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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 本町の町並みと人々のくらし

(1) 店を引き継ぐ、経営する

  ア 本町商店街で店を営む

 「私(Bさん)の家は、もともと酒造業を営んでいました。戦時中、米の統制があって酒造りを続けられなくなり、その後はでん粉工場を営むなどしていましたが、昭和25年(1950年)に映画館を開業しました。(図表1-1-1の㋐参照)。3本立て10円で上映していたときもあります。映画館は私の父が営業し、母はその隣で化粧品店を営んでいました。やがて、テレビが普及していくことで映画館に来るお客さんの数が減っていったため、私が高校生のころにスーパーへと業種を変えたのです。私は大学を卒業後に大阪で働いていたのですが、昭和46年(1971年)11月に本町に帰ってきて家業を手伝い、やがて父から引き継ぎました。
 ところが、今度は近くに大型スーパーが出店し、お客さんの流れがそちらに向かうようになりました。平成の初めころ、この辺りでは営業時間が長いコンビニエンスストアがなかったこともあり、私は店をコンビニエンスストアへと変えることにしました。ですから、周囲の環境の変化に応じていろいろな試みをしていたことになります。」
 「私(Cさん)の家は祖父の代から電器店を営んでいました(図表1-1-1の㋑参照)。昔はラジオ屋と呼ばれていました。テレビがまだ珍しかったころ、店の前で人が集まってプロレス放送を見ていたことを憶えています。白黒テレビの普及、白黒からカラーテレビ、さらに地上デジタル放送の開始といった波を経験しながら、今に至ります。」
 「私(Eさん)の家は、代々呉服店を営んでいました(図表1-1-1の㋒参照)。明治のころは本町商店街の北端にある三穂社から東に延びる上町の通りで商売をしていたのですが、後に本町へ移ってきました。呉服店は休業中で、私は平成の初めに設計事務所を開いて今に至ります。」
 「私(Dさん)は難波地区の生まれです。結婚して、本町商店街で暮らすようになりました。私が嫁いできたときには、種苗店を営んでいました。もともとは履物店だったそうですが、そちらは義理の叔父が継いで本町の別の場所で店を開いていました。昔は履物屋ではなく、下駄屋と呼ばれていたそうです(図表1-1-1の㋓参照)。」
 「私(Aさん)の家は、祖父の代から肥料店を営んでおり、塩も売っていました(図表1-1-1の㋔参照)。そのまま現在に至っています。昭和30年代ころまで、本町商店街のすぐ東側には田畑が広がっており、農家が多く、私の店は農家の人が主な相手でした。」
 「私(Fさん)の家は、代々旅館を営んでいます。創業は江戸時代末期の嘉永6年(1853年)で、150年以上続いています(図表1-1-1の㋕参照)。創業者の姓が太田で、現在もそれが屋号となっています。そこからどのような経緯があって私たちの家族が営業しているのか、今となっては分かりません。昔は歩き遍路が多かったので、多くのお遍路さんが宿泊していたそうです。また、鹿島にも建物があり、こちらは宴会を目的にお客さんがよく訪れています。」

  イ 昭和30年代の本町商店街

 「子どものころ、道路は舗装されておらず、雨が降ると水たまりで一杯になっていました。その道路を運送業者のトラックや路線バスが通っていたことを私(Cさん)は憶えています。道路は昭和40年(1965年)ころに舗装されました。
 昭和30年代前半、店は年末がとても忙しかったことを憶えています。『テレビが映らないから修理してほしい。』といった依頼がたくさんあったからです。大みそかの紅白歌合戦を家族みんなで見ていた時代で、『すぐに来て。』と言われていました。携帯電話もない時代で、現場で次の依頼を受けることはできません。修理を終えて店に戻ると、すでに次の依頼が来ていました。私も父の手伝いで一緒に家々を回っていました。旧菊間町の近くの浅海地区や立岩川の上流などの遠い場所からの依頼もあって、本当に忙しかったことを憶えています。当時は、平日の昼間はテレビ放送がなかった時代です。夕方になって放送が再開する前に『テストパターン』の画面が出ており、その都度、店では受信状況を確認していました。
 当時は、テレビが普及していく時期で、店の景気も良かったです。昭和39年(1964年)の東京オリンピックのころからカラーテレビが普及していきました。当時のカラーテレビはとても重たかったことを憶えています。私の代になってから、同じくらい忙しくなったときはありません。平成20年(2008年)前後の地上デジタル放送の開始に向けた、アンテナの取り換え工事が忙しかったくらいだと思います。」
 「店の中にレールが敷かれていたことを、私(Aさん)は憶えています。昔から続いている商店街では、それぞれの店の正面の間口は狭くなっています。江戸時代に、間口の幅に応じて税がかけられていたため、あまり広くないのだそうです。その分、家の敷地は奥行きが長くなっていました。敷地の奥は、倉庫の役割をしていました。肥料店であったため、袋詰めされた重たい肥料がそこに置かれていました。そのため、お客さんのいる店先まで肥料を運ぶために、レールが敷かれていたのです。
 通りの様子ですが、本町には飲食店がほとんどありませんでした。私が小さいころは、『家の外で食べるものではない。』と言われていたくらいでした。」
 「昭和30年代半ばより、7月から8月にかけて4週間くらい夜市が開かれていました。いつ終わったのか、記憶が定かではないのですが、本町の夜市の実施が終わった後も辻町や伊予北条駅前では夜市が行われていました。そのほか、古道具市なども開かれていたことを私(Bさん)は憶えています。
 昭和30年代、私の家は本町で映画館を営業していたのですが、大体19時、20時で閉めていました。辻町のように夜遅くまで営業していませんでした。本町の他店舗も、同じ時間帯には閉店していたと思います。クランク状のカーブを隔てて、北側が本町で南側が辻町になりますが、二つの町では店の業種が異なり、本町は飲食店が少なかったこともあって、夜遅くまで店が開いていなかったのだと思います。
 本町の東側には田畑が広がっていました。この辺りで商業地と言えば、本町と辻町くらいしかなく、商店街の東側に広がる農家の人たちが本町商店街のお得意様だったと思います。本町商店街は、日用雑貨を売る店が多かったように思います。辻町は飲食店が多く、娯楽を提供する場としての役割を担っていました。そうした性格の違いが強かったように記憶しています。昭和30年代ころ、商店街はお客さんであふれるほどだったかと言うと、そんなことはありません。当時はまだ、物がないことを我慢する気風が残っていたので、その影響もあるのだと思います。」

  ウ 旅館のにぎわい

 「私(Fさん)が子どものころの昭和50年(1975年)前後は、富山県からの薬売りがよく宿泊していて、数年前まで来ていたと思います。1週間から2週間宿泊して、その間に各家庭の置き薬を入れ替えていました。また、倉敷紡績の北条工場が平成25年(2013年)に閉鎖になるまでは、出張で来た人が宿泊していました。そのほかに、広島県の漁師が北条近海でサワラ漁をする期間があり、そのときに私の旅館に泊まっていました。それ以外には、お遍路さんが泊まる習慣も残っていました。
 宴会場として利用するお客さんもたくさんいました。倉敷紡績の宴会は、とてもにぎやかだったことを憶えています。さらには、麻雀をするために部屋を借りる人もいました。
 私は学校を卒業してから、県外で数年働いた後に北条に戻ってきて旅館業を継ぎました。旅館業ですから、朝昼晩とお客さんがいるので、小さいころから家の中に、常に気が抜けない雰囲気があったことを憶えています。
鹿島にある建物も、宿泊する観光客や宴会でやって来るお客さんでにぎわいます。宴会で来るお客さんは最終の船便で帰ることが多いので、当然働く者は鹿島の旅館に泊まり込むことになります。私の両親も鹿島に泊まることが多かったので、小さいころは鹿島から学校に通っていました。」

  エ 変わる商店街の景色

 「私(Bさん)が大阪から帰ってきて間もない昭和48年(1973年)に、オイルショックが起こりました。あのときは、お客さんが紙製品を求めてたくさん来店していましたが、こちらも売るものがなくて困ったことを憶えています。仕入れようにも問屋も持っていない状態だったのです。
 昭和の終わりから平成の初めのころだったと思いますが、商店街で共同売り出しを行ったことがあります。商工会で岡山県の津山(つやま)市に視察に行き、そこで行われていたものを本町商店街でもやってみようということになりました。商店街で一枚の大きな広告を製作して、お客さんを呼び込もうとしたのです。しかし、いざやってみるとなかなかうまくいきませんでした。なぜなら、年末に売り出しを行う場合、私たち食料品を扱う店は直前に広告を出すことができるのですが、呉服店などは11月末には出しておかないと年末や正月に間に合わないというのです。それぞれの業種によって事情が異なるために、その調整に苦労したことを憶えています。
 近くに大型スーパーが出店したこともあり、営業形態をコンビニエンスストアに変えていきました。ただし、本町商店街の中で行いますし、周囲の様子に合わせて、24時間営業の形態は取りませんでした。店では、かつて酒造業を営んでいた経緯もあって酒店も続けていました。酒店には配達業務がつきものです。
 昭和50年代になって、北条にも公団住宅や公営住宅が建てられそちらに配達するようになりました。5階建てくらいの建物ですが、エレベーターが付いていなかったので、そこに瓶ビールやサイダーなどを運ぶのが大変でした。当時はペットボトルがないころですから、ビール以外の飲み物も瓶でとても重たかったことを憶えています。
 現在、本町でも辻町でも、経営者の高齢化や後継者の有無が課題になっています。後継者については何とも言えないというのが正直なところです。継ぐ人もいませんが、いざ継ぐとなっても続けていくことはとても難しいと思います。」

(2) 熱気に包まれる北条祭り

  ア 北条の祭礼

 「商店街に人が多く集まっていたのは、祭りの時期だと私(Bさん)は思います。春と夏と秋に開かれていました。春は4月15日に鹿島で祭りがあります。夏は輪越しや盆に関わる祭礼があり、この地域では盆を過ぎてからも祭礼が行われています。そして一番にぎわうのは秋祭りで、例年、旧松山市の祭りの後に行われます。北条の秋祭りでは、各地区からだんじりが繰り出されます。昔は、みんなが浴衣を着て祭りに出ていました。このため、年に1回しか浴衣を着ることがない人が多かったので、祭りの前から準備のために商店街に多くの人が来ていました。現在は法被をまとっていますが、それは最近になってからのことです。」

  イ だんじり

 「戦前までは、それぞれの地区で七福神をモチーフにしただんじりが作られていたと私(Bさん)は聞いています。本町は福禄寿、辻町は布袋(ほてい)で、その人形がだんじりの中に納められていました。だんじりには、木製の車輪が付けられています。だんじりは祭りの間、町内の飾りとして置かれていたそうです。現在のだんじりは移動しますが、中に七福神の人形が納められているだんじりもあります。
 昭和30年代までは、だんじりは人が『かくもの』で、現在のようなタイヤは付いていませんでした。次第に、だんじりが大型化する一方で、かき手の人数は少なくなっていったので、タイヤが付くようになり、押して動かすようになったのです。また、戦後のだんじりは、上面に日の丸の旗がたくさん付けられるようになります。」

  ウ だんじりの準備

 「日の丸の旗作りは男子の仕事でした。私(Bさん)が子どものころは、イモやナスを輪切りにして作ったハンコに日の丸の模様を付け、紙に押していました。日の丸旗にこよりを付け、さらにそれを笹にたくさん結び付けてから、だんじりの上部を飾っていたのです。こより作りも男子の仕事でした。当時、祭りは青年団が取り仕切っていました。だんじりのかき手も男性のみでした。旗の作り手は中学生の男子でしたが、だんじりには触らせてもらえませんでした。高校生になって、やっと触ることができたくらいです。女性は参加することがなかったのです。」
 「北条の秋祭りは、男の祭りだったことを私(Aさん)は記憶しています。女性は一切関わっておらず、見るものだということになっていたのです。性別にこだわらなくなり、子どももかくようになったのは最近のことです。」
 「私(Dさん)が生まれ育った難波地区にも、だんじりはありました。しかし、だんじりが商店街に行くことはなく、だんじりは立岩川沿いにある國津比古命神社に集まっていました。北条では、難波地区のような山側の祭りは、商店街のある海側の祭りよりも1、2日早く行われるため、後で行われている海側の祭りを見に行くことができていました。」

  エ だんじりのぶつかり合い

 「昭和30年代、当時のだんじりは今よりも小さく、商店街の通りをだんじりが通ることができていました。本町と辻町の境界にあたるクランク状のカーブの付近では、北条区と辻区のだんじりが何度かぶつかり合いをしていました。すると、ぶつかっただんじりを元の位置に戻す必要があり、だんじりの後方に縄が付けられていて、それを引っ張るのが子どもの役目でした。
 だんじりのぶつかり合いは、私(Cさん)の家の前で行われていました。当時、店の正面はシャッターではなく雨戸だったので、祭りのときは雨戸にはしごを打ち付けていました。そうしないと破られてしまうからです。しかし、そのはしごを足場にして屋根の上にまで上がる人がいました。ほかでは、ガラスを割られる家もありました。」
 「当時は映画館だった私(Bさん)の家でも、『屋根に上がらせろ』と人がたくさん来ていました。たとえ家の一部が壊れても、それを修理するのはその家の責任でしていました。弁償させるといったことはなかったので、ある意味、すごく大らかな時代だったと思います。商店街の通りの交通量が増えていったため、だんじりが集まる場所は港に移動していきました。商店街の西側にある港が整備されたことによって広場が確保されたのです。そのころからだんじりが今のように大型化しました。」
 「警察官が止めるようになって、ぶつかり合いは昭和40年ころになくなっていったと私(Cさん)は思います。それまでは、止めに入ろうとした警察官が、逆に追い出されていたくらいでした。」

図表1-1-1① 昭和30年代の本町・辻町商店街の町並み①(本町)

図表1-1-1① 昭和30年代の本町・辻町商店街の町並み①(本町)

調査協力者からの聞き取りにより作成

図表1-1-1② 昭和30年代の本町・辻町商店街の町並み②(辻町) 

図表1-1-1② 昭和30年代の本町・辻町商店街の町並み②(辻町) 

調査協力者からの聞き取りにより作成