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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 垣生地区の産業と生活

(1) 伊予絣発祥の地

ア 今出と絣
「垣生地区は現在の西垣生町と東垣生町のことを指しますが、海沿いの西垣生は古くから今(いま)出(づ)と呼ばれていました。垣生地区の産業といえば、昔から農業と漁業でした。それでは現金収入が得られないために、副業として江戸時代から絣を織ることが始まったと私(Dさん)は聞いていますし、この辺りは小作農家が多かったために収入を得る手段として絣織りを選んだことも理由として挙げられます。絣とは、前もって糸を藍で染め、それを織りあげた柄のある織物です。糸の全部を染めるのではなく、ところどころを染めることによって白と藍色による模様を作っています。江戸時代のころは、松山一帯で絣が織られていたそうですが、当時の模様は縞(しま)模様ばかりだったために人気があまりなかったそうで、そんな中、今出の鍵谷カナが様々な柄の織物を作り出すことを考案し、今出絣として有名になっていったそうです(写真2-3-6参照)。明治以降も今出絣としてこの地域の絣は知られていました。この今出絣が伊予絣となって世に出るきっかけを作ったのは、今出出身の村上霽月の功績が大きいと私は思います。村上霽月は当時の伊予郡西垣生村今出に生まれ、正岡子規や内藤鳴雪の指導を受けて俳人として活動したことで知られていますが、今出絣株式会社の社長を務めた実業家の一面も持っています。その彼が今出絣を積極的に県外に売り出すようになり、その過程で伊予絣とした方が人々に認知されやすいと考え、広めていったのだと思います。」
イ 戦前から戦後の伊予絣づくり
「私(Dさん)の家族はかつて農業を営んでいて、今出ではなく北側の南吉田に住んでいたと聞いています。そこで農業と機(はた)屋(や)(絣を織る仕事)をしていたようですが、私の曽祖父の代に機屋がうまくいかなくなり、曽祖父は一家を挙げて当時旧日本海軍の軍港があった広島県の呉(くれ)市に移り住むことにしたそうです。しかし、息子である私の祖父は移住に付いて行かず、松山に残って再び機屋を営むことを考えたそうです。
私の祖父は今出に土地を借りて移り住み、他の機屋で働いて絣織りの修業した上で、明治の中ごろに自らの機屋を開きました。当時、今出には大小60軒くらいの機屋があったようで、祖父の機屋はその中でも一番小さい機屋だったそうです。今出の伊予絣織りは分業によって成り立っており、当初は足踏み式の織機を使用し、祖父は織機を地元の農家に貸し出して絣を織ってもらっていたそうですが、昭和の初めころから今出にも動力織機が広まるようになり、私のところでも私の父親の代になって18台の動力織機を導入しました。昭和13年(1938年)、動力織機となると工場を構える必要があったので現在私の自宅がある場所を購入して工場を設けましたが、動力織機1台で手(て)機(ばた)3台分の仕事量をこなしていました。
今出全体が私のところのように工場を設けるようになりましたので、伊予絣づくりに関わる人が初めのころは100人程度だったのが、太平洋戦争が始まるころには約1,000人にまで増えていました。すると、今度は今出だけで働き手を確保することが難しくなったのでよそから人を集めるようになり、それらの人たちは工場の一角で寝泊まりしながら伊予絣づくりに従事していました。
ところが、戦争が進むにつれて物資の供出がますます激しくなり、私のところの機械は昭和18年(1943年)に全て国に取られてしまい、作り手は兵隊になるか軍需工場で働くようになりました。私の父親をはじめ兵隊にならなかった今出の人は、松前町で稼働していた東洋レーヨンの工場が軍需工場の指定を受けていたため、そちらで働いていました。終戦後、直ちに機屋の仕事が再開できる状況でなかったためしばらくは工場で働いていましたが、昭和22年(1947年)になるとようやく再開できるようになりました。しかし、それぞれが以前のように伊予絣づくりを再開できる資金もなかったので、今出に共同の工場を設け、そこに動力織機を約50台設置して再開するようになりました。しばらくして伊予絣づくりが軌道に乗り始めると、個人での操業再開を目指す人たちは共同工場の動力織機を幾らか持って独立していき、私のところも10数台の動力織機を持って独立しました。そうして独立した機屋が10軒あまりはあったことを憶えています。その後、徐々に動力織機を増やしていって最終的には約100台の動力織機が私のところでは置かれ、今出でも大きな伊予絣工場の一つになりました。」
ウ 家業を継ぐ
(ア)工業地帯化する沿岸地域
「私(Dさん)の父親は、私が高校を卒業したら工場で働かせようと考えていたようですが、私は父親に内緒で地元の大学を受験し、そして合格したので大学に進学しました。父親は『大学まで行ったのなら、サラリーマンになりなさい。』と言ってくれ、私は松山市役所職員の採用試験を受けて合格し、市役所職員に内定しました。当時、私は伊予絣工場として一番大きかった白方興業の社長に大変かわいがられていました。そこで社長に市役所職員になることを伝えたのですが、社長は、『昔から続いている機屋の仕事をなぜ継がないのか、伊予絣を作ることができないのか。』と言って、私は大変に叱られてしまいました。そのころは昭和30年代の初めで、私は伊予絣づくりの将来に不安を憶えていたのですが、社長から『市役所で勤めるよりも絣を作った方がもうかる。』としつこく言われたために、私は松山市役所に内定辞退を申し出たところ、今度は市役所で大変に怒られてしまったことを憶えています。
そのようないきさつがあって私は家の工場で働くことになったのですが、しばらくは伊予絣を作って大いに利益をあげたことを憶えています。100台もの動力織機を置くために借りていた資金も返済することができました。しかし、昭和30年代の後半に差し掛かると、伊予絣が日用の衣料として使われなくなり、それに伴って利益が縮小するようになりました。そのころは、繊維メーカーの帝人が松山空港の周辺に工場を建設して操業を始めた時期に当たり、松山市は税収の増加と雇用確保を目指して熱心に工場を誘致していました。帝人としても地元住民を労働力として見込んでいたため、積極的に雇用を行っていました。このため、伊予絣工場で働いていた人の多くが帝人に転職し、働き手の確保が難しくなっていって、伊予絣づくりが衰えていった理由の一つになっていきました。
私は、今出の同業者とともに松山市役所に赴き、当時の黒田市長に伊予絣を振興するための支援を陳情しましたが、市長は『伊予絣振興のために市としてできる限りのことはする。しかし、それでも伊予絣づくりがうまくいかなかった場合は、帝人で雇ってもらえるように市が支援するのでそれで納得してほしい。』と言われたことを憶えています。次に帝人松山工場の工場長の下を訪れたのですが、工場長から『乘松さん、絣は今後利用されなくなります。織物業が駄目になったら、帝人で雇いますよ。』と言われましたから、私は大いに憤ったり困ったりしたことを憶えています。
時代は化学繊維に移り変わる時期に当たり、絣よりも化学繊維で作られた衣料の方が丈夫でしたから、その勢いに押されていったのです。そのような経緯があって、私たちは転業を模索するようになりました。そのためには、資金が必要となりますから、私たちは東京に赴いて政府に陳情し、資金の融資をお願いしました。政府は融資をしてくれるようになり、その資金で今出の機屋の多くはタオル工場に変わっていって私もタオル生産を始めていきましたが、その後もできる限り伊予絣づくりを続け、平成の初めころまで続けていました。」
(イ)戦前と戦後の伊予絣づくりの違い
「戦前の伊予絣づくりは分業方式で行われていました。絣づくりには、織る前にあらかじめ糸を染色する絞りの工程がありますが、戦前は絞りを専業とする工場があって、機屋は絞りを終えた糸を織ることを仕事としていました。また、各家庭に預けた足踏み式織機で織られた織物もありますから、その集荷や代金の支払いといった仲介業務も機屋が行っていたのです。戦後になるとこれらの工程がそれぞれの工場において一貫生産で行われるようになりました。そうなると、工場が抱える働き手の数が増えるようになり、敷地を広げる必要に迫られました。
昭和40年代以降、タオル生産に生業の中心が移行した後も、伊予絣づくりが続けられたのは絞りや手織りの高度な技術を持つ職人がいて、その人たちが絣づくりを熱心に続けたからですが、それらの人たちが高齢になり担い手が少なくなるにつれて伊予絣づくりがなくなっていきました。
伊予絣ができるまでには多くの工程があり、手間が掛かります。また、藍染めの工程などで汚れることもあります。私(Dさん)は、かつて伊予絣づくりが盛んに行われたのは、選べる仕事が少なかったからだと思っています。現金収入を得る手段がなかったからこそ、複雑で手間の掛かっても伊予絣づくりが広まっていったのですが、現在のように多くの職業がある時代では存続することは難しいと思います。」
エ 伊予絣の伝統を残すために
「伊予絣づくりの存続に苦労していたころ、私(Dさん)は織機の使い道にも頭を悩ませていたことを憶えています。私のところでは、戦後になって動力織機をそろえるだけでなく足踏み式織機も多く所有していました。終戦後、政府の施策により、戦争で夫や父親を失った女性が職に就いて収入を得る授産事業が推進されていて、松山では伊予絣づくりが授産事業の一つに選ばれており、そのために足踏み式織機を各家庭に預けていました。しかし、帝人の方で従業員を多く雇い始めたこともあって機織りを辞める人が増え、その人たちに預けていた織機の扱いに困ることになりました。
私は伊(い)方(かた)町や野(の)村(むら)町(現西(せい)予(よ)市)、宇(う)和(わ)島(じま)市といった南予に置かれた授産施設にも織機を預けていましたし、刑務所にも織機を預けていました。ところが、世の中が高度経済成長期に入り県内でも造船業や公共事業が盛んになると、そちらで働いた方が収入が良いために、機織りから転職する人が増えていきました。私が織機を預けた理由として、将来伊予絣づくりに携わる人を確保する目的がありましたから、その見通しが崩れて大いに困りました。また、工場ではタオル生産用の自動織機を導入したこともあり、最終的に所有していた大半の織機を譲渡しました。特に、佐田岬半島では布切れを裂いて織物を作る『裂き織り』が野良着として利用されてきたためか、織機に大変興味を持っている人がいて、随分後まで織機を利用してくれ、絣を織っていました。私も取引業者を紹介して生業が成り立つように支援したことを憶えています。ただし、その人は私よりも年配に当たり、織物業は辞められていると思います。」

(2) 時代の変化に対応する

ア 業種の変遷
「私(Dさん)はこの今出で生まれ、そして暮らし続けてきました。かつての今出は、半農半漁の生活様式でした。やがて個人経営の工場が増えて、それが伊予絣からタオル生産へと変化していく中で田や畑がなくなっていきました。私は昔の人間ですから、田畑に囲まれた光景が好きですが、時代の流れとともに景観が変化していってそれらの光景は少なくなっていきました。今出の伊予絣づくりやタオル生産は個人経営が中心ですから、零細企業的な性格を持っています。伊予絣ではやっていけなくなったのでタオル生産に変えていったのですが、それも帝人などの大手企業との競争の前では徐々に立ち行かなくなっていきました。さらに大手企業の方が給料が良いために、従業員を集めることがどうしても難しくなっています。
平成に入ってからも続けていましたが、私自身も高齢となり、特に70歳を過ぎると先頭に立って仕事ができなくなりました。そこで倉庫業をはじめとして、工場の敷地を他者に貸与する仕事へと業種を変えて今に至ります。」
イ 製造業を取り巻く環境の変化
「現在、今出港には製材所が固まって仕事を続けていますが、木材を加工する仕事は大きな音を伴うため、騒音対策として団地化しました。この製材所の団地は、当初和気地区に置かれる計画があったそうですが、住民の反対にあったために今出港周辺に置かれるようになったと私(Dさん)は聞いています(写真2-3-7参照)。私の工場も織機を何台も置いて稼働させていましたから、どうしても周囲に大きな稼働音が聞こえるようになります。このため周辺から苦情や騒音対策を求められ、その対応に大いに頭を悩ませました。昭和の末期になると役所から騒音対策を指導されるようになったのです。当時は従業員を確保することにも苦労していた時期でもあって、騒音対策に費用を掛けることは難しくなっており、このこともあって私は業種を変えていったのです。
時代が下るごとに工場の公害対策は強く求められていきました。たとえ先に工場が建っていて後から住宅が増えていったとしても、そこの住民から対策を求められるとやらなければなりませんから、工場は団地化していく一方ですし、そのために沿岸部に置かれることが多くなります。しかし、沿岸部は高波や津波の対策も必要ですし、一度その被害を受けると周辺地域も無関係ではありませんので、安易に沿岸部に集めることは危険ではないかと私は思います。」


参考文献
・ 平凡社『愛媛県の地名』1988
・ 松山市『松山市史 第三巻』1995
・ 松山市『松山市史 第四巻』1995
・ 松山空港ビル20年史編纂委員会『20年の歩み 松山空港ビル株式会社』1999