であった平成4年(1992年)ころは、農園から国道まで車が連なっていました。特に来園者の多い週末には20人くらいの従業員で対応し、多いときは1日に1,500人くらいの来園者がありました。観光農園全体では平成3年(1991年)に年間7万人を超える入園者があったと、平成4年(1992年)1月1日付けの全国農業新聞に掲載されました。また、団体で来園する人もたくさんいましたので、持ち帰り用のブドウを準備するだけでも大変な作業でした。1町(約1ha)の農地にあったブドウが1週間から10日くらいでなくなっていったことを憶えています。当時はそのように活況に沸いていました。開園して10年ほどは来園者に対してブドウの量が追い付かず、年々栽培面積を増やして対応していきましたがそれでも間に合わない状況が続きました。当時、ブドウ列車といって、松山駅から内子駅まで臨時便の観光列車が出たくらいでした。」
イ 生産の拡大から観光農園へ
(ア)農地を求めて
「昭和30年代から40年代、ブドウは『黒いダイヤ』などと例えられていたことを私(Cさん)は憶えています。私はブドウが好きで栽培に取り組んだのですが、ブドウは傷みやすい果物で日持ちがしないために海外から輸入されにくく、その分国産のブドウが流通できる強みがありました。しかし、だんだんと輸送技術が向上していったためこの強みも生かせなくなり、さらに欧州産の生果ブドウが昭和46年(1971年)に輸入自由化され、それ以外の国のブドウも順次輸入自由化される話を聞くようになりました。実際に、1㎏1,500円の価格が付いていたブドウが、自由化後は500円、300円といったところまで単価が下がっていきました。
輸入自由化の話を聞いて、家の周りの狭い農地でブドウを栽培していてもやがて太刀打ちできなくなると私は考え、いろいろなところから情報を集めながら打開策を探していきました。そこで、昭和47年(1972年)に廿日市地区からほど近い当時の大洲市、内子町、五十崎町の境目に位置する12haの山林を購入し、自分でブドウ畑に開拓することにしたのです。元の持ち主が山林を売却しようとしていることを聞きつけたことと、大きな石が埋まっていないので開拓しやすいと判断したからですが、そのころはマツ林の山で今よりも標高が17m高かったことを憶えています。もう少し農地を確保したかったことと、ブドウ作りの仲間を増やすために足繁く周りの地権者を訪ねて説明に回ったことを憶えています。
土地を手に入れた後は自分で重機を運転して開拓を進めていきましたが、重機を始めとする機械や車をもともと山林だった場所に運び込むための道路が必要で、現在の内子運動公園から山の中を通り抜ける道路を造っていきました。近くでは廿日市地区のブドウ農家の方も開拓にいそしんでいました。やがて、地元選出の国会議員に御指導をいただき国営農地開発事業として、当時の大洲市、内子町、五十崎町、河辺村が参加して国営パイロット事業の申請を行いました。その後、測量をはじめとする現地調査等を経て、実際に工事が始まったのは昭和51年(1976年)のことでした(写真2-2-5参照)。国営パイロット事業は、最終的に昭和63年(1988年)に完了しましたが、整備が終わった農地から私たちは果樹栽培を始めていました。私はブドウ栽培でしたが、他の果樹や葉タバコを栽培していた農家もありました。
実は、この近くに空港が造られるという構想もありました。この地でできた農産物を東京の市場まで空輸するというものでした。そのころは全国の至る所でそのような計画があったようですが、採算が合わないということで立ち消えとなり、トラック輸送で市場に運ぶようになりました。」
(イ)観光農園を選択する
「昭和50年代、ブドウの輸入自由化もあってブドウの価格が変動を迎えている中、農協のブドウ部会では話し合いが重ねられていました。当時、私(Cさん)も含め60軒余りの農家が部会に入っていましたが、ブドウ栽培をやめようかと考える人もいたことを憶えています。ブドウ価格が暴落したころ、ブドウ農家が夜に集まって勉強会を開いて今後のことを話し合っていきました。そのとき、『店頭で販売されているブドウの価格は1,500円のままだ。』ということを知って、それなら『直接自分たち生産者の手で販売すれば良いのではないか。』と考えるようになり、その方法を模索するようになりました。このような動きは愛媛県に限ったことではなく、当時全国各地の農家が試行錯誤していた時期でした。ブドウ栽培の先進地の事例を集めていく中で、観光農園を作って直接販売する方法があることを知りました。私も観光農園に大変興味を持ちましたが、実際にやるとなると、なかなか決断できないでいました。
そんな中、昭和50年代の後半に神奈川県の女子高生が修学旅行で愛媛県を訪れ、農産物の収穫体験をしたいとの話が持ち上がってきました。高校は旧大洲市にそのことを申し出ていて、担当の職員から『高校は酪農、果物、野菜のいずれかを体験してみたいと言っていて、ブドウ農園の方で引き受けてくれないか。』と持ち掛けられました。観光農園について考えている時期でしたから引き受けることにしましたが、新しい農園には従業員用のトイレが一つあるだけで、90人もの人数を引き受けることに難がありました。ただし、そのころは国道56号沿いにドライブインが幾つもありましたので、そこを利用してからやってくるので大丈夫だと返事をもらっていました。
高校生がやって来て実際にブドウ狩りを体験し、自分で採ったブドウを食べると皆、『とてもおいしい。』と大いに喜んで感激していました。大変に盛り上がって、次は家に発送することを希望したので、その体験もしてもらいました。その様子は愛媛新聞に掲載され、記事を見た松山市の団地に暮らすお母さん方や婦人会のリーダーの方から『自分たちもブドウ狩りをやってみたい。』と電話をもらうようになりました。仲間の農家に相談したところ、『藤渕さんのところで受け入れてみてはどうか。』との話になって、私の農園で受け入れました。すると、前回の高校生のときのようにみんなに喜ばれ、近所や親戚にブドウを送りたいと言ってくれました。やがてブドウ狩りをしたいという声が高まるようになり、さらに廿日市地区で観光農園が開園して、農協の中でも観光農園への理解が広まっていました。私の農園は観光農園としての設備も整えてなかったのですが、この一連の経験から『観光農園は面白い』と実感し、自信を持って本格的に整備していこうと決心しました。具体的には内子町役場に掛け合って来園者用の水洗トイレや無臭トイレを設置し、バスが2台、自家用車が70台停められる駐車場を整備して、程なくして観光農園を開園しました。以来、立川の自宅から毎日通勤しながらブドウ栽培と観光農園の経営に努めてきました。」
(ウ)活気にあふれる観光農園
「私(Cさん)が観光農園を始めた1年目は約600人の方が来園しましたが、翌年からはそれ以上の来園者を迎えるようになりました。旧内子町の観光課や農協の担当者が観光農園をPRして、あっという間に観光農園は注目と人気を集めるようになりました。昭和の終わりころ、観光農園は内子町内で10軒余りが開園し、全体で1万人を超す数の来園者があったそうです。そうなると、今度はブドウが足りなくなっていったので、1haのブドウ畑を6haに増やしていきました。
来園客の増加によって、国道56号で渋滞が発生するようになり、極端な例では当時の伊予市からこちらに来るのに車で3時間掛かるときもあり、来園以外の車にも影響が出ていました。そこで地元の国会議員や自治体の首長らが、国道の片側2車線化や高速道路の整備を強く訴えていくようになっていました。」
(3) ブドウ農家、観光農園経営者として
ア 巨峰にほれ込んで
「私(Dさん)が農業を継ぐ前から、家ではブドウ畑を少し所有していて当時としては珍しかったと思います。昭和38年(1963年)ころ農業を継いですぐ、私は幾つかのブドウ品種の苗木を取り寄せました。その中で良いと思ったのが巨峰で、私はこの辺りで一番早く巨峰の栽培に取り掛かりました。その後、徐々に栽培面積を増やしていったのですが、作れば作るほど巨峰栽培の難しさに直面していきました。初めは2本の巨峰の苗木から始まったのですが、栽培方法を知っている人が周りにいませんから、専門書を手に入れられるだけ手に入れて独学で栽培に取り組みました。専門書には『巨峰は観賞用には適しているが、収穫して利益を上げることには向いていない。』と記され、心細く思ったのですが『やり方によっては収穫して市場に出せる。』という記述があって、それに望みを託して栽培していきました。
そのようなこともあって、一人で取り組むのではなく仲間を募って一緒に栽培をしていこうと考えたのです。仲間は10人くらい集まり、一致団結して互いの畑のブドウ棚を作ったりして支え合いました。果実が収穫できるようになると、地元市場だけでなく松山市青果市場まで行って売って回ったことを憶えています。収穫、荷造り、販売を家族でやっていましたので、夜遅くまで仕事をする毎日だったことを憶えています。巨峰の生産と販売が安定していませんでしたから、外で仕事に就いて兼業で農業をしようかとも考えました。しかし、妻に『専業農家でやってほしい。』と反対され、そして応援してくれたのでブドウ農家としてやっていくことができました。
巨峰はブドウの中でも特に栽培が難しく繊細な品種で、6月中旬に開花し、自家受粉といってブドウが自ら受粉して実を付けていきます。このときに気温が下がったり雨天が続いたりすると実を付けることができなくなりますが、梅雨時で天候不順になる場合が多いのでビニールをかけたトンネル栽培と呼ばれる雨よけ手法で行っています。条件によって種が付かなかったり実の大きさがまばらになったり、色づきが悪かったりと巨峰栽培は多くの困難があります。しかし、その果実は糖度が高くて味が大変良く、一度食べるとその味に魅了される人が多くいますし、私もその一人です。
近年はシャインマスカットやクイーンニーナといった品種が大変人気を集めており、その他にも多くの新品種が登場していて、私の農園でも栽培面積を増やしていっています。巨峰からの切り替えを進めているのですが、巨峰は今でも根強い人気があるので現在も栽培を続けています。粒が大きくて種がないブドウが広まる中で、巨峰は種ありのまま栽培していますが、それでも人気があります。だから、数ある観光農園でも巨峰を育てているところは『〇〇巨峰園』と巨峰の名前を前面に押し出しているのです。」
イ 観光農園の1年
「私(Cさん)の観光農園では今年(令和5年〔2023年〕)は8月5日から開園し、9月一杯まで開園を予定していますが、ブドウがなくなれば閉園となります。初めのうちは8月下旬から9月上旬までとしていましたが、だんだんとブドウの生産量を増やしていった結果、開園期間を延ばすことができています。ここ3年間はコロナ禍によって来客の様子が大きく変化していますし、開園できない状態にまで追い込まれたこともあって、コロナ禍前に30軒ほどあった観光農園が、コロナ禍の1年目に当たる令和2年(2020年)には20軒となり、今年は8軒が開園するだけになっています。
毎年3月から1年の作業が始まり、そのころに新芽が出てくるので、適切な数を残してそれ以外の芽を摘み取ります。これを『芽かき』といいます。やがて、芽から葉が出てきて花が咲きブドウの房が実っていくのですが、新芽から一つの房しか残らないようにして、ここでも必要のない果房は摘み取っていく『摘房』と呼ばれる作業を行います。それが終わって7月下旬には袋掛けの作業をしていて、全て完了してから開園に備えてもろもろの準備をしていきます。開園すれば接客が主な仕事となりますが、忙しいときで25人、そうでないときで8人くらいの従業員で対応しています。ふだんなら園内の一部を開いて来園者を迎え、そこでのブドウ狩りが終わると次の場所を開くといったように場所を順番に変えていきますが、今は新型コロナウイルス感染症対策として密を避ける必要があるため、園内の全ての場所を同時期に開放しなければなりません。その分、人を雇って対応するため人件費が掛かるようになります。園内には広場があって、レクレーションをしたりバーベキューをしたりすることに利用しています。コロナ禍でバーベキューを自粛していましたが、今年は再開することができそうです。
80歳代になった現在は、率先して農作業に出ることはなくなりましたが、作業の段取りや指示は私の方でやっています。作業をすることは少なくなりましたが、休業日も事務所に来て農園の番をしていますので、80歳を過ぎた今も終日休みをとったのはごくわずかです。従業員は、近所や知り合いで女性が多く、皆さん家庭での仕事もありますから定時で終業できるように考えながら仕事の段取りを組み立てています。
イノシシやサル、ハクビシンにタヌキ、カラスといった野生動物がブドウを狙ってくることはたびたびあります。イノシシやカラス、ハクビシンの対策は十分に出来ていますが、サルの食害にはまだ工夫が必要かと考えています。一度、カラス対策に張っていたテグスにタカが掛かったことがあります(写真2-2-6参照)。『助けてやるから落ち着けよ。』と言ってみても当然通じないので暴れていましたが、糸を1、2本切るとだんだんとおとなしくなり、掛かっていた糸を全部切って逃がしてやりました。その後、しばらくは私が農園で作業をしていると真上を飛んでいました。そのタカがいた間は、カラスは飛んでこなかったのですから不思議なものだなと思ったことがあります。
私も猟友会に入って害獣の駆除を行ってきましたが、現在はメンバーの高齢化が進んでいます。ただ、野生動物はある一定数増えてしまうと、仲間内で病気がはやって数を減らしているようです。野生動物対策はもちろん必要ですが、害虫の対策も年々重要になっています。周辺の雑木林の手入れが行き届かなくなったり、雑木林を伐採した後の手入れが十分でなかったために雑草が生い茂ったりして虫が増えているからです。虫を狙って鳥も多くやって来ますから、その対策もしなければなりません。」
ウ 現在までの観光農園経営
(ア)研修を積み重ねる
「昭和30年代から50年代にかけて、国内だけでなく海外にも研修に出掛けました。ブドウの産地と聞けばとにかく見て回ったことを私(Cさん)は憶えています。特に印象に残っているのはフランスとニュージーランドで、この2国は国を挙げて農業を守る施策がなされていて、グリーンツーリズムといった方法も早くから取り入れられていました。
観光農園の開園にあたり、自分たちで勉強したりよその産地を訪問したり大学の先生に教えを乞うたりしてきました。今では、逆に全国の大学から講師として呼ばれることが多くなりました。今年(令和5年〔2023年〕)は、全国の農学研究者等による土壌学会の現地学習会が私の農園で開催されることになっています。毎年、大学や果樹試験場といった団体の研修会の場となっています。国内では、内子町は観光ブドウ園の先進地域になったので、東北地方の観光牧場を視察しました。牛の乳搾りが体験できたりする農場です。
内子町で最初に始まった観光農園はリンゴ農園になります。始めたのは稲本さんといって、元内子町長のお父さんになりますが、その人の農園にも何回か足を運びました。また内子町よりも数年早く開園した久万(くま)町(現久万高原(くまこうげん)町)の農園にも視察に行きました。」
「独自に観光農園の開設に向けて準備を進めていたころ、九州や山梨県といったブドウの産地に何度も足を運んだことを私(Dさん)は憶えていて、特に、福岡県や岡山県の産地によく通いました。当時、これらの先進地域のことは農協の普及員から教えてもらったり、ブドウの袋掛け用の袋を製作している会社から教えてもらったりしていました。会社は九州にありましたので、その縁で九州の産地を紹介してもらいました。今でもその会社の袋を使用しています。
内子町の観光農園はリンゴから始まりましたが、私はそのリンゴ園にもよく通ってその経営方法を学びました。そのとき、経営者の稲本さんから教わり大変に参考になったことは『お客さんを大切に、おいしいブドウを作りなさい。』ということでした。」
(イ)人気の維持に努める
「観光農園を始めるに当たって、掛け袋を破られるのではないか、枝を折られるのではないか、料金を払わないで持って帰られるのではないかといった不安が付いて回りました。実際のところ、そのような事例はほとんどなく、次第にマナーも良くなってきれいにブドウを採って食べてもらえるようになったことを私(Dさん)は憶えています。掛け袋にも工夫を加えて、袋を破らなくても中の様子が分かるように窓付きの袋にして、色づきの良いものから食べるように呼び掛けました(写真2-2-7参照)。
さらに観光農園の経営者同士で集まって、勉強会も何度も重ねました。品質向上のためにそれぞれの観光農園を巡回したり、互いに意見を出し合ったりしてサービスの方法等を統一していきましたので、仲間に感謝しています。農協の指導員や、全国の産地情報を持つ業者の方を招いて指導をしてもらったこともあります。勉強会はコロナ禍で中断しているものの、現在でも続いています。始めたころの仲間の中には、亡くなった人もいますが、7軒の農園で後継者が今も頑張っています。
ブドウは自然の中で育つ果実なので年ごとに品質が変化しますし、傷みやすい果実なので、前年より良くなかった場合には評判が下がってしまいます。また、園内のどのブドウが食べごろなのか、そこにも気を配ることが必要となってきました。来園者はその点を見分けることは難しいので、食べごろではないブドウを採って不評を買うこともありました。近年では、後継者の問題もあって観光農園を閉める農家も見られるようになり、さらに令和2年(2020年)からのコロナ禍によってその流れが加速し、私の農園も現在は観光農園を休園しています。観光農園を長く経営するためには数々の困難を乗り越える必要がありますが、来園者の皆さんに大変喜ばれ、今も根強い人気を持っていることを知っている私としては、内子の観光農園を何とかして続けていきたいと思っています。」
(ウ)観光農園を続けて思うこと
「観光農園を開いてから40年近くになりますが、来園する人たちを見詰めながら家族のあり方が変わってきたことを私(Cさん)は感じています。私は古い考え方の人間かもしれませんが、昔の方が親子の関わり方が濃かったように感じます。数あるブドウの中から食べたいものを選んで、自分たちで採って食べる行程を通して、親が子に関わる姿が昔の方が良く見られました。今は、それぞれが採って食べている光景を見かけることが多くなりました。食べ物を粗末に扱わないこと等、ブドウ狩りを通じて子どもに語りかける機会はたくさんあると思います。私は講師として呼ばれることもよくありますが、その際、家族との関わりを大切にすることをいつも話しています。
また、私の農園では苗を植えるところから来園する家族に関わってもらう取組を行っています。50組の家族を対象に、苗を植えてブドウが実るところまで関わってもらいながら、ブドウを育てることを通じて、また、農園で子どもと遊んだり来園者同士の触れ合いの場を設けたりして、家庭や他者との関わりを大切にする機会を提供させてもらっています(写真2-2-8参照)。現在はコロナ禍のため中止していますが、家族関係や人間関係が希薄になる中で、もう一度きずなを強くしていけないだろうかと思っています。
これまでに、来園後に手紙や葉書を送ってくれる人もいて、それらの人たちが常連客となってくれました。子どものころに家族に連れられてブドウ狩りに来ていた人が、大人になって来てくれることもあります。あるとき、大学生が私の顔をじっと見ていて、次に写真を見せてくれて、『子どものときにここに来てブドウ狩りをしたんですよ。』と言ってくれたことがありました。今年は、『小学生のときにブドウ狩りにそちらに行きました。私も結婚して子どもがいて、家族で行きたいので予約が取れますか。』と電話での問合せがありました。だから、私はまだまだ観光農園を続けていかなければならないなと思っています。」
(4) ブドウ栽培を伝えていく
ア 地方発送
「もう40年近くになりますが、一緒にブドウ作りに励んできた息子に平成20年(2008年)から経営を任せていますが、私(Dさん)も一緒に農作業に関わっています。私は観光農園と並行してブドウの地方発送にも取り組んできましたが、注文してくれたお客さんからの口コミによって注文数も年々増えており、観光農園を休園している現在はこちらが主な仕事となっています。観光農園では、コロナ禍で休園するまで多くの人が訪れていました。初めのうちは家族連れを中心とした個人客が多かったのですが、平成の後半に差し掛かるとデイサービスに通う高齢者や八日市・護国の町並みを訪れた団体客が来園することが多くなって客層が変化していきました。毎年農園に来てくれていた常連客が高齢になり、来園することが難しくなったことが、地方発送が増えた背景にあります。運送業者の生鮮物輸送の技術が向上したことも理由の一つです。
また、当初から観光農園との二本柱でやっていくことを目的に、国道56号沿いに直売所を設けています。こちらも開設当初は大変よく売れていましたが、高速道路が開通した影響で国道を通る車の通行量が減って売り上げも下がりました。しかし、毎年直売所で巨峰を買うことを楽しみにしているお客さんがいますので続けています。
観光農園を開いていたころは、農園はブドウ狩りに専念し、発送作業は自宅の作業場で行っていました。今は農園で発送作業をしているので、収穫してすぐに作業に取り掛かれます。朝6時には農園に行って収穫し、8時には従業員が来ますので全員で発送作業に取り掛かり、その日のうちに発送します。直売所に置くブドウもその日の朝に収穫しています。また、農園では冷蔵施設も備えていますので、トラブルが発生したときはそちらでブドウを保管できるようにしています。運送業者のトラックも、来園者用の駐車場が農園にありますから、すぐそばまで集荷に来てくれて発送作業は随分楽になりましたが、発送にはたくさんの手間が掛かりますから人を雇っていく必要があります。注文の7割は巨峰が占め、次に多いのがシャインマスカットで、巨峰とシャインマスカットと赤ブドウのクイーンニーナの詰め合わせも人気を集めています。
これまで約50年にわたり、観光農園開園のためにブドウ栽培の先進地を駆け回ったことから始まり、農園の造成や道路の敷設と、休む間もなく働いてきました。農園にはブドウ狩り用のはさみやテーブル等の道具をそろえたり、水道を引いてトイレなどの設備を整えたりしてきました。自分も高齢となり再開は難しいと考えていますが、私の思いがたくさん詰まった農園ですので、観光農園を再開したいという気持ちはあります。」
イ これからの観光農園
「現在、来園者は電話やインターネットで予約を取ってから来ますが、中には飛び込みの来園者もいます。私(Cさん)のところに電子メールが届いていて、多いときは1日で数百件になることもあります。常連客の名前は私しか知らないこともあり、娘にパソコンの使い方を学びながら何とか処理してきましたが、それも追い付かなくなってきたので、今は従業員と一緒に作業を進めています。また、大手旅行代理店のインターネットサイトに依頼して、予約や入園料金の集金をやってもらっています。現在はネット社会ですし、年々インターネットで申し込む人が多くなっていますが、この客層は流動的であり急に多くなったり少なくなったりと予測が難しく、常連客への十分な対応を確保しながら予約を調整するのは大変な作業です。
観光農園では今、5、6種類の品種のブドウを栽培しています。巨峰やピオーネ、シャインマスカット、瀬戸ジャイアンツ、ロザリオ・ビアンコ、ニューベリーAといった品種です。品種によって収穫の時期が異なるので、開園期間中にブドウを切らさないように工夫しています。また、販売用や贈答品をはじめとする発送用のブドウも準備しています。来園者から勧められてワイン用のブドウを自宅近くの畑で栽培し、自分たちで醸造するようになりました。ワイン造りを始めて13年になります。レストランのシェフやワインソムリエ、またはワイン用のブドウ栽培に詳しい人からアドバイスを受けながら栽培を始めましたが、実際にやってみると理論どおりにうまくできませんから試行錯誤を繰り返しています。今年から娘婿が仕事を手伝ってくれるようになり、従業員もブドウ栽培に熟達してきています。次の世代に引き継いでいけるように、私もまだまだ農園に関わっていくつもりです。」
写真2-2-4 巨峰 内子町 令和5年8月撮影 |
写真2-2-5 観光農園の脇にあるパイロット事業の記念碑 内子町 令和5年7月撮影 |
写真2-2-7 窓付きの袋 内子町 令和5年8月撮影 |
写真2-2-8 多目的広場を備える観光農園 内子町 令和5年7月撮影 |