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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 大三島の観光業

(1) 大山祇神社の歴史と魅力を伝える

  ア 大三島と大山祇神社

   (ア) 御島ガイドの会

 「しまなみ海道が全線開通した平成11年(1999年)、『御島(みしま)ガイドの会』が結成され、以来20年余りにわたって続いていますが、結成当初からガイドをしていた人が高齢によって続々と引退し、現在は私(Bさん)を含め3人で続けています。『御島ガイドの会』は、大三島の観光産業を盛り立てることと、観光に来た人たちに喜んでもらうことを目的に結成されました。有料方式も検討しましたが、ボランティアガイドの形態で行うことを選択しました。
 大山祇神社の境内を中心に、周辺のガイドも行っています。個人から観光会社までいろいろと連絡があります。マスコミからの申し込みもあります。先日は全国紙の記者からの申し込みがあり、神社だけでなく島を一周して案内しました。」

   (イ) 大三島に生まれて

 「私(Bさん)は、大三島高校を卒業後、大阪で就職していましたが、昭和51年(1976年)より越智郡島部消防事務組合の職に就き、伯方島で約30年間勤務しました。当時は島嶼(しょ)部に消防事務組合がなかったので、その立ち上げ業務を一人で務めることになり、一つ一つの島を回っていきました。そのとき、それぞれの島に異なった歴史と文化があることに気付き、生まれ故郷の大三島には大山祇神社という立派な神社があることから、いつか大三島の歴史に関わる活動に携わりたいと思うようになりました。
 消防事務組合を定年退職後、『しまなみの駅御島』に勤めるようになり、そこでボランティアガイドという活動に出会ったのです。道の駅に勤務しているときは、人手が足りていないときにガイドを引き受けていました。2年前に道の駅の仕事も退職したので、それからはガイドが本業となっています。
 昭和30年代、私は宮浦中学校に通いました。当時の宮浦中学校は、現在の大三島支所(旧大三島町役場)の所にありました。そのときの同級生は約100人いたと思います。当時は明日、宮浦、台が校区の宮浦中学校のほかに、肥海、大見を校区とした鏡中学校、野々江、口総、宗方を校区とした岡山中学校が旧大三島町にありました。旧上浦町には、盛、井口を校区とした盛口中学校と、瀬戸、甘崎を校区とした瀬戸崎中学校がありました。このように大三島に5つの中学校があったのです。私たちのころが一番子どもが多かったと思います。旧大三島町の人口は、一番多いときで1万2,000人くらいでしたが、今は大三島全体で5,000人くらいだと思います。愛媛県の人口も約130万人に減少したくらいですから、本当に大三島も人が少なくなったと思います。
 昭和40年代、大三島はミカン栽培が盛んでした。旧上浦町では、国の主導で斜面地にミカン畑を造成するパイロット事業が行われていました。当時高校生だった私は、その事業でアルバイトをしたことを憶えています。
 明治のころ、大三島では海運業が盛んであったと聞いています。大三島には神社に奉納される絵馬が多く残されています。大山祇神社はもちろんですが、地区の小さな神社に奉納されているものも合わせて180点あると言われています。伯方島や大島にも絵馬は残されていますが、合計で20点くらいしかありません。昔、船に乗ってお伊勢参りをした帰りに、関西で絵馬を購入し、それを大三島の神社に奉納しているようです。そのため、明治時代の大山祇神社の門前町は栄えており、旧大三島町時代にまとめられた書籍によると、門前町には旅籠(はたご)が何軒も建てられ、豆腐店をはじめ多くの商店が建ち並んでいたことが分かります。大山祇神社のおかげで人が集まり、発展していたと考えられます。昭和50年(1975年)ころまで宗方に二つ造船所が残っていました。かつては旧上浦町にも造船所があったそうです。」

   (ウ) 農業の島

 「私(Bさん)が少年時代を過ごした昭和30年代は、ミカン栽培が盛んになる前のころで、そのころは米や除虫菊、イモ、葉タバコの栽培が盛んでした。林業も盛んで、治水の必要もあって林業組合がありました。島嶼部に林業組合があったのは大三島と弓削島だけだったと思います。キノコがたくさん採れており、マツタケも採れていました。昭和30年代は観光や海運業よりも農林業が中心だったと思います。
 宮浦地区は大山祇神社の門前町を中心に広がっています。門前町、今の参道と商店街は江戸時代に開かれたもので、『新地町』とか『新地』と呼ばれています。今と私の少年時代を比べると、この辺りの風景は大きく異なっています。大山祇神社とその周辺はあまり変わっていませんが、港の周辺は、昔は水田だらけで大三島高校(現愛媛県立今治北高等学校大三島分校)の辺りまで建物は農協がある参道の入口辺りまで入り江になっていました。
 夏、稲が生長する時期になると誘蛾(が)灯がたくさん置かれました。誘蛾灯とは、上部に電球をつけて、その下に油を入れた受け皿を設置し、明かりに引き寄せられた蛾が電球に接触し、油の所に落ちることによって虫を駆除する道具です。
 大山祇神社では、今でも7月に五穀豊穣祭という祭りを行っていますが、昔は縄を持って神社に向かい、祭りで設置された常夜灯から火をもらって縄の先に火をつけ、それを回しながら水田の周囲を歩いて回っていました。これも害虫駆除のために行っていました。さらに大山祇神社からお札をもらい、それを水田に掲げて、虫送りの神事を行っていました。現在も神社では神事を行っていますが、理由は分かりませんがお札は寺院からもらうように変わっています。このように稲作が盛んな地域であり、大山祇神社と参道以外は一面水田の風景だったのです。」

  イ 大山祇神社を訪れる人々

   (ア) 大山祇神社の祭り

 「大山祇神社の春と秋の祭りでは、地域がにぎわいます。春の祭りは、神社に祀(まつ)られている大山積の神がこの地に鎮座した日ということから、周辺から多くの人が訪れる祭りです。港から参道まで、多くの人が訪れていたことを私(Bさん)は憶えています。
 秋祭りは『産須奈祭』と呼ばれ、大三島の人が参加する内々の祭りです。大山祇神社から台地区まで、昔の衣装をまとって行列する時代祭りが行われます。古代、大山積の神は旧上浦町の瀬戸地区にて祀られていました。その地には、みたらしの井戸と呼ばれる井戸があり、祭りではその井戸の水を先頭にして行列が行われます。このため、旧大三島町、旧上浦町を問わず島の人々がみんな参加するのが秋祭りであり、島民が最も楽しみにしている祭りなのです。
 祭りでは、だんじりが繰り出されます。獅子舞も演じられ、継獅子もあります。島嶼部では大三島でしか見られません。地区ごとに舞の様式が異なっており、舞の由来がそれぞれ存在しています。例えば宮浦地区の獅子舞は、昔、一遍上人がこの地を訪れたとき、生きた動物を供え物にしていたのを見てその行いを止めさせ、代わりに獅子頭を奉納することを勧めたことが始まりであると言い伝えられています。また、野々江地区の獅子舞は松山から伝わったものを改変してできあがったものだと言われています。だんじりには木製のコロ(車輪)が付いていて、それを押して大山祇神社の境内の広場まで運びます。その後練り歩いていくようになります。たんじりの上部は布団を重ねたように見えるため、『布団だんじり』とも呼ばれています。」

   (イ) 大山祇神社と観光客

 「春祭りと秋祭りは大変にぎわいましたが、ふだんは大山祇神社を訪れる人は多くなかったと私(Bさん)は思います。
地元の人たちは、大山祇神社が古い歴史を持つ立派な神社であるという認識を昔から持っていましたが、神社をアピールして観光地化しようとする動きは少なかったと思います。
 それが、昭和40年代より観光産業が盛んになり、松山と広島の汽船会社が大三島観光を目的に宮浦港を寄港する航路を設けました。そのことで、大山祇神社を訪れる人も増えたと思います。現在は定期航路がなくなり、観光船が不定期に寄港することがあります。
 観光客の数は、しまなみ海道の橋が順番に開通していった昭和50年代の半ばからだんだんと増えていきました。どっと人が来るようになったのは、平成11年(1999年)、来島海峡大橋など3つの橋が供用を開始して、しまなみ海道が全線開通したときでした。しまなみ海道の効果はすごかったと思います。御島ガイドの会も、この全線開通がきっかけで作られました。当時は、ガイドの人数も多かったと思います。
 大三島では、昭和の末から平成の初めにかけてのバブル景気によるリゾート開発の波を受けておらず、しまなみ海道が全線開通したことをきっかけに、観光業に重きを置くようになっていったと思います。道の駅では売り上げが順調に伸びていましたが、近年のコロナ禍によって大きく落ち込んでいます。インバウンド消費(訪日外国人観光客による消費)による収益は、コロナ禍直前の平成30年(2018年)ころまでは多かったと思います。外国人も数多く大三島を訪れていました。」

  ウ 大山祇神社のボランティアガイド

   (ア) 大山祇神社を案内する

 「大山祇神社は全国に点在する大山積の神を祀る神社の総本社であり、戦いの神、海上交通の安全を守る神でもあります。現在でも定期的に海上自衛隊や海上保安庁の人々がお参りに訪れます。海上自衛隊の人々は、年に1回訪れて、そのときは竹ぼうきを持って来て参道を掃除しています。
 大山祇神社には多くの武具が奉納されており、その中の8点が国宝に指定されています。観光客の中には、大三島自体が『国宝』の島だと勘違いしている人もいます。大正末期には国宝に指定されている武具の8割が大山祇神社にあるとも言われていました。戦前と戦後では国宝指定の基準が異なっていますが、戦前の『国宝の8割』の認識が生き続けて、『大三島は国宝の島』と思われているようです。
 ガイドの仕事の内容ですが、お客さんの要望に応じた案内や説明を行っています。境内の説明のみを行ったり、宝物館の中に入って説明をしたりします。ガイドは、1日に何件も依頼をこなすときが多々あります。コロナ禍の前は、道の駅で1年間に平均1,000件以上のガイド依頼を受け付けていました。人数に直すと3,000人以上の観光客にガイドをしていたことになります。コロナ禍のために、現在は1年間で平均数十件に激減しています。ガイドの依頼は、直前の申し込みは除いて基本的に断らないようにしています。基本的に2、3人からの依頼をお願いしていますが、一人のガイド依頼も受け付けています。お客さんの中には、河野姓や越智姓、村上姓の人が少なくなく、自分のルーツを求めて観光に来ている人もいます。
 私(Bさん)はガイドを行う際、『なぜここに国宝や重要文化財が集まっているのか』という点を説明できるように意識しています。また、私がかつて消防事務組合の立ち上げに携わっていたこともあり、文化財を災害から守るための防災設備についても説明しています。具体的に消火栓設備の場所を示したり、神社専用の井戸や300tタンクを備え、放水銃を用いて消火できる体制が整えられていることを説明したりしています(写真2-3-1参照)。センサーを備えて、夜間の侵入を探知する対策も行っていることも説明しています。
 大山祇神社の長い歴史の中では、戦いの時代も経験しましたし、火災などで大切な宝が失われないように努めてきた経緯があります。何百年もの間、神社と宝を守って次代に継承するのは大変なことです。そのような歴史を観光客の人々が感じ、また学んでもらってこれからの人生に生かしてほしい、そんなことを考えながらガイドをしています。
 ガイドを始める際、先輩のガイドからは、『自分の思いを自分の言葉で伝えたら良い。』と、アドバイスをもらいました。ガイドの内容については、ガイドブックもあるので、それを基本にして自分が集めた知識を付け加えていきました。」

   (イ) 大山祇神社の魅力を次の世代に引き継ぐ

 「結成当初からガイドをしていた最後の一人が、高齢を理由に2年前に引退しました。そのとき、ガイドそのものを存続させるかどうかを話し合い、結果として現在のメンバーで続けていくことになっています。しかし、今後のことを考えると、若い世代に入ってもらうことが必要不可欠であると私(Bさん)は思います。今治市にも協力を依頼して呼び掛けをしてもらっていますが、なかなかそれに応えてくれる人が集まりません。何とか継承していかないといけないと考えています。
 大山祇神社の境内は、神社の職員を中心に清掃を行っています。私が気になっているのが、神社周辺の環境です。私は、朝と夕方の2回散歩をしていますが、そのとき神社前の駐車場にマスクが捨てられているのを見掛けました。そのマスクを拾って処分したのですが、妻から『これからはトングを携帯して散歩に出かけたら良い。』と言われました。どうしても神社周りの清掃が行き届いていないように感じています。また、神社の敷地は県有地も含め、いくつかの自治体の管理下に置かれています。観光地が汚いというのは、イメージの低下に強く影響します。それぞれの管理者が清掃に従事し、大山祇神社が今後もにぎわってほしいと思います。これだけの神社がある地域は、そんなに存在しません。今後は、大山祇神社を中心としたまちづくりが行われていけば良いと考えています。」

(2) 参道のくらし

  ア 大山祇神社とともに

   (ア) 旅館「茶梅」

 「新地と呼ばれた大山祇神社門前の参道は、生活用品を売る商店街でもありました。みんな自転車で買いに来ていて、どの店の前にも自転車止めがありました。衣料品店、生地店、呉服店や雑貨店、文房具店から小間物屋まで全部ありました。大山祇神社の参道にある商店街だったのです。
 私(Aさん)が学生のころまでは、参道も大いににぎわっていたと思います。昭和40年(1965年)前後まで、現在の大三島支所の前方は入り江でした。船でやって来た人たちは、一の鳥居から御串山の麓と入り江の間に作られた道路を通って参道に来ていました。春祭りのときは大勢の人が一の鳥居から歩いてきていたので、押されて海に落ちる人がいたくらいです。
 私の家は、明治の初期から経営していますが、当初は茶店で参拝客向けにお茶を振る舞っていました。旅館になった後も茶筒もありましたし、茶引きをする臼もありました。参拝客は手こぎ船に乗って島を訪れ、大山祇神社に参拝していました。やがて、帰りの船に乗り遅れた人を店で泊めるようになり、旅館業を始めました。『茶梅』という屋号は、かつて茶店であったことと、家紋の梅鉢紋に由来します。
 明治42年(1909年)、伊藤博文が大山祇神社を参拝したとき、宮司から『大山祇神社指定の宿』とされたそうですから、それ以前から旅館をしていたのだと思います。伊藤博文が訪れたとき、何軒かの井戸の水を調べ、うちの井戸水を使ってお茶を振る舞ったそうです。この話を、祖母から子守歌代わりによく聞かされたことを憶えています。
 大山祇神社には、信仰を目的として定期的に何度も訪れる人もいます。私が子どものころは、信仰で参拝する人が中心だったと思います。子どものころ、家に新(に)居(い)浜(はま)の別子飴(あめ)がいつもあったことを憶えています。おそらく旧新居浜市や旧別(べっ)子(し)山(やま)村から宿泊した人から手土産にもらったのだと思いますが、当時別子飴が食べられることはすごくぜいたくだったと思います。
 そのころ、参道沿いの店の裏は全部水田でした。バイパスは開通していなかったので、店の前の参道をバスが通っていました。当時は川が旅館の近くを流れていて、それも天井川でしたから、バスはその下を通っていました。私の家の角が『トンネル下バス停』と呼ばれたバス停でした。旅館の裏は水田でしたから、当時は四季折々の景色を楽しむことができました。夏はホタルが飛んでいましたし、秋に向けて稲穂が黄金色に色づいてきて、今度はそれを稲木に干して、そのような風情を1年間楽しめました。それが、バイパスが開通すると、周囲の集落から人が移り住むようになって、水田を埋め立てて家が建ち並ぶようになったので、景色は大きく変わりました。」

   (イ) 「神島まんじゅう」とともに

 「私(Cさん)のところは、参道と大山祇神社の門前で製菓店を営んでいます。大正時代の創業で、100年は経過していると思います。はじめは旧上浦町の井口地区で営んでいました。その後、大山祇神社の前で土地を求めることができたので移転したのです。昔はそのときどきに合わせて、商品を変えていました。小麦粉や砂糖が手に入らなかったころは飴屋になったり、学校給食のパンを製造していたときもあったり、農業もやってみたりと、いろいろやりながら今に至っています。現在の形態になったのは、私が和菓子作りの修業から戻ってからになります。今は『神(み)島(しま)まんじゅう』をはじめとする土産用の菓子を中心に製造・販売をしています。『神島』の名前は、大山祇神社の宮司に名付けてもらったそうです(写真2-3-2参照)。
 私は、東京の製菓学校に通った後、学校で紹介された都内の製菓店にて修業を積みました。茶席用の和菓子作りの仕事が、田舎で商売として成り立つかどうか分からなかったのでその地で仕事をすることも考えましたが、結局は20歳代半ばで大三島に戻り家業を継ぎました。実家で製造、販売していた『神島まんじゅう』が順調に売れていたこともあり、父から帰ってきて手伝うように言われたことがきっかけでもありました。そして『神島まんじゅう』を、今もぼちぼち育てながら続けています。東京では茶席用の和菓子作りの修業でしたが、菓子作りの基本は皆一緒ですので生かすことができています。
 来店する客層は時代とともに変化しています。私が大三島に戻ってきたころは、地元のお客さんも多く、大三島に里帰りした人が土産に買って帰ることが多かったと思います。その後、島の人口が減少するにつれて里帰りする人も減ってきました。やがて、しまなみ海道が整備されるにしたがって、観光客向けにシフトしていきました。今は、コロナ禍の影響で里帰りする人がほとんど見られませんし、地元の人が子どものところへ行くこともありません。極端に移動が制限された現在は、厳しい時代を迎えています。
 土産用の菓子製造と販売が中心になっていますが、大山祇神社に納める菓子や行事用の菓子も作っています。地元からの注文は、全てこなせられるようにしています。祝い事の紅白の餅作りや紅白まんじゅう作りに対応できるようにしていますし、注文があれば何でも引き受けるようにしています。昔は成人式や学校の入学式、卒業式に紅白まんじゅうを配る習慣がありました。今ではそうしたものも省かれるようになって、菓子の需要が少なくなっています。」

  イ 必死だった旅館経営

   (ア) 旅館を継ぐ

 「私(Aさん)は、夫とともに旅館を切り盛りしてきました。私が旅館の後を継いだのは昭和50年(1975年)を過ぎたころでした。先代の主人は、私の兄になります。夫は別の仕事をしていましたが、兄が夫に対して『これからは一人が営業に出て、もう一人が包丁を持てるようにしないといけない。』と言って、仕事を辞めて旅館の板場で働くように頼んでいました。さらに兄は旅館の改築を考えていて、『正月を過ぎたら予約を取るな。』と言って、大工も決めていました。ところが、その矢先に兄が病気で亡くなったのです。
 夫は料理の修業に出て、その後板長になる段取りだったのですが、兄が急に亡くなったため修業に行く間がなくなりました。そのまま私たち夫婦は旅館の経営を始めたのです。夫が旅館の仕事を始めたとき、夫の両親は『せっかくここまで続いてきた旅館だから、仕事としてするのなら良いのではないか。』と言って、理解を示してくれました。そのころ、大山祇神社に毎年参拝するお客さんから、『必ず笑えるときが来るから、頑張りなさい。』と励ましてもらったことを憶えています。
 夫も料理の本を買って勉強していましたし、いろいろな細工をイモやダイコンとかで練習していました。何より食べ歩きをたくさんしましたし、私もそれを勧めていました。それに掛かる費用については、私は何も言いませんでした。
 夫は旅館経営の一方で、PTAの会長や商工会の役員など、いろいろな役を引き受けて頑張っていました。そのころは地域でソフトボールの大会も盛んに行われていました。夫はピッチャーをしていましたので、チームの人が旅館に来て『あんたが来ないと練習にならん。』と言っていましたが、料理は作ってもらわないといけなかったので、本当に忙しくしていました。それに、当時は地域の青年部もたくさんの人がいて、にぎやかさが違っていました。県大会に出場するために松山に行って、夜はチームメイトと宴会で盛り上がっていても、朝一番の高速艇で大三島に戻っていたくらいです。昭和の末から平成の初めにかけて、夫は鉄人のように旅館で働き、地域の活動に参加していました。」

   (イ) 子育てと旅館経営

 「私(Aさん)は、お客さんに対して『必ず大山祇神社には参拝してください。』と言っています。大三島まで来て、参拝しないなんてまず考えられません。
 旅館の仕事は一日中あります。朝食を5時半から出せるようにして、お客さんを見送って、片付けや部屋の掃除をしていたら、もう夕方になります。さらに昼食のみのお客さんもいますから、働きっぱなしになります。昼食の予約があるときは、お客さんを見送った後にすぐに準備に取り掛からないといけません。
 私たち夫婦には3人の息子がいます。長男は大三島にある別の宿泊施設で板長をしており、旅館の経営は次男がやっています。三男が旅館の板長を務めています。私たちは幼子を抱えて必死に働いてきました。旅館を継いだときは、次男を背負って育てているようなころでした。それは大変で、着替える間もないくらい働いていたような感じです。3人とも外で料理の修業をさせました。子どもたちが旅館に帰って来るまで、旅館の営業は私たち夫婦と従業員でしていました。子どもたちに旅館を任せてからは、大変なときは私たちも手伝いますが、あまり口を挟まないようにしています。」

  ウ 製菓店の1日

 「観光客相手ですから、お客さんが動くまでに作り終えないといけないので、菓子作りの朝は早いです。売り切れたらその日の仕事は終わりです。私の店では食品添加物を入れていませんので、特に暑い時期はあまり日持ちがしません。その辺りを考えながら、その日の16時くらいに売り切れることを狙って作っています。私(Cさん)は朝4時に起床します。そして5時、6時になる前には仕事に取り掛かっています。作り終わりですが、昼にはめどが立っています。その後は翌日の支度に取り掛かるようになります。『神島まんじゅう』は私と息子が作っており、神社前に販売店があります。販売店の従業員がしっかり店を切り盛りしてくれているので、調子良くやらせてもらっています。
 傷むのが早いので、暑い時期は特に気を遣います。とにかく消毒を徹底します。材料は消毒できませんから、材料に触れる手数をできるだけ少なくしていきます。お客さんからすれば気付かない程度ですが、今日はうまくいった、いかなかったということを感じています。今は1日に800個くらい作ります。しかし、コロナ禍の現在は600個に抑えるときもあります。よく作るときは1,200個、盆や年末年始は5,000個作るときもあります。しまなみ海道が開通した直後、観光バスが多く来ていたときは10,000個になっていました。そのときは、『これはどうなるのか、忙しさで倒れてしまう』と思っていました。
 息子にも『神島まんじゅう』を作らせており、本人の思うようにやらせています。私は横で見ていて、ときどき助言するだけです。昔のように厳しく指導すれば良いというものでもありません。粉の練り具合だとかあんの包み具合だとか、うまくいったかいかなかったかは本人が見たら分かることです。思うようにならなかったら『うーん。』と言って悩んでいます。材料の分量は決まっていますが、練り加減などは感覚の問題なのです。そのときどきで気温も異なれば湿度も違います。それらも含めて、自分の感覚で覚えないとどうにもなりません。言っても分かるものではありません。分かるまでは自分でやって、失敗しながら覚えるものだと私は思います。」

  エ 大三島を訪れる人の移り変わり

   (ア) 春の祭り

 「春祭りは昭和20年代後半から昭和30年代にかけて大いににぎわっていました。そのころ、綿菓子を買って帰ろうものなら、すれ違う人に綿菓子が引っ付いて、半分くらいになっていました。
 小さいころには見世物小屋が建っていました。見世物小屋は、現在のお化け屋敷のようなもので、旅館の仕事を手伝っていた私(Aさん)は見に行くことはできませんでした。見世物小屋のおじさんが『後で見せてあげよう。』と言ってくれましたが、一人で入るには怖かったので、結局見ないまま大人になりました。
 春祭りの前になると、地域の子どもたちが集められ、香具師に引っかからないとかよその村の子とけんかしないとか、余計な物を買わないとか、いろいろなことが事前に取り決められていました。今考えたらおかしく思えます。」
 「春祭りは『商売の祭り』と、私(Cさん)たちは呼んでいました。飲食店がない時代でしたから、ふだん商売をしていない人も食べ物を売っていました。みんな、あんを売ったりまんじゅうを売ったり、思い思いのことをしていました。海岸の一の鳥居から大山祇神社の前までずっと露店が並んで、どの道も人があふれていました。私が小さいころはそのような様子でした。今のようにテレビゲームとかがないころでしたから、春祭りが来ることが楽しみで、待ちわびていました。
 その後、私が和菓子の修業を終えて大三島に帰ってきたときも、ちらほらと露店が並んでいましたが、それもやがてなくなっていきました。にぎやかだったころは、夜になると露店の裏で露天商の人たちが酒を飲んで騒いで、楽しく過ごしていました。私は地域の消防団に入っていましたので、夜警に出たこともあります。
 平成のころになると、にぎやかな雰囲気が徐々になくなっていきました。特にしまなみ海道の開通を機に、一気に衰退していった感じです。それまでは、店の売り上げも1年で一番売れるときだったのですが、今では普通の日曜日と同じくらいの売り上げになっています。いつでも大三島と大山祇神社に来ることができるようになったからでしょうか。大三島周辺の県外や県内の島々の人も春祭りだからと船に乗って来ていましたから、にぎやかだったころは、海岸に渡海船がびっしりと停泊していました。それでも10年くらい前までは船で来る人もいました。
 土用のお参りのときに、火をもらいに大山祇神社にお参りするなど、季節の風物詩となる光景がありましたが、それもなくなりました。御田植祭での『一人角力』は現在も行われていて、ニュースに取り上げられることもあり、それなりに観光客も来ていると思いますが、本当ににぎわっていたころと今を比べると、比較になりません。過去のにぎわいを知らなければ今でもお客さんが来ていると感じますが、昔と比べた場合、はるかに人出が少ないと思います。」

   (イ) しまなみ海道の開通

 「しまなみ海道の建設中は、本四公団の人が視察に訪れて、大山祇神社に参拝し、私(Aさん)の旅館で昼食を取っていました。全線開通直後、大型バスでお客さんがやって来ました。旅館では団体ごとに食事の部屋を分けるのですが、当時は、旅行業者が『一緒でいいです。』と言われるくらいの大人数が来て、私たちも旅館内を走り回っていました。自然に痩せていったくらいです。うちは規模が小さいので、お客さんの入れ替えを2、3回行って100人くらいに食事を出していました。宿泊客が多くて、どこの店もずっと仕事をしている状態でした。食べながらつい寝てしまうような、そんな忙しさでした。しかし、そのような忙しさは1年でぴたりと止まりました。常連客が付いてくれましたが、開通の効果は1年だったと思います。
 また、開通後は公団職員が訪れることも少なくなり、一息ついた感じでしたが、その次は客層が変わっていきました。しまなみ海道はサイクリストの聖地として知られており、サイクリングで大三島を訪れる人が増えて、団体客よりも個人客が多くなっていきました。そこへコロナ禍がやってきましたから、旅館も休まざるを得ない状況です。」
 「昔は、生活も商売も大三島内で完結していました。橋ができたことが一番大きな節目で、商圏が簡単に移るようになって、大規模なショッピングセンターに人が向かうようになり、地元の商店街が成り立たなくなったと私(Cさん)は思います。橋の開通によって観光客が押し寄せ、潤ったのは最初の1年間だけだったと思います。一方で島内の買い物客は島外のショッピングセンターに流れてしまいましたから、地元の小さな店は、だんだんとなくなっています。」

  オ これからの参道

   (ア) 新しい旅行客

 「近年は、しまなみ海道を自転車で渡って、島にやって来る外国人観光客が目立つようになりました。コロナ禍が完全に収束すれば、それらの旅行者も戻ってくると思います。レンタサイクル利用の人も一定数はいますが、ほとんどのお客さんは自前の高価な自転車でやって来ます。自転車で訪れる人が多くなって、初めのうちは私(Aさん)の旅館の玄関に自転車を入れてもらっていましたが、2、3台しか入れることができませんでした。そこで、専用の車庫を作り、専用のスタンドや工具、空気入れも用意しました。
 観光客がやって来る時期ですが、夏休みや連休のときに多くなります。かつては連休中がとても忙しく、それが終わると一段落がついていました。自転車で来る人は、季節の良い時期になると、連休後も一定数来るようになりました。宿泊客に周辺の観光ルートを紹介しますが、やっぱりしまなみ海道が一番良いと言ってくれます。」

   (イ) 今後の旅館経営

 「私(Aさん)の兄は旅館を一斉に改築することを考えていましたが、それはできない状況でしたので一棟ずつ順番に建て替えていきました。ですので、借金を返済するのに必死で、今は息子たちが大変だと思います。直すそばから別のところが壊れていきます。計画的に直す予定でしたが、そこへコロナ禍がやって来たので、今本当に苦労していると思います。次男は今治の旅館組合の理事を務めていて、電話やメールを利用してその業務もこなしています。どの旅館でも後継者がいないため、次男は結構忙しくしています。今、一番年上の孫が高校を卒業する年頃になり、『大学に進学せず、料理の専門学校に行きたい。』と言っています。今のところは『後を継ぐ。』と言ってくれているので、うれしく思っています。
 これからは建物のメンテナンスが課題になっていますが、現在に至るまで法律もだんだんと改正されてきましたから、耐震補強だけでなく消防対策でも設備投資を行わないといけません。
 現在、まちおこしや過疎化の対策として、島外から移住しようとする人に対する行政の支援が行われています。ですが、地元で商売を続けてきた人に対する補助はありません。昔から地元で商売を続けていれば、建物のメンテナンスはどうしても必要になります。子どもが商売を引き継ぐとなっても、初期投資に多額の費用が掛かることが障害になっているのです。私たちも借金をしてそれを返済している間に、子どもが育っているような感じでした。何か新しいことをしようと考えると、また借金をしないといけませんから蓄えなどできません。『何日に銀行口座からいくら落ちる』と、常に通帳とにらめっこして何十年暮らしてきました。
 島外から移住して商売を始める人の中には、しばらくすると店を閉める人もいますが、そのような転身を図ることは私たちにはできません。幸い、大三島ではそのような事例がほとんどなく、ちゃんと定住してくれる人が多いので、ありがたいと思っています。」

   (ウ) 変わらない味とは

 「これからの私(Cさん)の商売ですが、息子たちに『こうしてほしい』という考えはあまりありません。時代の変化に応じて、それに合わせてやってくれれば良いと思っています。地道に続けていけば良いのです。ここでは、奇をてらうと絶対失敗すると思います。
 地道と言っても、時代に合わせて変えないといけないところはあります。まんじゅうを始めとする品物も、外見だけでなく材料自体も変わっています。よくマスコミが取材に来て、『昔ながらの作り方ですか。』と聞かれますが、それはあり得ません。小麦粉や卵、砂糖も変化します。昔から仕入れていた会社が合併などをして形態が変われば、それまでどおりの材料は入らなくなるのです。そうなると、『ああでもないこうでもない』と試行錯誤を繰り返さないといけません。少しずつ変えてみたり、違うものを試してみたりしています。味だけはあまり変わらないように気をつけていますが、昔よりは甘さを控えているかもしれません。今の人の好みに合わせて、時代に合わせてそのようにしています。最近では、包装紙を変えました。コロナ禍の影響で、これまでの物が手に入らなくなったからです。その影響で菓子の保湿の具合が変わったので、1日で売り切れる量を変えたりしています。
 変わらないようで、ほかの店も試行錯誤を重ねていると思います。商売とはそのようなものです。だから、息子の時代になって、自分が考えて、良いと思うことをやってくれたらと思います。」

   (エ) 移住者とともに

 「田舎に移住を希望している人たちにとって、大三島は人気の高い移住先だそうです。今は移住した人が参道で店を開いています。クラフトビールやワインの製造と販売を手掛ける店、飲食店と宿泊施設を一緒にした店舗やラーメン店などが開店しています(写真2-3-3、2-3-4参照)。
 私(Cさん)は、東京に住んでいる友人にこちらで作ったビールやワインを送ることがあるのですが、友人から『お前のところは面白いな。』と言われます。友人は、都内ではちょっと田舎の方に住んでいます。大三島は本当の田舎で、だからこそ都市部から人が移住してきてクラフトビールやワインを作っていますが、東京の田舎ではこれまでの商売が一応続けられているので、新規の参入がかえって起きないのだそうです。そのような意味で『お前のところは面白い。』と言っています。
 大三島に移住した若い人たちは、地元の若者の活動に加わって行事にも参加し、コミュニケーションをとっています。積極的に参加して商工会の青年部にも入り、地元になじむ努力をしているので大変良いと思います。今、大三島はだんだんとにぎやかになってきています。幸いなことに、大三島は田舎としての魅力があるところですから、今後も移住者が増えると思います。移住してきた人が大三島に定着して、その子どもたちが大三島をふるさとにしてくれたら、私たちの店も続けていくことができると考えています。」

写真2-3-1 大山祇神社境内の放水銃

写真2-3-1 大山祇神社境内の放水銃

今治市 令和4年11月撮影

写真2-3-2 神島まんじゅう

写真2-3-2 神島まんじゅう

今治市 令和4年11月撮影

写真2-3-3 大三島で造られたワイン

写真2-3-3 大三島で造られたワイン

今治市 令和4年11月撮影

写真2-3-4 参道にある地ビール店

写真2-3-4 参道にある地ビール店

今治市 令和4年11月撮影