データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
1 町並みをたどる
(1) 旧道と新道
「現在、商店が並んでいる道は比較的新しい道で、新道と呼ばれていました。一方、よろずやだった私(Bさん)の店の前からお宮の前を通って小学校の裏に出る道がもともとの道で、旧道もしくは本道と呼ばれていました(図表1-2-1の㋐参照)。
私が物心ついたころ、新道はメインストリートとなっていましたが、まだ舗装されておらず、昭和40年(1965年)ころから舗装工事が始まったと記憶しています。」
「旧道が昔からある本来の道なので、神様は旧道を通るものだと、私(Aさん)は聞いています。そのため、秋祭りのとき、神輿(みこし)は旧道を通っていました。」
(2) 商店街の店
ア 様々な店
「寺村にはこちらの店と池田さんのところの2軒、よろずやがありました(図表1-2-1の㋑参照)。いずれの店も百貨店と名乗っていて、何でも売っていたことを、私(Aさん)は憶えています。元歯科の建物は、草屋根と呼んでいた茅葺(かやぶ)き屋根でした(図表1-2-1の㋒参照)。歯科技工士の女性が歯科医を雇って診療していましたが、昭和30年(1955年)までにはやめていたと記憶しています。
こちらの鮮魚店はその後、道を挟んだ反対側に移転し、現在も続いています(図表1-2-1の㋓参照)。材木商は、材木を扱うよりもシイタケ栽培に力を入れるようになり、長屋にシイタケの乾燥場を設けていました(図表1-2-1の㋔参照)。野菜商はのちに三輪自動車を購入し、荷台に野菜を積んで売りに回っていたことを憶えています(図表1-2-1の㋕参照)。
食油工場では、菜種を搾って食用油を製造していました(図表1-2-1の㋖参照)。まんじゅう店があったのは、私が小学生のころまでだったと思います(図表1-2-1の㋗参照)。私は憶えていませんが、この店のまんじゅうは、とてもおいしかったそうです。」
「法務局があった場所は、時期ははっきりとはしませんがその後、縫製工場になりました(図表1-2-1の㋘参照)。こちらの鮮魚店がある場所には、昭和30年(1955年)の合併によって誕生した小田町の初代町長の自宅がありました(図表1-2-1の㋙参照)。食品店の家では、店を持つ前には、奥さんが衣料品の行商を行っていたと、私(Bさん)は聞いています(図表1-2-1の㋚参照)。」
イ 金壺座
「金壺(つぼ)座は、もともと芝居小屋でした(図表1-2-1の㋛参照)。娯楽が少なかったため、大正12年(1923年)に村人の共同株式でできたと、私(Aさん)は聞いています。舞台の幕には金壺の絵が描かれており、青年団による芝居が上演されており、村芝居もよく来ていました。」
「金壺座では映画も上映されていました。昭和38年(1963年)のいわゆる三八豪雪の際、雪の重みでつぶれてしまったことを、私(Bさん)は憶えています。その後、再建されましたが、公民館として利用されるようになりました。金壺座の跡地には現在、自治会館が建っています。」
ウ 酒店と醸造所
「酒店では、少し離れたところにある醸造所で造った酒を販売していました(図表1-2-1の㋜、写真1-2-2参照)。売り上げが良かった時期には、氏神である新田神社に神輿を寄付したそうです。醸造所の外には酒樽(だる)が並んでいたことを、私(Aさん)は憶えています。」
「酒店では『志ら玉』という銘柄の酒を販売しており、よく売れていたと、私(Bさん)は聞いています。のちに旧北条(ほうじょう)市(現松山(まつやま)市)の酒造会社に吸収合併されました。」
エ よろずや
「私(Bさん)の家はよろずやで、寝具、靴、文具、呉服、背広などあらゆる品物を扱っていました(図表1-2-1の㋐参照)。しかし、私は父から店を継いで、しばらくするとよろずやをやめて店名を改めて再出発することにしました。商売のことをいろいろと勉強をして、これからの時代はそうした方が良いと判断したためです。父はよろずやをやめることに反対しており、周囲の人にはよく愚痴をこぼしていたようでしたが、私に対して、反対であることを直接的に強く言うことはありませんでした。
よろずやをやめる際に、閉店セールを4日間行いました。定価で3,000万円ほどの在庫がありましたが、二束三文で大安売りをしたところ、お客さんが恐ろしいほどやってきて大行列ができてしまい、大変なことになりました。そのため、警察にお願いして交通整理をしてもらったことを憶えています。」
オ 相撲場
「現在、花の木公園となっている場所には、かつて相撲場がありました(図表1-2-1の㋝、写真1-2-1参照)。よそからも青年団や一般の人もやって来て土俵で相撲を取っており、大変にぎやかだったことを、私(Aさん)は憶えています。そのころは、ほかの所でも相撲はよくやっていました。」
「私(Bさん)の子どものころ、もうこの場所で子どもたちは相撲を取っていなかったと思います。かつて、ここで子どもたちを相撲が取っていたと聞いたことはありましたが、少なくとも、私はここで相撲を取っていません。」
(3) 商店街の様子
ア 商店街への買い物客
「寺村の商店街には近隣からだけでなく、旧内子町や河辺村からもお客さんが買い物に来ていました。私(Bさん)の店も、内子町大瀬地区にチラシを配っており、自家用車で買い物に来るお客さんのために、5、6台分の駐車場を確保していました。」
イ 農作物の扱い
「この辺りでは米を自作している人が多かったため、米の販売店といっても精米所を兼ねている状態でした。現在は、コイン精米所がありますが、当時はなかったために精米所として成り立っていたのです。農協でも精米を行っていたことを、私(Aさん)は憶えています。」
「近隣の農家の人たちは、自分のところで農作物を作っているため、野菜や米を商店街の店で買いません。一方、私(Bさん)の家のような商売人は、農家の人たちから農作物を買わなければならず、知り合いの農家や農作物を作っている親戚から安く分けてもらっていました。」
(4) 人口減少と商店街
「高度経済成長期を経て社会が変化し、小田町の主要産業である農業や林業だけで生活を成り立たせるのが難しくなってきました。そのため、会社勤め等をして給料をもらって生活費を稼がなければなりませんが、小田町では役場や農協のほかにそのような場所があまりありません。そこで小田町の人たちは、子どもたちをよそに出すことになり、小田町の人口がどんどんと減少していったと、私(Aさん)は思います。その結果、商店街に買い物に来る人も少なくなり、商店街の店は次々と閉店していくことになりました。寺村の商店街で、昔から営業を続けている店は4、5軒くらいになりました。」
「私(Bさん)が結婚した昭和40年(1965年)ころ、林業の景気が良く、トラック一杯分の材木があれば嫁入り道具を用意できると言われていました。その後、木材価格が低下し、林業は長く低迷しましたが、近年は環境問題へ対応する必要があるため、国から林業へ補助が出るようになって改善が見られます。
このように、行政機関から補助によって低迷している業界を改善することができるのです。過疎が進んでいる地域において、個人商店が個人の力だけで経営を成り立たせることは、大変難しくなっています。行政機関と協力して、何とか個人商店が生き残る道を模索していかなければいけないと思います。」
図表1-2-1① 昭和35年ころの寺村の町並み Aさん、Bさんからの聞き取りにより作成 |
図表1-2-1② 昭和35年ころの寺村の町並み Aさん、Bさんからの聞き取りにより作成 |
写真1-2-1 花の木公園 内子町 令和5年9月撮影 |