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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 辻町の町並みと人々のくらし

(1) 辻町商店街のにぎわい

  ア 辻町商店街で商売をする

   (ア) 商売を始める

 「私(Iさん)は高知県で生まれました。中学校を卒業後、当時旧北条市にあった倉敷紡績の工場に就職しました。その後、クリーニング店を営んでいた夫と結婚しました(図表1-1-1の㋖参照)。クリーニング店は、夫の父が始めたものです。初めは、本町商店街の裏手で営んでいましたが、やがて、現在の場所に店を開きました。クランク状のカーブ沿いに位置していて、辻町商店街の北端に当たります。店を開いた当時から、車はよく通っていました。車が普及する前から道幅が変わっておらず、当時は幅の広い道路だったと思います。倉敷紡績に勤める従業員の数は多く、寮生活をする人もいましたから、商店街はにぎわっていました。
 夫の父は、自転車で各家庭や仕事場の得意先を回って、クリーニングをする衣服を集めて回っていました。クリーニングを済ませた衣服も配達していて、集荷と配達を毎日していたのです。籠に衣類が一杯になると店に戻り、そしてまた出掛けていました。多くの親戚が集まって仕事をしていて、日中は12人が働いていたと思います。私はクリーニングの作業よりも、全員の昼食を作るなど、主に雑用全般を担当していました。店はそれほど広くはありませんが、一時期は店舗兼自宅であり、子どももそこで育てました。」
 「今の割烹(かっぽう)店は、私(Jさん)の母が始めたものです(図表1-1-2の㋗参照)。同じ所で祖父は青果店を営んでいました。一時期、ほかの人に場所を貸していましたが、商店街の別の料理店で勤めていた母が独立して、昭和38年(1963年)に店を開いたのです。昭和20年代から昭和30年代、商店街を歩く人は多かったことを憶えています。母が店を開いたころ、商店街の料理店は3、4軒程度でした。商店街に来る客数に比べると店の数が少なかったので、どの店も繁盛していたと思います。青果店や鮮魚店、精肉店も商店街にあったので、商店街で何でもそろえることができました。私は、店ができてからすぐに母と一緒に働くようになりました。宴会場があったので、市役所や農協、倉敷紡績を始めとした会社の集まりでたくさんの人が来ていました。当時、旧北条市では土木建設業が多く、周辺では土木工事も多かったのでお客さんの羽振りが良かったことを憶えています。商店街に来る人が徐々に少なくなっていったとはいえ、昭和40年代、昭和50年代もお客さんは多かったことを憶えています。
 私は、主に接客や配膳をしていました。忘新年会など、集まりの多い時期になると毎日予約が入っていました。宴会を終えて片付けをしてから翌日の会場の準備もしていたので、深夜の1時、2時まで仕事をしており、翌日も早くから料理の準備をしていました。昔はおしぼりも自分たちで洗った上で形を整え、さらに専用の機械で温めていました。大変忙しかったですが、良い時代だったと思います。」

   (イ) 商売を継ぐ

 「私(Hさん)の父は、朝鮮半島で学校の教員をしていたので、私は現在の韓国で生まれました。家族は、終戦後に北条に戻ってきました。私が生まれてすぐのことですから、朝鮮半島での記憶はありません。父は北条に戻ってくると、戦後、制度の改定に伴って資格を取り、祖父の後を継いで代書人(現在の司法書士)の仕事を始めました(図表1-1-2の㋘参照)。当時はきれいな字や、様式に沿って書ける人が少なかったので、父のところに『履歴書を書いてほしい。』とか『子どもの名前をきれいに書いてほしい。』という依頼が多く来ていたのです。
 私が東京で大学生活を送っていたころ、別の所で写真店を営んでいた父の友人が、商店街の私の家で営業するようになりました。父は趣味で写真をしていましたから、司法書士をしながらときどき写真店の仕事も手伝っていたのです。私も子どものころに、押し入れに作られた暗室に入って作業をした経験がありました。東京オリンピック前後の大変景気の良い時期でしたから、私は就職先に困ることもなく、東京で就職するつもりでした。ところが父から『戻って写真店の仕事をするように。』と言われたので、北条に戻ってきたのです。当時は、親の言うことに従って職に就くことは当たり前でした。そのころすでに結婚していた私は、父の仕事と写真店の仕事の両方を手伝っており、妻は主に写真店の仕事を手伝っていました。ところが、父の友人が写真店の仕事を辞めてしまい、妻だけではとても回らなくなったので、本格的に私が写真店を引き継いだのです。
 当時はフィルムカメラの時代ですから、お客さんが持ち込んだフィルムを現像したり焼き増ししたりすることが、主な仕事であり収入源でした。ところが、いざ写真店を引き継いでみると、店にいただけでは食べていけないことが分かりました。そこで、知り合いからの依頼もあって、鹿島で観光客相手の写真撮影の仕事をしました。ただ、その仕事をしたのは1年余りの間です。というのも、昭和40年代前半は白黒からカラーに写真が変わり始めた時期に当たり、私の店でもカラーの現像機を導入し、それを契機に商売が軌道に乗り出したのです。写真の現像は、家庭から持ち込まれる分だけではなく、例えば工事現場の写真など会社や自治体から持ち込まれる分もあります。それで食べていくだけの仕事が確保できていました。」
 「私(Kさん)は衣料品店を営んでいます(図表1-1-2の㋙参照)。この店は、祖父が始めたもので、創業は明治30年代です。そのころは呉服店を営んでいました。北条の祭りでは浴衣を着ていたので、浴衣もよく出ていたのだと思います。明治から大正にかけては、まだ着物が主流でした。大正の終わりころから徐々に既製品が出るようになり、大阪や京都から仕入れていたと思います。
 私が子どものころ、店が一番忙しかった時期は年末だったと思います。当時は年が明けるのに合わせて下着を新しくする習慣があって、年末は1年分の下着を買いに来るお客さんがたくさんいました。下着がどんどん売れていって、売れるそばから商品を入れていた紙箱を次々と裏庭に放り投げていたことを憶えています。夜中の12時を過ぎても『店を開けてくれ。』と言ってお客さんが来ていました。当時は、お節料理をはじめとする正月の準備を各家庭でしていましたから、それが終わってから店にやって来ていたのです。とにかく下着が山のように売れて、パンツが1枚150円だった時代に、1日の売り上げが約40万円あったのです。やがて、昭和40年代の後半に商店街の近くに大型スーパーができると、そのような人出はなくなっていきました。
 私は県外の大学に進学し、その後大阪で就職しました。昭和40年代後半ですが、そのころは大変に景気が良く、給料がどんどんと上昇していったのを憶えています。一般的に昭和の終わりから平成の初めのバブル景気が良かったと言われていますが、昭和40年代後半から昭和50年代初めの方がそれ以上の好景気だったように思います。当時はオフィスにいて電話1本でモノが動き、何もしなくても勝手に売れていくような時代でした。
 しばらくして、父の病気をきっかけに、兄弟の中で私が北条に戻ってきて店を継ぎました。そのころは辻町と本町で衣料品組合が作られていて、17軒の店が加入していました。組合には呉服店や洋服店、ボタンや帽子を扱う店など、さまざまな衣料品に関わる店が入っていましたが、当時はそれだけの店が商店街にあったということです。通りの様子ですが、今よりは人通りが多く、にぎやかで、車の通行量は少なかったと思います。
 父から店を引き継いで、初めの5年くらいは嫌で仕方なかったことを憶えています。大阪で仕事をして好景気を経験していましたから、衣料品を扱う商売が地味に感じて、なじめなかったのです。当時は、もう一度家を出て、別の所で就職しようかと考えていました。そんなとき、近所のおじさんが『自分の生まれた所で、また帰ってきて仕事ができるのは、それはそれでいいものだぞ。逆に戻って来られない人もいるのだから。』と声を掛けてくれたのです。それを聞いてから徐々に家業と向き合うようになりましたが、慣れるのに時間は掛かりました。」
 「私(Lさん)の父は、昭和37年(1962年)に書店を開きました。それまでは、祖父が文具店を営んでおり、文具や万年筆、眼鏡や薬も販売していました。そのときから古本を扱っていました。古本と言っても、刊行から1か月くらい経過した雑誌などのことです。
 父は教科書を販売する会社に勤めていましたが、退職するに当たり、学校に教科書を納品したり販売したりする権利を譲られました。その権利を持って本格的に書店を開業し、一般書籍も扱うようになったのです。教科書の納品ですが、旧北条市内の中学校と北条高校の教科書を扱っていました。同じような仕事をしていた書店が廃業すると、その権利を譲り受けていました。
 書店は、店頭や学校で販売をするだけでなく、外商の仕事があります。例えば、飲食店や理美容店、病院の待合に置かれている雑誌の販売と配達です。ほかにも市役所や学校、会社に営業に出向いて、そこで注文を受け付けます。要望があれば、個人宅にも行っていました。外商の売り上げは、全体の3割から4割を占めていました。今と違って、情報が少ない時代でしたから、私たちが新刊書の紹介を行っていたのです。父も私も外商に行っていました。ほかに従業員を雇って、外商の手伝いと店舗の店員を任せていましたので、多いときは10人近くが働いていたと思います。旧北条市の端から端まで営業に回っていました。父のころは、最初自転車で外商に行っていました。
 私は大学を卒業後、父と一緒に仕事をし、やがて書店を継ぎました。仕事を始めたころは昭和50年代後半で、やがて来るバブル景気に向けて景気の良い時期でした。本が良く売れましたし、何をやってもうまくいったので、仕事が楽しかったことを憶えていますし、父も楽しかったと思います。やがて、バブルがはじけて不景気になっていきますが、1990年代の前半、徐々にお客さんの数が減ってきて『なぜだろう』と思ったことがあります。そのとき、バブルがはじけたと実感したことを憶えています。」

  イ 葬祭業と戦争の時代

   (ア) 辻町の葬祭店

 「私(Gさん)の店は、父が始めたものです(図表1-1-2の㋚参照)。私の姓は、この辺りでは私の家族や親戚にしかありません。もともと現在の四国中央(しこくちゅうおう)市に住んでいて、そのルーツをたどると京都に行きつくそうです。
 葬祭業のほかに、提灯(ちょうちん)や亥の子旗を製作しています。秋祭りが盛んな地域ですから、提灯は各家庭に付けられるだけでなく、お宮に奉納したり、だんじりに付けられたりします(写真1-1-1参照)。昔は北条沖の島で暮らす人が、『夜道を照らすのに提灯が良い。』ということで買いに来ていました。亥の子旗は亥の子のときに飾られます。この辺りでは、その年に子どもが生まれた家庭を始めに回って亥の子をついていました。その際、各家庭で子どもの名前や家紋、生年月日を記した亥の子旗を飾っていたのです。昔は私のところで全て手作りしていました。現在は提灯の骨組みの紙貼りを業者に頼んでいます。」

   (イ) 戦時中の記憶

 「戦時中は倉敷紡績の工場は軍需工場になっていました。昭和20年(1945年)、そこに向けて、アメリカの戦闘機が機銃掃射を浴びせていたことを私(Gさん)は憶えています。北条の町の中は空襲に遭うことがありませんでしたが、松山市街は空襲に遭いました。その様子を見て、とても恐ろしかったことを憶えています。
 昭和20年8月6日の朝、大きな音がしたので鹿島神社のお旅所までみんなが走っていくと、海岸端のお旅所から、広島(ひろしま)市に投下された原子爆弾のきのこ雲が見えたことを憶えています。みんなが『あれは何だ。』と口々に言っていました。そのうち『あれが降って来たら大事になるから、子どもは家に帰れ。』と言われたので、再び走って家に戻ったことを憶えています。」

   (ウ) 町葬と村葬

 「ここ北条でも多くの男性が出征し、亡くなりました。『英霊』と呼ばれていた戦死者の葬儀を、町や村で行うように国から通達があり、私(Gさん)の家の葬祭店が、その葬儀の準備をするように指定を受けました。全ての物がない時代ですから、満足な葬儀を出すことができません。ところが国の命令で、木は自由に切って良いとされましたので、それで準備をしていきました。当時、現在の本町と辻町は北条町でしたので『町葬』が、周囲は村でしたので『村葬』が行われました。戦時中、出征のたびに私たち子どもは旗を振って兵隊さんを送り出していました。その人たちが亡くなるのですから、私は『こんな田舎でもこれだけ亡くなるのだから、もう戦う人はいないのではないか』と思っていました。父は『大事な子をこんなにして気の毒に、もう戦争を止めないといかん。』とよく言っていたことを憶えています。こうした町葬や村葬を、戦後もしばらくの間行っていました。昭和25年(1950年)くらいまではしていたのではないかと思います。その間、一般の人の葬儀を行う余裕はありませんでした。国からの命令ですから、準備はそれなりにできるのですが、私の家の収入はほとんどありませんでした。ですから、家は生活に困っていました。近所の人が父に『あんたは人がいいから。そんなことばかりしていたら、生活ができないぞ。』と言っていました。ですが、父は葬儀の準備は続けていました。そんな中、近所の人が魚や食べ物を持って来てくれたことを私は憶えています。
 戦地で亡くなるのですから、遺体は戻ってきません。そこで、骨つぼが入るくらいの大きさの木箱を作り、その中に戦死者の写真や、家にあったゆかりの品を入れて葬儀を行い、その木箱を遺族に渡していました。」

   (エ) 戦争後に戻ってきた人々

 「初めのうちは、家の長男は兵士として召集されることはありませんでした。そのうち、戦争が激化するに伴い、長男であろうと関係なく徴集されていったことを私(Gさん)は憶えています。
 終戦後、戦地に行っていた人が続々と北条に帰ってきました。最初に戻ってきたのは近衛(このえ)兵になっていた人たちで、皇太子殿下(現上皇陛下)の近衛兵として日光に行っていた人が早く帰ってきたのです。また、夫の兄は毛布を5枚程度もらって帰ってきたそうです。」

  ウ 繁華街としての辻町商店街

   (ア) 映画館と商店街

 「昭和20年代から昭和40年代の後半まで、ここ辻町は夜遅くまでどこの店も開いていたことを私(Jさん)は憶えています。かつて、本町に1軒、辻町に2軒映画館がありました。平日、仕事を終えた人たちが映画館に多くやって来ます。3本立て10円で映画を観られるときもありました。このため、映画館が営業を終えるのが23時になるのです。人々は、映画を見終わってから商店街で飲食をしたり、買い物をしたりします。このような1日の流れがありましたから、辻町商店街ではどこの店も夕方に閉店することなく日が変わる時間帯まで開いていたのです。各家庭に風呂場がないことが多い時代ですから、銭湯は深夜1時まで開いていたと思います。倉敷紡績の工場では女性が600人くらい働いていましたので、洋服店も開いていました。辻町商店街は夜遅くまで明かりがともって、大いににぎわっていました。そのころ、商店街の東側は田畑が広がっており、そちらは夜になると真っ暗でした。通りとすぐ裏で風景がまるで違っていたのです。
 夜遅くまで店が開いていたころは、休みも設けられていませんでした。元日と盆の時期に1日休みがあったかなかったかぐらいです。
 昭和40年代の後半になって、ようやく夜9時までには閉店するようになりました。娯楽の中心が映画からテレビに移ったことが影響していると思います。また、商店街の中で申し合わせがあったのだと思います。」
 「葬祭店である私(Gさん)の店でも、夜遅くまで店を開けていました。商店街のすぐ東側から一帯は農業地域でした。工場で働く人たちだけでなく、そちらから商店街に来る人もいました。映画を観終わった後で、線香を買い求めてきたり、提灯や亥の子旗の注文に来たりするお客さんもいたので、店を開けておく必要があったのです。
 正月にはふだんよりも多くの人が映画館にやって来ました。当時の移動手段は自転車です。すると、映画館の経営者の親戚が自転車を並べる作業をしていました。私の店の前にまで自転車が止まっていました。『おいさん、お客さんやうちの者が出入りできるくらいは開けておいてよ。』とその人によく言ったことを憶えています。」
 「当時は私(Lさん)の父が経営していた書店も、23時に映画が終わってからが稼ぎ時でした。年末年始の休みは元日だけで、2日からは初売りでした。お年玉を持った子どもが漫画雑誌や文具を買いにやって来るので、このときも稼ぎ時だったのです。」

   (イ) 大切な衣服を預かる

 「今は、遠い所に行くにもふだんと変わらない格好で出掛けるために、出掛けるたびに衣服をクリーニングに出すことは少なくなっています。かつてはふだん着ではない、しっかりとした格好で出掛けるために、帰ってきてからクリーニングに出すことが多かったのです。商店街以外は農地が多く、農家の人は、ふだんはしっかりと働いてときどき旅行に出掛けていました。日頃は作業着や野良着ですが、外出用の衣服を着て旅行をしていたのです。その衣服を大切にしていたので、着用後は必ずクリーニングに出していました。衣類は機械で洗うことが多いですが、衣類の様子によって手洗いも行います。着物のクリーニングもしていて、仕上げは私(Iさん)の仕事でした。
 その日のうちに仕上げないといけない衣類が仕上がってから仕事を終えていたので、終業時間は決まっておらず、夜遅くまで仕事をしていたことを憶えています。週に1日休業日を設けるようになっても、お客さんから依頼があれば休みの日でも対応していたので、ゆっくりしている時間はほとんどありませんでした。例年、春と秋が特に忙しい時期で、4月から6月の間は衣替えに伴ってクリーニングする衣類が増えます。秋は、祭りの時期に浴衣や法被を着るために、たくさんの依頼があります。」

  エ 平成から令和へ

   (ア) 環境の変化

 「写真店として食べていけて、忙しくしていたのは、大阪万博を契機にカラー写真が一気に普及した昭和40年代後半から、昭和50年代までだったと思います。
 現在は、デジタルカメラやプリンターが普及し、写真の印刷の注文はとても少なくなっています。フィルムの時代は、フィルムから現像する工程で料金を取ることができていましたが、デジタルは印刷をするだけですから、収入は多くありません。そもそも、印刷しないで画像を保存して見るだけになっているので、印刷も少なくなっています。印刷機は次々と機能が更新されているので、新しいものにする必要がありますが、投資額と今後の売り上げを考えたときに釣り合いが取れないのです。松山市内の大きな写真館が設備を整えていったので、太刀打ちできない面があります。
 また、工事も少なくなりましたから、企業や自治体からの仕事もありません。現在は、幼稚園や小学校からの依頼や、個人からの注文をこなしているのみです。そのため、私(Hさん)の息子は外に勤めに出ています。」
 「現在、国内での漫画の売り上げは上がっていますが、紙媒体の漫画の売り上げは落ちています。つまり、デジタル漫画が良く売れて、主流になりつつあるのです。この流れでは、店を持っている書店が関われなくなります。よって、町から書店が消えていってしまいます。県内には個人経営の書店の組合があります。かつては60軒ほどが加入していましたが、現在は30軒余りしか加入していないそうです。最近来店したお客さんから、『個人経営の書店が残っているなんて、奇跡だ。』と言われました。この商店街でも、父が創業した後で何軒か書店ができましたが、残っているのは私(Lさん)の店だけになっています。
 教科書の販売ですが、例年、新年度が始まる前が忙しい時期でした。いろいろな教科の教科書を一人分にまとめるために、アルバイトを雇っていたほどです。ところが、今は生徒数が減少したために、アルバイトを雇う必要がなくなっています。例えば、地元の北条高校に多いときで各学年300人くらい在籍していたのが、現在は全体で300人くらいとなっています。」
 「私(Kさん)の店では、地元の学校の制服や体操服を取り扱っているので、3月から6月にかけては採寸や販売で忙しくなります。ただし、サイズが合わなくなったり破れてしまったりするので、商品の在庫は1年を通して残しておく必要があります。
 昨今は、原材料費の高騰によって制服の価格も上がっています。私の店が担当している学校では、数年前に制服のデザインが変わって、それに伴って価格が高くなったばかりですから、価格を上げないようにメーカーと交渉しています。」

   (イ) 後継者

 「昔と今で大きく異なるのは、親の仕事を継がなくなったことでしょうか。私(Hさん)は、父の言い付けで写真店を継いだ形になりますが、今、同じようなことは到底できません。子どもの意向を聞かないで継がせようものなら、大騒動になります。そのため、およそ30年から50年の1代で店が終わることになります。そして、今は業種どころか、商売をすること自体を継がないので、店がなくなっていっているのです。商売を始めるときは、誰でも、その商売が成り立たなくなるときがいずれやって来るとは考えませんが、そのときがやって来るのです。
 商売をすることの大変さですが、商売は最初に商品や材料を仕入れたり設備投資をしたりしないといけないので、どうしても借金をしなければなりません。はた目には商売は魅力的に見えることがあるようですが、私は勤めに出る方が良いように見えます。」

   (ウ) コロナ禍

 「私(Jさん)の店は飲食店ですから、コロナ禍によって大きな打撃を受けています。お客さんが来ないのです。新型コロナウイルスによっていろいろなことが変わってしまいました。」
 「コロナ禍によって、外出の機会がかなり減ってしまいました。その分、私(Iさん)の店へのクリーニングの仕事も減ってしまっています。」
 「私(Kさん)が商売を継いでから、いろいろと仕入れる商品を変えてみるなど、試行錯誤を繰り返してきましたが、最終的に昔からのお客さんの好みに合わせた衣料品をそろえるようになりました。そのため現在は高齢者向けの商品が多くなっています。都市部で売れるようなメーカー品やブランド品を売るためには、最低でも5万人の人口が必要ではないかと私は思います。旧北条市の人口は25,000人を超えるくらいですから、珍しい品物を置いても購入する人がいません。現在のコロナ禍によって、特に高齢者は外出を控えていますから、客足が止まっています。」

(2) 生活の場であった商店街の思い出

  ア 日常の風景

   (ア) 通りの様子

 「通りの形は、変わっていないと思います。私(Jさん)の母は、年末になると身動きが取れないくらい人が通っていたと話していました。私は、そこまでになった様子を見たことがありません。私が小さいころは、立岩の農家の人が牛に荷車を引かせて、野菜や木炭を運んで来ていました。この近くに青果市場があったので、出荷に行っていたと思います。
 私は北条小学校に通いました。1クラス40人の4、5クラスの学年だったと思います。中学校は北温中学校(現松山市立北条北中学校)に通いました。1クラスに50人余りもいて、6クラスもあった学年でした。」
 「商店街の道路は昔からこの幅でした。昭和20年代、私(Hさん)が小学生のころは、車もほとんど通っていなかったので、店の前の道路で野球や缶蹴りなどをして遊んでいました。店の向かいは登記所があり、その前の広場が格好の遊び場になっていました。当時の商店街は、大変ににぎやかでした。多くの人が行き来している中で、子どもは遊んでいたのです。
 子どものころ、商店街の西側は湿地帯でした。中学校に通っていたころ、商店街を通る道路が工事によってかさ上げされました。このため、商店街の西側の土地が低くなり、雨が降るとそちら側に雨水が流れるようになり、水浸しになっていたことを憶えています。その後、西側もかさ上げされ改善されました。私の家の隣には北温信用組合がありました。その後、別の商店に利用されることになり、建て替えが行われましたが、地面を掘ったとき、丸太がずらっと並べて埋められていたのを見たことがあります。この辺りが湿地帯だったので、地盤を安定させるために埋められていたのだと思います。」
 「私(Gさん)の店は通りの西側にあります。昭和30年代、通りがかさ上げされたため、店に入るのに、かがまないといけなくなりました。昭和39年(1964年)に家のかさ上げを行い、それまで土間だった空間がなくなってしまいました。
 昭和40年代、通りは路線バスがよく行き交っていました。伊予鉄バスだけでなく、今治のせとうちバスも通っていました。それぞれの路線バスの上下線が通っていましたから、5分に1回は通っていたように思います。そのころ、私は提灯を作りながら子育てをしていました。子どもが走り回る年頃で、通りに飛び出す危険がありました。そのため、子どもを家の柱にひもでつないで、家の中だけは走り回れるようにしたことがあります。」
 「この商店街の辺りはかつて湿地帯でした。私(Kさん)の家では井戸がありましたが、高潮が来た時には井戸水が塩辛くなっていたことを憶えています。昔は、現在の北条バイパス辺りまではそのような地形だったと思います。」
 「現在は商店街の東側に北条バイパスが通っていますが、バイパスが通る前は、商店街を通る道路が国道196号でした。そして、商店街の中間に当たる所に、辻町と本町の境界のクランク状のカーブがあります。私(Iさん)の店は、そこに立地しています。かつて、このカーブを解消して直線状の国道を引く計画がありましたが、バイパスの建設によって立ち消えとなった経緯があります。現在は店の前に反射板やガードレールが設置されていますが、かつては道路が直線であると勘違いして、夜中に直進した車が店に突っ込む事故が何度か起きていました。私の店も6回くらい被害に遭っています。幸いなことに、店で暮らしていたころに事故に遭遇したことはありませんでしたが、夜中に『車が突っ込んだぞ。』と連絡を受けて飛んで行ったことがあります。夫は、『けががなかっただけで良かった。』と言っていましたが、事故のたびに店は大変なことになっていました。」

   (イ) 町と農村の違い

 「私(Hさん)の家は商家でしたから、学校から帰ってきて手伝いをするようなことはあまりありませんでした。今の人には想像もつかないことだと思いますが、小学生のころ、年に1日、大掃除の日というものが定められていました。この日は学校が休みになり、大人も子どもも一緒になって家の大掃除をしていたのです。ただ、商店街は店を休むことがなかったので、私はそれほど忙しくなく、よその掃除の様子を見ていると、畳を出して掃除していたことを憶えています。また、農繁期になると学校が休みになって、家の農作業を手伝うようになっていました。このときも、農家の子は忙しかったのですが、私たち商店街の子どもたちは遊んでいました。」
 「小さいころ、家の手伝いをすることはなかったと、私(Jさん)は記憶しています。当時、商店街の子どもたちの遊び場として、法善寺がありました。」

  イ 生活に溶け込んだ行事と文化

   (ア) 北条祭り

 「戦前は、本町と辻町、海側にある栄町にだんじりがありました。戦後、ほかの町内でもだんじりを持つようになっていきました。私(Gさん)の店では、祭り用の御神灯の注文がたくさんやって来ます。祭りが終わってすぐ、来年の注文が来ることがあります。」
 「私(Lさん)は祭りが好きで、父も大好きでした。祭りが正月のようなもので、祭りを起点に1年が動いているような雰囲気があります。年末年始に帰省しなくても、祭りのときは帰省する人もいるくらいです。父と一緒にだんじりをかいたときも、短い期間ですがあったと思います。そのときも店は開けていましたから、母が店番だったと思います。
 今ほどだんじりが大きくなかったころは、商店街の中をだんじりが練り歩いていました。昭和50年(1975年)ころまでは通っていたと思います。そのころは、路線バスが迂回しながら通っていました。だんじりには、半鐘や太鼓が積まれていて拍子をとりながら練り歩きます(写真1-1-2、1-1-3参照)。半鐘や太鼓の練習は、9月から始めていましたが、最近はその音がうるさいということで、10月に入らないと練習をしていません。祭りの後で、商店街に繰り出して酒を飲み、もともと浴衣を着て参加する祭りでしたので、みんな財布を持ち合わせておらず、つけ払いで飲んでいました。」
 「写真の現像と焼き増しが忙しかった昭和40年代から昭和50年代には、運動会と秋祭りのシーズンである秋が1年の中で特に忙しかったことを私(Hさん)は憶えています。私も祭りが好きでしたから、だんじりをかきに出ていました。ところが、みなさんが祭りのときに写真を撮り、さらにそれを早く見たいということで、注文が多かったのです。だから、だんじりをかいた後、家に戻って遅くまで現像と焼き増しをしていたことを憶えています。」

   (イ) 俳句

 「北条は俳句の盛んな地域でもあります。私(Gさん)の父も俳句をしていて、趣味の域を超えて句会を主催していました。父は北条出身の俳人である仙波花叟の弟子でした。花叟が結成した風早吟社を引き継いで、私の家で句会を開いていました。父の俳号は『毛人』ですが、ひげをたくさん生やしていた、その風貌から名付けられたものでした。瀬戸丸毛人として知られていた父は、地域の歴史や文化について、愛媛新聞の記者からよく取材を受けていました。昭和60年(1985年)に亡くなりましたが、風早吟社の句会はその後も引き継がれていったと聞いています。」

参考文献
・ 平凡社『愛媛県の地名 日本歴史地名大系第39巻』1980
・ 北条市『北条市誌』1981
・ 愛媛県『愛媛県史 近世上』1986
・ 北条市『飛 北条市合併記念誌』2004

図表1-1-1① 昭和30年代の本町・辻町商店街の町並み①(本町)

図表1-1-1① 昭和30年代の本町・辻町商店街の町並み①(本町)

調査協力者からの聞き取りにより作成

図表1-1-1② 昭和30年代の本町・辻町商店街の町並み②(辻町)

図表1-1-1② 昭和30年代の本町・辻町商店街の町並み②(辻町)

調査協力者からの聞き取りにより作成

写真1-1-1 北条祭りの御神灯

写真1-1-1 北条祭りの御神灯

松山市 令和4年9月撮影

写真1-1-2 現在の北条祭り

写真1-1-2 現在の北条祭り

松山市 令和4年10月撮影

写真1-1-3 七福神を飾っただんじり

写真1-1-3 七福神を飾っただんじり

松山市 令和4年10月撮影