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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 製塩業

(1) 入浜式から流下式へ

 「流下式塩田になったのは私(Cさん)が小学校の低学年ころでしたから入浜塩田の記憶は少しあるくらいです。伯方では昭和29年(1954年)に私の母方の祖父である村上和一が流化式を始めたそうです。塩田は、瀬戸浜、古江浜、北浦に合わせて41浜ありましたが、村上和一の塩田は瀬戸浜の一番浜でした。
 一つの塩田は2ha前後の広さがありました。揚浜式塩田のころは塩田が海岸より高い所にあるので、海水をくみ上げて塩田にまくために、一つの塩田で20人くらいの人が働いていたそうです。それが、入浜式になって、海水の満ち引きを利用して自動で海水を引き込みますから、一つの塩田に10人くらいで作業をしていました。それが、流下式になると、広い塩田を1人で管理します。ポンプの操作だけなので、予備の交代要員を含んで2人くらいで仕事ができるようになりました。だから、人が必要なくなりました。
 入浜式以前の塩田で働いていた浜子と呼ばれる人はかなりの力仕事です。だから給料も良かったようです。私の父方の祖父も塩田で働き、お金をためて土地を買い、農業をするようになったそうです。私の妻の父も浜子をしていたのですが、浜子時代にもらった表彰状が残っています。良い塩を作ったら、表彰をしてもらっていたそうです。それだけ、熱心に働いて濃度の高いかん水を作る必要がありました。
 流下式塩田は浜に傾斜をつけておいて、自動的に海水を引き込み、だんだんと塩の濃度をあげていきます。そして最後に、ポンプで濃度の濃くなった海水をくみ上げて、笹でできた枝条架へ掛けます。夏場だったら3回くらい、冬場だったら5回くらい、それを繰り返します。そうやって濃度の濃いかん水を作るわけです。この辺りは雨が少ないので、一年中良いかん水ができました。
 私も子どものころは塩田に海水を引き込むための入り川でよく泳いでいました。瀬戸浜の一番浜の入り川です。入り川の両側は石垣に囲まれていました。それで、所々に樋門(ひもん)を作って塩田に海水を引き込んでいたのです。流下式塩田になってからは広い塩田が静かだったことを憶えています。
 流下式塩田になって以降は、人手が必要なくなったので、塩田を所有していて元気な人は自分で作っていました。塩田の所有者の多くは塩田の近くに住んでいました。昭和40年(1965年)ころも塩田を管理する人が塩田の近くで寝起きをしていました。急に雨が降り出したらバルブを全部閉めてタンクに雨水が入らないようにしないといけません。そうしないと、塩分濃度が下がってしまい、良いかん水がとれません。梅雨時などは大変だったと思います。」

(2) にぎやかだった伯方

 「塩田のあった古江浜も昔はにぎやかだったそうです。そのころ古江に住んでいた人は古江が町で、木浦に行くことを村に行くと言っていたそうです。専売公社の社宅もありますし、合同製塩工場へ行ったり、塩田で働く人の宿舎があったりもしました。旅館もあり、小さな店も何軒かあったことを憶えています。
 昭和40年(1965年)ころは伯方島全体がにぎやかでした。映画館も伊方と木浦、北浦に3つありました。木浦の映画館は映画の終わりくらいになって寒いとストーブを焚(た)いてくれていました。映画館をやめるころには4、5人しか入ってなかったことを私(Cさん)は憶えています。一時期から比べると信じられません。私たちのころから伯方高校は1学年の定員が200人に増えました。入学試験に落ちる人が結構いたので、定員を50人増やしてくれたのです。小学校では私たちの学年は木浦だけで150人いました。有津が50人くらいで、伯方中学校になったら200人いました。現在と違い教室がたくさんありました。」

(3) 合同製塩工場に勤める

  ア 合同製塩工場での仕事

 「私(Cさん)が塩業組合に勤めていたころは、私は合同製塩工場というかん水をさらに炊いて煮詰めて塩を作る工場の電気設備の担当をしていました。私たちはこの工場を合せんと呼んでいました。かん水を煮詰めることを煎熬(せんごう)と言いますが、合同せんごうなので、合せんと呼んでいたのだと思います。上浦や宗方からも、かん水を船で伯方に運んで来ていました。
 伯方島では昭和15年(1940年)に真空式合同製塩工場ができたそうです。昔は塩田ごとに塩を炊いていたのですが、塩業組合を作って、これを1か所に集めて行うようになったのです。初めのころは石炭を燃やして暖を取り、かん水を煮詰めていたようですが、私が働き始めたころには、重油を使ったボイラーでせんごうを行っていました。そのころにはまだ、かつて使っていた石炭の山が少し残っていたことを憶えています。古江浜や瀬戸浜の塩田で作ったかん水が工場まで運ばれていました。工場は3階建てで、高い煙突があったことを憶えています。
 工場で作った塩は隣にあった専売公社に運びました。専売公社へフォークリフトで運んで納品すると、専売公社の裏に港があったので、そこから船に積み込んで方々へ運んでいました。船は帰りに石炭やいろいろな荷物を積んで帰ります。専売公社があったことも伯方島で造船業や海運業が盛んになった理由の一つではないかと思います。私の家では葉タバコの栽培を行っていたので、乾燥させたタバコの葉をここに納品していたことを憶えています。葉タバコの栽培は労力が必要でしたが、お金になっていました。
 合同製塩工場の仕事は3交代勤務で、電気の担当も3人いました。電気設備の見回りや故障の修理など保守点検をしていました。流下式塩田になってからは塩がたくさんできるようになり、それ以前の3倍から5倍くらいになったそうです。合同製塩工場で働いていたときには、夏になると工場で塩を炊くのが間に合わないくらいかん水ができたこともありました。私たちの給料が2万円くらいだったのですが、2万円の増産手当をもらったことがあります。忙しい時期でも残業はありませんでした。3交代なので時間は8時から16時まで、16時から24時まで、24時から翌朝8時までときちんと決まっていました。それを1週間ずつで交代します。仕事が終わると工場で風呂にも入って帰っていました。排水の熱が出ていますので、水もすぐに沸いて、お湯はたっぷりとありました。
 休みの日は月2回ありました。けれども8時間ずつ3交代で3人しかいませんので、休むときにはほかの2人に言って、両方の人がかぶります。本来だったら、8時で帰ることができる人が12時まで働いて、16時に来る人が12時に出てこないといけないという具合です。かぶった分は残業手当がつきましたが、3人が月に2回の休みなので、月に4回12時間働く日ができていました。休みの日は融通がつきました。
私の仕事は電気関係の保守点検でしたが、夜間は事故や故障がなかったら記録をつけるだけでした。油を差さなければいけないこともありましたが、そのくらいでした。夜間は工場全体では5人が働いていました。工場は24時間製塩を行っており、休みもほとんどありませんでした。盆や正月に工場を止める年もありましたが、そのくらいです。いったん火を落とすと、また温度を上げるのが大変だったのです。」

  イ 合同製塩工場の廃止

「塩は増産体制にはできるのですが、私(Cさん)が合同製塩工場に勤めて5年くらいたったころ、もう値段の高い塩は必要ないということになりました。外国から安い塩が入ってくるようになったからです。イオン交換樹脂膜法に変えて何とか残せないかと運動をする人もいたり、自然の塩も少しは残さなければならないと主張する人もいて、残ることができるのではないかという話も出てはいましたが、塩田や工場は廃止されることになりました。
 私が廃止の話を聞いたのは、工場が廃止される昭和46年(1971年)の2、3年前でした。そのため、私が入って以降、新しい人が入ってこなくなりました。誰かが定年退職しても再雇用でした。国の専売制で強制的な整理のため、その代わりに退職金は良かったです。失業保険もすぐに出ました。正月が明けて、24日に整理解雇が行われました。退職金は長い間勤めていた人は良い家が1軒建つくらいの金額をもらったそうです。塩田を持っている人にはその倍くらいの補償金が支払われたと聞きました。
 塩田が廃止されてからは、クルマエビなどの養殖が行われたり、かまぼこやミカンジュースの工場ができたりしました(写真2-2-2参照)。古江浜でクルマエビの養殖をしていた水産会社は親戚になるので、かなり食べさせてもらいました。現在では塩田を埋め立てて太陽光パネルが設置されている所が多くなりました。特に古江浜の塩田はもう多くの部分が太陽光パネルになりました。」

  ウ 再就職

 「合同製塩工場の後に、伯方化学という活性炭を作る会社ができることを聞いてはいましたが、私(Cさん)の家が農家だということもあり、ほかのところへ就職しました。ただ、伯方化学で電気関係の人間が必要だということで、何度も頼まれて、伯方化学へ就職しました。その後、伯方化学では7年間勤めました。伯方化学の給料は良かったです。免許を持っている人が少なく、電気関係の人員が足りなくて入社したので、年配の人とも日給で20円、30円給料が違うだけでした。
 その後、昭和51年(1976年)に越智郡島部消防事務組合が立ち上がるというので、そちらに代わりました。家が農業をしていたため、夜勤明けで寝ていても親から『少しは手伝え。』と言われるので、夜勤はしんどかったのです。公務員になったら、給料が安くても、定期的に休みがあるのがありがたかったです。おかげで、農業がやれました。ただ、消防に入ったらやっぱり夜勤がありました。現場もかなり踏みましたが、やはり火事は怖いです。この辺りは大きな建物がないので、屋内に入る火事がなかったので、まだやれました。」

  エ 伯方塩業との縁

 「合同製塩工場の跡に伯方化学ができて、主に活性炭を作っていたのですが、部屋中に黒い石炭の粉が飛んでいました。そのころに丸本執正さんが、塩田で作るおいしい塩をどうしても残したいという運動をして、その横の専売工場があった場所に、『伯方の塩』の伯方塩業を作りました(写真2-2-3参照)。丸本さんは一人で一生懸命勉強していました。私(Cさん)も隣で働いていたので、ボイラーの配線などを手伝いました。
 それで、グリーン・ツーリズムで塩作りのイベントで講演してくださいとお願いしたら、二つ返事で来てくれました。社長なので、難しいかなと思っていたのですが、かつての縁があったからだと思います。現在では伯方塩業の伯方工場では塩作りは行っていませんが、事務所はこちらにあって、袋詰めなどはしているようです。工場は大三島にあります。」

(4) 土器で塩づくり体験

 「平成21年(2009年)のしまなみ全線開通10周年記念イベントで、沖浦ビーチで『土器で塩づくり体験』を始めました。しまなみグリーン・ツーリズム推進協議会会長の西部さんに、代表になってやってくれと言われたのです。そのイベントのときだけと思っていたのですが、やめるのがもったいないので、続けてやろうということになりました。
 新型コロナウイルス感染症が流行してからは、屋外でやるため、修学旅行生が多くなりました。多いときには80人くらいの生徒が来ることもあります。土器も作って、前の人が作った土器を利用して塩作りをします。海水を煮詰めていると時間がいくらあっても足りませんので、伯方塩業の大三島工場では流下式でかん水を作っているので、そちらでかん水をもらって来ています。それで作った塩でバーベキューをします。特に小学生などはシイタケや野菜が嫌いな子でも、近くの畑で野菜の収穫体験をしたり、シイタケを原木から採取したりして、採れたての野菜を作った塩で食べたらおいしいと言って喜んでくれます。ただ、修学旅行生は時間をゆっくりとは取ってくれません。最低2時間くらいは欲しいのですが、1時間とか、長くても1時間半くらいです。そうなると、野菜の収穫なんかは、ちょっと大変です。本当は3時間くらい取ってくれて、バーベキューをして、でき上がった塩で食べてほしいと思っています。また、なかなか時間通りに来てくれないこともあります。時間に合わせて、火を起こすのですが、火がちょうど良い時分に30分遅れるという連絡が入ったりします。そうなるともう炭の火力が弱くなるので、またやり直さないといけません。炭も私たちで竹炭を作っています。婦人会が竹を切って、乾燥させて炭にするのです。また、シイタケの植菌やタケノコなども婦人会と一緒にやっています。タケノコは皮をむいて、ゆでて、乾燥機で乾燥させます。今年(令和4年〔2022年〕)は130kgくらいできました。それをメンマの原料として『餃子の王将』におろしています。
 ただ、この『土器で塩づくり体験』もメンバーが15人ほどですが、名前だけになっている人もいます。土器作りも信楽から土を購入して、成形して乾燥させて、焼いてもらうのですが、以前お願いしていた人たちが辞めてしまったりしたので、なかなかお願いすることが難しくなってきました。私(Cさん)も続けることが難しくなってきており、今は後継者を探しているところです。」

参考文献
・ 伯方町『伯方町誌』1988
・ 伯方造船株式会社『伯方造船40周年記念誌』1998
・ ふるさと倶楽部『ふるさと写真集』2007
・ 伯方造船株式会社『伯方造船50周年記念誌』2008

写真2-2-2 瀬戸浜の養殖場

写真2-2-2 瀬戸浜の養殖場

今治市 令和4年9月撮影

写真2-2-3 伯方塩業

写真2-2-3 伯方塩業

今治市 令和4年9月撮影