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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 岡村の町並み

 旧関前(せきぜん)村は広島県と愛媛県の間にある芸予諸島の中央にあり、岡村・小大下・大下の3島から成る村である。中世には水軍の城砦(さい)が築かれ、近世には松山藩に属し、歴史を通じて農業、漁業、海運業等が栄えた。江戸時代には岡村、大下の二村に分かれていたが、明治22年(1989年)の町村制の施行により、翌明治23年(1890年)4月に両村が合併し関前村となった。以後村域は変化しなかったが、平成17年(2005年)に旧今治(いまばり)市と越智郡の11か町村が合併し、今治市となり現在に至っている。
 3島の中で最大の岡村島は約3㎢の面積がある。島のほとんどは山ろくのわずかな部分を除いて20°以上の急傾斜であり、平地は極めて少ない。岡村港は享保年間(1716~36年)に築かれ、海運で栄えた。明治期には石灰石輸送のための帆船が約60隻あり、船主組合を結成していた。戦後も海運業は栄え、船主約50人が協同組合を結成していた。船主の中には、内藤家のように数十隻の機帆船を所有している船主もいた。貨物の中心は石灰石で、四阪島や大阪への航路が中心であった。その後、石灰鉱山の閉山が打撃となり、またトラックでの輸送が中心になってきたため、海運業は衰退する。昭和40年(1965年)には海運会社8社が12隻の鋼船を持ち、東南アジアと航路が結ばれ、ラワン材等を運ぶ海運会社もあった。漁業も盛んで、昭和45年(1970年)には150戸が漁業に従事していた。
 農業では急傾斜地のため、柑橘(かんきつ)栽培が盛んである。ミカンは広島県大長(おおちょう)村(現呉(くれ)市)からの出作りに刺激されて、明治中期から始まった。大正期には産地の形成がなされており、関前ミカンは色と味の良さで知られている。平成初期には就業者の50%がミカン栽培に携わっており、主産業となっている。
 小大下島は石灰岩が各所に露出しており、近世後期から採掘が進められ、第一次世界大戦後に本格化した。大企業も進出し、最盛期の昭和20年代中ごろには大阪窯業や日本セメントなど5社が採掘に携わり、150人ほどの従業員が、セメントの材料や鉄鉱石から鉄への精錬用として年に約30tを生産した。石灰岩の採掘関連の産業から上がる税収は村の税収の3割以上を占めたが、島の形が変わるほど掘り尽くし、昭和40年代には多くの鉱山が閉山となり、昭和52年(1977年)に最後の鉱山が閉山した。採掘跡には地下水が湧出し、現在ではこれを利用して上水道の水源地となっている。
 本節では、関前村の経済・行政の中心であった岡村の町並みの様子や、地域でのくらしについて、Aさん(昭和9年生まれ)から話を聞いた。