データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 伯方島の産業と人々のくらし

 旧伯方(はかた)町は、海運業と塩田の町として知られている。海運業では、伯方は波方(現今治(いまばり)市)と並ぶ海運の町である。その歴史は、製塩との関係が深い。江戸時代には伯方島では今治藩が製塩業に力を入れており、塩田築造の際、資材運搬に従事した船のうち20隻が上荷船として特権を与えられた。明治の初め、製塩の燃料が石炭になると、九州から石炭を瀬戸内海の製塩地帯に運搬するようになった。明治・大正期の日本経済の拡大の中で、阪神地帯が工業地化すると石炭の輸送も、中部瀬戸内海地域から阪神地帯へと主力が移っていき、1隻当たりの船腹量も次第に大型化していった。戦後、伯方の海運業がさらに発展していくのは昭和30年代にそれまでの機帆船に代わって鋼船が登場してからである。伯方では昭和30年代半ばに鋼船建造ブームが起こった。そのころ主要産業の製塩業が衰退し、代わって造船業が確立することになった。本節で取り上げる伯方造船も、昭和33年(1958年)に木元勇松氏が小さな入り江の砂浜を利用して木造機帆船の建造を始め、すぐに鋼船の建造に取り組むことになった(写真2-2-1参照)。
 鋼船化が急速に進展した要因として挙げられるのが、鋼船造船における金融機関と地元の造船所の全面的な船主支援であった。これは「愛媛方式」と呼ばれ、「愛媛では船主が船を造るのではなく、造船所と銀行が造った」とまで表現されている。船腹調整前の駆け込み建造があった昭和39年(1964年)には伯方で20隻の新造船が誕生し、「愛媛船主」の名を全国的にクローズアップさせた。
 海運業は、国内のみで貨物輸送を行う内航海運と海外との貿易を行う外航海運に分かれる。また、内航海運物流は「オペレーター」と呼ばれる運送業者と「船主(オーナー)」と呼ばれる貸渡事業者によって成り立っている。オペレーターは荷主と結んだ運送契約に基づいて、実際の輸送業務を行い、船主は船舶と船員を保有し、オペレーターとの間で用船契約を結んで、船舶を貸渡している。伯方の船主は用船先として中央オペレーターとの結び付きが強く、マイペースに徹した堅実経営が特色である。また、伯方の船主は所有船1隻のみの「一杯船主」の割合が高いのも特徴である。昭和60年(1985年)では111事業者のうち1隻所有が83事業者と約75%を占めていた。
 製塩業では、伯方島には瀬戸浜、古江、北浦などに41浜の塩田があった。昭和40年代まで盛んに製塩が行われたが、イオン交換樹脂膜方式が開発されると、安価で大量の製塩が可能となり、日本で7工場のみで製塩が行われることとなった。そのため、伯方塩業組合も昭和46年(1971年)に流下式塩田と製塩工場を廃止した。一方で製塩を残さなければならないという運動の中、特殊用塩として許可枠を得、昭和48年(1973年)に伯方塩業が設立され、専売公社伯方出張所跡を利用し、「伯方の塩」を生産するようになった。
 本節では、伯方島の海運業について、Aさん(昭和24年生まれ)から、造船業について、Bさん(昭和14年生まれ)から、製塩業について、Cさん(昭和22生まれ)から、それぞれ話を聞いた。

写真2-2-1 伯方造船

写真2-2-1 伯方造船

今治市 令和4年9月撮影