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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 旧大三島町の柑橘栽培

(1) 柑橘畑を開く

  ア 昭和20年代から昭和30年代の風景

   (ア) 櫓こぎの農耕船

 「私(Dさん)は広島県の呉(くれ)市で生まれました。父はそのころ通信兵として香川県にいました。すぐに終戦を迎え、家族は故郷の大三島に戻りました。私の家は肥海地区にあります。旧大三島町の中心地である宮浦地区の北に明日地区があり、そこから大見地区、肥海地区となっています。肥海、大見、明日は同じ校区で、ふだんから祭りも一緒に行うなど交流がありましたが、そのほかの地域との交流はほとんどありませんでした。ただ、大見地区は水田が少なかったので、現在伯方塩業大三島工場がある台地区の土地を手に入れて『大見新田』を作っていました。当時は隣の集落に行こうにも、道が狭く整備されていない有様でした。櫓(ろ)こぎの農耕船に乗って移動する方が便利だったのです。船で自分の畑まで移動し、収穫した物を積んで帰っていたのです。
 私が中学校に入るくらいまでは、肥海の湾にも櫓こぎの船がたくさん泊まっていたことを憶えています。そのころは、夏になると沖にある藻場へ行き、竹を使って海藻を採っていました。採った藻を麦わらと一緒に堆肥として畑にまいていたのです。このため、どこの農家でも櫓こぎの船を持っていました。」
 「櫓こぎの農耕船は、昭和35年(1960年)くらいまでは残っていました。陸路で荷を持って歩くより、船に荷を乗せる方が、効率がはるかに良かったと思います。私(Eさん)の家では、伯方島に畑があり、私の父は早くからからエンジン付きの船を使っていました。収穫物を農協に出すのではなく、直接松山(まつやま)に持って行ったり、尾道(おのみち)(広島県)に持って行ったりして売っていました。その方がもうかっていたからです。ミカンは尾道、ジャガイモは三津浜に持って行っていたように思います。近くの家からも『うちのミカンを運んでほしい。』と頼まれ、父が運んでいたことを憶えています。荷の積み込みや、戻って来てからの空箱の受け取りのときは、市が立つくらい人が集まっていました。
 昭和30年代までは一見どこにでもある、のどかな農村風景が広がっていたのですが、ここは島だったので船があり海岸があり、肥料でも海で海藻を採って有機物と混ぜて堆肥にするような、陸地部とは異なる景色があったのです。」

   (イ) 農作業を教わる

 「私(Dさん)が子どものころ、土曜、日曜になると祖父から『どこそこの畑に来い。』と言われて、手伝いをさせられていました。平日でも、学校から戻ると置手紙があって畑に出ていったものです。傾斜地にある畑では、土を下に落とさないような耕し方や草削りの方法を教わりました。祖父から懇々と教わったことを憶えています。
 また、馬に犂(すき)を引かせて田を耕したり代かきをしたりすることを、小学生の時分からやっていました。このため、家には厩(うまや)があり、1頭の馬を農耕馬として飼っていました。私の祖父は昔、博労をしていました。同じく博労をしていた人が井口に住んでいて、その人は『獣医さん』と呼ばれていましたが、そこへ家で飼っていた成長した馬を連れて行き、若い馬と交換していました。ときには今治にある馬の市まで行きました。祖父が『お前の一番好きな子馬を選んで買え。』と言って、私が馬を選んだことが2、3回あります。そのときに『獣医さん』から『お前は馬を見る目がある。』と褒めてもらったことを憶えています。
 20歳代から私は、猟銃を使った狩猟をするようになりました。そのとき、猟友会の会長をしていたのが、その『獣医さん』でした。私を見て、『孫も猟をするのか、やっぱり血を引くのう。』と言っていましたから、祖父も狩猟をしていたようです。私は土木業に就職するようになって、そのころに一度狩猟を辞めました。ところが、その後しばらくしてイノシシが島に出没するようになり、周囲からの要望もあってイノシシとりの罠を設置するなど、害獣駆除に昨年(令和3年〔2021年〕)まで関わっていました。今はこちらが弱るほど、イノシシが大三島に多く生息しています。」
「私(Eさん)は子どものころから農作業を手伝っていましたが、父は三ツ鍬(ぐわ)や草削りの使い方を事細かく教えてくれました。今は一本歯の鍬(くわ)を使って草削りをしていますが、土に当てる角度に気を遣えば、効率よく草削りができて道具も長持ちします。それも全て父が教えてくれました。おかげで、私が道具を使う様子を人が見ると、感嘆の声が上がります。柑橘類は傾斜地に植えられることが多いので、雨露で肥沃な土が下に落ちてしまいます。昔は良い肥料がなかったので、放置することはもっての外でした。特に気を付けなければならず、土をかき上げるために鍬の使い方は大切だったのです。」

  イ 昭和40年代から昭和50年代の柑橘栽培

   (ア) ミカン栽培

 「私(Dさん)は、伊予農業高校で農業を学びました。卒業後、実家の農業を継ぐために大三島に戻ってきました。そのころ実家では、作物を柑橘栽培に絞っていました。一時期広島で働き、再び大三島に戻って来たころには、ミカンの価格が暴落するようになっていました。ミカンの価格が大きく落ち込んだ時期は、昭和50年代前半だったと憶えています。ミカンの暴落によって、肥海地区では柑橘栽培の主流がミカンからハッサクへと変わっていきました。
 昭和40年代の後半、私は広島の青果店で働いていたのですが、仕入れのために市場に行くと肥海地区のハッサクが並んでいたのです。『これは大三島のハッサクですね。』と私が言うと、『このハッサクは一般の家庭ではなかなか手に入らないのですよ。』と市場の人が言っていました。それくらい高価な物だったのです。ハッサクは、しばらく良い値で売れていました。
 ミカンの価格が落ち始めたころ、ほかの業種では好景気が続いていました。私は広島から戻ったとき、農協や土木業、造船業から『働きに来ないか。』と誘われたことを憶えています。その中から土木業を選んで就職しました。柑橘栽培の兼業農家になったのです。1.5haの農地に、ミカンやハッサク、甘夏柑などを育てて、栽培品種を増やしていきました。」
 「私(Eさん)は高校を卒業後、愛媛県果樹試験場岩城分場(現県東予地方局今治支局地域農業育成室しまなみ農業指導班)での勤めを経て、旧大三島町役場に就職しました。昭和40年代、島では土木業や造船業が盛んになっていましたが、農業に従事していた人は兼業先として、土木業を選ぶ人が多かったように思います。一方で、手先が器用な人は自分の腕一本で勝負できる職場として造船業を選択していました。当時は島にも職場がいくつも存在していたのですが、近年はそれとは程遠い状態にあるので、今後が心配です。
 私は、役場で農林水産や土木に関わる仕事を担当し、どちらかと言えば役場の中にいるよりも現場に赴いて、島の産業に携わる人と顔を合わせる業務に就いていました。そのため、いろいろな職種の人と関わり、その人の要望を聞く役回りを担っていました。
 父は宮内イヨカンの栽培に取り組んでいました。大三島でいち早くイヨカンを導入していたと思います。父は水の確保のために、池のある所や水の出る所を購入していっていました。父の作った柑橘はとびきり良い物で、ミカンを産業文化祭に出品すると、いつも金賞を受賞していました。」

   (イ) 水の確保

 「私(Eさん)は大三島の南岸にある野々江坂地区の生まれですが、ここは水の確保が厳しい所でした。私の父は原付にタンクを付けて、井戸の地下水でタンクを満たし、それを農地に運んでかん水していました。25aの小さな畑を徐々に広くして、さらによそから水を得てかん水を行うのですから、大変な重労働でした。島内には父の仕事ぶりを知っている人がいたので、役場に勤めていた私は周りの人に良くしてもらったと思います。私自身、島で働く人の中に積極的に入って仕事をしていたので、いろいろな人から話を聞いていました。」
 「昔の人は偉いもので、水がたまる所を選んでため池を造っています。今は池の水を『ここはかん水用、ここは消毒用』といった風に、用途に応じて利用する場所を分けています。島の台地区にある台ダムは生活用水が中心です。ですので、農家はそれぞれの努力で水の確保に努めていました。土木業で働いていた昭和50年代、私(Dさん)は台ダムの建設作業にも関わりました。作業道を始めとする道路建設から関わりました。」

(2) 現在の柑橘栽培

  ア 柑橘栽培を学ぶ

 「私(Dさん)は20歳代のころから、同じ地区の人に柑橘の栽培方法を教えてもらっていました。そのころ、教えを乞うていた人の知り合いが香川県の善通寺(ぜんつうじ)から来ていて、その人が私を善通寺に招いてくれたのです。当時、私はミカンの木のせん定を自分の畑だけではなく、よその畑でもするようになっていました。そんなときに善通寺に行ったのですが、せん定のやり方が愛媛と全然違っていたのです。善通寺のミカンの木は、徹底的にせん定していて枝がない状態でした。ところが、せん定から時間が経過した、実が付き始めた状態の木を見ると、どの実にも日光が当たるように枝が伸びていました。そのころの愛媛のミカンの木は、枝を自然に伸ばすことに重きを置いていたので、日光の当たる上に向かって枝が良く伸びていました。そうすると、収穫のときは脚立やはしごをつかって実を採るようになります。しかし、善通寺の木は、低いところに枝が伸びているので、はしごなどを使う必要がありません。現地の人は、『香川の人は愛媛の試験場に視察に行くのではなく、和歌山に勉強に行っている。』と言っていました。栽培方法が愛媛よりも進んでいたのです。
 私は善通寺に10日ほど滞在しましたが、農協の指導員とも知り合いになりました。その人は、ちょうどアメリカ留学から戻ってきたばかりでした。昭和40年代半ばはミカンブームで、アメリカにミカンをたくさん輸出していました。その人からもたくさんのことを教えてもらいました。とても勉強になったことを憶えています。
 また、50歳代のころから現在まで、年に1回の割合で県外の試験場を視察するようにしています。1泊旅行を兼ねていますが、肥海地区の農家や農協の職員が参加し、和歌山県や九州の試験場などを見て回ることを続けています。そのような取組を積み重ねていきながら、自分なりの柑橘栽培方法を見付けていったのです。
 私はレモン栽培も手掛けています。大三島の隣、広島県の生口島はレモン栽培で有名です。私は前々から生口島に出向いて、レモン畑を観察しています。また、しばしばテレビで農家の人が取材を受けることがありますが、そのとき、柑橘の木の映像に注目して『ははあ、なるほど』と思うことがあります。木の全体を見るよりも、一枝を見て実の付き方を見る方が勉強になります。枝の一つ一つを注意深く観察することが大切だと思います。日常のちょっとした情報にも注目することが大切ではないかと思っています。
 柑橘類は、木を植えた1年目に実がなることはありません。実がなるのに数年はかかります。その間は収入がありませんので、1年でも早く実を付けさせ、木を太らせることが大切であり、技術が求められるのです。」

  イ これからの柑橘栽培

   (ア) 他品種を栽培する

 「紅まどんな、甘平、はれひめ、せとかなど、今ではたくさんの柑橘の品種があります。中には採用されなかった品種もあります。現在、島嶼部では農業の担い手が少なく、多くは夫婦で栽培・収穫を行っています。単一品種の柑橘のみを植えていると、収穫のときに手が足りなくなります。例えば、1反(約10a)ごとに違う品種を栽培しておけば、収穫の時期がずれるので順番に収穫していくことができます。今は、私(Dさん)の年齢を考えて栽培面積を減らして、6反から7反(約60aから70a)の広さで柑橘を育てていますし、時期をずらしながら順番に作業ができるように品種を増やしています。応援を得て作業の人手が増えることもありますが、基本は夫婦でできる広さで柑橘を育てています。また、農地全体が見渡せるように作付けの工夫を加えてきました。」
 「農業は、季節ごとに行う作業が異なってきます。『この時期にはこれをする。』といった1年間の作業の流れをあらかじめ作り、その上で、『この計画ならこの広さの畑で作ることができる』と柑橘畑の見積もりができるのです。また、『この時期は応援が得られて人手が増える』といった働き手の見通しが立つと、栽培する柑橘の品種とそれぞれの栽培面積が決められるのです。私(Eさん)の家では、息子が私とともに柑橘栽培をしており、専業農家として後を継ぐと言っています。息子が私たちの年齢まで続けると考えて、何十年も農業を行うことを前提に農地の集約化や設備投資、土作りなどを視野に入れて作業をしています。」

   (イ) 土地に根付く

 「島外の人が移住して、または定年退職後に島に戻って、農業をする事例がいくつかあります。その事自体は良いと思いますが、その人々には『農作業は周りに迷惑を掛けながら行うもの』という意識を持ってほしいと私(Dさん)は思います。自分だけでやれると思って、結果として周りに迷惑をかけていることがあります。最近は、耕作放棄地が多くなり、荒れた農地が増えているので、作物を作ることが難しくなっています。消毒作業も大変です。そのような場所に入って来て、自分の農地だけに手を加えても上手くいかないのです。周りの、自分の農地以外の所に手を入れないと、農業を続けていくことができないことを知ってほしいと思います。つまり、周りの農家と協力して、自分たちの農地を抱える地域の自然に手を入れていく必要があるということです。
 また、最近は無農薬栽培がはやっていますが、農薬を散布しなかったために、周りにある農薬を散布した農地に迷惑を掛けてしまうことにも注意してほしいと思います。
 昔から『畑へ足を運べ。』とよく言われてきました。常に畑に行けば、自分の子どもと同じように作物を大事に思うようになります。特に仕事がないときでも見回っていれば、『あぁ、ここの手入れができていない』といったことに気付きます。私たちは、一日の中で朝に晩に見回っています。」
 「木に実ったものを採って売ったらもうかる、そのことしか頭になかったら、うまくいきません。木を植えるときから、畑の形状や土づくりを考え、植えた木を何年くらいかけて太らせるか、専業農家は根本から考えて仕事をします。しかし、よそから来た人はその意識を持っている人が少ないように思います。実ったものを収穫するだけでは、長続きしないのです。
 定年退職後に農業を始める人もいますが、『農業で食べていく』という意識が薄いので、どうしても長く持ちません。専業農家と比べて、気持ちに差が出てしまうのです。何だかんだ言っても、柑橘を作る前に木を育て、またその前に土作りから始めるのですから、周りの自然にも目を配り、その手入れから取り組んで、山の木が少々伸びたり大きくなったりしても大丈夫なように事前に手入れをする必要があります。そうした作業の繰り返しを何年も続けないといけないのです。
 私(Eさん)の父は、『朝見るミカンと晩に見るミカンが違うことがある。』と言ったことがあります。常に畑に行って見回るような姿勢がないと知識も向上しませんし、愛着も湧きません。ですから、理想を言えば島で生まれた子どもが後を継ぐことが一番良いのですが、島外から来て農業をするのであれば、定住して何年も農業に従事する強い気持ちを持って来てほしいと私は思っています。」

   (ウ) 息子とともに

「私(Eさん)の息子は、大学を卒業してからずっと農業をしています。今後は同業の仲間が少ない状況ですから、本人が技術も知識も根性も習得してもらわなければなりません。ですが、私たちが暮らす大三島の南岸一帯では、若い世代が何人か就農しています。息子のほかにも、島外から帰ってくるなど5、6人は中核農家として確実にやっていけそうです。今ならまだ、島の柑橘栽培を担ってきた人からも技術指導が受けられます。今後、インターネットを活用して自分たちで販売できる手段を確立すれば、より利益を上げて食べていけると思います。
 今、私は足を悪くしていますが、その様子を見て息子が『お父さんは農地全体の見回りはしなくても良い、自分がここをしておかないといけない場所だけ見回るだけで良い。』と言ってくれています。そして『俺がやってほしい所があったら頼むから、それはこちらの言うことを聞きなさいよ。』とも言われています。ですから、今は脇役に徹して山の木を切ったり、草を刈ったりしています。私は山の中に分け入ったり、水につかったりして作業をすることは造作もないのですが、若い世代はそれらを嫌がります。私も昔はそうでした。だから、息子があまりやらない農作業を傍らでやっています。一方で、よその農家の人から新しい方法を学ぶとき、私はすぐ忘れてしまいますが、息子はそれをしっかり覚えています。どうしても若い方が有利なのです。
 脇役に徹している私の姿勢を見て、周りの人の中には『甘やかしているのではないか。』と言う人もいますが、息子が自分の思い通りに作業をしてみて、若いうちにいろいろな経験を積ませる必要があると思っています。」