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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 海運業と造船業

(1) 海運業

  ア 子どものころの記憶

   (ア) 金力汽船の名前の由来

 「私(Aさん)の父は戦後、出征から帰ってから海運業を始めたのですが、一度、上関(かみのせき)(山口県)の近くを航海していたときに、時化(しけ)で船を沈めてしまったそうです。その後、再建しようとしたときに、同じような航路で航海していた二神島(松山(まつやま)市)の船主の人が、『もう高齢で後継者もいないので、延べ払いで良いのでこの船に乗らないか。』と言ってくれたのだそうです。それで、何とかお金を融通して、その船を買ったのですが、その船の名前が第二金力丸と言いました。その第二金力丸でうまくいったので、父が新造船を造り、父の弟にその船を譲ると、譲った先でも利益を出したそうです。最終的に第二金力丸は私の友人の会社に売られたのですが、そこでも成績が良かったそうです。そういうことで、縁起の良いこの金力丸の名前を取って、会社に金力汽船という名前を付けたのです。」

   (イ) 家族で船に乗る

 「私(Aさん)が子どものころは、中学生までは夏休みや冬休みはほとんど船に乗って手伝いをしていました。私だけではなく、現在、船会社を経営している人も含めて、伯方島の船主の家ではそれが当たり前でした。手伝いといっても、遊びに行くような感覚で、私も『何か良いものを買ってくれるかな』と勇んで行っていました。
 現在では子どもは船に乗せていません。伯方島に寄港したときにちょっと休みを取って家族を船に呼んでということくらいはしているのでしょうが、船に乗せて航海するということはほとんどありません。私の子どものころも船員手帳はありませんし、貨物船ですので法律的には乗せられないのでしょうが、黙認されていたということではないかと思います。
 私が子どものころ、私の父は350tの機帆船で石炭を運んでいました。九州北部で石炭を積んで、大阪の火力発電所まで運ぶことが主でした。若松(福岡県北九州(きたきゅうしゅう)市)から運ぶと大体30時間くらいかかっていたと思います。伯方が若松と大阪のちょうど中間で、どちらも大体130海里(約240km)ほどです。船の速度が8ノット(約14.8㎞/h)くらいなのでそのくらいかかります。若松以外にも唐津(からつ)(佐賀県)や臼ノ浦(長崎県佐世保(させぼ)市)まで積み出しに行っていました。
 船には、全部で7、8人の船員がおり、父が船主船長でした。最初は母も乗っていました。もともと父は次男でしたのでエンジンを扱う機関長の免許を持っていたのですが、結婚してから母が勉強して船長の免許を取って、母は実際にはまま炊き(食事の準備)をしていて、父が母の免許を使って船長をしていたのです。私が物心ついたころに父が甲板部の免許を取って母は船を下りました。
 当時は腕があって仕事ができても、仕事を休み、講習を受けて勉強して免許を取るという資金的、時間的な余裕がない人が結構いたのではないかと思います。船員を養成する学校で勉強していないと非常に難しい問題もあって、資格を取るのが難しかったのです。また、一杯船主で家族で船を運航しているという家も多かったので、女性がエンジンの免許を取って船に乗るということもよくありました。私の母もやったこともない仕事の資格試験を受けるために、完全に丸暗記をして試験を受けたと言っていました。」

   (ウ) 船での楽しみ

 「家族で船に乗っていた私(Aさん)が子どものころ、大阪で上陸してステーキを食べさせてもらったことを憶えています。知らないおじさんに連れて行ってもらったので、オペレーターの代理店の人か何かだったのでしょう。九州では、銭湯のことを憶えています。船ではあまり風呂を沸かさないので、乗組員に何回か連れて行ってもらいました。炭鉱があるので、そこで働く人のための大浴場がありました。唐津の方で何日か荷待ちしているときには、嬉野温泉に連れて行ってもらったことを憶えています。」

  イ 船に乗る

   (ア) 高校を出て船に乗る

 「私(Aさん)は高校を出てから船に乗ったのですが、最初の船は黒油(重油など)を輸送するタンカーでした。その船は499tの鋼船で1,000kℓ積むことのできる船の走りでした。昭和40年(1965年)ころに佐川造船で造られたのですが、減トン工事に多くの時間がかかりました。私も造船所に行って、ペンキ塗りをさせられたことを憶えています。この船には8人から9人乗っていました。
 船の大きさを表す数字に総トン数というものがありますが、総トン数によって必要な免許が違ったり、港の出入りが制限されたりします。その区切りが、199tだったり、499tだったり、749tだったりします。そのために減トン工事なども必要になるわけです。造船会社もなるべく総トン数を499tなどの区切りで抑えて、その上で荷物をどれだけ積めるかというところが技術になってきます。
 私は昭和42年(1967年)の1月から船に乗り始めました。高校3年生の1月です。叔父が『今どうしてるのか。』と聞いてきたので、『もうすぐ卒業です。』と言うと、『もう学校には行かず、早く来てくれ。忙しいんだ。』と言うので、『まだ支度ができていない。』と言うと、『服も全部買ってやる。』ということになって、そのころは2隻あったのですが、叔父が船長をしている船に乗ることになりました。だから、卒業式には出ていません。同級生も驚いた様子もなかったので、ほかにも同じような生徒がいたのではないでしょうか。
私より一つ上の世代の海運会社を経営している人たちも、同じように高校を出てすぐに船に乗って、飯炊きや油差しをしたそうです。卒業証書は父が取りに行ってくれました。卒業式にはやはり出たかったですし、その後に友達と単車で佐田岬の方に遊びに行く計画をしていたので、それが残念でした。
 船では主にエンジンの仕事をしました。ほかにもデッキの仕事も手伝いますし、ペンキを塗ったり、ロープの修理をしたりということをやっていました。自分の家の船ですから、言われたら何でもやらないといけませんでした。」

   (イ) 若い船長

 「17歳で船に乗って、しばらく働いた後に20歳で乙種一等航海士の免許を取得しました。私(Aさん)は誕生日が遅いので、ほかの人には免許が届いたのに届いておらず、おかしいと思っていたら、誕生日の日に届きました。今でいう4級海技士という資格です。試験を受けるためには3年の乗船履歴が必要でした。
 免許を取るとすぐに総トン数が999tクラスの2,000㎘積みのタンカーの船長になりました。999tの船だと現在では船員は8人ですが、当時は11人でした。当時の船員法では船長以外に船員を6人以上乗せないといけないという定めがあったのです。それで賄いの人を入れて、11人でぎりぎりでした。
 若くして船長になったので、船員をまとめるのは難しかったです。父に恩義を感じている人もいて積極的に協力してくれる人もいましたが、くせのある人もいました。酒を飲んで暴れるような人もいました。
 その中でもやはり意気投合してくれる人もいました。最終的に私の片腕になったのは、後に機関長になった人でした。私の一つ下の学年だったのですが、船でも短い期間でしたが機関長としてよく働いてくれましたし、最終的には船から上がって管理の仕事でもよく働いてくれました。
 また、子どものころから夏休みなどの長期休みになると、家族で船の中で生活しており、着桟(荷役等のため船を桟橋につけること)のときなどはもうずっとブリッジで父の仕事を見ています。中学生や小学校の高学年になったら、ときには父の指示で舵を切ったりして、クォーターマスター(操舵手)の経験もありました。それで、操船自体には違和感はありませんでした。
 ただ、天気図を読むことに自信がなかったので、日本海に出て、海が時化たときなどはかなり不安になりました。今ならインターネットで調べることができるのかもしれませんが、当時はラジオを聞きながら、風の方向や気圧を記入して、自分で天気図を作ります。天気図そのものは分るのですが、実際に航行していてこれからもっと風が強くなるのかどうなのか自信が持てなかったのです。だから、年配のボースン(甲板長)やチョッサー(主席一等航海士)に『どうだろうか。出港しても大丈夫だろうか。』と相談しながら船を出していました。船では北は稚内(わっかない)(北海道)から南は沖縄まで行った経験があります。」

   (ウ) 日本海での怖い思い

 「やはり日本海に行くと全然波が違います。それも北海道に行ったらもっと違っていました。津軽海峡から小樽(おたる)、留萌(るもい)(いずれも北海道)、稚内と海流が流れています。それに対して、強い北西風が吹いたら、三角波で船が海の上に浮いておらず、潜水艦のようになります。それでも私(Aさん)が乗っていた船はタンカーなので、沈むことはないと自分に言い聞かせながら、航行していました。
 しかし、奥尻島(北海道)に避難していたときに、5,000tくらいの石炭専用船がハッチカバーを波に取られて沈んだと聞いたときには肝が冷えました。ずっとタンカーの船長をやってきましたが、貨物船の船長は無理だと思いました。貨物船が波でハッチカバーを取られたという話はよく聞きます。そのような話を聞くと怖いなと思います。タンカーはハッチを閉めるということが絶対にないので、感覚が違います。冬の北海道の海に沈むと10分も持たないのではないでしょうか。瀬戸内海は本当に良い海です。
 太平洋も波が高いときもありますが、東京から瀬戸内海までは避難する所がたくさんあります。日本海は避難できる所が少ないのも大変な理由です。下関(しものせき)(山口県)を出ると、もうそれこそ能登半島の猿山岬(石川県輪島(わじま)市)を越えないとなかなか避難する所がありません。手前にも舞鶴湾(京都府)などがないこともないので、能登半島を越えられないと思ったら、舞鶴に避難するほかありません。能登半島を越えたら、富山湾(富山県)に避難するか、佐渡(さど)(新潟県)に避難するかです。船長判断で避難するのですが、オペレーターはこちらが無理だと思っていても、『避難せずに走れ。』と言ってきます。
 ブリッジよりも高い波が来るわけですが、意外と慣れるものです。ときには3ノット(約5.5km/h)くらいでしか進めなくても、『あそこまで行けば楽になる』と自分に言い聞かせながら、走ります。ただ、怖い思いもしました。24歳か25歳のころでしたが、荒れた日本海を航行していて、もう少しで猿山岬を越えて回り込めれば楽になると思っていると、エンジンの排気弁が火を噴いたので、『これはいかん』と思い、一生懸命に沖に向かって走りエンジンを止め、排気弁を交換しました。機関長と一緒に修理をしたのですが、チョッサーが『陸まであと何マイル。』、『あと何マイル。』と何度も言うので焦りながら作業をしました。そのときは、高校を出てもともと機関の仕事をしていたので機関長と一緒に作業できたので良かったとつくづく思いました。」

   (エ) 上陸の楽しみ

 「私(Aさん)は若い船長でしたから、給料のほとんどを小遣いに使うことができたので、上陸するとみんなを連れて飲みに行くこともよくありました。父から『いい加減にせよ。』と言われたこともあります。機関の仕事をしていると爪に油がたまりますが、米を研いだらきれいになります。船に乗り始めたころは、エンジンの仕事も飯炊きもしていましたが、上陸の前の晩は米を一生懸命に研いで準備をしたものです。
 当時は、夏場だったら月に1、2回着岸して港で一晩停泊していました。一方で、冬場は繁忙期なので一晩停泊するということはめったにありませんでした。私の船はタンカーでしたので、電力会社に重油を納めていました。今は夏の方が電気を使うのでしょうが、そのころは冬の暖房用の電力需要が大きかったのです。重油は出光興産が主な取引先だったので、徳山(とくやま)(山口県)や姫路(ひめじ)(兵庫県)、千葉の製油所で重油を積み込んで、関西電力や中部電力の発電所に運ぶことが多くありました。西条(さいじょう)市の火力発電所の燃料が重油なので、四国電力にもよく運んでいました。
 現在では荷待ちの間に上陸したり、港で一晩ゆっくりしたりできるということはあまりありません。入港したらすぐに荷を積んだり、降ろしたりして夕方に出港するという感じです。昼に荷役が終わって、次の積み地に夕方になって入港するという場合に、夕方に入港して朝まで待機したり、日曜には荷役をしないので、日曜に入港したら休んだりということもたまにはありますが、ゆっくり休めることはほとんどありません。オペレーターがうまく配船しています。一度船に乗ったらずっと船の上にいることがほとんどです。
 ただ航海しているときは3交代で休んでいます。どちらかと言えば、例えば京浜で積んで北海道で降ろして、北海道で積んで日本海にというような長い航海の方が楽ではないかと思います。毎日荷役があるような場合だと大変です。3交代ですから、4時間当直したあとは8時間休めます。また、私が船に乗っている時代と違って、現在では北海道に行っても、冷暖房がきちんとしています。私たちのころも冷暖房はありましたが、粗末なものでいつも壊れているという感じでした。今はもう完全に個室で、エアコンがあって、テレビがあって、冷蔵庫があります。娯楽室もあって、そこには大きなテレビや冷蔵庫があって、マッサージチェアなどもあります。
 私が子どものころに乗った機帆船は船長、機関長、一等航海士くらいにしか個室はありませんでした。船主船長の船なので、船長室は広いですが、機関長、一等航海士の部屋は小さい部屋でした。ほかの乗組員は2段ベッドで、起きたら食事をとるテーブルがあるくらいでした。」

   (オ) 船舶管理の仕事に

 「私(Aさん)は24歳のときに結婚しました。子どもも生まれて、長男が3歳ぐらいのときだったと思うのですが、出航のときに泣いて離れなくなってしまいました。それを見て、いつまでも船には乗っていられないのではないかと思うようになりました。父からもそろそろ船から上がれと言われていたのですが、人手が足りないときには船に乗り込むこともあったため、完全に船から上がって船舶管理の仕事に回ったのが、船に乗り始めて13年くらいしてのことでした。」

  ウ 会社の拡大

   (ア) 船を増やす

 「会社もだんだんと船を大きくして増やしていきました。999tの次には1,600tの船で3,000kℓ積むことのできるタンカーを昭和49年(1974年)に造りました。最終的には内航船は5,000tクラスの船が3隻と749t級のガス船3隻で息子の代に引き継ぐことができました。息子たちの代になってからは外航船も運行しています。現在、私(Aさん)は経営には関わっていませんが、外航船も順調のようです。
 外航船は今治造船や岩城造船でも造ったのですが、韓国でもコンテナ船を造りました。コンテナで1,800個積みの4万tくらいの大きさの船です。現代重工の蔚山(ウルサン)造船所で造りました。蔚山には伯方島から西条くらいまでの奥行きがある湾があるのですが、その湾に造船所がずっと奥まで続いていました。一番手前の小さな造船所で当社のコンテナ船を作っているのですが、だんだん向こうに行くとさらに大きな船を造っていました。一番先はかすんで見えないくらいで、湾全体が現代重工の造船所という感じだったことを憶えています。
 現在では、2か月のインターバルで、60日働いて、20日くらい休みというような勤務体系で、船員は事務所の人間も含めると日本人が100人くらいです。外航船が5隻ありますから、外国人も同じぐらいの人数だと思います。ほとんどフィリピン人で、ミャンマー人もいます。韓国で造った船が韓国の管理会社ですので、船長や機関長が韓国人で、あとはミャンマー人です。」

   (イ) 苦しかった時期

「これまで会社を経営してきてバブルがはじけたころが苦しい時期でした。運ぶ荷物がないのです。返船(定期用船の契約打ち切り)があり、用船が切れて大変でした。私(Aさん)もその時期には仕方なく船を手放さざるを得なかったこともあります。リーマンショックのときもそうでしたが、やはり複数隻の船を所有しているところから、契約が打ち切られます。一杯船主は一度切ったら縁が切れてしまうのでどうしてもそうなるのです。船を増やさなければならないというところもありますが、そのような問題もありました。
今年(令和4年〔2022年〕)のロシアのウクライナ侵攻の影響もあり、これからは重油の取引が大きく動くのではないかと思います。天然ガスの値段が高騰して、原子力発電も抑えられており、重油や石炭が見直されています。一方で、原子力発電もまた残さないといけないという流れになっています。原子力発電にシフトしていくと重油は打撃を受けます。原子力発電をどんどん推進していた時代には重油を運搬する内航のタンカーはもう必要ないと言われる時代もありました。ところが、東日本大震災の影響で原子力発電が停止したときには、東京電力から、『社長が現地に行って安全を確かめてきたので、東北の発電所にとにかく重油を積んで行ってほしい』と頭を下げて頼んできたことがありました。そのときは従業員の中にはあちらに行くのが怖いということで、辞めた人もいました。これから、天然ガスの輸入が難しくなってきて、重油を使うのか、原子力を使うのかで荷動きは大分変わってくるのではないかと思います。
新型コロナウイルス感染症の影響もありました。修繕ドックに入るために中国に行くと、PCR検査で陽性が何人か出ているので、すぐに出航せよと言われて仕方なくフィリピンのドックに行ったことがありました。ところがフィリピンのドックで検査をすると全員が陰性だったのです。中国では全員陰性だとしても、陽性者が出ないわけがないということで、陽性が出たことにしたのではないかと思います。
 世界の物流が毎年大きく拡大している一方で、日本の内航の物流は縮小しています。世界の物流はまだまだ拡大していくでしょうが、日本ではそのようにはいかないので、船員不足でちょうど良いくらいではないかと言う人もいます。大きな借金をして船を造っても、不景気になると一気に用船料が下がったりすることもあります。これからますます一杯船主が生き残るのは難しくなってくるのではないかと思います。」

  エ 海運業の今後

   (ア) 船員不足

 「昔は家族が船に乗っているから、船に乗るということが当たり前だった時代もありましたが、今はあまりないみたいです。私(Aさん)たちの20歳くらい上の世代の人は、頭が良くて勉強ができる人が船に乗せられたそうです。先輩の船主さんは『私の兄はとても頭が良かった。だから、学校に行かせてもらえず、高校を出たらすぐに船に乗せられた。私は勉強できなかったから大学に行かせてもらった。』と言っていました。
当社では、現在船員は何とかぎりぎりの人数でやっています。ただ、どんどん船を増やしているので、地元の乗組員が増えていません。内航船乗りとはスタイルが違うので、なじむのには時間がかかりますが、九州や高知の漁船の船員を誘って教育をしてきました。そのため、長崎県天草(あまくさ)市の辺りや高知県土佐清水(とさしみず)市の出身者が多くなっています。『ふるさとで生活して働ける、それが船乗りです。』と一生懸命に宣伝してきました。
かつては、勤めている船員が知り合いの船員を引っ張ってくるというような形で、縁故で人を増やしてきました。今も多少は縁故での応募もありますが、ほとんどを新卒で、毎年5、6人採用しています。船員は水産高校や波方の海員学校(現国立波方海上技術短期大学校)卒の人もいますし、伯方高校卒の人もいます。陸上企業で2、3年働いて転職して、乗ってくれる人もいます。今は若い人が多くなっています。数は十分にいるのですが、まだ、普通科高校を出て乗っている人も多く免許を持っている人が十分ではありません。3年の乗船履歴が必要なので、免許を取得するのに少なくとも4年はかかります。それから一人前になるのには少なくとも5年は必要ではないかと思います。高校の夏休みや冬休みを利用した体験乗船という試みも少しずつやっています。伯方島でも船を知らずに育つ生徒も多くなってきたので少しでも興味を持ってもらうためです。とにかく船員になる人を増やさないといけません(図表2-2-1参照)。」

   (イ) 生き残るために

 「景気が良いときも悪いときも、海運業は荷主中心で動いています。昭和41年(1966年)から始まった船腹調整事業がありましたが、その後の暫定措置事業も昨年(令和3年〔2021年〕)で終わったので、船主の武器は無くなりました。造りたい人がいつでも船を造れるようになりました。
 伯方島の海運業もこれから生き残るところと廃業していくところと、これがはっきりしていくのではないかと思います。今いる一杯船主の中でも、船を2隻にする人と、やめる人とがはっきりするのではないかと思うのです。だから、アドバイスを求められたら、とにかく船を3隻にしなさいと言っています。借金の返済が終わった船と、まだ半分ぐらい残っている船、そして丸々借金の船、この3隻があれば少々不況でも回ると思うのです。借金の返済が終わった船が必ず利益を上げ、本当の会社の力は税金を払わないとつかないとも言うのですが、借金の残っている船がもうかったときに償却財源になるからです。
 伯方島の船主でもぜいたくをした人は最終的にはやはり消えていきました。愛媛の船主は生活が質素だということが特徴だそうですが、特に伯方島の人はそうだと思います。私(Aさん)も世話になった伯方でも最大手の船主さんは、今でも麦わら帽子をかぶって軽トラックで畑に行っています。船主が質素にしているから、乗組員に倹約しろと言うのは通りますが、船主がぜいたくをしていて辛抱せよというのは無理です。」

(2) 造船業

  ア 子どものころの思い出

   (ア) 戦争の思い出

 「私(Bさん)はもともと今治の乃万にいたのですが、親戚が伯方島にいたので、子どものころは夏休みや冬休みに4、5日ずつくらいは来ていました。今治から、友浦港を経由して木浦港に来ますが、1時間余り掛かっていました。
 戦時中には1学期の間、疎開していましたが、とにかく食べるものがなかったことを憶えています。伯方小学校で遠足があったのですが、先生から『弁当にはサツマイモだけを持って来なさい。蒸していても焼いていても、つぶしていてもいいからサツマイモだけ、米や麦は持ってきたらいけませんよ。』と言われました。そのことをよく憶えています。私はサツマイモを輪切りにし、焼いて、それを持って行きました。米や麦はありませんでした。サツマイモが食べられたら良い方でした。
 今治が空襲に遭い、焼けたときには、木浦港の防波堤の付け根の辺りにいました。飛行機が飛んできて爆弾が落ちるぞというので、畑に植えていたひまわりのような植物に隠れたことを憶えています。今考えたらおかしいのですが、飛行機から爆弾が落ちたらいけないと思い、そのときは必死でした。木浦から今治の方をみると、今治が真っ赤に燃えていて、町が全部焼けるのではないかと思いました。
 戦争が終わって、2学期からは今治の日高小学校へ行ったのですが、日高はやはり米所なので、御飯が食べられることに驚きました。御飯と言っても麦が8割で米が2割くらいで炊いたもので、食べるともさもさするのですが、『はあ、御飯が食べられる』とすごくうれしく思いました。食べるものが島と向こうではかなり違いがありました。そのころ今治には、荷物を運ぶ手段としては主に馬車やバスなどしかなく、利便性の高いトラックを所有しているのは農協くらいでした。『農協にはトラックがあって良いな』と思ったことを憶えています。」

   (イ) 東予丸の遭難

 「昭和20年(1945年)11月に東予丸の遭難があったことを憶えています。そのころ私(Bさん)は父が出征していたので、伯方島の親戚の家に預けられていました。今はコンクリートの岸壁になっていますし、家も多く建っていますが、現在伯方海運組合がある場所から山の方まで、当時は松の木のある砂浜でした。東予丸は尾道(おのみち)(広島県)から今治まで人を運ぶ客船で、尾道からの船が木浦沖の灯台のある付近で転覆し、多くの人が亡くなりました。その砂浜に毎日毎日亡くなった人を並べていました。海岸で火葬もしたようで、ひどいにおいがしたことを憶えています。尾道からの船には、朝鮮半島などから復員した人がたくさん乗っていて、かなり定員オーバーだったそうです。この事故が起こってからは定員をある程度は守るようになったと聞きました。」

  イ 造船所の変化

   (ア) 創業のころ

 「伯方造船の創業は昭和33年(1958年)の9月です。そのころは、1年に船を少ししか造れませんでした。大きなクレーンがあるわけでもありませんし、人の力で鉄板をつなげたりしていて、まさに人の手で造っているという感じでした。
 私(Bさん)が関わった最初の船は鋼船で、鉄で造っていました。伯方造船の創業者である私の義理の父の木元勇松が『これからは鉄の時代よ。』と言って、船に乗っていた私の夫の菊市を船から上がらせて、造船の手伝いをさせ始めたのです。
父も夫も初めは造船のことはあまり分かりませんでしたが、原田清さんという船の図面を書く人が中心となって、鉄板を切ったり、溶接したり、電気関係のことができる人たちを、20人くらい集めて始めたそうです。そのうち、伯方の人は7、8人くらいでした。造船所がある今の場所には車が通る道路はなく、獣道のような道を通って、山を越えて来ていました。
 最初のころはまだ機帆船も造っていたようですが、もともと造船所に勤める人というのは木造の船を造る船大工でした。そのころはそのような船大工も4、5人いたのですが、やはりこれからは鋼船を造らなければならないということで、勉強しながらやったそうです。現在はその子どもたちが何人か働いてくれています。それで、私の夫も20人の人に教えてもらいながら、造船の仕事を憶えていったのです。時間が今よりもゆっくりと流れていたような感じで、良い時代だったのではないかと思います。
それで、昭和33年には船の注文が1隻あって、次の年は、伯方の海運会社から注文のあった2隻と自分のところの船を1隻、1年で3隻造りました。最初に造った船は499t級の船でした。999t級だと海運局の造船許可がいるので、499t級までしかできませんでした。2隻目の船は199t級だったと思います。今だったらボタン一つでできることを、多くの人が持ち上げて移動させたり、支えたり、そのような感じでした。私は船のことはあまり分かりませんでしたが、その私でも分かるような感じでした。
 鋼船を造り始めたころに私は結婚してこちらに来ました。『ボルトを取って。』と言われても分からず、ナットやモンキーといった工具の名前や造船用語が分かりませんでした。
 そのころ事務所では元役場に勤めていた人がリーダーでした。そのほかにも私の父がときどき手伝うくらいで、こちらも素人の集団です。本当に船がよくできたなと思います。立ち上げの中心となった原田さんがすごく良い人だったので、それで何とかなったのではないかと思います。」

   (イ) 代替わり

 「昭和36年(1961年)に、創業者である義理の父が亡くなりました。造船所の開業から3年たったころのことです。私(Bさん)が嫁いできたころから、肺結核で喀(かっ)血(けつ)をしていました。それで、自分の命は短いということが分かっていて、現場の人間には夫と私のことを頼むぞと密かに言っていたようです。
 私には会社の経理をやりなさいということでしたが、経理といってもそのころはまだ家計簿のようなものでした。まだまだ会社の規模が小さかったからです。手書きで処理しますが、手書きなので仕事を憶えられたのではないかと思います。簿記も分からなかったのですが、税理士さんに怒られながら勉強しました。何年かしてパソコンが入るようになると、パソコンに打ち込んで、それを税理士さんに持って行って、税理士さんが決算をするようになりました。
 義理の父が亡くなったとき、後を継いだ夫はまだ22歳でした。従業員に対して、夫も私も偉くなったような気がしたのでしょう。上から目線で従業員に対して指示を出したりするものですから、『物の言い方が悪い。』と従業員からストライキを起こされました。それで、何も知らなかった私たちが、世の中はこのようなものだと真剣に反省し、真剣に怒ってくれる人がいてくれたからこそ、その後の私たちがあるのだと思います。
 そうは言っても、船のことを知っている義理の父が亡くなって、私たちが20歳そこそこです。伯方島の人が顧客なのですが、いつつぶれるのか分からないと思ったのでしょう、その後船の注文はありませんでした。ただそのときに助けてくれる人もいました。そのころは伊予銀行と取引があったのですが、銀行の担当者がいろいろな人のところにお願いしますと回ってくれました。また、支店長さんも、『伯方造船は大丈夫ですから船を造るときにはお願いします。』とどこに行っても一緒に付いて来て一生懸命にやってくれました。それで、『あんたの会社は銀行がついていないと何もできないのか。』とやゆされたこともあります。一つの企業に銀行の支店長がそこまでやってくれましたが、今では考えられません。そのくらい、私たちの状況を見ていられなかったのかもしれません。私はその後も歴代の支店長をずっと憶えています。
その後、持ち直して会社もだんだんと大きくなってきましたが、今造っている船が終わったら、どこかで注文を取ってこなければ造る船がないという苦しい時期もありました。
 私個人として、会社の仕事や子育てで疲れ、今治へ行く口実で今治法人会に出席し、税の勉強をしました。いつの間にか今治法人会女性部の会長を引き受け、全国大会や四国大会に出席する中で、日本中を旅行することができました。税の勉強をして得たことは『信用される事が一番』ということです。」

   (ウ) 造船所の機械化・大型化

 「だんだんと船も大型化していって、造船も機械化、自動化していきましたが、今の方が船を造るのに人数が必要です。昔は甲板部の人数は4人くらい、そしてエンジン場の人数が4人くらいで造っていました。今はパソコンで全部造っているような感じですが、どうしてあんなに人数が必要なのかと思うくらいです。今の方が、便利な設備がいろいろ船に付きます。それで、電気関係など専門職が必要になってくるので、人が増えています。その代わり工期は短くなりました。
 昔は、あそこは1mだ、2mだと言って、木で型を作って、ガスバーナーで温めて、たたいてというようにして現場でサイズを合わせていました。そのため、鉄板も多めに購入したりするなど、ざっとしていました。今だったら、購入時からどのくらいの大きさの鉄板が必要だと計画して購入します。それで、数値制御プラズマ切断機のような機械を使い、コンピュータで書いた図面どおりに機械が動いて、正確に鋼板を切断するのです。これは伯方造船が最初に導入しました。昭和50年代後半のことです。いろいろなところから見学に来たことを憶えていますが、そのころからどんどん自動化が進んでいきました。
 ワープロを導入したのもこの辺りでは最初だと思います。まだ会社に残していますが、机の大きさと同じくらいの本当に大きなものでした。辞書も大きさ8インチのフロッピーディスクに入っており、できあがった文章も同じようなフロッピーディスクに記録させ使っていました。次に来たワープロを見て、『こんな小さなものでできるの』と思ったことを私(Bさん)は憶えています。」

   (エ) 思い出に残っている船

 「伯方造船で造った船ではないのですが、必要なくなった漁船を安く買ってきたことがあります。漁船は太平洋の荒波の中を進むので、船の下に多くのコンクリートを張っていました。多くのコンクリートを張っていると荷物が乗らないので、取り除こうと船を陸に上げて、コンクリートを取り除きました。そしてそれを海に降ろしたら、くるんとひっくり返ったのです。もちろん伯方造船で設計したわけでも、造ったわけでもない船なのですが、それを岸壁に引き上げて、一生懸命に水を出したことを私(Bさん)は憶えています。造船所がそのようなことをよくするなと思って、今考えるとおかしな話です。」

   (オ) 進水式の誇り

 「私(Bさん)が伯方造船で自慢したいことの一つに進水式があります。進水式とは儀式の一つで、今まで鉄の塊であったものを水に浮かばせることで初めて命が宿る船となります。伯方造船では昭和33年(1958年)の創業当時から、船を造る船台には30何度かの勾配があります。だから、少し傾いたままの格好で船を造っているのですが、進水するときに、船がすーっと海に向かって降ります。最近はどこの造船所も進水式というとドックの水門を開けて、周りに水を入れて、ボートで引っ張り出す造船所が多くなっています。しかし、伯方造船では、船を停めている部分を外すと自然と海の中に進んでいきます。その過程でくす玉が割れて紙吹雪の散る光景が自慢です。私はこの光景を『ふぶき飛び すべりおりたる 新造船 造船マンの 汗も誇りも』という歌に詠みました。
 今はそのような従業員はいませんが、昔は全部手で作業をしていたので、『あそこの溶接は私がしたのだけど、波で裂けないかな。』とか『格好良いだろ。あそこは私がしたんだ。』というような声が聞こえていました。本当に自分たちで造った船だという誇りがありました。」

図表2-2-1 わが国の内航船員数の推移

図表2-2-1 わが国の内航船員数の推移

国土交通省「海事レポート」から作成