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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 横谷地区の農業

(1) 横谷地区の農業

  ア 山間部の農業

   (ア) 夜遅くまで働いていた両親

 「横谷は河野地区でも一番奥の集落です。私(Cさん)が子どものころには集落に50軒ほどの家がありました。それで、小学生も全体で30人以上はいました。そのころは河野小学校にみんなが歩いて通っていました。距離が3.5kmくらいあったので、朝6時半くらいに家を出て、1時間以上掛かっていたことを憶えています。1年生から6年生までみんなでまとまって通っていました。現在は小学生が1人もいません。社会の様子が大きく変わってきています。
 私は県外の大学に進学し、卒業後は東京か大阪の方で就職しようかとも思いましたが、やはり帰らなければならないと考え、こちらに帰って勤めながら、土日を中心に両親とともに、農業をしていました。
 私の家は米中心の農業を行っていましたが、野菜など自分の家で食べるものは全部自分の家で作っていました。私の地域では昔から『5反百姓』と言う言葉があります。5反(約50a)の土地があれば十分に食べていけるという意味です。昔はお金を使って遊ぶところもなかったので、それだけの土地があればできた米を売って、生活ができていたのだと思います。それでも食べていくために、昔は機械もなかったので、両親は夜遅くまで働いていました。家の前が畑だったので、両親は暗くなっても夜8時ころまで働いていたことを憶えています。
 今は米を食べる人が少なくなったからでしょうか。米が余ってしまって、米の値段も本当に安くなってしまいました。」

   (イ) 小さな水田

 「現在では圃場(ほじょう)整備をしたので、一枚一枚の水田が大きくなりましたが、それ以前は、一枚一枚がほご(わらで編んだかご)を置いたら隠れてしまうようなとても小さな水田ばかりだったことを私(Cさん)は憶えています。そのような水田でも、手植えで稲を植えていました。私の家では6反(約60a)の水田に稲を植えていました。手植えをしていたのは、昭和30年代の後半くらいまでだったと思います。そのころに田植え機や稲を刈る機械ができてきました。
 子どものころは、牛も飼っていました。牛でないと入れない水田もあったと思います。私は直接牛を使ったことはありませんが、牛が代かきをした後に、田植えをしたことは憶えています。子どものころには、祖母がわらを編んで俵を作っていました。大学を卒業して帰ってきたころには随分機械化が進んでいました。
 現在でも3反(約30a)くらいの水田で米作りをしていますが、もう田植えも全て機械で行います。それで水田へ足を踏み入れることはあまりありません。最初に肥料をやるときくらいです。肥料を入れて、ヘリコプター防除をして後は収穫するだけです。昔の農家は水田の端までしっかりと稲を植えていましたが、機械で植えるようになると、機械が入らないところはそのくらいは大丈夫と思って、稲を植えません。値段も良ければ隅々まできちんと植えるのでしょうが、下手をすると自分で作るよりも買った方が安いくらいです。最近は、ロシアのウクライナ侵攻の影響もあり、肥料の値段も高くなっています。肥料は高くなっているのに、米の値段は安いままで、農業を続けていくことが大変になっています。」

  イ 林業

 「私(Cさん)の家では水田のほかにも山林も所有していました。私も林業をやろうと思っていたのですが、一人では危険なので『少し難しいな』と思っています。ほかの人が持っている山林にも手伝いに行くこともありました。
 父が元気だったころは、スギやヒノキの植林をしていました。苗を植えたり、生長した木を伐採して売ったりもしていました。そのころは、家は全て日本建築でしたから、製材所が伐採した木を購入していました。北条にも製材所が3軒か4軒あったのではないかと思いますが、それらの製材所が木材を買いに来ていました。そのころは木材の値段が良かったことを憶えています。
 今は高縄山に車で登れますが、私が子どものころは車が通れる道もなく、苗を植えるために、馬に苗を背負わせて上がっていました。伐採した木も馬に引かせて降ろしていました。馬は家で飼っていたものではなく、必要なときに雇っていたようです。
 伐採した木は、その場で乾燥させて、水分が抜けたものを出荷します。今は作業道で運ぶのでしょうが、昔は重機もそれほどなかったので、ワイヤーを架けて、架線でつって出していました。15年くらい前まではそのようにして木を降ろしていたのではないかと思います。
 現在でも大きくなったスギやヒノキがたくさんありますが、なかなか伐採して、出荷するということにはなりません。一時期、木材の値段が上がったのですが、今は伐採したり、運んだりする人がいません。どこもそういう状況ではないかと思います。
 昭和40年(1965年)くらいまでは、多くの家で炭を焼いていました。私の家では、20年くらい前までは炭窯を作って、伐採したクヌギを山から運んで炭を焼いていました。小さな炭窯ですが、一度焼いたら多くの量ができていました。近所の人にあげていましたが、20年前に焼いた炭がまだ残っています。昔は暖房がなかったので、火鉢で炭を燃やして暖を取っていたのです。」

(2) 子どものころの思い出
 
  ア 子どもの遊び

 「私(Cさん)が小学生のころ、学校からは遊びながら帰っていました。道のそばに生えているものを食べながら帰っていました。イタドリやチガヤの新しい芽を引き抜いてかじっていましたが、今だったら草を食べているのかと驚かれるようなものです。今ゴルフ場がある辺りにはマツタケもたくさん生えていたのを憶えています。マツタケは近くを通ると匂いで分かりました。
 子ども同士は、小学校への通学距離が長かったこともあって、とても仲が良かったです。学校へはみんなで一緒に通っていたのですが、低学年の子どもの荷物が重いと、高学年の子どもが持ってあげていました。その当時は集落に小学生が30人くらいいましたが、集落全体を使って一緒に遊んでいました。
 集落全体で、神社など5か所くらい相撲を取れる場所があったので、そこを回って相撲を取ったり、川に入ってびしょぬれになりながら、魚をとったり、集落全体でかくれんぼをしたりしていました(写真2-1-5参照)。高学年から低学年まで一緒に遊んで、年齢が上の子どもが下の子どもの面倒をしっかりと見ていたので、人間関係が良かったのではないかと思います。」

  イ 買い物

 「私(Cさん)が子どものころには、横谷地区にも店があり、駄菓子を買いに行っていました。今から30年くらい前まではあったと思います。今は買い物に出るのにも車で下の方へ出ていますし、フジの移動販売車が集落まで来てくれるようになっています。横谷までの県道が二車線になるときに、県の担当者が『この道ができたら便利になるけど、過疎になるよ。』と言いました。やはりそう考えているのかと思いましたが、実際にそうなってしまいました。」

参考文献
・ 北条市『北条市誌』1981
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
   『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 北条市『飛 北条市合併記念誌』2004

写真2-1-5 現在の横谷集落

写真2-1-5 現在の横谷集落

松山市 令和4年11月撮影