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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) 潮待ちの港

 「関前村というのは海と船で栄えた町です。関前という名前も、交通の要衝である芸予海峡や来島海峡の関所の前にあるから関前という名前になったそうです。村上水軍がその辺りを関所としていたのです。また芸予諸島周辺は海の難所でもあるので、潮と風をうまく見ないといけません。関前というのはその潮待ち、風待ちの港でした。昔の港の写真を見ると、にぎやかですが、地元の船だけではなく、潮待ちの旅の船もあったのです。
 そのため、隣の大崎下島の御手洗(広島県呉市)には歓楽街もあり、にぎわっていたと聞きました。私(Aさん)たちの上の世代の人の中には、ミカンの値が良かったこともあり、隣の島に遊びに行くのに、観音崎の鼻からの潮の流れがちょうど良かったので、服を頭の上に載せて、潮の流れに乗って遊びに行く人もいたそうです。
 岡村が一番にぎやかだったのは戦争が終わってしばらくたったころではないかと思います。ミカンの値も良かったですし、人口も約4,000人いました。戦争から復員した人も多く、引揚者住宅もあり、子どももどんどん増えていました。そのため家が足りないくらいで、ミカン畑にこっそりと小屋を建てて暮らしている人もいました。今でもそのままになっている小屋もあります。」

(2) 岡村の昔の海岸線

 「昭和30年代の前半には、今の診療所が建っているところは空き地で、弓祭りもその場所で行われていたことを私(Aさん)は憶えています(図表1-2-1の㋐参照)。現在では診療所の前の道を挟んで海岸になっていますが、その場所自体も埋め立てて作った土地です。姫子隝神社の鳥居も現在よりももっと奥にありました(図表1-2-1の㋑参照)。海を埋め立てて土地を作って、海側に敷地が拡大し、鳥居を移動させたのです。新しくできた土地は新築と呼ばれています。神社の近くの家の一つに屋号を小波屋という家があります(図表1-2-1の㋒参照)。昔は波がここまで打ち寄せていたので、小波屋と言うのだそうです。もちろん、今は波がかかることはありませんが、昔の屋号が今でも残っています。
 道も、現在の海岸沿いの道より一つ内陸部の道が村道でした。その道までが海や砂浜だったということです。観音崎の方に行く海沿いの道も今のようにはありませんでした。それで、木山神社がある山が海に突き出た岬のようになっており、ここを境に、集落も分かれていました。西の方を宮浦と言い、東の方を里浦と言います。」

(3) 商店

 「以前は里浦の集落には岡村小学校の辺りから海へ流れる川があって、大河原と言いましたが、現在は埋めて暗渠になり道路になっています。昭和40年(1965年)ころにはその道に沿って商店 が何軒かありました。海に近い所にはうどん店があり、漁業協同組合の建物もありました。現在体育館がある所には、造り酒屋をしていた内藤家の屋敷がありました(図表1-2-1の㋓参照)。その家は関前村の初代村長を務めた井村家の次くらいの財産家だったように思います。その後そこに公民館ができて、農協が次に入りました。漁協から北に行くと、ケーキを作ったり、豆腐を作ったり、何でも屋のようにいろいろなものを作っている店がありました(図表1-2-1の㋔参照)。ケーキと言ってもこの辺りでは、アイスキャンデーのことをケーキと言います。理髪店もこの近くに2軒ありました。1軒は現在でもやっている須賀理髪店です。もう1軒の理髪店は銭湯も経営していました。藤の木を植えており、藤井温泉と言いました(図表1-2-1の㋕参照)。この通りには雑貨店も2軒あり、ノートや鉛筆などの文具や駄菓子などを売っていました。
 また、松井商店では専売公社が扱っていたたばこや塩を売っているほか、さまざまな日用品を扱っていました(図表1-2-1の㋖参照)。薬を売っていたことも憶えています。
 店舗は埋め立て前の海沿いの道に沿うようにもありました。診療所の近くには書店があり、ここでは、古本も扱っていました。木山神社の下にはうどん店がありましたし、その近くにはアイスキャンデーを作っている店がありました。
 内藤酒店は造り酒屋でした(図表1-2-1の㋗参照)。屋号を山半と言い、同じ名前の銘柄の酒を造っていました。私(Aさん)の祖父も手伝いに行っていたそうです。森本商店では、たばこや塩の販売のほかにいろいろなものを売っていました(図表1-2-1の㋘参照)。岡村には、酒を販売している店はありますが、酒を飲ませる店はありません。昔から飲み屋のような店はなかったと思います。魚が豊富だからかもしれませんが、大体飲むと言ったら自分の家でとか、親戚が集まってとかいうことが中心だと思います。店で飲むということはあまり聞いたことがありません。
 善照寺の近くでも酒を売っている店がありました(図表1-2-1の㋙参照)。造り酒屋ではなく、酒そのものは阿賀(広島県呉市)から持って来ていました。阿賀に一誠という銘柄の酒があるのですが、それを入荷していたのです。私もその酒店が親戚になるので、仕入れの手伝いによく行っていました。昭和40年(1965年)ころには個人病院が2軒あって、歯科医もいました。現在、個人病院はなく、市立の診療所はありますが、週に3回のみで、不便なものになってしまっています。」

(4) 渡海船

 「今治に渡るための渡海船は農協が運営していた組合丸と個人経営の岡村丸が主な船でした。岡村丸がメインで利用されていたのですが、ほかにも個人で渡海船を運航していたところがありました。昭和30年代には5軒ほどが渡海船を運航していたのではないかと思います。それらの渡海船は、海岸線が砂浜だったので、砂浜から直接上陸していました。人を運ぶだけではなく御用聞きのような事もしており、店の人は品物が足りないと渡海船に頼んで、仕入れて来てもらっていました。私(Aさん)は高校のときに島から出ましたが、そのころは伝馬船のような渡海船で海を渡っていたことを憶えています。」

(5) 現在の岡村

 「現在の岡村にはもう個人が経営する店舗はありません。農協のショップだけになりました。これも農協の検討委員会で私(Aさん)たちが無理を言って残してもらったものです。農協のショップがなくなったら日々の食料にも困ってしまいます。ただ、農協が合併し、金融店舗も大三島の方と合併したので、関前には金融店舗がなくなってしまいました。そのため、金融関係の手続きが難しくなりました。自動車の車検で自賠責保険をかけようと思っても、以前はすんなりと岡村で手続きができましたが、金銭的なものは管内のどこかの金融店舗にわざわざ行かないと手続きができなくなりました。本人確認が必要ということなのだと思うのですが、なかなか不便な時代になりました。
 平成10年(1998年)にとびしま海道が開通し、広島県の大崎下島と橋でつながりましたが、橋があってもあちらに買い物に行くことはめったにありません。やはり関前の住民は今治に行きます。若い人の中にはたまには橋を使って広島方面に出ることもあるようですが、多くはないのではないかと思います。むしろ大崎上島、大崎下島からこちらに買いに来る人がいるくらいです。というのもここ何十年と週に一度、金曜日に松山市の堀江から業者が4t車で2台、野菜などを積んで売りに来るのです。私たちも購入しますが、大崎下島の人たちも買いに来ます。御手洗、大長なども農協のマーケットくらいしかありませんから、1週間分をまとめて買いに来ます。販売業者は岡村に来てから大崎下島にも行くのですが、先に新鮮な良いものを買いたいと岡村に来るのです。」

図表1-2-1① 昭和30年代の岡村の町並み

図表1-2-1① 昭和30年代の岡村の町並み

調査協力者からの聞き取りにより作成

図表1-2-1② 昭和30年代の岡村の町並み

図表1-2-1② 昭和30年代の岡村の町並み

調査協力者からの聞き取りにより作成