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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第3節 大三島の産業と人々のくらし

 大三島は芸予諸島の中心部、広島県との県境に位置し、南に大島、西に広島県の大崎上島、東に広島県の生口島に面している。面積は64.58㎢と、平成11年(1999年)に全線開通した瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)上の島の中で最大の面積を持っている。
 江戸時代、大三島は寛永12年(1635年)に成立した松山藩の領地であった。近代に入ると、明治22年(1889年)の町村制施行に伴い鏡(かがみ)村、宮浦(みやうら)村、岡山(おかやま)村、盛口(もりぐち)村、瀬戸崎(せとざき)村の5村が成立した。戦後、昭和30年(1955年)に鏡村と宮浦村が合併して大三島町が成立し、翌31年には岡山村がこれに編入された。また、昭和30年に盛口村と瀬戸崎村が合併して上浦(かみうら)村が成立し、同39年(1964年)に上浦町となった。そして、平成17年(2005年)の大合併で両町とも今治(いまばり)市となった。
 島の中央部には鷲ヶ頭山(標高436m)があり、その西麓に大山祇神社が鎮座している。古代、伊予国の一宮として位置付けられ、山の神、海の神、武の神として朝廷や武士の崇敬を集めた。特に古来より武具が数多く奉納され、敷地内の宝物館には、全国の国宝や重要文化財の指定を受けた武具の約8割が保存、展示されている。江戸時代、安永5年(1776年)より松山藩と町人の薬屋五兵衛の立ち会いの下で神社の参道(門前町)の建設が行われた。新地町と名付けられたこの町は、現在でも大山祇神社と海岸の間の参道であり、商店街として存在している。
 新地町の建設以降、参拝客を目当てに多くの店が建ち並ぶだけでなく、島の人の生活を支える町として繁栄した。戦後は参拝客だけでなく観光客も増えるようになり、しまなみ海道の全線開通後は多くの観光客が島を訪れた。
 また、大三島のほとんどは山地であり、戦後はその傾斜地を利用してミカンを始め、多くの柑(かん)橘(きつ)類が作られた。昭和40年代から昭和50年代前半にかけて、断続的にミカンの価格が暴落し、県内の柑橘農家は苦境に陥るが、大三島では昭和50年代よりミカンに代わってハッサクの産地として知られるようになる。現在でも、新品種を積極的に栽培することで柑橘栽培が続けられている。
 本節では、大山祇神社を中心とした大三島の観光業について、Aさん(昭和24年生まれ)、Bさん(昭和26年生まれ)、Cさん(昭和36年生まれ)から、旧大三島町の柑橘栽培について、Dさん(昭和20年生まれ)、Eさん(昭和25年生まれ)から、旧上浦町の柑橘栽培について、Fさん(昭和16年生まれ)、Gさん(昭和17年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。