データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
1 桐下駄を作る
(1) 桐下駄作り
ア 父の教え
「私(Aさん)の父は大正8年(1919年)に生まれました。父は子どものころ手に職を付けたいと一番に思っていたので、下駄だったら履いていると歯が摩耗するので仕事がなくならないと考えて下駄の職人になったのだそうです。ただ、これほど日本人が文化自体を入れ替える民族だとは思わなかったらしく、日本の文化だと思っていた下駄はあっという間になくなって靴になってしまいました。
父は手に職を付けようと思って地元の下駄屋に弟子入りをしたのですが、それから2、3年の間は子守りとおしめ洗いばかりさせられ、下駄作りは一つも教えてくれなかったそうです。その後父は宇和島の真竹桐下駄製造店に住み込みで働くようになったということでした。真竹桐下駄製造店はこの辺りでは最初に電動のモーターを使って、鋸(のこ)や他のものを機械化して下駄の製造を行うようになったところで、そこで修業するのが良いのではないかと弟子入りしたと聞きました。地元ではなかなか技術が習得できず、早く一人前の職人になってお金を稼げるようになりたかったのだと思います。その店では、昔ですから下駄を作った分だけ賃金になっていたそうで、父が起きたときには皆がすでに仕事を始めていたのだそうです。手元が見えるような明るさになると仕事を始めて、時間になったら朝御飯を食べさせてもらって、そしてまたすぐに仕事に移り、晩御飯を食べた後、電気を使わせてもらって仕事をしていたのだと言っていました。それから、たくさんいる職人の中で一人だけにしかできない技術があったり、父ができないものもたくさんあったりしたそうで、『何でも自分が一番じゃないぞ。上には上がいるということはお前たちも肝に銘じておけよ。』と私たちはよく言われました。
その後父は出征し、ビルマ方面に行っていたのですが、昭和23年(1948年)に復員して帰ってくると、母親や兄弟がいるのに食べるものにも困っていたのですが、下駄を作ったらすぐにお金になったのだそうです。『戦争に行って人を殺すことと下駄を作ることしか教わっていない。』といつも言っていた父ですが、『人として恥ずかしくはないか。人の嫌がることはするな。』とよく言っていました。その教えがあったので、私も自身の子どもに対して『自分がされて嫌なことは人にするなよ。それだけは必ず守れよ。お父さんはそうしてきたつもりじゃけん。』とよく言うのです。」
イ 桐下駄と雑下駄
「もともと五十崎にも下駄屋がありましたが、桐下駄とそれ以外の下駄は全く違います。桐以外のスギやヒノキで作る下駄は雑下駄とよばれるものでした。私(Aさん)と兄が後を継ごうと工場に入ったときに、私の父が卸先の確保のために京都などの小売店を回ったのですが、そちらから見るとこの地域はあまり上等ではない下駄を作る地域と見られていると感じたそうです。それで、桐の下駄で認めてもらわないと全国的には通用しないと父はよく言っていました。
それでも父の時代は、下駄というものは日常履きの履物なので、ある程度の値段でないと買ってもらえません。それで父は安価に買うことのできる下駄も作っていました。今でいうところのコミュニティビジネスなので、地元で作っている宮部さんの下駄だから買おうということだったのだと思います。卸売だけではなく、小売もしていたのですが、買いにくるのは近所の女性で、普段履きのためなのです。父も今日のおかず代になれば良いという感じで商売をしていたのだと思います。ただ、父は桐下駄屋の作る雑下駄と、雑下駄屋の作る雑下駄とは違うとよく言っていたことも憶えています。」
ウ 子どものころの手伝い
「昭和30年代には下駄がたくさん売れていました。私(Aさん)が小学生のときには夕方家に帰ると、1日にできた下駄を荷造りする時間でしたが、荷造りだけは手伝わされており、それが終わると遊んできて良いと許可が出ていました。そのころは男性用の下駄だと1包みに120足、女性用の下駄だと1包みに180足だったのですが、1日に必ず一つか二つは荷造りをする必要があったので、そのくらいは製造していたことになります。従業員は6人か7人はいたので、父とその人たちで1日にそれだけの下駄を製造していました。その数の従業員の給料を払う分だけ売れていたということですから、今から考えるとすごいなと思います。ただ昭和40年代以降、日本が豊かになるにつれてなかなか難しくなってきました。」
エ 父に弟子入り
「私(Aさん)は昭和48年(1973年)ころ高校を卒業してからすぐに父に弟子入りしました。私は自分で考えて物事を進めるのが性に合っていて、父もですが、他人に命令されて何かをやるというのはどうかなという性格だったのだと思います。家庭もそういう教育だったのかもしれません。兄も同様だったので、父は『大学に行ったり他の所に行ったりしたらまず帰って来ないのに、私のところは二人が継いでくれた。』と笑いながら話していたことも憶えています。ただ父は厳しい人で、私も修業中の最初のころは小遣いとして月に3,000円をもらうだけでした。父が言うには、高校でも大学でも教えてもらうところはお金が必要で、人に技術を教えてもらうのだから、授業料を払うのが当然だということでした。今では私も自分の持っているものを人に分け与えるということはそういうことなのだろうなと思いますし、学ぶ方もそれだけの覚悟がないといけないのだと私も理解できます。」
オ 桐下駄の材料
「私(Aさん)が父と一緒に仕事をしていたころは、製材があって、下駄の製造があって、それから加工加飾という三つの工程を全て行っていました。他の所ではそれぞれが分業というところが多いと思いますが、私の父は全部やれる人間じゃないと、どこかが止まったら、全て止まってしまうという考えを持っていたのです。そのため、山から出した丸太を製材して、ここに傷があったらこういうふうになるというようなことを学んできたわけです。
下駄の材料となる桐は丸太で工場に運ばれていました。そのころは山師が春先に、山を探して咲いた花や葉を見て、桐がある場所を見つけて、山の持ち主を探して交渉します。父から今年も山師から桐の木を買ってくれと連絡があったので、購入するから準備をしておけと私たちに指示があり、クリスマスを過ぎたころに伐採して持ってきます。そして年明けに桐の皮を剝いで製材をするわけです。丸太の長さは2m20㎝で、重たいものは100㎏くらいありました。そのころは4tトラックしかなかったので、一度に多くて10本、少ないと4、5本を持ってきていました。昭和50年代から昭和60年代にかけてはリフトもなく私たちも若かったので、人力で運んでいましたが、年を取ってからは中古のリフトを購入しました。丸太から作っていたので、勉強になり、よその仕事を見てもどの部分をどのように加工したのか分かるようになりました。
丸太によって太さが違うので何とも言えませんが、10本の丸太から500足は必ず作ることができました。昔はたくさん売れましたが、現在は限られた人しか買わないので、ある程度の価格が必要で、その価格で買ってもらうためのデザインと売るための仕掛けを考えなければならないようになっています。
父と私たち兄弟で1日に100足くらいは製造していたので、月に3,000足ほどできることになります。私は冬の間は製材が主な仕事で、2月末ごろからは丸太を製材しており、3月ころに春用の下駄を作るようにしていました。製材した板は乾燥をさせなければならないからです。乾燥が不十分なものはさらに1シーズン置いておくこともありました。夏になると、夏用の下駄を作るのですが、父は阿波踊り用の下駄も作っていました。徳島には阿波踊り用の下駄を作る業者がなかったので、私のところでも製造していました。」
カ 下駄の種類
「下駄の人の足を載せる部分を台と言いますが、台の下に付ける部分を歯と言います。昔からある下駄にハマ(歯間)下駄というものがあって、これは歯を接着したものです(写真2-1-1参照)。昔は全て修理して使うことが前提なので、歯が摩耗したときに取り替えられるようになっています。私(Aさん)の父が修業した真竹桐下駄製造店では接着ではなく、溝を切って横から歯を入れただけでぴたりと固定する人がいたそうです。10人以上の職人がある中で一人だけそうすることができたと言っていました。ところがそれをできる人もいなくなり、接着剤も良くなってきたので、単にくっつけただけのものになってきたそうです。二つある歯の後ろの方の歯には本来はアカガシの丸棒を入れて補強していました。後ろの方から着地するので、後ろの歯が摩耗するためです。下駄屋の常識では硬いカシの丸棒を入れるわけですが、近年では天然のカシの伐採が許可されなくなっているので、カシを手に入れることができず、代わりの物で代用しています。
ハマ下駄に対してマモノ(真物)下駄は、1本の木から切り出して作る下駄を言います。かつてはハマ下駄の歯の接着にはニカワが使われていたのですが、ニカワは水に弱いため、外れることもあります。そのため、マモノの下駄の方が上等なものだとお客さんに説明をする店もありますが、そもそもはリサイクルを前提としたハマ下駄が本来のものだったはずです。もちろん、マモノ下駄も昔からあったのですが、私の父が戦前にマモノ下駄を作っていたときには切り出すための鋸も自分で作成していたと聞きました。ぜんまい式の時計の使われなくなったぜんまいをもらってきて、自分で歯を作って糸鋸を作っていたそうです。それで糸鋸で木材を切っていくのですが、そのためマモノ下駄を作るためにはとても時間が掛かったのだと言っていました。父が言うには、今だったらお金で手に入るけれど、昔は欲しいものが手に入らなかったので、自分で作らなければならなかったそうです。
今はゴム貼りの下駄が多くなっており、私のところではほとんどとなっています。今と昔では道路環境が全く違うからです。昔は馬車道でも細かい砂の道で、下駄が食い込んでも歯はあまり減りません。ところが、コンクリートやアスファルトだと下駄がすぐに駄目になってしまうので、ゴム貼りの下駄でないと売れないというようになってきます。やはり芸術家ではないので、売れるものを作らなければ仕方がありません。
木の歯のハマ下駄を履く人は寺社仏閣の人が中心で、一般の人は少なく、注文はほとんどありません。ただ、ハマ下駄は材料も少なく、修理も容易ですので、今でいうところのSDGsです。」
キ 東京での経験
「私(Aさん)が30歳になるころ、父から東京で下駄を売りに行ってこいと言われました。修業を始めてから10年したころで、まあまあ自分が分かってきたと思っていたころのことでした。何でもそうですが、10年は従事しないといけないのではないかと思っています。
そうして10年以上修業して、昭和58年(1983年)に初めて東京で実演販売をしました。そのとき販売は順調だったのですが、あるお客さんから馬鹿にされました。五十崎で製造しているものと同じものを持って行ったのですが、あるお客さんが、『お兄さんどこから来たの。』と聞いてきたので、『愛媛県の五十崎です。』と答えると、『そうだろうね。』と言うので、何を言われるかと思うと、『ださくて買う気にならないものが一杯置いてあるわよ。』と言われたのです。新宿の小田急百貨店というところでした。私は、小田急電鉄の新宿駅では1日に150万人乗り降りする人がいてそのうちの10人に一人がやって来ても、15万人は入ってくると聞いていたので、すごいなと思っていました。そのお客さんが帰った後に私が落ち込んでいるのに気付いた百貨店の担当者は『宮部さん、東京はね、あなたが帰った後に他の県から商売に来るから東京の人はあなた以外のものもたくさん見ているのよ。あなたが作ったもの以外のものをたくさん見ているお客さんの物差しで見るとあなたはそういうところにいるのよ。だから勉強をしなくちゃね。うちは8時までの営業だけど、その向こうに10時まで開いている大きな書店があって、専門書もたくさんあるから、勉強してきなさい。』と教えてくれました。また、『あなたがやっていることは間違いないと思うんだけど、ただちょっとセンスがないわね。だから下駄屋でずっとやっていこうと思うのだったら勉強しないと。』とも言ってくれたのです。
愛媛県でそれなりのものを製造していると思っていましたが、東京では衝撃を与えられました。それでやはり上には上がいるというのはこういうことかと分かったので、勉強しないといけないと思いました。それで教えてもらった書店に行くと、専門書がたくさん並んでいて、世の中にはこういう本があって、こういう世界があると知ったのは衝撃でした。それで本を読みあさって、父にも本を買いたいと連絡して、当時の私にとって、4,000円、5,000円というとすごいお金なので、許可をもらって、購入して読みました。そのような専門的な勉強は初めてでした。東京に行くと、1週間で100万円以上の売上げがあったので、そのくらい売って帰ると父は喜ぶのですが、もっと評価してもらうような下駄を作ったらもっと売れるはずで、そのことに気付かせてもらったそのお客さんには今でも感謝しています。
他にも東京に行くと、他県の同業者からもいろいろ教えてもらいました。例えば経費についても、デパートが何割取って、交通費、滞在費を掛けて私たちがここへ来ていること、そのうえでどのくらいの利益が出て、自分の人件費はどのくらいで、そのためにどのくらいの価格が適正かといったことです。そして利益が出るような価格を自分で計算しないといけないし、お客さんがその価格に納得するようなものを作っていくことなど懇々と説かれたこともあります。私は東京で良い人に出会ってきました。一人で行って、良い人に次から次へと出会っていて、いろいろな事を教えてもらうことができました。
私は東京で良い思いもしましたし、様々な嫌な思いもしたので商品知識なども身に付いているのではないかと思います。ある程度広い世界に行って、いろいろな人と一緒に仕事をすると、勉強にもなりますし、いろいろな考えの人がいるということにも気付けます。だからこそ、父のことをすごいなとも感じるのです。父に『お前東京に行ってこい。』と言われたときに、私は『東京に行ける。遊べるぞ。』と最初は思っていたのですが、そう考えるようになりました。」
ク 下駄作りの転換
「私(Aさん)が勉強になったことの一つは村おこし運動ですが、私のところでは九州へ販路があったので、大分県の一村一品運動がとても勉強になったことを憶えています。それで地場産品であるとか、地産地消の概念を学び、次に東京に行くときには地元産の桐を使ってやってみようかと思うようになりました。ただ、これは失敗しました。どうしてなのだろうかと考えたのですが、東京は東北出身者が多く、その人たちにとって温暖な愛媛の桐は物足りないのではないかと教えてもらいました。
そのころ昭和50年代の後半くらいから中国産の桐下駄が出始めました。下駄というのは、ほとんどが手作りですから人がたくさんいればいるほど、生産量が上がるわけです。ところが、当時の中国では人件費が安かったので、安価なものが大量に入ってきたわけです。日本の10分の1の金額で人が雇えると聞きましたし、中国に進出した桐下駄製造者もいました。ただ、私は中国のものを見たときに、粗雑な桐だなと思いました。愛媛の桐もこのように見られていたのかもしれません。
昭和50年代の後半から中国製の桐下駄が鼻緒も付いて一足1,000円くらいで売られるようになりました。原価で言えば100円か200円くらいなのだと思います。そうした安い下駄を求める人がそれを買うような時代になってくると、だんだん地元のデパートで販売をしてもちょっとずつ売り上げが陰ってくるようになってきました。小売と各地の下駄店への卸もしていたのですが、その店舗にも安い下駄が並ぶようになってきてどうしようかとなってきました。桐下駄の問屋は関西が強いのですが、ある大阪の問屋に『中国産の桐下駄も出てきたから、誰が見てもきれいな材料と認めてくれる材料を使わないと売れないよ。』と言われました。いちいち説明しなくても、きれいな桐で日本製だったら買ってくれるのではないかという話をして、兄とも相談して地元産の桐の購入を減らすようになりました。
それで、地元産の桐からは25年前くらいに切り替えました。そのころは私と兄の二人でやっていたので、地元の桐を使うと製材をするために人手が必要ということも理由の一つでした。それで、ある程度製材したものを買ってきて、付加価値を付けて売る方が良いのではないかということになったのです。
さらに私がデザインの勉強をさせてもらっていたので、見たことのないようなデザインのものを作って売っていくようにしました。他と同じものを作ると、どうしても値段勝負になりますが、どこにもないようなものを作ると卸売でもこちらの言い値で買ってくれる確率が高くなるわけです。父が県内のデパートでの小売も残してくれていたので、ときには辛辣な言葉を言いう人もいましたが、お客さんから直接の批判や意見を受けることができたのも勉強になりました。
デパートで小売をしているというのは信用力のアップにもつながります。私は製造した下駄を基本的には卸していますが、業界のルールで私の名前ではなく、卸先の名前、あるいは販売店の名前で売ることになっています。ただ、デパートで何十年も売ってきて、地元のデパートでは自分のコーナーを作らせてもらいましたと言うと、それだけの人だということを分かってもらえます。最近はSNSで私を知ってどこに行ったら買えますかと言われたときに、地元のデパートの名前を伝えることもできるようになりました。今年(令和5年〔2023年〕)は地元のデパートに行ったら東京からわざわざ買いにきてくれたお客さんがいて、有り難いと思いました。
父は、『目先の金を取ったら、信用がなくなるぞ。』とよく言っていました。直接お客さんと接する中で、これは良いものですよと言うときにも作り手としてここはちょっと問題があるというものはあるので、それは正直に言う方が良いのではないかということにも気づきました。自分が作ったものが全て100パーセントではありませんし、天然素材を扱っている以上は、環境やそのときの気候、木目などいろいろあるので、それもきちんと説明できるような人間にならないといけないなということです。やはり、それでも宮部の作る下駄は間違いないと信用されないと次につながらないので、嫌な思いをすることもありますが、それを大切にしていかなければならないと思っています。私もデパートで一緒に売っていた人の中には、これはどうだろうという売り方をする人もいました。ただ、そういう人たちは自然と消えていきます。」
(2) 火災に遭って
ア 火事の知らせ
「令和3年(2021年)に火災のため工場が焼失したときに、私(Aさん)は地元のデパートにいました。夕方火が出て、電話が掛かってきてすぐに戻ってこいということになりました。売り場をそのままにしておくことができないので、事情を説明して許可をもらって工場に帰ると、何もない状態でした。兄と話して、今持っているものをどうにかしないといけないので、とにかく下駄を売ってこいということになりました。デパートと相談すると販売して良いということになったのですが、ニュースに取り上げられたので、お客さんがたくさん来てくれて通常なら1週間の売上げを1日で上げることができました。長い間やらせてもらって、変なことをしていなかったので、お客さんに来てもらえたのだと思います。
父は常々『信用が大切なのだ。目先の金にくらむなよ。』と言っていました。身に染みてお金を出してもらうというのは大変な事だと理解していますが、目の前の5,000円が欲しいばかりにうそをついたら、5,000円は手に入るかもしれないけど、次はありません。今は5,000円を置いてくれても、次のお金はないのと一緒です。お客さんが次も来てもらうようにと今までやってきたからではないかと思っています。
その後兄はもうやめようと言っていたのですが、得意先から電話があって、お客さんが必要としているのだからやめたら困ると言われました。それで、下駄の台を作っている香川の業者とつなげてもらいました。その業者に入ってもらって台を提供してもらえることになったのです。そこは桐の台しか作れないところで私は台のデザインが得意なものですから、お互いが商売の邪魔にならずにお互いが助かるということで話が進みました。本当は自分でやらなければならないのですが、何をするにしてもお金が掛かります。そうやって手を差し伸べてくれるところもありましたし、中には『お金を出すので、もう一度仕事を再開してくれたら私が楽なんよ。』と30万円を送ってくれたところもありました。」
イ 現在の下駄作り
「現在の私(Aさん)の工場では胡麻竹(ごまだけ)貼りの桐下駄と錣(しころ)貼りの桐下駄の注文を受けています。この2種類を作っているのですが、全部プレスして貼り付けなければなりません。胡麻竹貼りは現在日本で私にしかできません。胡麻竹は胡麻の模様が付いたもので、現在は京都でしか生産されていません。胡麻の模様はかびで、かびが毎年生えるような環境を維持した京都の竹林で生産されます。この胡麻竹を最終的に1㎜くらいまで削って下駄の形に合わせてカーブさせ貼り付けます(写真2-1-2参照)。
錣は昔の武将の後頭部から首にかけての部位を守る目的で付けられた物のことを言います。下駄に貼るのですが、ただ単に黒く焼いたものだと『ださい』となるので、自分で染めた素材で錣を作っています。
そのためにかなりの試行錯誤が必要でした。染料と顔料があるということを勉強し、染料を手に入れることから始めました。色の名前も憶えにくいのですが、専門書が高く買えないときには、それを読んで憶えてからホテルに戻ってメモをしたということもありました。塗料屋からは、調色剤と言うものがあって、その色があるのではなくて混ぜてその色になっていることを教えてもらったり、どれとどれを混ぜるとどんな色になるのか試してみたり勉強をさせてもらいました。
今のところはその二つで注文をもらって、卸でもデパートの小売でもそれで大体需要を賄えています。あとは毎年デザインを考えて、今年はこういうものでいこうと、その辺りが私のキャラクターとしての売り方となっています。
現在でもデザインだけは自分で施しています。原点に戻って台の製造からやりたいのですが、買ってもらわないことにはどうにもなりませんので、できることを一つずつやって、やっとここまで来ました。
火災で機械類も全て使えなくなりましたが、貼り付けるためにはプレス機が必要でした。焼けた跡から何とか探し出したのですが、修理のための費用が高額で、困っていたところを徳島県の業者からいただくことができました。下駄のカーブに沿って接着するためには、ゴムを挟んでプレス機で完全に押さえ付けて接着します。ただしゴムだったら何でも良いわけではなくて、胡麻竹用は胡麻竹用の、錣用は錣用に適した柔らかさのゴムがあります。どのゴムを使うかが職人のノウハウなのですが、データを残しているわけではありませんので、それぞれに適した柔らかさのゴムを探しに行く旅をしました。早いのはホームセンターですので、私は愛媛県と香川県のホームセンターへは全軒行っているのではないかと思うくらい、いろいろな所を訪ねました。この硬さだったら使えるかなとか、これでは駄目だとか、何度も試行錯誤を繰り返しました。それで仕事を再開するにもかなりの時間が掛かりました。」
ウ 工場の再建を目指して
「工場をもう少し広くするためにクラウドファンディングのシステムを利用して全国から支援をしてもらっています。最初は115万円、次に215万円の支援をいただきました。前を向いて進めということだと理解して、前向きにやろうと思っています。先日も香川県の廃業した下駄屋のところに古い機械を持っていないかと訪ねて行きました。幸運にも、親切な人との出会いもあり、協力してもらえることになりました。
ただ、私(Aさん)が今切実に困っていることが、包丁と呼んでいるゴムを切るための刃物が入手できないことです(写真2-1-3参照)。もともと新潟の業者が作ったものですが、平成16年(2004年)の新潟県中越地震のために廃業してしまい、作っているところがありません。これがなくなるとゴムが切れなくなるので、切実に欲しいと思っています。切れ味が良くないといけないので、自分で研いで使っていますが、刃の部分があと9mmほどしか残っておらず、その部分がなくなったら下駄屋をやめないといけなくなります。いろいろな四国の包丁屋に依頼しているのですが、依頼から2年たっても出来上がらないということは難しいということなのかなと思っています。
弟子でも置いて技術の継承をしてほしいとも言われますが、弟子を取るということは誰かの人生を預かるということですし、人件費が必要ですから、技術のない人を育てるためには私が二人分働かないといけないということです。理想は分かるのですが、なかなか現実としては動けません。」