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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 漁業と人々のくらし

 北条地域の漁村について、文献で確認できるのは江戸時代に入ってからで、文化7年(1810年)、安居島付近に二度にわたって出漁してきた芸州方(広島県)の漁業者との紛争解決についての記録が残っている。また、寛政11年(1799年)以来たびたび煎海鼠方(海産物一般の奨励と徴税の役割を帯びたもの)を命ぜられていることからも、江戸時代において、北条地域は豊かな漁場であり、海産物の集散地であったと思われる。このようなことから、瀬戸内海の代表的な漂流漁民である広島県の能地漁民が柳原に定着したり、文化8年(1811年)ころから盛んに移住を始めた越智郡岩城(いわぎ)村(現越智郡上島(かみじま)町)の漁民のうちの二人が安居島に入島して漁場の開発に努めたりするなどしている。特に岩城村からの漁民は北条地域の漁村の基礎作りに大きな役割を果たしたとみられている。
 明治に入ると沿岸漁業が盛んになり、漁村も安定してきた。明治20年(1887年)ころから各地に遠洋漁業の機運が高まり、北条地域でも安居島の漁民の中から東シナ海や朝鮮近海に出漁する者が現れたが、大正半ばころから遠洋漁業は中止された。その後、養殖漁業が行われていた時期もあったが、沿岸漁業に活路を見出すこととなった。
 本節では、北条地域での漁業について、Aさん(昭和22年生まれ)から話を聞いた。