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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

 (1) 大瀬村から内子町へ

「成留屋は旧大瀬村中心部に位置する小さな谷底平野にある町並みを指します。成留屋は西から本町1丁目、2丁目、3丁目とあって、私(Dさん)は3丁目で生まれ育ちました。私が小さいころは、大瀬小学校と同じ敷地に大瀬中学校もありましたが、昭和30年(1950年)に現在の中学校の場所に新築されて移転しました。現在の校舎は、改築が行われた2代目になります。小学校の敷地には保育園も建っていて、現在もその配置に大きな変更はありません。私は学校を卒業した後、しばらく外に出ていましたが成留屋に戻ってクリーニング店を経営し、その後、縫製工場を経営していました。
 現在、『大瀬の館』と名付けられた宿泊施設は、昭和30年(1955年)に合併して旧内子町となるまで大瀬村の役場だった建物です(図表1-1-1の㋐、写真1-1-1参照)。合併後は森林組合が事務所として使用していましたが、後に森林組合が旧内子町の中心地に移転して建物は空き家になり、取り壊すことが計画されたため、私たちが運動をして保存・活用することが決まりました。合併したころの大瀬村には5,700人ほどの人が住んでいたそうです。それだけの人が住んでいましたから、成留屋の町は多くの人でにぎわっていたのです。その後、旧大瀬村に相当する大瀬地区の人口は平成元年(1989年)に2,700人ほどに減少し、現在は1,500人ほどになっています。」

(2)成留屋の町並み

ア 混雑する通り

「私(Bさん)は川登地区で生まれ、昭和34年(1959年)に成留屋へ引っ越してきました。その年は皇太子(現上皇)御成婚の年でしたからよく憶えていますが、松山の理容学校に1年間通って野村(のむら)町(現西予(せいよ)市)の理容店で修業をした後、私は成留屋で理容店を開業しました(図表1-1-1の㋑参照)。そのころの成留屋は、買い物やら用事やらで通りを歩く人が多く、昔の人は本当によく歩いていたと思います。
旧大瀬村のころは、冗談で『成留屋は大瀬の首都だ。』などと言っていました。旧正月のときに開かれる大瀬市には、通りを歩けないくらいたくさんの人が出ていました。よそから人がやって来て、屋台も多く立てられていたことを憶えています。唐津屋と呼んでいた陶磁器売りも何軒か出店していて、見ているだけで面白かったです。子どものころは、年に1度の市で親の財布のひもが緩むときでしたから、小遣いをもらって買い物ができるのが楽しかったことを憶えています。この大瀬市は、昭和30年代まで開かれていたと思います。」
「私(Eさん)の実家は、成留屋から下って行った旧五城村との境目にあります。私が生まれた年に、大瀬村と五城村は合併して旧内子町となりました。成留屋の道幅は今も昔も変わりませんが、昔はこの道を国鉄の路線バスが通っていました。バスが通り過ぎるたびによけないといけませんから、保育園に通う小さいころや小学生のころはとても怖く感じていたことを憶えています。昭和40年(1965年)になる前に、それまで土の道だった通りが舗装されるようになり、舗装を行う一方で人と車が通るものですから本当に混雑した状態で『どうなるんだろう』と思っていました。昭和30年代までは、旧正月のときに大瀬市が開かれていて、そのときは瀬戸物のたたき売りが行われていました。瀬戸物市に合わせて駄菓子屋などの屋台も立てられたのですが、もともとの商店の前に屋台が立てられ、そこに多くの人が押し寄せ、さらにその中をバスが通っている大混雑ぶりを今でも強く憶えています。『バスが来るぞ。』と誰かが言うと、一斉に人がよけていました。後になって、町おこしの一環として大瀬市を復活させようと徳森さんと話し合ったこともありました。」
 「公民館(現在の大瀬自治センター)の南にある成留屋橋は、昭和60年代に内子東バイパスができる前は、南の集落を結ぶ道路に掛かる橋として大変重要でした(図表1-1-1の㋒参照)。旧大瀬村の中で南西に位置する村前地区へ行き来するバスも通っていましたし、成留屋から大瀬中学校に行く道もここでした。内子東バイパス建設に際して、成留屋橋は取り壊される計画となっていましたが、地元の要望によって残されることになりました。現代の車やバスが通れるほど幅もないために歩行者しか通りませんが、大瀬中学校への通学路として現在も利用されていますから、残って良かったのだと私(Dさん)は思います。
 内子東バイパスができる前は、公民館前の三差路は交通の要衝でした。車の離合はできませんからどちらかが後退するしかありませんし、今のバスに比べるとサイズは小さいですが、バスが家の軒下に引っ掛かることもありました。そのような所に多くの人が行き来していたのですから、よくバスが通っていたものだと今になって思うことがあります。
 かつては大瀬地区にも多くの人が住んでいて、高校は内子高校しかありませんでしたから、朝は通勤と通学の人のために何台もバスが通っていました。村前地区や成留屋の北の山間地に位置する程内地区からやって来たバスや、旧小田町からやって来たバスが成留屋に停まるころには人が乗るスペースがなく、車掌さんが乗客を押し込んで乗せていました。そのせいでバスの後部では乗客が身を乗り出すようになって乗っていましたから、今では考えられないような光景がありました。
 昭和30年代まで、旧正月の1日間に大瀬市が建てられましたが、当時は5,000人前後の人が大瀬地区に暮らしていたのですから、その中心地である成留屋に人が集まって大いににぎわうことはごく自然な流れでした。1年に1度の市ですから、そのときに瀬戸物を始めとする生活雑貨を購入しますし、魚も売られていましたから、塩サバを始め保存が効くものが求められていたのです。成留屋の魚屋さんは大瀬市の1日間で1年分の売り上げに匹敵する数を売っていました。山に暮らす人たちがオイコを背負ってやって来て、魚を買って帰っていました。塩サバというのは中に塩を詰めて塩漬けにしたのもので、食べるときは塩を落とさないと塩辛くて食べられないものでした。」

イ 成留屋のにぎわい

「私(Aさん)は10歳のときに成留屋に越してきて、この地で結婚してずっと成留屋で暮らしています。私が嫁いだ先は酒屋で、成留屋では酒を醸造しているところもありましたが、私の店は内子の町にある酒六酒造や旧長浜(ながはま)町の酒蔵、松山の酒造業者から酒を仕入れて、小売りをしていました(図表1-1-1の㋓参照)。旧長浜町の酒蔵は、今は酒造りをやめていますが昔は大きな酒蔵でした。私の店では、昔は酒以外にも食料品を含めていろいろな物を売っていましたし、下駄や草履、靴を売っていたこともあります。車が主な移動手段でなかった昭和30年代は、内子の町を含め容易によその町に買い出しに出られなかったので、成留屋で買いそろえられるように品数が増えて何でも売っていたのだと思います。今はそのようなことはしていませんが、よくあれだけの物を売っていたなと今は思います。コップ一杯幾らで酒を売っていたこともあります。町の商店街には3軒の食堂があり、居酒屋も兼ねていたように思います。また、旅館でも食堂を開いていました。
成留屋には大工も多く住んでいました。大瀬地区は戦後になって葉タバコ栽培が盛んになり、収穫した葉タバコは乾燥させる必要があったので、それぞれの農家が乾燥場を持っていました。一見すると蔵とよく似た建物だったので、それを建てる大工は多くの仕事を抱えていました。近ごろはその面影もなく、『以前だったら、この時期(7月)は葉タバコの収穫の最盛期で葉タバコが一面植わっていたのに』と思いながら畑のそばを歩いています。その畑も、今では耕作放棄地が多くなっています。私の店でも葉タバコ農家のお得意さんが多くいました。『葉タバコのお金が入るので、それまで支払いを待ってくれないか。』と頼まれることもしばしばありました。戦後から昭和の終わりころまで、成留屋の商店街は大いににぎわっていました。」
「私(Bさん)が成留屋で理容店を開いたころ、うちを含めて3軒の理容店がありました。客は大瀬地区の人が中心だったのですが、息子が後を継いでいる現在は大瀬地区以外からの客が多くなったように思います。理容店を開いてからは、小さな家で子どもを育てながら忙しい日々を過ごしました。娯楽といえば囲碁や将棋が面白かったことを憶えています。客がいないときは棋譜を並べて次の一手を考えていたことを憶えています。しばらくして、お金に余裕ができてくるとカラオケが流行っていき、祭りのときの舞台に立って歌うのが楽しかったことを憶えていますが、今はそれもなくなってしまいました。
成留屋の呉服屋や小間物屋は大瀬地区の山間部に行って売り歩くこともしていました。呉服屋は風呂敷に反物を包んで売り歩いていました。自動車が主流でなかったころはオートバイや自転車で回っていましたし、内子の町の方から売りに来る人もいました。」
「移動販売は現在も続いていて、農業に従事している人たちの休み時間に合わせて家々を回り、衣服や布団などの販売を行っています。私(Cさん)の家は成留屋で雑貨店を営んでいて、昭和の間は続けていました(図表1-1-1の㋔参照)。そのころは人の出入りが多かったことを憶えています。私は35歳のときに成留屋に帰ってきて郵便局で勤務してきました。郵便局では郵便業務だけでなく、大瀬地区全体を受け持つ集配業務も行っていましたので、多いときで15人くらい人を雇っていました。かつては電話の交換業務も受け持っていたので、そのころは20人を超える人を雇っていたそうです。配達員も忙しく働いていましたが、夕方になって仕事が落ち着くと、『局長さん、飲みますか。』と誘われてよく飲んでいました。酒を飲む人は辛い味付けの料理を、飲まない人は甘い味付けの料理を食べて、当時はにぎやかに過ごしていました。そのころは地域も元気で、よく物も売れていたと思います。」
「私(Dさん)の家は成留屋でも早くに自家用車を持った方ですが、それでも昭和40年代半ば、私が二十歳になったくらいでした。家はクリーニング店を営んでいましたので車を購入する前、私の父はオートバイに乗って衣類を集めに回っていて、旧小田町や旧広田(ひろた)村の方まで行っていました(図表1-1-1の㋕参照)。クリーニング代はワイシャツが1枚50円、ズボンが80円の時代です。私も成留屋に戻ってから仕事を手伝いました。クリーニングの技術には国家試験があって、私も試験を受けました。実技試験では7分間の内にワイシャツを仕上げて畳むというものがありました。父親から技術指導を受けて試験に臨んだことを憶えています。私が仕事に入ったころには外回りは車で行っていました。父親が私を乗せて回っていましたが、得意先を教える目的があったのだと思います。ですが、その後しばらくして父がよその人が経営してした縫製工場を買い取り、そちらの仕事を続けてきました。一時は相当に忙しく、大変に苦労したことを憶えています。
また、成留屋には学校の先生の住宅もあって、赴任してきた校長先生をはじめ先生たちが暮らしていました。学校に通っていたころは、先生の家によく遊びに行ったことを憶えています。」
「昭和30年代、成留屋の商店街には電器店や時計店もあって、何でも店舗はそろっていました。小学校に赴任してくる先生たちが、『ここはどんな店でもある町なんだな。』と、みんな言っていたことを私(Eさん)は憶えています。理容店も3軒あったくらいです。旧大瀬村に当たる大瀬地区は旧内子町の3分の1の面積を占めていますから大変広い地区であり、そこに暮らす人々の需要を満たす商店街だったのです。
成留屋には洋服店が何軒かありましたが、昔は既製品ではなく生地を売っていました。私の母は自宅で洋裁店を営んでいて、成留屋で買った生地が持ち込まれていました。母は人を雇っていましたので、二人で手縫いで仕立てて服を作っていました。夜も母一人が遅くまで仕事をしていたことを憶えています。家にはカタログがたくさんあって、客はそれを見ながら『こんな感じの服にしてほしい。』と注文していました。母は採寸から製作までやって、子ども服の場合は『できたから着てみなさい。』と私が試着の役をしていました。そのため、学生服も内子の中心街に行くことなく成留屋で準備できていました。」

ウ 山間部の生活

「私(Fさん)は成留屋から南東部に位置する池田地区の出身で、車で15分くらい掛かる場所に位置する山間部の集落です。山間部では戦前まで林業を主要な産業としていましたが、戦後に入ってからそれが振るわなくなり、昭和30年代には池田地区に限らず大瀬地区全体で葉タバコ栽培に力を入れるようになりました。葉タバコ栽培が最盛期を迎えていたのが昭和50年代前半でしたが、それが平成に入って衰退するようになり、集落の活力が失われていったと思います。私の実家でも平成の初めくらいまで葉タバコ栽培を続けていました。現在、大瀬地区で葉タバコを作っている農家はありません。葉タバコ畑の跡地はクリ林やブドウ畑として利用されていますが、畑を広げてしまうと人手も掛かりますので作付面積は限られており、耕作放棄地の面積が多くなっています。葉タバコ栽培が盛んなころ、その収入は成留屋で使われていましたから、町も大いににぎわっていました。収穫後のお祝いも成留屋の旅館でやっていました。
池田地区は旧大瀬村の中の一集落でしたが、成留屋から南東に山を一つ越えたところに位置するため、どちらかというと旧五十崎町の御祓川流域の集落とのつながりが強かった所でもありました。池田地区には中学校もありましたが、私が通うころには既に閉校となっており、私たちは大瀬中学校ではなく寮に入って内子中学校に通っていました。しかし、買い物や散髪といった日常の用事は成留屋に行って済ませていましたし、神事や仏事についても成留屋にある神社や寺とのつながりがありました。
私の家では牛を飼っていました。牛の取引が行われる牛市が成留屋で開かれていたようですが、その後旧五十崎町の方に移っていきました。私が生まれたころには、農耕牛として使うことはなく、子牛を育てた後に売って収入を得ることを目的として飼っていました。同じ牛を2年から3年くらい飼っていたと思います。放牧することはなく、牛小屋で飼っていました。」
 「成留屋では牛市が開かれていて、周辺から多くの人が集まっていたことを私(Eさん)は憶えています。各農家が日ごろから子牛を育てていて、それを牛飼いがやって来て買って帰っていました。今の大瀬自治センターの前に成留屋橋がありますが、橋を渡った所で牛の取引をしていて、そこだけでは足りないということで大瀬中学校の運動場を借りて開かれていました。そのときも屋台が立っていて人が集まっていたのですが、ときどき牛が逃げるというか走り回ることがあるので、私は牛市に行ってみたかったのですが、それが怖いなと子ども心に思っていました。牛は肉牛で、田植え前に農耕牛として使うこともありましたが、どこの農家もせっせと大きく育てていましたし、品評会も合わせて行われていたと思います。農家にとっても現金収入が得られる数少ない機会で、牛市は昭和40年(1965年)ころまで行われていたと思います。」


写真1-1-1 旧大瀬村役場だった大瀬の館

写真1-1-1 旧大瀬村役場だった大瀬の館

内子町              令和5年4月撮影

図表1-1-1① 昭和30年代の成留屋の町並み

図表1-1-1① 昭和30年代の成留屋の町並み

調査協力者の聞き取りにより作成

図表1-1-1② 昭和30年代の成留屋の町並み

図表1-1-1② 昭和30年代の成留屋の町並み

調査協力者の聞き取りにより作成