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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 大浦地区の農業

(1) 昭和30年代までの農業
  
  ア ナシ栽培

   (ア) 大浦地区のナシ栽培

 「私(Bさん)たちが子どものころは、この辺りではナシを多く栽培していました。現在『大浦子供の家』がある所に、かつては倉庫があって、そこにナシを集めて、出荷していたことを憶えています。昔は海岸が砂浜だったのですが、海岸に機帆船がやって来て、ナシを積んで広島(ひろしま)や呉(くれ)(広島県)方面に出荷していました。ナシの収穫時期には大浦地区で2隻の船を雇っていました。ナシの品種は『長十郎』という品種でしたが、鳥取県の『二十世紀』という柔らかくておいしい品種が登場してからは、それに押されて、『長十郎』がだんだんと売れなくなったようです。」
 「ナシの栽培は大変だったようです。リンゴなどと一緒で風に弱く、台風などが来たら、果実が落ちたり、傷が入ったりしてしまいます。また、栽培にも手間が掛かっていました。ナシの果実を虫や病気から守るために、袋掛けをしなければなりません。袋掛けは2回する必要がありました。そのころ大浦地区はあまり豊かではない農家ばかりだったので、袋を買ったりせずに、自分の家で新聞紙を利用して作っていました。子どものころには冬休みの手伝いとして、新聞紙を切って、それを折り、のりで貼って袋にしていたことを私(Aさん)は憶えています。大浦地区では昭和36年(1961年)くらいまでナシ栽培が行われていたと思います。」

   (イ) 忙しかった夏

 「大浦地区では、夏の盆の墓参りは、全ての家が8月14日の早朝に行うという風習があります。最近では、若い人は行かず、私(Aさん)たちも遅い時間に行くようになりましたが、それでも朝の5時とか6時には行っています。昔は農作業に支障のないもっと早い時間に墓参りを済ませていました。それだけ、夏は農作業が忙しかったのです。朝早くからナシを収穫し、それから出荷の準備をします。また、夏から秋にかけては、昼の時間に海岸でイワシ網を引いて、イリコを作っていました。」

   (ウ) ナシの出荷

 「採ってきたナシは箱詰めして、荷造りをします。収穫をしたナシを入れる木箱も作る必要がありました。木を組み立てて、くぎを打って作りますが、それも子どもたちの仕事でした。私(Bさん)もくぎを打ってたくさんの箱を作ったことを憶えています。そして、収穫したナシを選別して、包み紙にきれいに包んで、箱詰めします。そのままだと傷がつくので、木毛(もくめん)という木を細く削ったものを緩衝材として入れていました。」
 「大浦地区でナシを作っていたころ、景気が良かった時期があったのだと思います。出荷のために専属で機帆船を2隻雇っていましたし、大浦地区だけの専用の化粧箱を作っていました。海が近いからなのか、波という字に丸のマークでした。また、松山から業者がやって来て、少し傷のついたナシやちょっと病気になったナシを買い付けていたことを私(Aさん)は憶えています。業者の人たちは各農家を順番に回って、『傷のナシはありませんか。』と言って、ナシを買い付けていました。ナシを買うと、そのころは今ほどの交通量はありませんでしたが、通るトラックを止めて交渉し、買い付けたナシを松山に運んでもらっていました。そして、ナシを松山に運んで、その日のうちに松山で売ります。また翌日にやって来て、傷のあるナシを買っていました。そのような商売をしていた人が何人もいました。傷を取り除いて食べないといけないのでしょうが、それで商売になっていたのではないかと思います。」
 「『長十郎』も多少は傷があったものの方が、おいしかったことを私(Bさん)は憶えています。きれいなものは硬いだけでおいしくなく、多少傷があって、腐りかけていたものの方が、子ども心においしかったことを記憶しています。」

   (エ) イリコを作る

 「まだこの辺りでナシを栽培していたころは、ほとんどの農家が夏になると、農作業を休憩する昼の時間にイワシ網を引いて、とれた小さなイワシでイリコを作っていたので、夏の間はすごく忙しい日々でした。大浦地区ではイワシ網の組合を二つ作っており、船が2隻あって、その船を沖まで漕(こ)いで網を入れて、イワシを囲い、網を浜から引いてイワシをとります。船はろで漕いでいたことを私(Bさん)は憶えています。」
 「とったイワシは網を引いた組合員に1斗(約18ℓ)升で決まった順番で配られます。とれた量が多ければ全員に配られ、また一番目から始まり、とれた量が少なければ、途中まで配って、次の日に止まった人から始まるというようになっていました。そしてそのイワシを各自が持ち帰って、それをゆでた後に干して、イリコにします。作ったイリコは1kgくらいのイリコが入る細長い白い袋に入れて組合に集めて、そこに業者が来て購入します。各自でイリコを作っていますから、ゆで方が悪かったり、干し方が悪かったりすると値段に差が付いていました。ですので、それぞれ個人が受け取る金額には差がありました。きれいに干して、きれいに作っているところは良い値が付くのです。それは柑橘も同じだと私(Aさん)は思います。
 海岸には今のように堤防はなく、昔は満潮のときでもソフトボールができるくらいの広い砂浜だったので、とれたイワシはそこで乾燥させていました。たくさんイワシがとれると、今度は干す場所が不足するので、干す場所を確保するための競争をすることもありました。ある程度、干す場所は農家ごとに決まっていましたが、量が多いと場所を確保できず、干せなくなっていたのです。」

  イ サツマイモ栽培

   (ア) サツマイモをでん粉工場に

 「ナシを栽培しているころには、ナシを作っていない畑で半主食になるサツマイモを作っていました。『高系4号』という品種のイモだったと思います。大きなイモで、私(Aさん)たちは『コウケイ』と呼んでいました。栽培可能な所では、麦なども栽培していました。しかし、昭和30年代の後半にはイモや麦を作っていた畑も全てミカン山にしてしまいました。」
 「昭和30年代にはサツマイモを栽培していました。それ以前にはほとんどの農家で麦を作っていたのですが、私(Bさん)たちが子どものころに、でん粉工場が下難波地区にできました。そこででん粉にするためにイモを作るのが良いということだったのだと思います。『コウケイ』という品種はでん粉をたくさん採るためには良かったのかもしれませんが、普通に食べるのにはあまり向かない、味の良くないイモだったことを憶えています。」

   (イ) 亥の子の思い出

 「子どものころなので、サツマイモがどれほどの金額になったのかは分かりませんが、ある程度の収入になったのではないかと思います。私(Aさん)たちが子どものころは、亥の子という行事があったのですが、大浦地区ではサツマイモをたくさん作っていたので、各家庭でお金をもらうのではなく、亥の子のイモを寄付してくれませんかと言って、各家庭を回っていました。『亥の子のイモを子どもが集めに来るぞ。』と玄関にあらかじめ置いてくれていた家もありました。そしてそのもらったイモをでん粉工場で買ってもらっていました。その経費で亥の子の祭りの供え物を準備していました。私が中学3年生くらいのときだったと思いますが、それで、供え物などをつくり、お供えをしたあとに、余ったお金を利用してお供えをした後の餅をぜんざいにして食べたことは今でも憶えています。」
 「『コウケイ』と呼んでいたイモは大きく白いイモでした。亥の子のときは、中学生みんなでリヤカーを引いて、この地区の1軒1軒からイモをもらっていました。それをリヤカーで下難波のでん粉工場まで持って行って、売っていたことを私(Bさん)は憶えています。」

  ウ 米の収穫

   (ア) 米作り

 「大浦地区の農家の中には、自家消費分の米を作っている農家もいます。大浦地区には、現在北条スポーツセンターができているところに水田が少しだけありました。しかし、ほとんど水田になる地域はなかったので、下難波地区に水田を所有し、出作(でさく)に行っていました。そこで、自分たちが食べるための米と麦を作っていたのです。
 私(Aさん)が子どものころには、今みたいにトラクターがなく、耕うん機もありません。そのため、牛で水田を犂(す)いて田植えをしたり、土起こしをして、畝を立てて麦を作ったりしていました。
 持ち帰った麦は乾燥をさせる必要がありますが、精麦の前に、車に麦の上を通ってもらうと押しつぶされて、皮がむけるからというので、舗装されていた神社の前の道路に麦をまいていたことを憶えています。通る車はそれを避けようとするのですが、『かまんけん、しいてくれ。』と言って、上を通ってもらいました。」

   (イ) 大浦地区から下難波地区への道

 「下難波地区の水田で収穫した米や麦を持ち帰るために、重い鉄の車輪の付いた大八車を牛に引っ張らせて帰っていました。距離は2㎞くらいだと思います。しかも途中に坂があります。現在は少しなだらかになっていますが、当時はもっと急でしかも舗装されていない道だったので、車輪が土に埋まって動かなくなることもあり、大変な思いをして坂を越えていました(写真2-1-1参照)。
 また、その道は線路がすぐ近くを通っているので、昔の蒸気機関車のころは、大きな汽笛を鳴らす蒸気機関車に、牛が驚いて急に走り出すこともありました。荷車も引っ張られて、私(Aさん)も恐ろしい思いをしたことを憶えています。帰り道は牛も疲れているのでしょう。手を放しても、大きな音が鳴っても早く家に帰りたいので走ろうとはしないのですが、まだ元気な朝のうちには恐ろしい目にあったことが何度もあります。
 聞いた話ですが、昔、国道がなかったころは、水田のある下難波地区から、波妻の鼻を回って、伝馬船で米や麦を運んで帰っていたこともあるそうです。国道ができるまでは旧道の山道を登っていくよりは海の方が楽だからです。私が牛と行っていたころには、すでに国道ができていました。雨が降ったらぬかるむので、小さな石を敷いていましたが、それで車輪が動かなくなることもありました。しかし、石を敷いていなかったら、洗濯板のようにがたがたになってしまい、前に向いてうまく進めないこともありました。舗装する何年か前にはブルドーザーでしょっちゅう道をならしてくれていました。しかし、そのときはきれいになっても、すぐに洗濯板のようにがたがたになったことを憶えています。
 そのため、テーラー(小型耕うん機)を導入したときにはとてもうれしかったことを憶えています。テーラーは後ろに荷台を付けると荷物を積んで走らせることができました。軽トラックが登場するよりも前に、テーラーが流行りましたが、『なんと便利なものができたのだろうか』と思いました。それで、下難波地区に行くこともずいぶん楽になりました。」
 「私(Bさん)の家では、ナシを作っていたころに、北条スポーツセンターの前の半島の、今は公園になっている辺りにナシ園がありました。そこでナシを収穫して砂浜の方にナシを積み降ろして、船で家まで運んでいました。子どものころに何度も父の手伝いで、潮が満ちている時間に父と一緒に小さな伝馬船に乗って波妻の鼻を回って帰ったことを憶えています(写真2-1-2参照)。潮が満ちているときに運ぶのは、ナシを移動させる距離が短いので楽だからだと思います。砂浜も潮が引いていると少し歩かなければならないので、少しでも楽なように潮が満ちているとき運搬していたのです。」

   (ウ) 牛の飼育

 「その当時は博労が難波地区におり、牛市もありました。私(Aさん)の家でも小さな牛を博労から定期的に買っていました。生まれて半年から1年くらいの牛だったと思います。その牛に水田の耕うんをさせたり、田植え前の代かきをさせたりするのですが、購入してすぐにできるようになるわけではなく、やり方を牛に教えなければなりませんでした。練習は海岸の砂浜でしていました。そして下難波地区の水田に連れて行って仕事をさせるのですが、『ようやくましになったなあ』と思うころに博労がやってきて、『牛を替えようや。』という話をすることになります。牛の飼育は良い収入になったようで、私の父はそれで家が一軒建ったと言っていました。
 そして、牛の排泄物とわらや草を混ぜて、それを山に置いておき腐らせるとそれが土肥えと言う良いたい肥になります。それを水田に持って行って肥料としていました。水田で米を作っている農家には牛が必ず1頭はいました。
 牛は雄の方が安かったようです。ただ雄は気性が荒いので、去勢をする必要があります。買ってからしばらくした後に、獣医を呼んで去勢をしてもらいました。そのため、雄の方が安かったのかもしれません。去勢をすると気性の荒さが少しは収まったのではないかと思います。去勢をして、耕うんの練習をして、そして慣れたころに売却をするということの繰り返しでした。」

(2) 柑橘への転換

  ア 柑橘への転換

 「昭和30年代の後半に『長十郎』というナシの品種の値段がだんだん下がってきたので、大浦地区ではナシ作りに熱心な人が『菊水』という品種のナシを作っていたこともありました。また、ブドウの栽培を試みた人がいたことを私(Aさん)は憶えています。ただ、ブドウの栽培には暖かすぎたのか、あまり色づきも良くなくブドウは成功しなかったようです。そのため、その当時は柑橘の値段が良かったので、柑橘にだんだんと変わっていき、最初は温州ミカンを植えました(写真2-1-3参照)。」
 「初めは温州ミカンの値が良いということで、みんなが温州ミカンの苗木を植えたことを私(Bさん)は憶えています。しかし、苗を植えて成長して、ちょうどミカンが収穫できるようになったころに宮内イヨカンが登場しました。するとイヨカンの方の値が良いので、ほとんどの農家が温州ミカンの木を切って、宮内イヨカンを高接(つ)ぎしていきました。今でも大浦地区の農家のほとんどが柑橘を作っています。」

  イ 苦しかった時期

 「ナシも良かった時期はありましたが、だんだんと値が安くなってきて、ナシから柑橘に転換するときには苦労しました。収入もなくなるので、生活も苦労したことを憶えています。
 野菜なら一年で収穫できますが、野菜と違って柑橘は収穫ができるまで3年から5年の期間が掛かります。ところが、温州ミカンが良いからと植えるとすぐに、温州ミカンの値が崩れてきたのです。それで、ようやく温州ミカンが収穫できるようになったころに、また高接ぎしてイヨカンに変える必要がありました。このころはこの地区の農家のみんながしんどかったのではないかと私(Aさん)は思います。」
 「私(Bさん)の家でも、値が良かったイヨカンが軌道に乗ってからは安定していたのではないかと思います。温州ミカンは南予地方ではお金になるのかもしれませんが、この辺りではやっぱり安かったようです。」

  ウ 水の確保

   (ア) 立岩ダム

 「大浦地区は昔から水の確保に苦労していた地区でした。それが昭和42年(1967年)の大干ばつをきっかけに、立岩ダムが造られました。現在では、そのダムを管理しているのが北条市畑地帯総合土地改良区で、そのダムからパイプで水を引いて共同防除をしています。農薬の散布とかん水をスプリンクラーで行うのですが、コンピュータ制御で全部機械化されています。もう40年くらい前から共同防除を行うようになったのではないかと思います。
 そのころ、山の方にはまだ畑があったのですが、スプリンクラーでかん水できるので、畑をやめて果樹園にした所もかなりあったことを憶えています。スプリンクラーがあるので、大浦地区でも柑橘栽培がある程度続いているのではないかと思います。これがなかったら私(Bさん)ももうやめています。」
 「設備ができてから長い時間がたったので、現在では、機械が壊れたとか、スプリンクラーが詰まったとか、ホースが裂けたというようなことが起こって、役員の人たちが大変な思いをしています。私(Aさん)もスプリンクラーがなかったら、やめていたのではないでしょうか。これがあるので、雨が降らなくても、かん水してくれます。自分の手で、かん水や消毒をしないといけないのだったら、とっくにやめています。特に柑橘は、摘果などのほかの作業もそうですが、消毒は夏にしなければならないことが多いので、暑い中の作業となり大変なのです。」

   (イ) 平成6年の渇水

 「立岩ダムは昭和55年(1980年)にできましたが、その後もダムの水がなくなってしまうということもありました。特に平成6年(1994年)の状況は深刻でした。北条市は緊急対策として、下水処理場の終末処理水を農業水として開放したので、私(Bさん)も500ℓのタンクで水をくみに行ったことがあります。あまりにも水がなかったのです。そこに行ったら、大きなパイプから勢いよく水が出てくるので、それを山に運んで、水をまいてかん水して、水がなくなったらまた処理場に行ってと何度も往復したことを憶えています。」
 「私(Aさん)もかん水するために水をタンクでもらいに行ったことを憶えています。処理された水はきれいで、塩分などもほとんど含まれていないので大丈夫だと聞きました。少々だったら、水がなくても我慢するしかありませんが、通常だったら流れている山の谷にも水がなく、どうしても我慢できずくみに行きました。仕事が終わってから、夜に行きました。軽トラックでタンクを運んで、そのタンクに水をくんで、夜なべで水をまいたことを憶えています。」

(3) 水田での裏作

  ア タマネギ

 「私(Aさん)の家では昭和40年(1965年)ころになると水田での裏作として麦を作るのをやめ、タマネギを作るようになりました。そして収穫したタマネギを農協に出荷していました。
 私たちがタマネギを作っていたころに、国からタマネギの指定産地とされましたが、そのころは水田を持っている農家の多くが裏作にタマネギを作っていたと思います(図表2-1-1参照)。今もタマネギを大規模に作っている所はありますが、個人で作っている農家は少なくなりました。小規模農家が作るのは大変なのです。今は大規模農家ではタマネギの苗を機械で植えますが、私たちが作っていたころは、全部手植えでした。さらに収穫のときが大変です。収穫はちょうど梅雨のころになりますし、タマネギは重いので体力的にも大変なのです。それで、多くの農家がやめてしまいました。タマネギの収穫は6月くらいですが、それから乾燥させます。そして8月ころに、白根をはさみで切ります。さらに上の葉の部分も15センチくらい残して切り、出荷の準備をします。栽培していたころはそれが夏の間の女性の仕事でした。
 タマネギは苗の短冊を作って、手で植えるのですが、とても手間が掛かります。ですが、植えるだけなので誰でもできます。私の父が自分の子どもたちに、つまり私の姉妹たちに手伝ってくれと言って、手伝わせたときの話です。私の姉妹たちは自分の子どもを連れてきて一緒に手伝わせたのですが、そうすると私の父は『孫に手伝わせて。』と怒っていました。ところが、その孫たちはこの短冊をこれだけ間隔を空けて植えなさいと言ったら、きちんと植えるのです。ところが、姉妹たちは話をしながら植えるので、だんだん間隔が広い所があったり、狭い所があったりするようになりました。そのため、私の父は『孫の方が良い。お前たちより孫の方が上手に植える。』と言って、次の年から『孫を呼べ。』と言って連れて行ったりしていました。私の家ではタマネギを昭和50年代までは作っていたのではないかと思います。」
 「現在は大きな農家が米の収穫が終わった後の土地を借りて、タマネギ栽培を大規模にやっています。今はほとんどの農家が、米は作っても、裏作を作りません。それで、大きな農業をしている人に作ってもらうと、草も生えませんし、そしてタマネギを収穫した後にはきれいに鋤(す)いて返してくれます。土地を貸していなかったら草も生えますし、手入れも大変なので、多くの農家が土地を貸しています(写真2-1-4参照)。
 最近は、タマネギの根や葉も機械で切っているそうです。収穫の直後には切れませんが、倉庫で少し乾燥させて、機械に通して切っているそうです。最近は機械化が進み、昔と比べて作業もしやすくなったと私(Bさん)は聞きました。昔は何もかもが手作業で、機械が全くありませんでした。」
 「土地を貸してタマネギを作ってくれるのは良いのですが、水田の条件が良くないと借りてはくれません。土壌が柔らかくすぐに水がたまってしまうような水田だと、植えたときや収穫時に雨が多いと、タマネギはうまく育たなかったり、収穫前に腐ってしまったりすることがあります。また、下難波の辺りは耕地整理しているので、一枚一枚の水田がきれいに整理されていますが、タマネギ栽培に使う機械も大きいので、大きなトラクターが入る水田でないといけません。私(Aさん)たちが作っている水田は土壌が柔らかいので、タマネギの生育は良くありませんでした。また、機械も入りにくく、作業もしんどかったようです。」

  イ ソラマメ

 「私(Aさん)のところでも、昭和50年(1975年)ころには、一寸ソラマメを作っていました。味が良く、おいしいので作っていたのですが、連作障害が発生するので、毎年作ることはできません。植えてから1年くらいは良くできるのですが、2、3年たつとだんだんとできなくなってしまいました。それで、ソラマメも作らなくなってしまいました。」

(4) 現在の農業

  ア 現在の柑橘栽培

 「私(Bさん)のミカン山では、今でも宮内イヨカンの栽培が続いていますが、さまざまな品種が出てきており、紅まどんなや甘平、せとかといった品種を多く作るようになりました。昔と違い、この大浦地区でも農家が減りました。かつては9割近くの家が農家でしたが今では農家はわずかです。今、柑橘を作っているのは26軒です。農業をしている人も高齢化しており、平均年齢が70歳以上になってきました。」

  イ 現在の米作り

   (ア) 農業の機械化

 「現在では米を収穫した後に乾燥させるために稲木を使う人はほとんどいなくなりました。私(Aさん)の家でも、賃金を払って、コンバインを所有している人に刈ってもらうようにしています。そうすれば、後は乾燥させて精米するだけです。今は多くの農家がそうしているのではないかと思います。米作りのための機械は高価ですし、田植えや稲刈りなどその用途にしか使わず、その時期しか使いません。大型の機械を所有している人でも1年のうち、1か月も使わないのではないでしょうか。せいぜい、1週間とか10日です。残りの期間は倉庫に置いたまま使わないことになります。」
 「現在、何もかも機械をそろえて自給用の米作りをするくらいなら、米をスーパーマーケットで買った方が安く上がるのではないかと私(Bさん)は思います。機械が高価なので、機械代が賄えません。ただ、そうは言っても機械がないとやれません。
 これから農業を本格的にやりますと言って大型の機械を導入した若い農家もいますが、ほかの農家の稲を刈ったりして、賃金をもらっています。自分のところの収穫だけでは、機械の値段の割に合わないからです。賃金をもらって、それを機械代の一部に充てているのです。」
 「この辺りでコンバインを持っている人もそれほど大きな利益にはならないようです。1年の間に使う期間は短いのですが、それでも経年劣化はしてしまいます。私(Aさん)も田植え機だけは持っています。3反(約30a)の水田がありますが、田植えは10a当たり、1時間くらいで出来ますので30aで3時間ほど使うだけです。あとは、次の田植えまで364日は使わずに、ただ倉庫に置いているだけです。そういう点では、ミカン農家の方が農機具は必要ありません。農薬をミカンの木に散布するための動噴(動力噴霧器)とホースがあれば何とかなるのではないかと思います。動噴は故障もしにくいので、買い換える必要もあまりありません。」
 「ミカン山はなかなか機械化ができないので、機械がありませんが、これからはドローンなどを利用した製品が徐々に実用化されるのではないかと私(Bさん)は思います。」

   (イ) ヘリコプターでの農薬散布

 「現在は私(Aさん)の家の水田がある辺りではヘリコプター防除を行っています。3回やってくれるので、私は水田に入らずに済んでいます。昔は白い粉剤を背負って、水田に入って散布していました。稲が成長して大きくなると足に絡まって、転げそうになっていたので、稲を持って転ばないようにしながら、散布していました。水田に入る必要がなくなり、とても楽になりました。
 ヘリコプター防除を行い始めたころは水田がある辺りはほとんど農家でしたが、最近では農家以外も多くなってきました。それで、その地区の区長さんが、『ヘリコプター防除をしますが、なるべく影響がないように朝早くしますので、網戸にしないで戸を閉めておいてください』などと了解を取るために各戸を回っていました。毎年、申込書を書いて、それを農協が取りまとめます。今でも契約書では、近隣の人とのもめ事があったときには農協やヘリコプター防除事業者が責任を持つのではなくて、農家が責任を持つという条項があります。」

(5) 人びとのくらし

  ア 小学校への通学

 「大浦地区の子どもは難波小学校へ通うのですが、距離が4km弱ありました。また、私(Aさん)が子どものころは現在の国道を通って行くのではなく、山道を通って行っていたことを憶えています。そのため通学に1時間以上掛かっていました。遊びながら行っていたので、それだけの時間が掛かりました。帰りはなおさらです。そのころは稲のわらぐろなどもあり、それを見かけるとそこで遊んでいたりしたので、家にはなかなか着きませんでした。冬の寒い日だとわらぐろの所にいると、ほんのり暖かかったことを憶えています。」
 「私(Bさん)のころは、大浦から難波小学校に通う同級生が1学年だけで15人もいました。男子は5人だったことを憶えています。現在はほとんど子どもがいません。」

  イ 農作業の手伝い

 「とにかく人力で米や麦、それから肥料などを運びました。私(Aさん)も子どものころからその手伝いをしていたのですが、荷車にはバランス良く積む必要がありました。前が重いと前に行きすぎて重たいし、反対に後ろが重いと、前が跳ね上がってしまいます。小さい子どものころには手で持つ所が上がって、足が浮いて宙づりになることもありました。
 手伝いで印象深いのはナシを栽培していたころの袋貼りです。新聞紙を切って、のりで貼って作りましたが、新聞紙のインクで真っ黒になっていたことを憶えています。のりも自分たちの家で作っていました。米は高級品ですので米ではなかったと思うので、多分小麦粉を炊いてのりを作っていたのだと思います。手伝いが終わると、『よくやってくれた。』と言って、サツマイモの飴を作ってくれたことが忘れられません。機械で薄く切ったサツマイモを炊いて、混ぜると飴になります。それを米のぬかの上に転がします。米のぬかをまぶしたサツマイモの飴やサツマイモで作ったかんころ餅が冬のおやつでした。」

  ウ 主食の変化

 「私(Aさん)が子どものころは米の飯は盆と正月だけでした。あとは麦飯がほとんどでした。小学校に持っていった弁当も本当に麦だらけの麦飯でした。私の家では兄弟も多く、叔父や叔母もいたので、自分の家の水田から収穫できる米だけでは足りませんでした。物心ついたころにはまだ麦も完全には搗(つ)けていない、黒い麦だったように思います。しばらくして、精麦が良くなり、麦と米を一緒に炊いてもあまり目立たないような麦飯になっていったことを憶えています。」
 「私(Bさん)の家では水田で米を作っていなかったので、なおさらでした。米と麦を混ぜて炊いたら、麦が上の方に集まります。学校に持っていく弁当は、やはり母もあまり麦が多く入っていると見苦しいというので、麦を少しよけて米が多いところを入れて、学校へ持っていっていました。
 麦飯を食べていたころに、『ひかり麦』という麦の中央の黒い筋を取って精麦した麦がありました。少し値段が良かったのですが、それだと目立たなくなったことを憶えています。昭和40年(1965年)ころには完全に米の飯になっていたと思います。」
 「完全に米の飯になる昭和40年ころよりも前に、米の栽培方法も進化して、米の品種改良も進み、米の反当りの収穫量は激増したので、その影響もあったのではないかと思います。肥料や農薬もかなり良くなりました。
 大浦地区は、広い土地もなく、水も不足しており、各農家当たりの水田の面積も少なかったので、みんな苦労をしてきたのではないかと思います。ナシを栽培するようになったころには少しは生活が楽にはなったのだと思いますが、それでもまだまだだったのではないかと思います。柑橘栽培を始めるようになって、ミカンの園地を造成するなどして、だんだんと面積を増やしていって少しずつ生活が良くなってきたのではないかと私(Aさん)は思います。」

写真2-1-1 現在の大浦地区から下難波への坂

写真2-1-1 現在の大浦地区から下難波への坂

松山市 令和4年11月撮影

写真2-1-2 波妻の鼻

写真2-1-2 波妻の鼻

松山市 令和4年11月撮影

写真2-1-3 大浦地区のミカン畑

写真2-1-3 大浦地区のミカン畑

松山市 令和4年11月撮影

図表2-1-1 旧北条市のタマネギとキャベツの生産量

図表2-1-1 旧北条市のタマネギとキャベツの生産量

『愛媛県市町村別統計要覧』より作成

写真2-1-4 タマネギの苗が植えられた水田

写真2-1-4 タマネギの苗が植えられた水田

松山市 令和4年12月撮影