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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 日浦地区の林産業

(1) 山と共に生きる

  ア 日浦地区の林業

   (ア) 炭焼きを中心とした生業から植林へ

 「昔から、この地は炭や薪を松山市内に売ることで収入を得ていましたから、昭和30年(1955年)ころまで至る所に炭焼き小屋がありました。そのころの山林の多くは、雑木林が生い茂る山でした。炭焼きが行われていたころは、農閑期の冬季に炭焼きに従事し、春と秋は植林などをしていました。夏は下草刈りなどをして木を育てていました。そのようなサイクルが確立していました。
 その後、昭和30年代になると薪炭用に伐採した跡地に植林されるようになりました。これは国の政策の下で行われており、苗木が無償で提供されました。当時の年配の人は『山のてっぺんに雑木林を残しておいた方が山の健全な育成には良いから、山頂には木を植えるなよ。』と言っていたことを私(Cさん)は憶えています。それで、標高の高い所は広葉樹がそのまま残されています。広葉樹の葉が落ちることで、山の肥料にもなってきました。ほかの場所はスギやヒノキといった人工林へと変化していったため、雑木林はだんだんなくなっていきました。
 山頂部に残った広葉樹ですが、現在は大きく育ちすぎていることが問題になっています。この樹木が台風や大雨で倒れるようになるとダムを形成してしまい、土砂や水をせき止めることで土石流などの2次災害を起こすようになるのではないかと心配されているからです。今までは、それでも人の手が入っていたのですが、今後はそれも難しくなるため、搬出するか切り倒して朽ちるようにしていこうとしています。
 植林は、希望数を森林組合に提出することから始まります。組合は希望本数を取りまとめて国に提出します。すると何十万本の苗木が一度に届くのです。それを個人に配っていました。植林は、主に山の所有者が行っていましたが、炭焼きが行われていたころは、炭焼きをする人がしていました。所有者と、『これだけの数の木を切りますから、後で植林をして草刈りをします。』といったような契約を交わすのです。炭焼きをする人は、この要領で各地の山林を順々に回っていました。つまり、自然と木がスギやヒノキ、クヌギの若木に植え代わっていくことになります。」
 「昭和20年代から昭和30年代の前半、私(Dさん)が小さいころは農作業や、クリ拾いなどの山の仕事の手伝いをしていました。学校も農繁休業というのがあって、1、2日休んで家の手伝いをするのです。春休みになると、スギやヒノキを植えに行ったことを憶えています。子どもなら30本くらいを持って、片道30分から1時間の山道を歩いていきました。そのころは林道が整備されていなかったので、ウサギ道のような道を通っていました。山で茶を沸かして、弁当を食べたことを憶えています。荷を運ぶためにリヤカーや押し車を使っていました。」

   (イ) 林業の最盛期

 「昭和40年代、林業による収益は伸びていきました。私(Cさん)も学校を卒業して林業に関わっていきましたが、昭和40年(1965年)前後に軽トラックを購入しました。日浦地区では一番早かったのではないかと記憶しています。木材搬出量が増加していた時期ですが、トラックや軽トラックの普及は後から追い付いてきた感じだったことを憶えています。
 そのころは、一本の柱として十分な大きさに成長した樹木は、3人分の日当に値する価値がありました。ですので、みんなスギを植林して、『これが太ったら、1町(約1ha)なら1,000万円になるぞ。』と胸算用をしていたと思います。しかし、伐採して売り出すころにはそれほどの価値はなくなっていました。諸物価や人件費の上昇により、相対的に木材の価値が下がっていました。
 当初は収入が見込めると考えられていましたから、10町(約10ha)以上の山林を所有している家はみんな後継者がいました。昭和40年代前半には、林業後継者が25人くらいいたのです。そのころは、松山市内でソフトボールの大会があっても、日浦地区のチームが1番強かったことを憶えています。それくらい活気がありました。しかし、思うような収入が見込めなくなったため徐々に人が少なくなり、日浦地区でも標高の高い所に位置する山の集落は人口が減少していきました。」
 「昭和40年代から昭和50年代の前半にかけて、林業も含めた林産物の収入は大変良かったと、私(Eさん)は記憶しています。大体、1ha当たり3,000本を植えるのが適当な数でした。何十万本という苗木ですから、かなり広い範囲を植林していたことが分かります。」

   (ウ) 林業の衰退

 「林業は、最初は成長産業という位置付けでしたが、輸入木材が入り始めた昭和の終わりころから国産木材の価格が下がるようになります。すると、林業だけでは食べていけなくなったと私(Dさん)は思います。世の中も、ほかの産業が発達して人件費が上昇し、会社などに勤めて、兼業農家になる人が増えました。
 もともと日浦地区ではみんなが農地を持っていてそこで米や野菜を作り、クリなどの林産品を栽培することを基盤にしていました。その上で、お金が必要なときには山の木を切って、家を建て替えたり、機械を買ったり、嫁入り道具をそろえたりしていたのです。山の木は大きな財産だったのです。そのため、木材の価値が下がってしまうと山の仕事をする人も減ってしまいますし、人口も流出してしまいます。山中の林道や山そのものが荒れていきます。そうすると山の手入れがされなくなって土石流が発生しやすくなるのです。そのようなことで、なかなか大変です。
 近年、ようやく行政が地籍調査に乗り出してくれるようになり、また、森林環境税を財源として支援してくれる体制が整いつつありますが、もう山林所有者の多くは年を取ってしまって、山に入るのが体力的につらくなってきています。」

  イ 日浦地区の林産物

 「柑橘類を作らなくても、林産物のクリやタケノコ、シイタケで収入が得られていました。特にタケノコの缶詰は日本一だと評価されていました。ここのタケノコは柔らかくて筋がないと人気で、北海道にも発送していました。初めのうちは、缶詰と一緒にミカンを送っていたことを私(Cさん)は憶えています。クリは力を入れて出荷していた時期があり、選果場も作りました。
 林産物は農協や森林組合に出荷していました。タケノコは両方に、クリは森林組合に出荷しました。昭和40年代後半から大きく収益を上げるようになり、ピークは昭和60年(1985年)ころで、農協に出荷していたタケノコだけで約1億円、森林組合の方でも約6,000万円、当時300戸から400戸の日浦地区で1億6,000万円の収益があったのです。
 このころは、国の構造改善事業の後押しも受けて、1反(約10a)の土地から1.5tのタケノコを収穫しようと、森林組合が肥料を購入して竹林にまいていきました。肥料はたくさん使っていたことを憶えています。そうしてタケノコ作りに力を入れていったのです。」
 「日浦地区は、松山市内と比べて気温が低いために柑橘栽培に適していません。ミカンを栽培しても、皮が厚くなることと酸っぱくなることで定着しませんでした。そのため、クリやタケノコ、シイタケの林産物の栽培に力を入れていたのです。
 この辺りでは『湯山たけのこ組合』という組織があります。現在は高齢化が進んで組合員の数が減っていますが、一時期120人くらい入っていました。いかにタケノコ作りに熱心であったかが分かります。
 現在でも100人余りの人がタケノコ作りに励んでいます。私(Eさん)も1haの竹林があるのですが、自分一人が行うには広すぎるため、30aの土地に集約して栽培を行っています。タケノコ作りには、適度な間隔を空けて竹を残すことが求められます。大体、1坪(約3.3㎡)に1本が目安で、肥料をまき、雑草を取り除いて手入れをしていきます。そして、表土を削って土が柔らかくなるようにしていくのです。タケノコの先端が地表に出てくる『地割れ』を早く見付けやすくするためです。タケノコは地表に見える前に育っています。1月ごろには、地下でそれなりの大きさに成長しています。特に早掘りのタケノコを収穫するためにも土を柔らかい状態に保つことが大切なのです。
 クリにもいくつかの手入れが必要です。虫が付かないように消毒は欠かせません。また、満遍なく日光が当たるように、枝をせん定する必要があります。せん定をすることで、実が大きく育つようになるのです。クリの植林と栽培は昭和30年代に始められ、昭和40年代は大々的に行われました。」
 「平成の初めごろに、中国産の林産品の輸入が自由化されたことにより、クリやタケノコ、シイタケは大打撃を受けました。そうなると寂れる一方となってしまいます。同じころ、木材の方でも、ヒノキが1本3万円していたものが半値に下がって林産業全体が衰退していくようになりました。私(Cさん)が20歳代のころは、日浦地区で青年学級というものが作られ、農林業の勉強会を開いたり運動をして交流を深めたりしていました。30人くらいが参加していたと思います。そのような活動が10年以上は続いたと思います。林産業の後継者の養成が目的の一つでした。昭和の間は、農林業で生活をする人が中心であったと思います。
 しかし、平成の初めごろから、林産業の専業では生活ができなくなってきたので、多くの人が勤めに出るようになりました。兼業する家が増えたのです。同時によそへの人の流出も目立つようになりました。後継者がいなくなっていったのは、そのような理由からです。」

(2) 現在の日浦地区

  ア 人口の流出

 「日浦地区の人口は、昭和30年代後半には1,000人以上を数えています。林業を中心に地区が活気づいていたころです。現在は、250人を切るほどに減少しています。子どもを生徒数の多い学校に通わせたいと思ったり、共働き家庭が増えたことで松山中心部への通勤時間を短縮したいと考えたりする保護者も多いですから、どうしても中心部への移転が多くなったと私(Eさん)は思います。現在日浦小中学校の児童数・生徒数が66人なのですが、地元から通う子どもは4人くらいです。残りの子どもは、松山市内全域からスクールバスを利用して通っています。
 子どもを通わせる中で、日浦地区に住みたいと考える保護者もいますが、人に貸し出せる空き家がないことが障害となっています。現在、空き家はあるのですが、農業中心で生活してきた経緯があり、農業の道具を処分することが負担になって、道具が置かれたままで人に貸し出すことができないのです。」
 「平成9年(1997年)に国道317号の整備の一環で、水ヶ峠トンネルが開通しました。開通によって今治市までの道路がつながり、交通量は格段に増えました。同時に松山市中心部への道路も一部拡幅されました。道路が整備されていくに伴って、松山市中心部に行くことが便利になりましたので、この地にとどまってくれる人も多くなると考えていました。しかし、実際は逆になってしまい、地区外に移転する人が増える結果になったと、私(Cさん)は思います。」

  イ 獣害

 「昭和のころは、狩猟免許を持っている人が多かったせいか、獣害は少なかったです。私(Cさん)も25年ほど猟をしていました。無線などは発達していませんでしたが、大人数で朝から昼まで山の中をずっと歩き回って、いざ獲物が見付かったらみんなで取り囲んで仕留めていっていました。ですが、なかなか捕まえることはできませんでした。周りからは『仕留めたら、肉を食べさせてくれ。』と頼まれていたので、弱ったことを憶えています。今はとれ過ぎるくらい野生動物がいますが、食べたいという人もいませんし、肉も要らないという有様です。昔は人間の住む場所と動物の活動する場所が明確に分かれていました。しかし、今は人間が山に行かず手入れをしなくなったために境界がなくなり、家の裏どころか表にまで動物が姿を現すようになっています。獣害は、平成10年(1998年)前後から年々ひどくなっていると私は思います。」
 「気候がだんだんと暖かくなってきたため、例えばイノシシは一度に5、6頭の子どもを産みますが、それらが全て育つようになったことも数が増えた背景にあります。私(Dさん)の知り合いの獣医に聞いた話ですが、最近のイノシシは尻が大きく、母乳もよく出る体型をしているために子どもが全て大きく育つそうです。それだけの体力を持っているということです。」
 「私(Eさん)の土地でも植林を行っていますが、獣害の対策として高さ2mのネットを、敷地を取り囲むように設置しています。それによって、ようやく木を育てることができるのです。昔は、こうした対策をする必要はありませんでした。つまり、以前と比べて設備投資にお金が掛かるようになっています。」

  ウ 持続可能な山林の管理

 「平成17年(2005年)から森林環境税が導入され、それを財源に山林の保全管理が進められています。日浦地区でも、松山市が放置林の手入れに乗り出しています。市役所の担当者が地域の人に事業の説明をしてくれて、いい方向に進んでいると私(Eさん)は思います。現状では、価格が安いために樹木が切り出されず、また手入れも十分とは言えません。この状態では樹木が生い茂る一方となり、地面に日光が当たらないために下草が育ちません。そこで、今後は適切に間伐を行うことによって、山林を管理していこうとしています。」
 「現在、松山、伊予(いよ)、砥部(とべ)の森林組合が合同で林地所有者にアンケートをとっています。それは、今後自分の林地をどうしていきたいかを問うものです。林道に近い林地は業者に管理を委託し、不便なところは自治体が購入するなど、今後の対策を検討しています。
 しかし実際は、どこが自分の所有する林地なのか分からない人が多いのが現状です。平成に入ってから、実際に山に入ったことがある人は少ないですし、子や孫の代に移っていますから所有者不明の林地は増える一方です。山に価値がなくなってからかなり年月が経過しましたので、しっかりと次の世代に相続が行われていないのです。昔なら、境界がちょっとずれただけでもめていました。そこで今、地籍調査で松山市が所有者や面積、境界などの確認作業を行っています。
 私(Cさん)は猟をしていましたから、自分の林地だけでなく、よその林地を歩いて回った経験があります。この経験により、山全体の様子が把握できただけでなく、他人の土地の境界まで自然と知ることができました。山にはいくつもの林道や谷があります。一口に谷と言っても、規模の大小によって細かく分けられていて、それら一つ一つに名前が付いているのです。
 近年、土砂災害のニュース映像を見ていると、土砂だけでなく大木が流されていることが確認できます。大木が川を流れ下ることによって橋が落とされることも起きています。適当な時期に伐採が行われていないために、木が育ちすぎているからです。今後も、日浦地区の山林は土砂流出を防いだり、水資源を確保したりすることを目的とした治山・治水の役割を担うことになります。そのためにも、自由に木を切ったり開発したりすることはできず、保安林としても制限がかけられているのです。」

(3) 変わる日浦地区の景観

  ア 日浦地区の農業の姿

 「昭和20年代から30年代前半にかけて、水田では牛に犂を引かせて水田を耕したり、代かきをさせたりしていたことを私(Dさん)は憶えています。地元に博労が住んでいました。また、農家でも牛を飼っていて、小屋を建てていました。ときどき、外に連れ出して、犂を引っ張れるようにしつけていました。博労から子牛を買って水田で仕事をさせ、大きく育ったら博労に売って再び子牛を買う、そのような循環が行われていました。牛の餌となる草を刈ってくるのは子どもの仕事でした。」
 「私(Eさん)の父から聞いた話ですが、水田で牛に犂を引かせているとき、『牛のしっぽが泥水を跳ね上げて体にかかるので、本当に嫌だった。』と話していました。昭和30年代の後半に耕うん機が販売されるようになると、父はこの辺りで一番早く買ったのですが、そのときはもううれしかったと言っていました。」

  イ 松山市街とのつながり

 「私(Dさん)の祖父や父のころは、車のない時代ですから、荷物を担いで峠を越えて売りに出ていたそうです。薪や炭を売っていたのですが、炭の方が中心であったようです。そのほかにも木材を売っていました。これらが、当時の主要な産品でした。石手川ダムの東に位置する、青波町にある峠道を通って、松山市内に行くことができていました。現在の国道317号の元となる道路は、昭和5年(1930年)から昭和15年(1940年)にかけて、県道として整備されたものです。県道(現国道317号)が整備される前は、この峠道を通って市内に行っていたそうです。
 私が高校生のころの昭和30年代後半に、石手川ダム建設に伴う一連の工事が始まりますが、それまではダム湖はもちろん存在せず、通常の河川でした。川に沿って道があり、住民はそこを通って松山市中心部に行っており、その道にバスの路線がありました。昭和20年代から昭和30年代にかけて、バスの便数が多かったことを憶えています。朝、日浦地区でも最も高地の米野町と旧北条市九川から、2台のバスが松山市中心部に向けて発車していました。それが日浦地区を通り抜けるころには乗客で一杯になっていました。曲がりくねった舗装されていない道でしたので、今よりも時間が掛かりますし、事故も多かったことを憶えています。現在ではそのような光景を見ることはありません。また、今はここから松山市中心部に通う高校生もいません。乗合バス路線もなくなっています。代わりに、今治市と松山市を結ぶ特急バスが来るようになっています。」

 ウ 石手川の恵み

 「日浦地区は石手川の上流域に当たりますが、アメノウオ(アマゴ)がよくとれていました。私(Cさん)の祖父や父は、網を使ってアメノウオをとり、それを道後に持って行くと良い値段で売れたそうです。石手川ダムができる前は、ウナギやカニが多く遡上していました。夜に行くとたくさんとれていたことを憶えています。以前は水田が多かったこともあり、水をせき止めている場所が至る所にありました。また淵(ふち)もありました。そこは魚のすみかになっていました。ダムが完成してからは水量が減ったことと、上流から流れてきた土砂の堆積によって淵が消滅し、魚のすみかが少なくなりました。
 かつて青年団で活動していたころ、市内でスポーツ大会があると、その後の飲み会を日浦に戻ってからしていました。私は先に帰らされて『魚をとっておけよ。』と言われるのです。それで帰ってから網を持って川に行くと、ハヤと呼ばれる川魚が100匹ほどとれていました。それを肴(さかな)に酒を飲んでいたことを憶えています。」
「昔は川で魚をとっていましたが、川の水量も、昔と比べて減ってしまいました。植林によって山の保水力が弱くなり、土砂が流れ込んだ結果、淵がなくなったことにも原因があるようです。最近は、カワウやサギが多く飛来するようになって、ますます魚がいなくなったと私(Dさん)は思います。」
 「石手川ダムが完成してからは、この地域の川で魚がほとんどとれなくなったと私(Eさん)は思います。ダムの完成後、県や市などから補助金をもらって上流域に川魚の稚魚の放流を続けていますが、環境は改善していません。」

  エ 伝統行事

 「日浦地区と湯山地区の境界に当たる宿野町に、『奥之城』という城があったそうです。天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国平定の際、伊予国に攻め入った豊臣軍に敗れて『奥之城』は落城しました。城を守って亡くなった7人の武将の霊を慰める風習が、ここ日浦地区にはあります。それが堤婆踊り、川施餓鬼、川念仏の風習です。
 提婆踊りとは念仏踊りを行う風習で、『提婆』とはお釈迦さんの弟子の提婆達多のことだそうです。川施餓鬼は、武者の絵を描いた大幟(のぼり)を立て、鉦(かね)や太鼓を鳴らして念仏を唱えながら川沿いを練り歩くものです。大幟のことを『やすまくさん』と呼んでいます。もともと日浦地区の藤野、水口、河中、東川の集落で行われていました。明治時代まで行われていましたが、明治天皇の崩御を機になくなりました。しかし、それ以後も各集落で細々と続けられていました。明治のころ、私(Dさん)の祖父は籠を背負い、そこに幟を立てて歩いたそうです。」
 「平成の初めころ、一度途絶えていた川施餓鬼を、私(Cさん)たちの手で復活させました。まちおこしのために、何かできることはないかを考えた末のことです。再び日浦地区で一緒になって行うようにしました。コロナ禍のために途絶えていましたが、今年(令和4年〔2022年〕)に復活させました。人が少なくなって担い手が減っている時期でもあり、早く再開させないといけないという思いからでした。」
 「日浦地区の東川町に諏訪神社があります。その境内に『目留止神様』と呼ばれる祠(ほこら)があります。由来は不明ですが、目の病気を治す神だそうです。その神に相撲を奉納したという由来を持つ宮相撲が8月31日に開かれていました。別の神社でも8月7日に宮相撲がありました。地区の若者が参加するだけでなく、近隣や重信(しげのぶ)町(現東温(とうおん)市)からも参加者がいました。
 私(Cさん)が子どものころ、大相撲の力士を辞めた人が参加したことがあります。辞めたと言っても元力士ですから、地元の若者もそのほかの参加者も全く歯が立ちませんでした。宮相撲では、大量の米を炊いておにぎりを作り、参加者に振る舞っていました。昭和20年代の満足に食べ物がなかったころでも、それは変わることなく続けられていました。ところが、先ほどの元力士がおにぎりをほとんど食べてしまい、ほかの参加者が怒ってしまって、子どもながらに『大変なことになったなぁ』と思ったことを憶えています。食べ物が貴重であったころでもありますが、神にささげた食べ物でもあったので、みんなが心待ちにしていたのです。」

  オ 子どものころ

 「私(Dさん)が通っていたころ、当時の日浦中学校は日浦小学校の中に併設されていました。私の同級生は50人くらいいました。上の学年では70人くらいいて、2クラス作られていました。小中合わせて350人くらいいたのではないでしょうか。朝礼は小中学校合同で行っており、全員が顔見知りで9年間を過ごしました。」
 「私(Cさん)たちの子どものころですが、大抵の子どもはナイフというか小刀を持っていました。それを使っていろいろなものを作って遊んでいました。河原に行って石を組んで石窯を作り、枝に火をつけて炭焼きのまね事をしていました。それぞれが遊ぶ方法を工夫するというか、創作をしていたのです。食べ物が少なかったころですから、山に行って食べられる果実を採っていたことも憶えています。アケビやシャシャブ(アキグミ)といった実が採れる時期や、食べられるものと食べられないものを自然と判断できるようになっていました。」


参考文献
・ 平凡社『愛媛県の地名 日本歴史地名大系第39巻』1980
・ 愛媛県『愛媛県史 社会経済1 農林水産』1986
・ 松山市日浦公民館『日浦の里』1991
・ 松山市『松山市史 第4巻現代』1995
・ 武田峰紀『日浦百景』2008
・ 松山市都市整備部『公称町名一覧』2009
・ 愛媛県『愛媛県市町要覧 令和3年度版』2022