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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 北条での漁業

(1) 昔の漁業

  ア 地引網

 「私(Aさん)のところは祖父の代から漁を始めましたが、そのころは地引網で、祖父は網元でした。船で沖の方に網を入れてイワシ類の魚群を取り囲み、人力で網を陸(おか)の方へ引っ張っていたそうです。私は『昔は地引網で漁をしていた。』という話を聞いたり、地引網をしている様子の写真を見たりしたことはありますが、実際に見た記憶はなく、私が幼いころにはこの辺りで地引網での漁はしていなかったと思います。イワシ類が徐々に沖の方へ移動していったため、地引網でとれなくなったようです。」

  イ バッチ網

 「私(Aさん)は高校を卒業してから漁を始めましたが、そのころは、イワシ類がまだ成長していないシラスの大きさの時期は定置網、成長してきてイリコの大きさとなった時期はバッチ網(パッチ網のこと。2隻の船で袋状の網を引いて魚をとる漁法。網の形がパッチ〔もも引き〕に似ていることから名付けられた。)という二本立てで漁をしていました。バッチ網では網船が2隻、運搬船が1隻、魚探船が1隻の合計4隻で一つの船団となり、これは現在も変わりません。現在はシラスもバッチ網でとっており、イリコのときには船団が二つの8隻、シラスのときには船団が三つの12隻で漁をしています。私が漁を始めたころ、北条で船団を組んで漁を行っていたところは10軒くらいあったと思いますが、現在は私のところも含めて2軒になっています。
 私が子どものころ、漁で使う網は綿で作られていたため、漁が終わった後に放置しておくと網が腐ってしまうことがありました。そのため、漁から戻るとすぐに大きな網をよく洗って干さなければならず、父はぬれてもいいように、朝から晩まで海水パンツをはいていたことを憶えています。
 私が漁を始めるころには、網は綿製からナイロン製に替わっていて、漁から戻ってすぐに洗う必要がなくなり、随分楽になりました。また、私が漁を始めてから間もなく、網をネットローラーという機械で巻き上げるようになりました。それまでは、最初から最後まで人力で網を引き上げていたので、大変だったことを憶えています。当時は魚群探知機がなくて、目視で魚群を見つけていました。それだけ多くの魚がいたということですが、たまに魚群を見つけられずに漁を終えることもありました。」

  ウ 天日干し

 「私(Aさん)が子どものころ、父たちは朝からは漁に出ずに、午前中は前日にとったイリコを並べて天日干しする作業をしていました。天日干しの作業を終わらせると、昼から漁に出て夕方までに戻り、天日干しにしていたイリコをしまうということを毎日繰り返していました。天日干しの途中で雨が降ったときは大変でした。天日干しの作業は、近所の人に手伝ってもらっており、私も高校生のころに学校から帰ってきてから手伝ったことを憶えています。
 夏休みには、私も中学生のころから天日干しの作業を手伝っていましたが、高校生や大学生がアルバイトに来ており、昭和50年代の初めころまでアルバイトがいたと思います。私のところでアルバイトをしていた学生が就職試験で面接を受けた際、面接官が私のところでのアルバイト経験者で話が盛り上がったという話を、その学生が就職した後に聞いたことを憶えています。天日干ししたイリコは三津から問屋が取りに来ていました。私が漁を始めるころには乾燥機を導入しており、天日干しの作業がなくなって楽になりました。」

 エ よくとれたエビ

 「私(Aさん)が漁を始めたころの北条では、底引網を使って個人で漁をする人が多かったと思います。漁獲量も多く、いろいろな種類の魚がとれていましたが、当時はエビがよくとれていて、底引網は『エビ網』とも呼ばれていました。カルビーの『かっぱえびせん』が発売されてヒット商品となったのが、昭和40年代半ばだと記憶していますが、当時は愛媛県、山口県の海域でとれたエビが原材料として使われていたそうです。エビがよくとれていたころ、長浜(ながはま)(現大洲(おおず)市)でエビの入札が盛んに行われていて、私も行ったことがあります。そこでは、エビが砂山のように高く積み上げられ、一山いくらという感じで取引されていました。」

  オ 行商

 「昭和41年(1966年)、北条に魚市場が完成すると、北条の個人経営の漁師はとれた魚をそちらへ水揚げするようになりましたが、女性がリヤカーを引いてとってきた魚を町の中で行商してもいました。特に浅海地区で魚を行商している女性が多かったと思いますが、スーパーマーケットができて、そのような風景も見られなくなりました。また、私(Aさん)が漁を始めたころ、北条にはタイ網漁をしているところが3軒ありましたが、徐々に減っていき、10年ほど前にはなくなってしまいました。タイがとれなくなったのではなく、タイ網漁は熟練の技術がないと難しく、後継者がいなかったためです。」

  カ ノリの養殖

 「一時期、北条ではノリの養殖が行われていて、冬場の漁の端境期にできるということで、昭和40年代からだったと思いますが、私(Aさん)のところでも10年ほど行いました。養殖の盛んな宇和海は、リアス海岸で入り江が多くて波が穏やかですが、北条には入り江がほとんどないため流れが速く、ゴミが流れてきて、よくノリに付着してしまいました。流れが速いため海はきれいで、赤潮が発生することはほとんどないのですが、ノリからゴミを取り除く作業を頻繁に行わなければならず大変で、北条では平成になるころには行われなくなったと思います。」

(2) 会社組織による漁業

  ア 水産会社の立ち上げ

 「昭和52年(1977年)、私(Aさん)のところは会社組織にして『森水産』を立ち上げましたが、会社組織にしたのは中予地方で最初の方だったようです。漁の仕方を変えたわけではないですが、弟が結婚して別所帯となるため、給料制にした方が良いだろうということで会社組織にしました。会社組織にしたので、日曜日は漁を休み、月曜日から土曜日まで漁をしています。現在は日が昇るころに柳原港を出て、魚群探知機で魚群が見付からなくなるまで漁を続け、午後5時ころに港に戻ってきています。ただし、これは日によって変わり、魚群が見付からなかったらもっと早くなり、魚群が見付かる場合でも午後6時ころには港に戻っています。」

  イ 販売会社の立ち上げ

 「私(Aさん)のところでは、釜上げシラスを各地の中央水産卸売市場に出していましたが、販路を拡大しようと、平成元年(1989年)、釜上げシラスをパック詰めにして販売する会社として『カネモ』を立ち上げ、平成3年(1992年)から本格稼働しました。その際、松山近辺では、チリメンや釜上げシラスといえば松前(まさき)産という風潮があったため、販路を人口の多い東京方面へ求めることにしました。
 当時は現在のように物流が良くなかったため、東京方面では瀬戸内海産のシラスは、腐敗を防ぐために『シラス干し(関東干し)』と呼ばれる釜ゆでしたシラスを半乾燥させたものしか流通しておらず、釜上げシラスの状態では売られていませんでした。市場で競り落とされたシラス干しがスーパーマーケットに卸され、そこでパック詰めされて消費者に売られていたのです。そこで、『私の会社では釜上げシラスを直接パック詰めしているから取引をしませんか。』と交渉し、初めに東京を中心に店舗を展開するスーパーマーケットチェーンの『いなげや』、さらに高級スーパーマーケットチェーンの『成城石井』と取引を始めました。その後、徐々に売り上げを伸ばしていき、現在はコンビニエンスストア『セブンイレブン』を全国展開するセブン&アイ・ホールディングスとも取引をしています。近年、農林水産物を加工、販売する動きは6次産業化と呼ばれ、農村漁村地域の活性化のために国や県が補助金を出して推進していますが、私の会社はその先駆けだったと思います。
 ちなみに、イリコを煮干しにする際は、昔と変わらず手作業でゆでていますが、釜上げシラスは『カネモ』を立ち上げたときから自動釜でゆでており、人の手は一切かかっていません。全国に自動釜が普及して、いわゆるシラスブームとなりましたが、今では釜上げシラスの製造に自動釜は欠かせなくなっています。なお、シラスの漁獲量が多い、静岡県、大阪府はそれぞれ面している駿河湾、大阪湾で漁をしていますが、愛媛県は面している海域が広いことから、燧灘、斎灘、伊予灘、宇和海と四つの海域で漁をしています。それぞれの海域は『色が違う』と表現されますが、水温が違うためとれる時期が異なり、長い期間漁をすることができるのです。」

 ウ イカナゴ漁

 「私(Aさん)のところでは2月から5月ころまでイカナゴ漁もしています。昔、イカナゴはくぎ煮にするなど、食料として消費されることが多かったのですが、近年は釣り餌としての需要が高くなっています。陸に大型の水槽を複数構え、捕獲したイカナゴを水槽に入れて生かしており、鮮度の高い釣り餌を提供していますが、こうした水産会社はほとんどありません。そのため、生きたイカナゴを求めて各地の漁師や釣具店が買い求めに来ていて、『関サバ』で有名な佐賀関(大分県大(おお)分(いた)市)の漁業協同組合は、生船と呼ばれる活魚を運ぶ船で受け取りに来ています。また、水槽を搭載した活魚車で九州まで配達することもあります。
 近年では、イカナゴの漁獲量がかなり減っていることもあり、その生態を研究するため、私のところに来る人たちもいます。イカナゴは水温が20℃以上になると1m50㎝くらい砂に潜って夏眠をし、水温が下がると砂から出てきて回遊して産卵するという、面白い性質があるそうです。数年前から北里大学や広島大学の学生がイカナゴの生態を調べるために私のところに来ていますが、今年(令和4年〔2022年〕)はNHKのテレビ番組『ダーウィンが来た!』がイカナゴの生態を取り上げるにあたって、10人くらいのスタッフが10日間ほど泊まり込みで撮影に来ました。」

  エ 入札制度の立ち上げ

 「私(Aさん)のところは販売会社を立ち上げて釜上げシラスの取引を始めましたが、個人経営の漁師ではそのようなことはなかなかできません。ところが、愛媛県漁業協同組合連合会(以下、『愛媛県漁連』と記す。)には釜上げシラスを取り扱う仕組みがなかったので、個人経営の漁師から釜上げシラスを取り扱う仕組みの要望が高まりました。釜上げシラスの販売実績があるため、愛媛県漁連の担当部長から私に協力依頼があり、釜上げシラスを入札で取引する組織を協力して立ち上げました。その後、県内には釜上げシラスの大きなパック工場が作られましたが、この組織ができたためだと思います。」

  オ 食堂と弁当

 「私(Aさん)のところでは従業員向けの食堂があり、業者を入れずに妻が中心になって森水産とカネモで合わせておよそ40人分の昼食を提供しています。漁に出ている従業員には弁当を作っていて、沖で漁をしている従業員の元へ、作りたての温かい弁当を運搬船で運んでいます。これは私の母が始めて、もう60年ぐらい続いています。妻は作った弁当をSNSで紹介していますが、それがNHKのテレビ番組『サラメシ』の目に留まり、今年(令和4年〔2022年〕)、取材を受けました。今でこそコンビニエンスストアで簡単に弁当を買うことができるようになりましたが、昔はそうではありませんでした。また、特に若い従業員には栄養のバランスが取れた十分な量の食事を取ってもらいたいため、現在も続けています。」

(3) 現在の漁業を取り巻く環境

 「昔と比べて機械化が進んだおかげで、一度の漁でとることのできる魚の量が増えた一方で、漁師の高齢化が進み、人手不足で人を探すのに苦労しています。
 深刻なのは魚が減ってきていることです。昔はイワシ類だけでなく、サバやアジなど近海にも豊富に魚がいましたが、20年ほど前から魚がどんどん減ってきており、三津にある松山市の水産市場も水揚量が減ってきたため、中央卸売市場ではなく、地方卸売市場になりました。北条の魚市場は、閉鎖を検討中のようです。また、昔から『北条のタコはおいしい』と言われていて、タコつぼ漁でよくとっていましたが、タコも10年ほど前からとれなくなっていき、タコつぼ漁をする人も減っていきました。5年ほど前からは極端にとれなくなり、今年(令和4年〔2022年〕)は1匹も見ていません。魚がとれなくなると漁師は生計を立てられないため、個人で漁を続けることが難しくなってきていると思います。そのような状況では、若い人は漁をしようとは思わないため、後継者が育たたず人手不足に拍車がかかることになります。
 なお、魚が減った影響として、漁師が経営する遊漁船も減っています。昔は北条にも遊漁船が多かったのですが、なかなか釣れなくなって客足が遠のくとともに、プレジャーボートの普及で一般の人が自分で船を出すようになり、商売が成り立たなくなったのです。私(Aさん)が漁を始めたころ、個人や共同で漁業を営む漁師の総数は北条全体で200戸くらいだったと思いますが、現在は50戸を下回るくらいではないでしょうか(図表3-1-1参照)。
 このように漁業を取り巻く環境は厳しくなっており、こうした状況を愛媛県全体で乗り切ろうという動きが起こりました。県内各地に独立した漁業協同組合があり、それらを統括する愛媛県漁連がありましたが、独立した各地の漁業協同組合の合併を目指したのです。令和2年(2020年)に愛媛県漁業協同組合が発足しましたが、私が所属する北条市漁業協同組合も議論を重ねた結果、合併に加わることにしました。」

図表3-1-1 旧北条市漁業経営体総数の変遷

図表3-1-1 旧北条市漁業経営体総数の変遷

『北条市誌』、「漁業センサス」から作成