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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 砂浜の記憶

 「私(Aさん)が子どものころ、近所の堤防下には砂浜が広がっていました。その辺りで泳いでいると、リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシという最も長い植物名として知られる別名を持つアマモがたくさん生えていました。アマモに小さなブツブツがあったり、アマモの周辺で泳いでいる小さな魚をよく見かけたりしましたが、魚の産卵場所になっていたようです。その後、時期ははっきりとは憶えていませんが、高校生になるころまでには、アマモが生えていた辺りに高波を防ぐための波消しブロックが置かれてしまい、魚を見かけなくなりました。波消しブロックが置かれずにいたら、アマモが残って魚が育つ環境が守られたかもしれませんが、波消しブロックがないと台風のときなど波が荒れたときに大きな被害が出たかもしれず、一概にどちらが良かったとは言えないと思います。また、堤防下の砂浜は、瀬戸内海沿岸の海砂が高度経済成長期に資材として大量に採取された影響もあり、現在は残っていません。」

(2) 学校の記憶

  ア 小学生のころの思い出

 「私(Aさん)はベビーブームの世代で、私が通っていたころの河野小学校には、1クラスに50人くらい、1学年3クラスで150人くらいいました。家の近所にも大勢の子どもがいて同級生も多く、近隣の小学生だけで野球のチームが3チームできるほどで、大変にぎやかでした。そのころ、河野小学校は3階建ての鉄筋コンクリート造りの校舎になりました(昭和31年〔1956年〕2月竣工)。その工事のため、私の2学年上の子どもたちは、別府公民館や善応寺公民館で授業を受けていた記憶があります。
 ふだんの日は小学校から帰ってくると、堤防下の砂浜や道路で遊んでいました。堤防下の砂浜は広かったのでマウンドを作り、ボールと竹のバットで野球をしていました。また、道路は舗装されておらず自動車もほとんど走っていなかったので、いろいろな遊びをしていたと思います。夏休みは毎日のように朝から海で泳いだり釣りをしたりしていて、昼からは友達と自転車で河野小学校まで行って、ソフトボールをしていました。冬休みには『早起き会』というのがあり、日が昇る前から学校へ行って陣取りをして遊び、日が昇って明るくなるとサッカーをしていたことを憶えています。」

  イ 校区の端

 「柳原は小学校、中学校とも校区の端にある地区です。河野小学校までは小学生の足だとかなりの距離になりますが、今になって考えると、よく毎日歩いて登校できたものだと思います。高縄中学校(現松山市立北条南中学校)は、当時は通学距離の関係のためか自転車通学が認められておらず、ほかの地区と比べて、最も通学時間が長かったと思います。私(Aさん)は『こんなに遠いのに、なぜ自転車通学できないのだろう』と不思議に思っていました。」



参考文献
・ 北条市『北条市誌』1981
・ 愛媛新聞社『愛媛県百科大事典』1985
・ 旺文社『愛媛県風土記』1991
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 北条市『飛 北条市合併記念誌』2004