データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 旧上浦町の柑橘栽培

(1) 旧上浦町の農業の変遷

  ア 昭和20年代から昭和30年代の旧上浦町

 「小学生のころ、私(Gさん)たちが通った井口小学校は、一つの学年で2クラスありました。1クラス40人の規模です。旧上浦町内の大きな集落と言えば、北から盛、井口、甘崎、瀬戸の4つになります。そのころは、旧上浦町内に小学校は盛、井口、瀬戸と3校あり、中学校も井口と瀬戸とで2校ありました。今は島全体で大三島中学校1校となりました。
 私たちが中学生のころは、海岸沿いの良い道がなかったので、例えば盛地区の同級生は井口中学校に通うために、峠越えをしていました。昭和30年代のころで、自転車や通学バスで通っていたと思います。
 旧上浦町は、昭和39年(1964年)に誕生しました。人口は6,000人を超える規模でしたが、今は2,400人くらいとなって人口が大きく減っています。私が暮らす井口地区は平坦地が多い所でしたので、水田が開けていました。」
 「来年度(令和5年度〔2023年度〕)に、上浦小学校に入学する新1年生は4人だそうです。隔世の感があります。井口地区が旧上浦町の中心地になりますが、商売をする家はほとんどなく、水田が多かったと私(Fさん)は思います。甘崎地区や瀬戸地区の海沿いにも水田がありました。ただ、昭和40年代半ばの減反政策によって、両地区の水田はほとんどなくなりました。
 昭和30年代までは主に米や麦、イモを作っており、換金作物として除虫菊を作っていました。余裕のある家では葉タバコも栽培していました。自給自足で暮らすことができた時代は、昭和20年代の半ばまでだったと思います。」
 「今から考えると、『よく自給自足の生活を送ることができたな』と私(Gさん)は思います。今と違って、子どもが3、4人いるのが普通の時代です。一家に6、7人いる家庭も少なくなかったですし、子どもはよく食べるので大変だったと思います。食べ物も味(み)噌(そ)みたいなものをつけるだけで、本当に質素でした。」

  イ 柑橘栽培の始まり

   (ア) パイロット事業

 「昭和30年代後半、除虫菊や葉タバコでは利益が少ないということもあり、徐々にミカンが良いという声が上がり始めました。当時『7桁農業』という言葉があり、これは7桁の額の収入、つまり100万円以上の収入を得ることを目指した言葉でした。ミカン栽培によって、高収入を得ようとしたのです。
 昭和40年代から、国のパイロット事業が始まりました。昭和39年(1964年)の東京オリンピックの後だったと憶えています。パイロット事業の下、山が開墾されていきました。当時の資料では161haくらいの広さだったようです。井口の集落を取り囲む山地が、だんだんと畑に変わっていったのです。農道も合わせて整備されていきました。移動や運搬手段も、荷馬車からオート三輪、軽四輪へと変わっていったのです。私(Gさん)たちが二十歳を過ぎたころから、周りの景色が大きく変わり始めたのです。」
 「ミカンの木は戦前から大三島に植えられていましたし、細々と栽培もされていました。私(Fさん)の家では、戦前からミカンの木がありました。ただ、戦時中と戦後しばらくは果樹栽培が禁止され、麦とイモを栽培するように指令があり、さらにミカンの木を切れとも言われたのでみんな切ってしまったのです。私の父はミカンの木にこだわっていたので、終戦直後の少しの間、ミカンで収入を得ることができていました。
 パイロット事業は、当時の先田通夫町長が国に働きかけて進められました。それまでの農地では規模が小さすぎるので農地の拡大を考えたのです。当初は300町(約300ha)の農地開墾を目指していましたが、実際に盛地区から瀬戸地区まで測量して回っていく中で、開墾不可能と判断された土地が増えることによって開墾できる面積がだんだんと減っていき、最終的に170町(約170ha)程度に落ち着いていきました。さらに開墾された農地も傾斜がきつい所が多く、条件が良い土地は限られていたと思います。農地の造成には重機が使われていましたが、私はそのとき初めてブルドーザーを見たことを憶えています。
 私たちの世代が過渡期に当たるのですが、私たちより年上の世代までは、例えば農家の長男は皆、実家の農業を継ぎました。それで暮らしていくことができていたのですが、日常生活にお金が必要となるようになってきました。家電製品が必要になり、自動車などの移動手段にお金が掛かるようになってくると、『現金収入を持ちましょう』という雰囲気に変わっていきました。それで、兼業農家が増えていったのです。また、農家は柑橘農家へと変わっていきました。
 私自身、昭和40年代の前半に農機具メーカーに就職して、兼業農家となりました。そのころ結婚もしましたし、電話を付け、自動車なども購入するために現金収入が必要となりました。社会全体がそのようになっていったのです。」

   (イ) 水の確保

 「旧上浦町では、パイロット事業の一環で上浦ダムが建設されました。それで柑橘栽培用の水を補うことになっていました。ただ、実際は井戸を掘って水を求めていたように私(Gさん)は思います。ここ井口地区は井戸を掘ると水が出てくる所でした。」
 「上浦ダムの水は、パイロット事業の一環で建設され、パイロット事業に絞って使用される計画でした。しかし、完成したのは昭和50年(1975年)を過ぎたころでした。そのときにはミカンの価格が下がっていたために、ミカン栽培をやめる人が続出していました。このため、本来の役割を果たすことはなかったように私(Fさん)は思います。このため、各自が水源を確保し、そこから配管を引いてかん水していました。1,000mくらいの長さの配管があったことを憶えています。配管だけでなくモーターポンプも必要になるなど、設備投資に多くのお金が掛かりました。」

   (ウ) 兼業農家として

 「私(Gさん)は学校を卒業した後、しばらく島外に出ていましたが、二十歳くらいには大三島に戻り、郵便局に勤めながら兼業農家を営んでいました。母と妻が主に農作業をしており、私はそれを手伝っていました。農地はパイロット事業のおかげで1町5反(約1.5ha)ほどの広さを持つことができました。夏場はミカンの消毒が必要でしたから、朝5時くらいから2時間かけて消毒をして、それから出勤していました。都市部では日曜日は一家だんらんの日だったかもしれませんが、私たちにとって日曜日は地獄のようなものでした。農作業があったからで、365日休みなしの日々でした。今でこそ笑い話になりますが、当時は大変でした。」
 「私(Fさん)は、平日は営業で大島、伯方島、ここ大三島を回る日々でした。その間、家の農作業は家族がしていました。男手が必要な仕事は全部残されていて、それをこなさないといけないので、私たちは日曜日が一番しんどかったことを憶えています。
 当然、家族も日曜日に農作業をしていましたから、今では考えられないくらいの負担だったと思います。ただし、1軒2軒がそうしていたのではなく、どこの家庭も同じ状況でした。だから、我慢できたのだと思います。そして、『隣はミカンの収穫を半分終了させた。』などと、周りの農作業の進捗状況を見て、競争しながら仕事をしていたように思います。」

   (エ) 柑橘栽培の移り変わり

 「昭和40年代後半からミカンの価格の低下が目立つようになりました。特に昭和50年代前半には大暴落が起こって、ミカンを買ってくれないので山に捨てに行ったことを私(Fさん)は憶えています。それから栽培品種が中晩柑のハッサクへ移行していくのですが、それらの値が良かった時期も長く続かなかったと思います。この間、ハッサクの低温貯蔵というものが生まれ、高収入を得た人はいました。
 新品種と言い始めたのは平成10年(1998年)前後だったと思います。それまではミカンやハッサク、早生(わせ)ミカンを作って、『今年は豊作だから値が低い』『裏年だから値が良い』といったことを繰り返しながら、何とかしのいでいたと思います。」
 「ミカン価格の暴落後、試行錯誤の末にハッサクが残っていきました。もともとこの品種の発祥が広島県の因島で、環境が似通っていたことと、特に井口地区の環境に適していたのだと私(Gさん)は思います。一時期良い価格がついて、農家にも収入があったのです。通常、ハッサクが流通するのは3月初頭までです。それを低温貯蔵することによって5月の連休時期まで出荷できることを目指して品質を保つようにしたのです。貯蔵庫は各農家が購入していました。イヨカンやネーブルも栽培していました。」

  ウ これからの柑橘栽培

   (ア) 後継者問題

 「柑橘類も新品種が次々と出ていますから、今なら400万円から500万円くらいの収入は得られるのではないかと思いますが、そのためには、家族3人くらいで働くことが必要だと私(Gさん)は思います。現在、会社勤めの人は一人で同じくらい稼ぐ人もいるでしょうから、それに比べると農家の効率は良くありません。農家の一番の問題は、労働力がないことで、一人ではままなりません。近くに若者が就職できる企業がなく、役所か農協くらいしかありません。それでは若者が集まってきません。農業法人を結成して米作りをしている人はいるようですが、柑橘は聞いたことがありません。ただ、島外から来る人には、大三島は人気の移住先だそうです。」

   (イ) 獣害

 「現在、特筆すべきは動物による農作物への被害です。イノシシによる獣害は、農家にとって致命的な打撃を与えます。『獣害対策として防護柵を作るくらいならもうやめよう』と、考える人も少なくありません。イノシシによる獣害が目立ち始めたのは、平成10年(1998年)前後でしょうか。イノシシは泳げますので、島外から入って来たのです。10年くらい前に『イノシシの被害に困っている。』と私(Fさん)が大島で話すと、『おいさんとこはシシが出るのか。』と驚かれたことがあります。平成に入ってから姿を見るようになったのです。昭和のころは大三島で見たことがありませんでした。」

(2) 昭和の思い出

  ア 農家の風景

   (ア) 小学校

 「昭和20年代は終戦直後の混乱した時代です。私(Fさん)が憶えていることは、小学校の入学式にわら草履を履いていったことです。ほとんどの子どもがわら草履で、何人かがズックだったのを憶えています。高学年になってゴム草履になっていました。わら草履で走ると2日か3日で使えなくなってしまうのですが、うちには祖母がいましたから『すぐ破る。』とよく怒られていました。私たちが小学1年生のとき、高等科(現在の中学1、2年生に相当)の人が進軍ラッパを吹きながら登校している姿を見たことがあります。」

   (イ) 牛を飼う

 「昭和20年代から昭和30年代にかけて、ほとんどの家で田や畑を耕すために牛を飼っていました。ですから、家屋には牛小屋が付いていました。農耕馬もいましたが極少数で、ほとんどが牛でした。牛の歩くスピードが遅かったので、作業に使いやすかったのもあったと思います。
 同じ牛を1年間飼って、大きく育てた上でそれを博労に売ることも目的の一つでした。牛を売って、次に別の子牛を買っていました。子牛の値段は成長した牛よりも安かったので、その差額で農家はもうけていました。農家にしてみれば、当然農耕で働いてもらうために飼うのですが、1年後にどれだけの金額で買い取ってくれるのかが楽しみで、一石二鳥でした。博労にしてみれば、多くの子牛を農家に預けて育ててもらっていたのですから、彼らにも利益があったのです。博労は『獣医さん』とも呼ばれていましたが、その仕事をしている人が井口に3人くらいいました。広島県で子牛を仕入れて、牛船と呼ばれた木造の船に乗せて帰ってきていました。
 私(Gさん)たちは河原に牛を連れていき、裸牛の背に5、6人が乗ったり、役牛として飼い慣らすために牛の後ろに箱を結び付け、私たちがその箱に乗って牛に引っ張らせて遊んでいました。わらを餌として牛に食べさせていましたが、そのほかに田畑の周りの草を与えていました。その草を刈ってくるのが私たち子どもの仕事でした。
 田起こしや田植えが終わると、牛は主に荷車を引くことに使っていました。昔の洋画の『駅馬車』ではありませんが、あんな風にうまく引っ張らせていました。牛は年に1回買い換えていましたが、馬の場合は何年も続けて飼っていたように思います。」
 「野原に牛を連れて行って、草を食べさせることも子どもの仕事でした。中には、遊びに夢中になって、牛がいなくなることもありました。草を刈る、餌を与える、外で歩かせるといったことは子どもの仕事だったのです。現在は埋め立てて畑を広げているので、井口本川は小さくなりましたが、当時は川幅も広く、河川敷も広かったことを私(Fさん)は憶えています。そこに牛を連れていきましたし、野球もできる遊び場だったのです。
 また、牛の世話は男の子の仕事でしたが、女の子は、年少の子の子守をしていました。小学校の高学年にもなれば、晩御飯の支度もしていたように思います。親は遅くまで畑で働いていたからです。牛は昭和30年代後半まで飼っていました。そのころから、徐々に牛から耕うん機へと替わっていって、機械化が進んでいきました。ほぼ、軽自動車の普及と並行していたように思います。
 大きくなった牛を買った博労は、それを広島県の大規模な農家に役牛として売っていたようです。広島県の久井(くい)町(現三原(みはら)市)にある牛の市が、この辺りでは有名でした。大三島に連れてこられる子牛はそこから来ていたと思います。」

   (ウ) 助け合って生きる

 「この辺りでは『ひとたてこうろく』という習わしがありました。『地域で重大事が起こったら、みんなで協力しましょう』というものです。例えば家を建てたり、火事に遭ったり、自然災害に遭ったりしたとき、地域の総代が『明日はひとたてこうろくだぞ。』と言うと、みんな朝から地下足袋を履いて作業服を着て、集まってきていました。『あの家は大変なことになっているんだから、みんな行け』となって、集落の人が無条件で助けに行っていたのです。田植えをよその家族と協力して行うような関わり方とは異なる風習です。
 『ひとたてこうろく』は地域の不文律のようなもので、断ることはできません。助けてもらった家庭は、茶も何も出さなくて助けてもらうだけとなります。その代わり、今後集落で同様の事例が発生したら手伝うというものでした。私(Fさん)も1度だけ行ったことがあります。家が建てられるということで、菊間町から井口港まで船で運ばれてきた瓦を、家まで運びました。みんなでもっこを担いで運び、牛や車のある人はまとめて運んでいました。私が中学生のころですから、昭和30年代の初めのことです。」

  イ 生活や娯楽の変化

   (ア) 農集電話

 「私(Gさん)たちが働き始めたころ、各家庭に電話が置かれるようになりました。農村集団自動電話、一般に『農集電話』と呼ばれるものです。昭和40年(1965年)を過ぎたころでした。これは一つの電話回線を5、6軒の家庭が分け合って共有するものです。
 一つの回線しかないため、誰かが使用すると共有しているほかの家庭は電話が使えません。ところが、受話器を上げると電話を使用している人の会話が聞けてしまうのです。このため、一時ですが『秘話式』というものも置かれました。当時は、規模の大きな事業主くらいしか単独の回線を引いていませんでした。電電公社(現NTT)が電話普及のために行ったサービスで、通話料金は個々の家庭が通話分を払っていました。
 電話は交換手を仲介するため、誰が何分通話したか分かりますし、交換手を通して電話がかかってきました。逆にこちらから電話をかけたいときは、交換手に相手の番号を伝えてつないでもらうのです。このため、よく電話を使う家庭があると、なかなか回線が空かないために急用があるときには大変困りました。
 当時、交換所は郵便局にあり、郵便局員だった私は夜勤で交換手を務めることがありました。ある晩、電話が使用されているときに同じ集団の家庭から『電話を使いたい。』と言われ、『ただ今、別の家庭が使用中です。』と答えました。ところが使用中の電話が長時間にわたり、しまいには『その電話を切ってくれ。』と言われたことがあります。ですが、こちらとしては切ることができないので、大変に弱りました。いつでも電話をかけられる現在とは異なり、当時はみんな電話をかける時間帯が夜に限られていたので、電話を使うタイミングが重なっていたのです。」

   (イ) 上浦自動車練習場

 「電話の登場にも驚きましたが、それより前に驚いたのは自動車です。昭和30年代半ば、まずオート三輪が登場しました。その時分、大阪からやって来た中古のオート三輪を初めて見ました。『ガタガタガタ』と大きな音を立てながら走っていました。それを見て、とても乗りたかったことを私(Fさん)は憶えています。オート三輪の『ホープスター』が多く走っていました。現在は残っていないたくさんのメーカーが、オート三輪を生産していました。初めは棒ハンドルでしたが、いつの間にか丸ハンドルに変わっていて、びっくりして見に行ったことを憶えています。
 そのころ井口地区に自動車の教習所(上浦自動車練習場)ができました。島嶼部では大三島のみでしたので、周りの島々からも通う人がいました。広島県の生口島からも通ってくる人がいました。
 当時は、この教習所で免許取得ができていました。試験官が教習所まで出向いて来ていたのです。今と同じように、練習中は助手席に先生が座って指導してくれていました。先生と言っても、ついさっきまで草刈りをしていたような人がやっていました。
 特に農家では奥さんに自動車免許を取ってもらって、旦那さんの負担を減らそうとする意図もあって、多くの女性が免許を取得しました。教習所ができる前は松山や、中には神戸(こうべ)(兵庫県)まで行って免許を取得していたのですから、大いに助かったことを憶えています。」

   (ウ) 御神楽

 「昔は広島から『御神楽(おかぐら)』が来ていたことを私(Gさん)は憶えています。1月11日の初祈禱(とう)の日に開かれ、広島県の高田郡から演者が来ていました。その日は、女性はおめかしをして御神楽を見に来ていました。そこが出会いの場、見合いの場でもあったのです。御神楽がきっかけで一緒になった夫婦が、何組かいたと聞いたことがあります。
 御神楽は井口地区の井田八幡神社で行われ、その都度舞台を作っていました。昼はその舞台で行って、夜は農業会館内の舞台で行われていました。地区でお金を集めて、御神楽の演者を招いていました。高田郡は米所で、あちらの人にとって、農閑期の現金収入の手段でもあったのだと思います。娯楽の少ない時代でしたから、みんな集まっていました。その後、昭和30年代に入るとだんだんと来なくなっていったと思います。そのころにはテレビが普及し始めて、娯楽が増えて御神楽に人が集まらなくなっていたのです。この辺りには映画館はありませんでしたが、農業会館内に映画を上映できる設備があって、そこで映画を観ていました。」

  ウ 山との関わり

 「私(Fさん)が昔聞いた話ですが、明治の後半から昭和の初めにかけて、この辺りの山は、はげ山だったそうです。燃料とするために、住民が多くの木を伐採していたからです。これが原因となって、雨が降るたびに洪水が起こっていました。そこで国に要請して植林を行うことになりましたが、同時に私有地であっても、木の伐採には国の許可が必要となりました。そして、住民に保安林組合を結成するように指示があったそうです。
 実際の植林ですが、まず住民は山の頂上まで芝を担いで上がると、頂上には県の役人がいて、芝の重さに応じてお金を支払ってくれたそうです。そのとき、住民は『人参(にんじん)干し』と呼ばれる、ダイコンを干したものを腰にぶら下げて、それを昼食の代わりにして登ったということを聞いたことがあります。
 初めに芝を植え、次に茅(かや)を植えていきました。茅が十分に定着した頃合いで『はげ縛』とか『はげ山縛』と呼ばれるヤシャブシを植えたそうです。その木は、悪環境に強く、葉がよく茂り、その葉が落ちて土の養分になる利点があったのです。その木が定着すると、『バベ』、一般にウバメガシの名で知られる木を植えていったそうです。さらにドングリをまいていきました。植林のおかげで洪水が減っていったと聞きました。私が物心ついた時分には、山はもうはげ山ではありませんでしたが、確かにヤシャブシの木が多かったことを憶えています。」
 「私(Gさん)が小学生から中学生のころ、当時はガスが普及していませんでしたから、12月から3月までの農閑期は、山に入って木を切りに行っていました。煮炊きや風呂焚(た)きに使用する薪(まき)を確保するためで、1年間に使用する分をまとめて切りに行っていました。そこで、マツとかヤシャブシの木を切っていたのを憶えています。そして木を担いで家まで運んでいました。私の母は毎日切りに行っていましたし、私も学校が休みの日に切りに行かされていました。『ネコ車』と呼ばれた一輪車を押して山に行きました。そのとき、山で食べる弁当がおいしかったことを憶えています。おにぎりや正月の鏡餅を持って行って、餅を焼いて食べていました。一人で行くのではなく、4、5人がグループになっていました。男性、女性の区別なくみんなが山に行き、協力して作業に当たり、各家庭で薪を分け合っていました。
1年間の燃料を確保するわけですから、薪をぬらさないように、大きさをそろえて切った上で軒下に積み上げていました。しかし、積み上げていたことが、かえって火事の原因にもなっていたと思います。」


参考文献
・ 平凡社『愛媛県の地名 日本歴史地名大系第39巻』1980
・ 愛媛県『愛媛県史 近世上』1986
・ 愛媛県『愛媛県史 社会経済1 農林水産』1986
・ 大三島町『大三島町誌』1988
・ 大三島町『大三島町あゆみの写真集 ふるさと憧憬』2004
・ 上浦町『上浦町想い出の写真集 百年のアルバム』2004
・ 愛媛県『愛媛県市町要覧 令和3年度版』2022