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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 伊台地区の農業

(1) 果樹栽培の展開

  ア 戦後の伊台地区と農業

   (ア) 農業を学ぶ

 「私(Aさん)は、中学校を卒業後、東野にあった県果樹試験場に進学しました。当時、果樹試験場が東野に、県農業試験場が南町にありました。果樹試験場では2年間学びました。そのころは、中学校卒業生のクラスと高校卒業生のクラスがそれぞれ1クラス置かれており、共同で実習や勉強をしていました。果樹試験場は、松山藩の藩主だった久松定謨が開いた果樹園が始まりだったそうです。試験場では、1日の中で講義が二つあり、あとは実習をしていました。果樹試験場ですので、主に柑橘類を扱っていました。カキやナシも少しは扱っていたように思います。同じころ農業試験場では、米や花き類を扱っていました。昭和46年(1971年)に伊台に愛媛県立農業大学校が発足すると、徐々にそちらに移行して果樹試験場の生徒募集はなくなりました。」
 「私(Bさん)は愛媛県立農業大学校の3期生に当たります。伊台に新築された建物で勉強しました。そのころは、まだ農業実習地が整っていなかったので、実習は東野の果樹試験場で行っていました。農業大学校で実習が始まってからは、東野で扱っていた農作物に加えて、ブドウも扱うようになりました。」

   (イ) 戦後の伊台地区

 「私(Aさん)が果樹試験場に通っていたころ、ここ伊台地区でミカンを栽培している農家は少なく、10軒くらいだったと思います。昭和30年代の前半まで、伊台地区では米、麦、サツマイモを中心に栽培していました。昭和30年代の後半からはゴボウやニンジンといった根菜類を栽培するようにもなりました。自分たちで栽培した物を自分たちで売っていたと思います。ゴボウは一時期よく作られ、売られていました。新しく開墾した所で植えた物の味が良かったので、しばらくするとその場所での栽培をやめて、別の新開墾地に植えていました。15年くらいはよく作っていたと思いますが、その後は減っていきました。山林を開墾したばかりの畑にゴボウが適していたと思います。
 終戦後、この辺りでは開墾が続いていました。山林を農地に変えていったのです。昭和40年代の半ばから、国の補助を受けて県が農地整備を行うようになりました。それまでは、それぞれの農家で開墾していたのです。私は現在の下伊台町で生まれ、そこで暮らしてきました。私が農家として自立したのは昭和30年代末、東京オリンピックが行われたころだったと思います。小学生や中学生のころは、家の農業の手伝いをしていたことを憶えています。学校から帰ると、勉強もせずに家のことばかり手伝わされたことを憶えています。手伝いをしていたころ、伊台地区の農産物は、7割が米だったと思います。葉タバコの栽培をしていましたが、その時期は昭和30年代だったと思います。1戸で平均して35aの水田を所有していたのではないでしょうか。昭和30年代の前半までは、田植えも手植えだったので親戚が集まって共同で行っていました。田を耕すときは、牛に犂(すき)を引かせていました。昭和40年代になると、だんだんと耕うん機を使うようになりました。
 牛を使っていたころ、1軒に1頭、どこの家も所有していました。牛は、子牛を松山の牛市で購入し、5年くらい農耕牛として飼っていました。大きくなるとそれを売って、また子牛を買い求めていました。売った牛は肉牛になったと思います。牛市は、市内の立花地区の石手川の土手辺りで開かれていました。月に1度の割合で開かれていたと思います。稲わらや草、イモを混ぜた物を餌として与え、化学肥料がない時代ですから牛の排泄物は燃やしてから肥料にしていました。浄化槽も整備されていませんでしたから、家庭のし尿も肥料として活用していました。博労が伊台に住んでいて、農家はその博労に牛の取引相場の相談をしていました。牛を連れて行く、連れて帰るのはそれぞれの農家がやっていました。」

   (ウ) 上伊台の農業

 「私(Bさん)が暮らす伊台地区の実川集落は、ブドウの栽培が盛んな所で、実川でブドウ栽培が始まってから100年経過したと言われています。果実栽培の歴史を見ると、ミカン栽培の方が古くから行われているのですが、実川の気候がブドウ栽培に適しているのです。下伊台町にある伊台小学校のグラウンドは標高が約140mです。実川はそこから約150m高い所に位置しています。このため、夜に気温が下がり日中の気温との差が大きくなります。これがブドウの味を良くして、色づきを良くしているのです。ところが、近年の温暖化によって色づきが弱くなり、黒ブドウの品種に影響が出てきています。」

  イ 柑橘栽培と果樹栽培の様子

   (ア) 輸出用ミカンの栽培

 「ミカン栽培は、昭和45年(1970年)からの国のパイロット事業によって本格的に始まりました。収穫したミカンを、北米地域に輸出することを目的としたものでした。私(Aさん)を含め、20人ほどが造成された農地に入りました。農地の割り振りは、くじ引きで決まっていったことを憶えています。ミカンの苗木を植えていくのですが、全ての苗木を購入すると費用がかかるので、先に植えた苗木から接(つ)ぎ木して増やしていきました。輸出用のミカンは品質、糖度についてはほとんど問われることはありませんでした。ただ、害虫のカイガラムシが付いていないかどうか、その点検だけは厳しかったので、消毒をしっかりしていました。そして、表面がまだ青い状態で出荷していました。そのころ、私は80aの畑でミカン栽培をしていました。1年でおよそ1,000ケース出荷していたと思います。しかし、出荷期間が10日間と限られていました。日を決められているため、雨の日も収穫していました。さらに、夜は22時くらいまで選果を行い、明くる朝に出荷していました。そのときは必死になってやっていたことを憶えています。
 栽培を始めて5、6年は良かったのですが、その後うまくいきませんでした。結果として、10年ちょっとしか続かなかったように思います。国も輸出支援を打ち切ってしまったため、それまでのような規格のミカンを出荷しても値段が付かず売れなくなっていきました。その後、多くの農家がミカン栽培をやめていきました。輸出用のミカンだったため、他品種への切り替えが難しく、畑はそのまま荒れていきました。遅くとも昭和60年(1985年)までには打ち切ったと思います。
 このミカン畑は、借用地でした。借用代の約8割は国からの補助ですが、残り2割は自己負担で、分割して支払いをしています。さらに、石手川ダムから水を引いてかん水を行っていたので、かん水設備にかかった費用もやはり約2割は自己負担です。これらの支払いが今も続いています。
 ミカン栽培をやめるに当たり、ミカンの木を切ることに補助金が出されていました。そのまま荒れていくより、いくらかのお金が入った方が良いと判断し、私はミカンの木を切りました。補助金といってもさほどの金額ではなく、チェーンソーでミカンの木を切っていく方が大変でした。」
 「北米向けのミカン輸出ですが、まずはカナダに輸出していたと思います。ミカンは、青色の果実のまま船に載せられ、アメリカに着いたころには黄色に熟れていました。バナナが青い実のまま日本に運ばれる要領と同じです。アメリカにも柑橘はあります。例えばグレープフルーツです。しかし、グレープフルーツはナイフで切って砂糖をかけ、スプーンで食べていました。その点、ミカンは手で皮をむいて食べられます。この手軽さが魅力で、人気だったようです。
 出荷する際、真っ青なミカンはいけませんが、『ホタル尻』といって、下の一部だけ黄色く色づいていればそれで大丈夫でした。品質については問われませんでした。
ミカンの輸出がうまくいかなくなった理由ですが、円高が進行したことが挙げられると思います。ミカンの木を切って栽培をやめるのに補助金が出されていましたが、私(Bさん)の家は切ることはしませんでした。今から思えば、あのときいくらかのお金をもらって切っていた方がよかったと思います。」

   (イ) 輸出用ミカン栽培を終えて

 「ミカン栽培が終わると、私(Aさん)は勤めに出て現金収入を得る方を選びました。ほとんどの農家が兼業農家へと変わっていきました。農業を続けていっても経費が掛かるために収益が出ないからです。私は仕事をしながら休日に農業をしていましたが、そのやり方だと良い作物を作ることができません。だんだんと農業をすることをやめて、勤めに精を出すようになっていきました。
 また、この辺りは傾斜地の農地が多く、年を取るごとに農作業は重労働となっていきます。60歳を過ぎると、体力的にきついものを感じました。70歳代までは何とか続けましたが、80歳を超えると無理です。今は農作業をやめています。そのような人が多いと思います。この地で農業を続けられるところは、後継者が育っているところだと思います。それはどの場所でも言えることではないでしょうか。」
 「昭和60年代からは、キウイフルーツがよく作られるようになりました。キウイフルーツやブドウは、棚を作って栽培します。もともと、伊台地区はブドウ栽培を経験しているので、棚線を張ることは慣れていました。しかし、これも価格が下がって長続きせず、今度はモモを植えていきました。試験場から新品種を提供されてモモ栽培が始まりましたが、丁寧に扱わないと腐りが出ることもあって長続きしませんでした。今は数軒の人が続けているくらいです。これが良い、あれが良いといって栽培に手を付けてみても、しばらくすると価格が低下するため、結局長く続けることができなかったのです。
 近年、柑橘類は新品種が次々と出されています。しかし、伊台地区は標高が高いため、どうしても数年に1度は果実の凍結が起こります。すると苦くなって味が落ちるため、県内のほかの生産地との競争に後れを取ってしまいます。私(Bさん)の農地は伊台地区でも標高の高い所にありますので、ハウス栽培を行っています。ビニールを二重に張り巡らし、寒くなる前にはストーブを焚(た)いて対応しています。露地では、果実に袋を二重に掛けても冷害の被害を受けてしまいます。松山市の市街地と伊台では、最低気温が3℃くらい違います。柑橘栽培を行うには手間が掛かる地域です。
 ミカンの後、松山地域ではイヨカンを栽培して収入を得ていましたが、伊台地区はイヨカンの栽培に適していませんでした。黄色く色づくことはできても、紅がさす程度までいかなかったのです。」

  ウ 専業農家として生きる

   (ア) 海外研修

 「私(Bさん)は農業大学校を卒業後、1年間アメリカに農業実習に行きました。国際農友会(現国際農業者交流協会)が行っている活動で、私は24回生として派遣されました。すでに、実習から帰ってきて45年がたちました。2年間の研修制度もあったようですが、私は1年間の実習制度を選択しました。初めのころの実習生は船で1か月かけて渡っていたそうです。行き帰りの時間も実習期間に含まれていたため、実際の実習は1年に足らなくなります。
 全国から100人を超える農業学校の学生が、アメリカだけでなくドイツやスイスなどの農業先進地域に行って学んでくるものでした。私の場合は、農業大学校の先輩にアメリカ実習の経験者がいたことがきっかけでアメリカに行くことを希望しました。その先輩から『英語ができなくとも、やる気があれば大丈夫だ。』と言われ、試験を受けたところ選ばれたのです。現在もその制度は続いていると聞いています。私は柑橘とブドウの栽培を学ぶことを希望しましたので、カリフォルニア州で両方を栽培している農場にホームステイをすることになりました。同じときに長野県から来た学生は、オレゴン州のリンゴ農場に行きました。私たちは現地で農業に従事し、月給をもらっていました。その月給から、行き帰りの航空運賃を分割払いしていたのです。食費も自前でしたが、月給から賄えていました。
 アメリカの農場の規模は、日本と比べて桁が違っていました。米農家に留学した知人は、そこの農地が3,000haあり、農場を見回るのにヘリコプターに乗っていると話していました。柑橘畑でも、全部を見回るのにジープに乗って1日掛かる、そのような農地もありました。私が行った農家は小規模で40haの広さの農地がありました。そこに、日本の二十世紀ナシ、オレンジ、ブドウ、プラムといったものを植えていました。
 農場主は大分県出身で、第1回の実習生だったのです。実習を終えて帰国した後、すぐに渡米して農場を開き、家族を呼び寄せて移住したそうです。移住した日本人や、移住世代の子孫にあたる日系人の多い田舎の町でした。だから、スーパーに買い物に出掛けて、英語で何と話せば良いかと迷っている私に対し、店員さんが『何が要りますか。』と日本語で聞いてくるような土地柄だったのです。そのような環境でしたから、私は英語を覚えることなく、代わりに大分弁を習って帰ってきたようなものでした。英語の習得には不向きな土地柄だったようですが、楽しい時間を過ごすことができました。研修生の中には、英会話が達者になって、帰国後は英語塾の先生になった人もいます。また、日米の農業規模のあまりの差を目の当たりにして、帰国後は農業をしなかった人もいました。私は同じ年に果樹の研修に行った仲間とその後も交流があり、3年に1度集まって酒を酌み交わしているのですが、最近はコロナ禍のために会えていません。」

   (イ) ブドウ栽培

 「農業実習から帰国した後、私(Bさん)は実家の農家を手伝うようになったのですが、当時の実家の農地では手狭でした。土地を欲しいと思っていたところに、国による第二次構造改善事業が完了したので、昭和55年(1980年)に1町(約1ha)ほどの農地を購入しました。当初から『ブドウを栽培すると良い収入が得られる。』と言われていたのですが、初期投資の費用がなかったので野菜栽培を続けていました。しかし、野菜だけでは食べていくことが難しかったことを憶えています。野菜の中でも、私はキュウリを作っていました。育成期間が短く、植えてから1か月で出荷できるからです。
 やがて、柑橘栽培とブドウ栽培をすることができるようになりました。今では、ミカンのハウス栽培や甘平、せとか、紅まどんなの栽培とブドウ栽培をそれぞれ40aの畑でやっています。野菜も引き続いて栽培しています。ブドウはトンネル栽培で作っています。ブドウは棚をこしらえて栽培しますが、その上にビニールの屋根をトンネル状に設置して雨水がかからないようにするものです。昔はこうした設備を作ることはなかったのですが、現在は種なしのブドウを栽培する上で必要な作業です。ブドウは、ジベレリン処理の技術が確立してからは種なしの品種が売れています。デラウェアが最初に種なしに成功したと思いますが、そこからピオーネ、藤稔、シャインマスカット、ブラックビートなどが主流になってきています。
 ブドウの収穫は9月中には済ませないといけません。収穫量が多い人は10月半ばまで掛かりますが、その場合はハウス栽培で温度を保つ必要があります。収穫は時間との勝負で、収穫に時間が掛かるとブドウが腐ってしまうのです。9月の忙しい時期には、多い人は1日に100ケース出荷しても、まだ採りきれないと思います。休む時間はありません。不思議なことに、9月15日を過ぎると日ごとにブドウの実に腐りが出てきます。これを晩腐病と言います。今年(令和4年〔2022年〕)は例年よりも早く晩腐病が見られています。丁寧に消毒をしていても、完熟するとどうしても発症の危険性に見舞われます。収穫して荷造りしたときには見えなかったものが、一晩たって出荷するときには発症して検査員が発見することがよくあります。私自身も経験がありますが、収穫時に20ℓの缶を用意して腐りが出たブドウを廃棄していく際、9月12、13日ころは缶の3分の1くらいであったものが、15日を過ぎると一日で1缶、2缶と出てくるのです。だから、『15日までには採り終える』ことを目指していますが、人手の都合もあって大変です。」

  エ 現在の課題

 「農作物は売るまで分かりません。台風が接近するたびに、どれだけの損害が出るのか、農作物がどれだけ傷んでしまうのか、そのことを心配します。農作物だけでなく、ハウスが傷むことも心配しなければなりません。ビニールなら何とかなりますが、骨組みが傷むと最悪の場合建て替えなければなりません。私(Bさん)の年齢では、もう一度建て替える馬力がありません。特に、今は資材価格が高騰しています。昨年(令和3年〔2021年〕)と比べて、1.2倍価格が上がっていると思います。ビニールや鉄パイプ、農薬とあらゆる物の価格が上昇しています。
 現在最も頭を悩ませているのが、野生動物による被害です。獣害は年々ひどくなっています。山はイノシシの巣になっています。5年ほど前にキュウリ畑がイノシシの被害に遭いました。ミミズを狙って、毎日のようにやって来ては土を掘り返していました。しまいにはキュウリの根っこを掘り返されて、枯れてしまったのです。そのこともあって、数年は堆肥を入れないで育てていたのですが、それでは実の太り具合が小さく、出来が全然違います。そこで、今年は堆肥を入れて育てていると、再びイノシシが出るようになりました。その対策として畑の周りに網を張って、檻(おり)を用意しています。
 伊台地区はイノシシだけでなくサルの被害にも遭います。例えば30匹から40匹のサルの集団がモモの木にやって来ると、10分で果実は全部やられてしまいます。また、ブドウに袋掛けをするころから、サルがブドウの実を狙ってやって来ます。サルは高い所に登ることができますから、ブドウ畑の棚に登って、袋を破り捨てて食べてしまうのです。近所のブドウ農家では毎年のように被害に遭っていましたから、今年(令和4年〔2022年〕)は電気柵を設置したところ、電気にやられたのか今年は一度も現れていないそうです。
 確かに、動物は増えています。10年前までなら、サルに作物をやられたという話はこの辺りでは聞いたことがありませんでした。もっと山側に入った地域では聞いたこともありましたが、そこではシカの食害の方をよく聞いていました。植林した苗木を食べられる被害のことです。イノシシについては、近年相当に増えたという印象を持っています。駆除する数よりも産む数の方が多いので数が減らないのです。イノシシの個体数が増えたことによって餌が少なくなり、山から人間の居住域に出てきたのだと思います。家の前の畑を掘り返している跡もあるので、家の近くまで現れています。イノシシがあちこちに作る穴は自動車が落ち込むと出られないような大きさのものです。昨年は相当数捕獲したそうですが、それでも増えていることに変わりはないそうです。
 イノシシの力は強く、ちょっとした柵なら鼻で跳ね上げてしまいます。急坂でも駆け上がる脚力もあります。イノシシが水田に侵入すると、稲を踏みつけてしまうので、それらは食べられるようになりません。また、イノシシの臭いが稲に移ってしまい、売り物にはなりません。伊台地区にある旭中学校の周辺の平坦地でも、イノシシの被害に遭っています。イノシシにやられて米作りをやめる人も増えています。『3年連続でイノシシにやられたら、もう作る気がしない。』そんな話も聞きました。イノシシは稲の花が咲いた後や、収穫前に侵入してくるので、農家の落胆はとても大きいのです。」
 「農家は獣害対策の設備投資も必要になっており、さらにお金が掛かっています。動物は主に夜行性ですし、ずっと見張りについている訳にもいきません。イノシシは昼間もウロウロしていますが、作物がやられるのは夜間です。サルは昼間にやって来ますが、集団で来られたら対処できません。
 近年、イノシシは私(Aさん)の家のそばまで来るようになっています。イノシシは泳ぐことができるので、中島にもイノシシが渡って生息するようになり、数も増えて弱っているそうです。柑橘の木が、樹皮をはがされたり、枝を食べられたりして被害に遭っています。電気柵が対策として効果がありますが、山から家の近くまで至る所に設置しなければならないので大変だそうです。少し前まで中島にイノシシがいるという話は聞いたことがありませんでした。この辺りも、いたとしても数が少なかったのが、ここ最近急激に増えています。
 どこの農家も、イノシシに入られまいと、柵を立てたりして対策をしていますが、それを掘り返して倒してでも畑に侵入しようとします。また、イノシシそのものの被害のほかに、マダニの被害があります。イノシシの体にマダニが付いていて、イノシシが通った場所にまかれてしまいます。そこを人間が通ったり農作業を行ったりする中で、人間に付いてしまって病気をもたらすのです。近所の人もマダニにかまれて高熱を出し、1か月入院しました。よくかまれる人なら、一夏に1回は起こるようです。ですので、イノシシが通ったと思われる所で農作業などをするときには、相当に注意しなければならなくなりました。イノシシも、マダニを落とそうとして川で水浴びをしたり、水田の泥に体をこすり付けたりします。なので、水田にも侵入しないように電気柵などの対策が必要になっています。米の値段も高くはありませんから、イノシシの被害に遭ってしまうと米作りをやめてしまうようになります。一面が水田だらけだったころならともかく、現在は作付けの場所が限られていますから、なおのことその水田がイノシシに狙われてしまうのです。たとえ高価な農機具をそろえていても、続ける気力を奪われてしまうのです。」

(2) 戦後の伊台地区の移り変わり

  ア 昭和30年代までの風景

   (ア) 終戦前後

 「私(Aさん)は昭和16年(1941年)生まれなので、戦争の記憶もうすうす残っています。山に防空壕(ごう)が掘られていて、空襲警報が鳴ると頭巾をかぶってそこへ入っていったことを憶えています。松山空襲(昭和20年〔1945年〕7月26日)で市内が焼け野原になったとき、山の上からB29が飛んできたのは憶えています。この辺りが焼け野原になるほどの被害はありませんでした。
 子どものころは、今よりも寒かったことを憶えています。道路も舗装されていませんから、あちこちに水たまりがあり、そこが冬になるとよく凍っていました。学校には下駄を履いて通っていましたから、その氷を割りながら通ったものです。小中学校は1クラスが基本で、小学校から中学校まで、9年間は同じ顔ぶれで過ごしていました。小学校の同級生は38人いましたが、60人を超す子どもが1クラスにいた学年もありました。
 中学生のころは、学校で農業ばかりさせられていたことを憶えています。週に2日も3日も農業の勉強をしていました。農業に詳しい先生がいたのです。勉強だけでなく、週に1回は実習もさせられていました。中学校から1.5kmくらい離れた場所にちょっとした圃場(ほじょう)があり、そこでイモばかりが植えてあって作っていたのです。イモの苗作りから行うもので、畝(うね)作りから草むしりまでやっていました。肥料がない時代ですから、下肥を畑にまいていました。大変だったのは、下肥をおけに入れて、2人1組になって天秤棒で担いで運ぶときです。臭いも何も大変でした。収穫したイモはみんなで分けて食べていました。
 本当に、この60年で水田が少なくなってしまいました。昭和30年代までは、米、麦、イモの世界でした。それを作るしかなかったのです。この辺りは川の水と、谷に作ったため池の水で農業用水を確保していました。水田が少なくなった今では、水が余っているくらいです。食べ物も麦の入った御飯や、イモが中心でした。当時は外に働きに出ることも少なかったので、ほとんどの人が農業に携わっていました。
 そのころは、ガソリンやガスが普及していない時代でしたから、薪(まき)が燃料でした。伊台地区では山で木を切り、それを薪にして、松山市内に売りに行っていました。道後の温泉街が近くにありますから、旅館に薪を出荷していました。切ってすぐに出荷するのではなく、木を切ってから決まった大きさに切りそろえ、さらに乾燥させてから決まった分量にまとめて、12月から3月までの農閑期に販売していました。重さに応じて値段を決めて売っており、それで収入を得ていたことを憶えています。鉞(まさかり)を使って木を割って薪にするのは私の仕事で、学校から帰ってきてからやっていました。当時はまだ軽トラックのない時代で、オート三輪に載せて薪を運んでいました。大体、植林してから20年経過したものが薪に適していました。現在は木を切りませんから、植えてから60年以上経過した木がたくさんあります。薪のほかに、竹も建築資材として売っていました。家の内壁の塗り壁の中に入れる骨組みとして作られている物です。同時にタケノコも収穫して売っていたと思います。」

   (イ) 食生活

 「米作りが中心でしたが、作っている米の5分の1は餅米でした。正月に搗(つ)いた餅を水につけて水餅にして保存していました。5月くらいまで保存していて、それまで毎朝餅を焼いて食べていたことを私(Aさん)は憶えています。かき餅にもしていました。とにかく、餅はたくさん食べた記憶があります。
 また、米作りで来年の苗のために種もみを保管しています。その種もみで苗を作った後で、余った種もみを焼き米にして食べていたことを憶えています。学校から帰ってきても、食べるものが豊富にありませんから、家にあった焼き米をポケットにじかに入れて、それを食べていました。
 イモは、『白イモ』と呼ばれていたサツマイモを食べていましたが、あまりおいしいものではありませんでした。家で穴を掘ってそこで貯蔵して、春先まで食べていました。それでも、食べることは楽しみでもありました。パンもなかった時代です。パンは昭和40年代に入って見られるようになりました。そもそも、食べ物を買いに出ることもありませんでしたし、売る店もほとんどなかったころです。
 そのころは食べ物を盗む泥棒も多かったことを憶えています。田舎だったので鍵も掛けることがなかったからです。後で食べるために置いていたイモがいつの間にかなくなっていたり、一緒に盗まれた籠が稲刈りの時期に水田から出てきたりしていました。」

   (ウ) 伊台地区の行事

 「祭りは、今と同じように10月7日に秋祭りがありました。ほかに、5月3日に春祭りがありました。春祭りと言っても、伊台地区の5つの集落の青年らが、集落対抗の運動大会を開いていたことを私(Aさん)は憶えています。俵担ぎ競争などを行う今の運動会のようなものです。当時は、若い人がそれぞれの集落に多くいましたから、大会の10日前くらいから夕方になると競技の練習をしていました。それは楽しかったことを憶えています。昭和20年代を中心に行っていて、10年余りは続いていたと思います。
 秋祭りの翌日には、各集落で村芝居をしていました。歌舞伎風ではない芝居で、『貫一お宮』などが上演されていました。公民館で舞台を設置し、青年団が中心になってやっていました。10月8日の夜に上演し、みんなが見に来ていました。これも、各集落で前々から仕事が終わってから練習に励んでいました。1か月くらい練習していた集落もありました。衣装も全部自分達でこしらえていました。
 さらに、正月に百人一首の大会がありました。これも集落対抗の行事でした。この行事は今でも続いていますが、昔の方が盛大に行われていました。これも、事前に練習をしていました。若いころに覚えた和歌は年を取っても忘れないというので、80歳を過ぎても参加している人がいます。それらの行事や準備が楽しみでもあったのです。
 松山市のまとまりで大会をすることはなかったと思います。伊台や湯山といった地区ごとにいろいろな行事を行っていました。村芝居がなくなった後にカラオケがはやり、公民館や分館がカラオケの機械を購入しました。当時は『8トラ』と呼ばれた8トラックの機械でした。松山市内にカラオケ店が普及していなかったころです。村芝居は、おおよそ昭和25年(1950年)から昭和35年(1960年)までの間行われていたと思います。昭和39年(1964年)の東京オリンピックのころには、もうやっていなかったことを憶えています。オリンピックのころにはテレビが普及するようになって、そちらに娯楽が移っていったのです。カラオケの流行は10年くらい続いたのではないでしょうか。昭和40年(1965年)ころから、1年1年経済が成長をしていく様子を実感できていました。昭和30年代の前半までは、それぞれが何とか生活していたような感じです。」

  イ 昭和40年代以降

   (ア) 自動車と電話の普及

 「路線バスがないころは歩いて移動することが中心でした。路線バスが昭和30年代の半ばに伊台に来るようになりました。オリンピックのころにはバスが来ていたと思います。当時は自家用車がない時代ですから、バスの利用者はとても多かったです。その後、車社会になるとバスの利用者がどんどん減って赤字路線になっていったと思います。私(Aさん)はバスよりもバイクによく乗っていました。そのころの若い人はほとんどそうしていたと思います。私も松山市内までぼろのバイクに乗って、途中で壊れるとそれを置いてバスで帰っていました。そのころは、現在の県立中央病院近くの石手川の土手に免許取得の試験場があり、試験で乗る車もオート三輪でした。その免許を取得するとそのまま普通車の免許も付けてくれました。そんな時代だったのです。当時は16歳から取れていたので、中学校を卒業してしばらくすると免許を取りに行っていました。
 車がないとミカン栽培の仕事はできませんでした。初めは棒ハンドルのオート三輪に乗り、次に丸ハンドルのオート三輪に乗りました。ミカン山の仕事にはオート三輪が適していました。四輪自動車が普及してきても、オート三輪が販売されているうちはそちらを使っていました。私が四輪自動車に乗り換えたころには軽自動車が出るようになっていました。そのころになるとミカン山にはモノラックも設置されていましたが、農道があるミカン山ではオート三輪で運んだ方が便利だったと私は思います。オート三輪は大阪辺りで7、8年使われた中古車を購入して、修理しながら使っていました。
 道路も曲がりくねった道が多かったですが、昭和40年代に入ると、幅の広い直線の道路が増えるようになりました。」
 「私(Bさん)が中学生のころ、一般に『農集電話』と呼ばれる農村集団自動電話が各家庭に置かれていました。大体10戸で1回線を共有していました。1回線しかないため、誰かが電話しているときは、ほかの家は使うことはできません。ただ、受話器を上げるとその会話は聞こえていました。ときどき、用件が済んだ後も話していることがあり、後でよそから『早く切れ。』と怒られることがありました。
 昨年(令和3年〔2021年〕)の3月末でバスの路線が廃止になって、上伊台町では不便を感じています。バスは下伊台町の伊台公民館近くの農協に停まるだけで、それより上までは行かなくなったのです。私が小さいころ、木炭車のバスが走っているのを見たことがあります。」

   (イ) ニュータウンの建設

 「もともと伊台地区は、伊台村でした。昭和30年(1955年)の5月に松山市に編入されましたが、そのころは400戸を超えるくらいで、約1,900人が暮らしていたと記憶しています。近年は人口が増加しています。しかし、編入時は1戸あたり4、5人が暮らしていたのですが、今は1戸あたり2、3人くらいに減っています。戸数が多い割に人口はそれほどでもないと私(Aさん)は感じています。
 昭和40年代の終わりから、下伊台町域を中心に団地が次々と形成されました。団地の住民は大半が松山市街地に勤めに出る人たちですから、農業をしている人はいません。団地の人口の増加に伴い、元からの住民と団地の住民との交流の場が作られるようになりました。かつて行われていた青年団による運動大会の流れが復活して、春に地区の運動会が行われるようになっています。」
 「私(Bさん)が二十歳のころ、伊台地区に最初の団地が完成しました。その後、次々と団地が作られていきました。現在、伊台公民館のほかに10の分館が作られていますが、団地が作られる前は5分館でした。もともと住んでいた人と団地に住んでいる人の居住区は分かれています。
 元の住民と団地の住民との交流は、地区の運動会や軽スポーツ大会、祭りを通して行われています。地区の運動会は、各分館から約40人が参加しますから、観覧者も合わせれば会場となる旭中学校のグラウンドが一杯になります。現在でも、参加する人たちは多いと思います。この運動会は4月の最終日曜日に開催されています。初めは、かつて行われていた春祭りの運動大会の名残で、5月3日に開いていましたが、連休中で人が集まらないということもあり、日程を変えて実施しています。百人一首大会も、以前は元旦にやっていましたが、団地の人たちは実家に帰省することが多いので、今は成人式の前の日に行われています。さらに、分館ごとにソフトボールやバレーボールのチームを組んで、定期的に試合をして交流を図っています。
 近年、団地でも世代交代が起きています。最初の団地が造られてから50年近く経過しているからです。団地で生まれ育った人が帰ってきている家もあり、そこでは家の建て替えが進んでいます。さらに帰ってきた世代の子どもたちが学校に通っているのです。一方で、子どもが帰ってこなかった家は徐々に空き家になっています。現在、子どもが多く住んでいるのは、最後にできた南白水台の団地です。伊台小学生の約7割がそちらから通っています。」