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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 山間部の農業と人々のくらし

 旧松山(まつやま)市の山間部に当たる伊台地区、日浦地区は、旧松山市の北部から北東部に当たる。江戸時代は松山藩の領域であった。明治22年(1889年)の町村制施行を経て、昭和30年(1955年)5月に旧松山市に編入された。
 伊台地区は、江戸時代に上伊台村と下伊台村に分かれていたが、町村制施行を機に伊台(いだい)村となり、その後松山市に編入され、上伊台町、下伊台町として存続している。標高の高い所に位置する上伊台町では、朝晩の寒暖差を利用して果樹栽培が盛んに行われている。下伊台町の周辺は、松山市街地が近距離にあることから昭和40年代後半よりニュータウンが数多く建設されていった。それに伴って新しい町名が誕生している。
日浦地区は、現在の松山市青波町、大井野町、河中町、川の郷町、米野町、玉谷町、東川町、福見川町、藤野町、水口町から成る地域で、おおむね石手川ダムから上流の地域に当たる。「日浦」という地名は、もともとこの地区の中心に位置する河中町の旧名であり、江戸時代後期に起きた大干ばつのために、水にちなんだ地名である「河中」に変えられたと伝えられている。江戸時代はおおむね湯山村の村域であり、町村制施行後も湯山(ゆやま)村であった。地区の大半が山地であり、林業が主な生業であった。戦後、旧松山市の山地の多くが柑橘(かんきつ)栽培や果樹栽培を行う中、気温の低い日浦地区では栽培が行われなかった。日浦地区ではクリ、タケノコ、シイタケの林産物の栽培が盛んに行われ、昭和末期には多くの収益を上げていった。近年は林産業の衰退と人口の減少が課題になっている一方で、人の手が入らなくなりつつある山林の管理に向け、新たな対策が模索されている。
本節では、伊台地区の農業について、Aさん(昭和16年生まれ)、Bさん(昭和29年生まれ)から、日浦地区の農業と林産業について、Cさん(昭和21年生まれ)、Dさん(昭和23年生まれ)、Eさん(昭和26年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。