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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) ミカン栽培 

  ア 壁飾りのある家

 「現在住んでいる家は、私(Aさん)が6歳のときに父が買ったものだそうです。もともとは河口屋という屋号で旅館をしていて、築101年になります。旅館をしていたころは景気が良かったのでしょう、柱には今はあまり使われることのない、栂(つが)の木が使われていますし、家の壁には壁飾りが描かれています(写真1-2-1参照)。
 この島のミカンは、もともと大崎下島の大長の人が100年以上前にこの島に持ってきたものだそうです。青江という品種で、貯蔵が効くので、4月になっても食べることができました。この島自体もかつては漁業者が主だったのだと思いますが、それがだんだんとミカンの景気が良いので、農業従事者が増えていきました。戦後には岡村島は山の頂上の方まで全てミカン畑として開発されました。しかし今では荒れてしまって、クスノキの林になってしまっています。
 私の家でもミカンを作っていますが、この家を買ったときにミカン山が一緒に付いてきたのだそうです。家とミカン山を合わせて当時のお金で2,400円で購入したそうです。
 私で3代目になりますが、本家はもともと岡村小学校の近くにありました。祖父はその家から出るときにむしろを3枚もらって家を出たと話してくれたことがあります。むしろ3枚で生活しなさいと言われたのだそうです。聞いた話ですが、大長の人は辛抱強いそうで、イモと麦と味噌(みそ)で頑張ってミカン山を作ったそうです。味噌と言ってもひしおのようなもので、それをなめてイモとムギだけで辛抱していたのだと聞きました。私の祖父や父もそのように辛抱して、協力して家を大きくしてきたのではないかと思います。
 私が農業を始めた最初のころも、青江というミカンの品種を作っていました。品評会で何度も表彰されたこともありますが、この青江早生(わせ)という系統が良かったのだと思います。味がものすごく良く、皮も柔らかかったのです。青切りしたもの(青いうちに採ったもの)でも良い味がしました。今ではもうありません。今作っている品種の中では興津早生と言う品種が一番古いくらいです。」

  イ ミカンの値が良かった時代

 「私(Aさん)が昭和25年(1950年)ころに高校に行ったとき、現在の今治工業高校はそのころは今治西高校工業部と言いました。寄宿舎があり、島嶼(しょ)部からやって来た生徒は今治南高校の寄宿舎へ入りました。そこで、寄宿舎に入るときに、父親が青江を青切りしたミカンを木箱で6箱、大長の問屋へ売ってお金を作ってくれました。1箱が2,000円で、6箱で1万2,000円です。『これを持って行け。』と言われて、そのお金を舎監の先生が預かってくれていました。私はハンドボール部に所属していて、部活動の前にどうしても腹が減るので食パンを買って食べていましたが、そのころは食パンが1円くらいでした。それで、寄宿舎の御飯を食べて、食パンなどの間食を食べても、3年間、1万2,000円で十分足りたことを憶えています。そのくらいミカンの値が良かったのです。
 高校を卒業するころに、教頭先生に『大学に行かんか。』と言われましたが、私は『大学には行かない、ミカンの方が大分値が良いから。』と言って断ったことを憶えています。それ以降、私はこの島に戻ってずっとミカンを作っています。」

  ウ 自動車免許の取得

 「私(Aさん)は自動車免許を65年前に取得しました。その当時、岡村島で自動車を持っているのは私一人でした。岡村島では『あいつは車で人を殺す。』と言われたこともあります。最初の車は4輪のくろがねベビーというバスのような貨物用軽自動車で、大阪に行って買って来ました。ただ、岡村に戻ろうとしてもそのころはフェリーがないので、戻れません。大長の建設業者がバージ(貨物を運ぶ平底のはしけ)を持っていたので、そこに頼んで、岡村に降ろしてもらいました。
 昭和42年(1967年)には、今治市の安全運転を競う大会に参加し、表彰されたこともあります。」

  エ ミカン山を大きくする

 「私(Aさん)は現在では岡村島に所有する1町(約1ha)の畑でミカンを作っているほか、吉海(よしうみ)町の泊に2町(約2ha)のミカン畑を持っています。購入したときは32歳でした。ミカンを作りに行くときは、船で行ったり、フェリーがなかったときには、バージのようなもので運んでもらったりしました。
 農業委員を33年連続で務めましたが、農協の組合長も若いころに任されました。自分でやりたいと言ったわけではなく、無理に引き受けさせられたのです。そのころは、合わせて3町(約3ha)のミカン山を作りながらやっていましたので、体がもちませんでした。長くは続かず、組合長を務めたのは2年半の期間でした。それでもまだ36歳で若かったからやれたのだと思います。
 大島のミカン山では収穫のときに、10人くらいの女性を雇って収穫していたのですが、収穫したミカンを倉庫の中に運び入れるのは私一人でやっていました。今思うとミカン箱で何千とありますから、よくやったものだと思います。モノラックもなかったので、ミカン箱を負子(おいこ)で背負って山道を下らなければなりません。私は一度に6箱のミカン箱を背負っていました。全部で100kgはあったと思います。それをどんどん背負って山道を下っていました。無茶はしたと思いますが、ミカンの値が良かったのでそれができたのだと思います。」

  オ 農協の組合長として

 「農協ではずっと非常勤理事をしていたのですが、私(Aさん)よりも年代が上の人が対立して、次々と組合長を辞めたことがありました。1年で7人の組合長が替わったのですが、最後の7人目に私が残って組合長をやらざるを得ませんでした。今から50年以上前の36歳のころで、今治市で組合長会をしたときには、県議会議員を務めているようなほかの年配の組合長とも同席しました。そのころから、農協の合併が議題となっていましたが、私だけが合併は必要ないと主張したので、ほかの人からは『いちがいな(頑固な)男やのお。』と言われました。結局、合併することになり、『反対ばかりしないで、話を聞け。』とも言われましたが、『あなたたちのような年寄りの話は聞けない。』と主張したものです。
 私が組合長になったときには、船に積み込んでミカンを出荷していました。船で出荷し、糸崎(広島県三原(みはら)市)まで運んで、糸崎から貨車に積んで、東京まで運ぶことになります。そうすると、発送してから東京に着くまでに1週間掛かります。1週間掛かると、中のミカンが傷んでしまうのです。
 そのころは今治の日吉農協にしても、今治駅のそばに選果場がありました。線路を引き込んで、荷を積んだらすぐに貨車で発送するためです。菊間にしても、大西にしても駅のそばに選果場があって、汽車で運んでいました。しかし関前ではそれができません。それで、船で運んで、積み替えて汽車で輸送するのですが、それだとどうしても時間が掛かって腐敗が多くなってしまいます。そこで、どうにかしないといけないと考え、昭和48年(1973年)にトラック輸送を始めました。ほかの農協の組合長の中には『私に逆らうのか。』と反対する人もいましたが、トラックで直送することを決断しました。
 輸送のために岡村島のミカンを運ぶトラックを専属で雇っていました。当時もフェリーが十分にはなかったのですが、フェリーで関前から大崎上島を経由して、竹(たけ)原(はら)(広島県)へ向かいます。そこから、国道2号を走って運びます。そうすると、東京・横浜方面に長くても2日で届き、ミカンはきれいなままです。もともと丸関(関前産)のミカンは味が良いので、良い値段でものすごく売れるようになりました。
 そのころは、岡村島だけでミカンを2億8千万円売り上げました。それで、小規模に作るだけの組合員でも、通帳にお金が振り込まれたのを見て驚いたそうです。私も道を歩いていると、肩をたたかれて、『ありがとう、ありがとう。』と喜ばれたことを憶えています。それ以降、ほかの農協も鉄道輸送をやめて、トラック輸送に替えていきました。
 トラック輸送をしていたときのことですが、オイルショックで燃料が高騰して運送費があがったときは困りました。漁協の組合長に話をしたら、『そうか、ドラム缶を持ってこい。』と言われて、空のドラム缶を20本くらい持って行くと漁協の重油や灯油を混ぜてそこへ並べて置いて、トラックの運転手がそれを入れて走っていたこともあります。また、トラックで青森県の八戸(はちのへ)から魚を積んで、西日本へ輸送している便があったのですが、帰りは空荷なので、どれだけ島で寝泊まりしても良いから、運んで行ってくれとお願いして、相場よりも安い金額で輸送をしてもらったこともあります。
 また、私たちの農協でも4tトラックを購入して、加工用のミカンを運んでいました。ジュース工場が松山市の三津にあったのですが、業者に運んでもらうと費用が掛かりますので、安い中古のトラックを購入して私が自分で運転して運んでいました。荷物も自分で降ろさなければなりませんし、ほかのトラックもたくさん積んで来ているので、待ち時間も長く大変でした。
 また、私が組合長になったころから、木箱で出荷していたものを段ボールでの出荷に替えました。それも普通の段ボールではなく、少し高価なのですが、鮮やかな色で印刷できるユニマーキの段ボールにしました。普通段ボールというと茶色で文字が書かれているだけのものが多いですが、関前村のミカンを入れる段ボールは鮮やかなカラーで関前の島を描いたものにしました。段ボールも人気があったのか、東京の市場の人が『空の段ボールを売ってないか。』と言うお客さんもいたと話をしてくれました。当時は家にたんすなどがない部屋に住む若い夫婦が多かったので、冬物と夏物の衣装替えをそれに入れると、見栄えが良いからと買い求めてきたのだそうです。店としては段ボールが欲しいなら、ミカンを買ってくれとなりますから、段ボールを求めてミカンを買って、ミカンがおいしかったのでまた買ってと良い具合に連動したのだと思います。」

(2) 島での生活

  ア 戦争の記憶
 「戦争のころは10歳くらいでしたが、今治空襲のときには今治が燃える様子を岡村から見ていたことを憶えています。ばらばらと落ちている焼夷(しょうい)弾もここから見えました。海がありますから怖いという感覚はなく、花火のように落ちて破裂していくのを見ました。音は聞こえず、光だけが見えていました。ここからだと波方の方かなと思っていましたが、そうではなく、朝になって今治の町が見えましたが、真っ黒になっていました。
 岡村島には戦後、進駐軍のジープが上陸してきました。私(Aさん)が小学5年生のときでした。そのころは小学校に上がる道も車が通るような道ではなく川でしたが、4輪駆動のジープが道のないところを走って小学校の校門のところまで上がって来ていました。ガムをかんでいるのを見て友達と『あれ何を食いよるのかな。もらおうか。』などと話したことを憶えています。もちろん、言ってみるだけで、近くにも寄れません。MPと書いてあってとても怖かったのです。」

  イ 小学校・中学校

 「戦争が終わった後の昭和20年代、岡村島には約4,000人の人が住んでいました。岡村島と小大下島には引揚者住宅がありました。私(Aさん)の同級生は90人です。小学校へは岡村島と小大下島から子どもが通っていました。そのころは海岸線の道路がなかったので、小大下島の子どもは山を越えて小学校に通ってきていました。
 小学校は私たちが入学するときに尋常小学校から国民学校に変わったので、私たちが国民学校一期生でした。それから6年たって、旧制中学校が新制中学校に変わったので、私たちは新制中学校一期生です。中学校も岡村島と小大下島の合同で岡村中学校ができました。私たちはちょうど制度の変わり目の世代でした。
 中学校を卒業後、私は今治西高の工業部に進学しました。高校に進学したのは90人のうちの10人くらいだったと思います。」

  ウ 弓祈禱(弓祭り)

 「大山祇神社の系列の三島神社に弓祈禱(とう)(弓祭り)があるのですが、岡村の姫小隝神社ほどにぎやかにやっている所はあまりないのではないかと思います。また、弓術の型もほかと違っており、小笠原流弓術という独特な型で何百年と続けてきました。
 小笠原流は、勇ましくてきれいな型で、この神事に出ると『嫁がすぐにできる』と昔から言われてきました。神事で弓を打つ射手を射手衆と言うのですが、手に矢ずれというものを付けます。祭りのために女性が作ってくれるのですが、人気のある人は何枚もの矢ずれをもらっている人もいました。もらったものはその祭りで使わなければなりませんから、日に何回も替えている人がいました。それを周囲の人が『また替わったぞ。』とはやし立てていました。矢ずれをもらえない人は母親が作ってくれたものを使っていました。
 射手衆が弓を射る所を射場と言うのですが、昭和40年(1965年)くらいまでは、その裏に射手の数の笹を立てていました。矢が当たるとその笹に、親戚や親しい人が花と呼んでいた祝儀をどんどん付けるのです。ただ、私(Aさん)たちが青年団のころに、差が付くのはどうなのかということで、廃止し、笹には花を付けないようにしました。待っている間の座布団も自分で良いものを持ってきたり、何枚も持ってきて高くなったりしていたので、それも農協の座布団を借りてみんなが平等になるように変えました。それ以降はそのようにあまり差が付かないようにしている形が伝わっていますが、場を盛り上げるために短冊を一杯ぶら下げた笹飾りを、後ろに飾るようにしています。
 射手は宮浦と里浦の集落から6人ずつ選出するので、計12人です。集落の代表である役弓として大関、射太郎という役がありました。片方の集落から大関を出して、もう片方から射太郎が出ます。交互に大関と射太郎を出しますが、かつては大関を出した方の集落で弓祭りが行われていました。里浦が大関を出したときには、今の診療所が建っている場所にあった広場で行われていましたし、宮浦のときは姫子隝神社の境内で行っていました。今は姫小隝神社の境内だけで行われています。
 12人の射手が決まったら、大関組、射太郎組がそれぞれに、巻藁(まきわら)宿を決め、巻藁を巻いて、神事を行った後に、その家で泊まり込んで練習します。私の家も巻藁宿になったことがありますが、6人がこの家に寝泊まりして練習をしていました。神事ですので、食事も精進料理でした。それだけだと良いのですが、けばりと呼んでいた指導者たちが頼みもしないのにやって来て、指導しようとします。余計なことを言われ、相当厳しく指導されたことを憶えています。
 弓祭りは旧暦の1月11日に行われますが、当日の未明の日付が変わったころに射手衆は裸で海に入って、水垢離を取って身を清め、神社に参拝します。この途中で女性に会うとやり直していました。現在は水垢離の取り方も形式的なものとなっています。
 現在は新型コロナウイルス感染症の影響で外国人は参加していませんが、コロナ禍の前には十何年間、毎年一人は参加していました。来年(令和5年〔2023年〕)くらいには再開したいと思うのですが、相談しないといけません。かつては若い人から年配の人までいろいろな人が参加してくれていたのですが、最近は希望者が少ないので、参加したくない人にも『参加してくれ』とお願いすることが増えました。昔は中学校を卒業して、仕事を始めたらすぐに参加する人もいました。励みになるから、人間性を養うために必要だからと、親が参加させていたのです。そして参加すると見返りも多くありました。伝統があるから大事にしないといけないのはもちろんですが、これが絆(きずな)となって、これを中心に集落が動いています。」

  エ 災害の記憶

 岡村では、戦後たびたび台風や集中豪雨で大きな被害が出た。その中でも昭和42年(1967年)の集中豪雨では大きな被害がもたらされ、また、同年には大干ばつに襲われた。『関前村誌』には、「四十二年六月には二〇〇ミリメートルの集中豪雨があり、七、八、九月には一〇〇日間の干ばつが続いて、みかんの皮に凹凸ができた。この間、同年の七月九日には集中豪雨があり、山崩れで岡村では十二人が生き埋めとなり、うち六人が死亡した。また大下でも三人の死者を出した。(①)」とある。この昭和42年の災害について、Aさんから話を聞いた。
 「あのときはひどかったです。関前村では亡くなった人が9人いました。大きな被害が起こったのは昼前でした。雨は短時間に降ったのではなく、長時間ずっと降って災害が起こったことを憶えています。この島にだけ雨が強く降ったようでした。姫子隝神社の裏の所が土砂崩れを起こしたのですが、私はそれをちょうど反対側の山の上から見ていました。
 消防団の人に話を聞くと、最初神社の方で水が出ていたので作業をしていたら、善照寺の方で土砂崩れが起こり、消防団がそちらの方に行った後、神社の裏が大きく崩れたそうです。そのまま消防団が作業をしていたら、もっと大きな被害が出ていたかもしれません。私も駆け付けて、救助活動をしましたが、何人かの人が顔だけ残して埋まっていて、埋まった女性が『どうにかしておくれ。』と言うのですが、体全体が土に埋まっているので、掘り出すのに苦労しました。その女性は何とか助かったのですが、隣に同じように埋まっていた男性は助けることができませんでした。見ていて、気の毒でした。本当にあのときはひどかったです。その後、神社の裏の方も急傾斜地崩壊対策事業で擁壁ができました。
 そして干ばつもその年が一番大変でした。それで、小大下島にあった石灰を採掘した跡地の大きなため池の水を使うことにしました。水を船で運んで、運んだ水を桟橋にシートで作ったタンクにためて、農家に配りました。
 最近では、ミカン山にイノシシがたくさん出て困っています。イノシシは雨や風が好きなのか、天気が悪いと夜の間ずっと悪さをします。反対に、月が出て明るい夜はあまり出ないようです。」


引用参考文献
① 関前村『関前村誌』1997
参考文献
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)』1986
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 関前村『関前村誌』1997
・ 関前村『関前村制施行百十四周年記念写真集 関前賛歌』2004

写真1-2-1 壁飾りのある家

写真1-2-1 壁飾りのある家

今治市 令和4年9月撮影