データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 菊間瓦を作る

(1) 瓦作りの工程

 ア 粘土作りと荒地出し

 「今では少し変化をしていますが、以前は瓦工業組合の共同工場で、讃岐土と五味土を混ぜて粘土を作っていました。そして共同工場では荒地出しまでを行いました。荒地というのは、ある程度瓦の形になっているもので、半製品とも呼んでいます(写真3-2-1参照)。その荒地を各工場が仕入れて、金型で抜きます。共同工場から仕入れるのではなく、自分の工場で粘土を仕入れて、荒地機で荒地出しをするところもありますが、私(Bさん)の工場では共同工場から荒地を仕入れていました。
 私が子どものころは、個人で粘土を船で仕入れて、自分のところで保存していました。その後、組合ができて共同工場を作ってからは、組合で粘土を仕入れて機械で練るようになりました(写真3-2-2参照)。粘土は仕入れてもすぐには使えないため、一度に1年分くらいの量を仕入れていたのではないかと思います。掘ったばかりの粘土は、すぐに使うと瓦にねじれやひびが出たりするので、野ざらしでしばらく寝かしておかなければなりませんでした。
 私は直接知りませんが、土練機が導入されるまでは、縦横2mくらい、深さが30cmくらいの木製の槽(ふね)の中に2、3種類の粘土を入れて、足で踏んで混ぜていたそうです。そのため、『菊間に嫁いだら、足が太くなる。』と冗談半分で言われていたそうです。
 ただし、現在では讃岐土と五味土を混ぜて作った粘土ではなく、淡路(兵庫県)から仕入れた配合粘土を使っています。五味土自体は菊間でもまだ採掘できますが、採算が取れないので掘る人がいません。瓦作りが盛んなころには仕事が一年中ありましたが、現在では仕事が減って、人件費や機械の経費などの採算が取れなくなっているのです。讃岐土も水田の下にまだ粘土がありますが、瓦業者が減って、掘れば掘るほど赤字になるので採掘をやめています。菊間では瓦業者専門の鉄工所が1軒だけとなりました。全国でも瓦作りをやめた産地は全てそのような感じではないかと思います。」
 「菊間では主原料となる粘土は江戸時代後期に自給できなくなり、それ以降はいろいろな産地の粘土を使用するようになりました。大正時代からは香川産の讃岐土を使うようになり、香川から船で運んでいました。
 私(Aさん)が若いころ、戦後の復興で家がどんどん建設されていて、瓦を大阪などの関西地方へ船でよく出荷していました。関西地方へ出荷した帰りの船で香川に立ち寄り、香川から船で讃岐土を運んでいましたが、瓦業者のほとんどが海岸沿いにあるのもそのためです。讃岐土を陸揚げするためには海に近い方が運びやすく、また、以前は、海岸に接岸した木造の船に瓦を積み出していました。
 その讃岐土に混ぜる土が大切で、あまり粘り気が強いものは瓦の成形がしにくく、別の土を混ぜて調節していました。讃岐土に混ぜる土が五味土です。私の工場の上から山を登った所に採土場がありますが、五味土はこの辺りでもそこでしか採掘できず、真砂土の中に少し五味土の層があるそうです。私が子どものころは、馬の背の両側に五味土を入れた袋を載せて山から下ろし、その五味土を荷車で瓦業者に順々に運んでいました。私は子どものころからこの辺りに住んでいるので、その光景を見たことがあります。讃岐土と五味土を混ぜて焼くと、最高の色をした良い瓦ができていました。菊間の瓦の評価が高かったのは、混ぜていた五味土が良かったからです。他の瓦の産地では五味土が採掘できないので、松山からだけでなく宇和島(うわじま)からも、多くの瓦業者が菊間へ五味土を買い求めに来ていたことを憶えています。
 菊間の瓦も昔と比べると、色があまり良くないのではないかと思うことがありますが、五味土が入らなくなったことにも原因があるのかもしれません。五味土の採掘業者は2軒ありましたが、採算が取れなくなってやめてしまいました。讃岐土も同様です。昔から瓦を焼いている人間としては、原料の粘土が違うので、菊間瓦ではないような気がして残念な思いもあります。
 私が若いころ、讃岐土は船で運んできましたが、潮が満ちていないと船が海岸へ接岸できないので、潮の満ち引きを利用する必要がありました。潮が引いたときには、船がずっと沖の方にあるので、粘土を運べません。船から海岸まではあゆみを渡していました。潮が満ちたとき、限られた時間で潮が引くまでに粘土を陸揚げしなければなりません。菊間には仲仕(なかせ)と呼ばれる専門の人がいて、船が着くと、その人たちがもっこで粘土を肩へ担って、あゆみを渡ります。そして海岸と工場の間にあった国道を渡って粘土を運んでいました。現在のように交通量が多いと危なくてできませんが、そのころはまだ交通量が少なかったので、国道を渡って運ぶことができました。仲仕はあゆみが上下にしなるタイミングに合わせて粘土を運んでいましたが、新米の仲仕が、タイミングが逆になって、あゆみのしなりではじかれて海へ落ちてしまったのを見たことが何回もあります。海に落ちるとびしょ濡(ぬ)れになってしまうので、上着や下着を貸してあげたことも憶えています。新米の仲仕は、必ずと言っていいほど海に落ちていたと思います。
 船1隻分の讃岐土が半年から1年分の量になっていて、どの瓦業者にも讃岐土を置く土置き場というものが必ずありました。讃岐土を土置き場で雨にさらし、細かく鍬(くわ)で打っておきます。家の中には粘土を水に浸す所があって、土置き場からもっこで担ってきて入れたり、じょうれんで入れたりして、そこで水を加えながら、五味土を入れて混ぜます。
 五味土を混ぜる量も、適量があって、多すぎても少なすぎても良くありません。ただし、五味土は高価で、五味土だけを混ぜていると採算が合わないため、『島土』を混ぜる瓦業者もありました。島土は広島県の島で採掘される土で、五味土とよく似た黄色い土でした。土を練るのは下手間士という人たちで、この人たちが土を混ぜて荒地を出していましたが、注文に応じて、五味土と島土を混ぜて荒地を出していました。良い瓦を焼くときには五味土だけでしたが、安く済ませようと思うときは島土を混ぜるのです。
 私が子どものころは、まだ土練機や荒地機がなく、たたらというものを作って、たたらから荒地を出していました。たたらは粘土の塊を足で踏み固め、ある程度の高さにまで順々に積み上げて作ったものです。たたらの下に大引きという硬い針金を敷いておき、荒地の幅になるように、向かい合った2人がたたらの両方から針金を上に引っ張ってたたらを土塀のような形にします。次に荒地の厚さを決めて、2枚の真っすぐな板をたたらの両側に当てて、向かい合った2人が板に沿って小引きで両方から引っ張っていくと同じ厚みで切れます。そして、高さをそろえるように1枚ずつ切って荒地を作るのです。荒地は4枚から5枚ずつ重ねて乾燥させます。荒地と荒地はそのままだとくっつくので、乾いた瓦が割れたものを杵(きね)でついて作った粉を間に振りかけます。粉を振りかけては重ねてということを繰り返し、4枚から5枚ずつ重ねて乾燥させていました。
 荒地機がなかったころは、ものすごく手間や時間がかかりました。また、同じ幅や厚さのものを作るためには高い技術が必要でした。粘土が柔らかすぎると、作ったたたらがぐにゃりと曲がって倒れてしまうこともあり、皆が困っていました。下手間が上手な人は1回でちょうど良い硬さに合わせますが、下手な人が作ったたたらが駄目になってしまったことを憶えています。私が小学生ころまでは、そのように荒地を出していて、実際に見たことがあるのは私たちの世代が最後だと思います。
 私が仕事をするようになったころには、だんだんと機械化されていきました。しばらくすると粘土を混ぜてから土練機で練って、練った粘土の塊を荒地機で荒地を出すようになりました。荒地は1枚ずつ、5枚重ねて、荒地場と呼んでいた広い場所で乾燥させていました。何日か陰干しをして乾燥させ、硬さを確認した上で、乾燥させた荒地を1枚ずつ型に載せます。そのころは木型でしたが、現在は金型を使用しています。また、手で叩(たた)きながら形を作ったり、手で荒地を切ったりくっつけたりして、さまざまな瓦を作っていました。」

 イ プレスと磨き 

 「自分で荒地を作る業者もありますが、共同工場で作った荒地を各瓦業者に持っていき、各工場でそれを金型でプレスすると、いろいろな形の瓦になります。私(Bさん)たちの子どものころと現在とで大きく変わったことの一つに金型で抜くようになったことがあると思います。瓦の形によって、とにかく多くの種類の型が使われるようになりました。子どものころや私が仕事を始めたころもまだそうでしたが、以前は一つ一つのパーツを手でくっつけていろいろな形の瓦を作っていました。現在では金型で一度に抜けるようになり、模様も自動的に付けることができるようになっています。寺院や城郭の家紋なども手で付けたり、別に作ってから付けていたものが、一度に成形されるようになりました。粘土を入れると全自動で地瓦ができるような機械も出てきています。
 成形された瓦は乾燥させますが、その前に磨きという工程を行います。磨きは成形された瓦を、金ベラやこてで1枚ずつ磨いていく作業です。瓦によっては複雑な形をしているものもありますが、それを一枚一枚、艶が出るように、焼いたときに銀色がきれいに出るように磨いていきます。ほかの産地と比べた菊間瓦の特徴はこの磨きにあると思います。ほかの産地では大量生産を行っているので、この磨きが省かれていることが多いのです。しかし、菊間瓦は丁寧な磨きによって、屋根に葺いたときに銀色がきれいだと評価されてきたのだと思います(写真3-2-7参照)。
 また、磨きの作業と同時に行儀といって、ねじれの調整を行います。焼成すると曲がることがあるので、このときに逆方向に持っていって、焼くと真っすぐになるように調整します。土に癖がついていて曲がることや、荒地を作るときの機械で癖がついてしまうこともあります。瓦の種類によっても違うので、そこは経験が物を言うと思います。」
 「成形したものを最初は何もしないで乾燥させると、どちらかにゆがむといった癖が出てくるので、それを直していきます。だいたい同じ共同工場から荒地を持ってくるので、他の業者から『こんな癖がある。』と教えてもらってゆがみを直すこともあります。粘土によってもいろいろで、癖の悪い粘土もあれば、素直な粘土もあります。粘土の癖を消しても、荒地にするために力をかけて金型から粘土を出すので、その癖も出てきます。荒地も真っすぐではなくて瓦の形をしているので曲線部分でどうしてもゆがみが出てくるのではないかと私(Cさん)は思います。」

 ウ 乾燥と引土

 「磨いた後は、粘土や気候によっても違いますが1週間ほどおいて乾燥させます。私(Bさん)が子どものときは、外で乾燥させていました。急激に乾燥させると良くないので、室内である程度乾燥させて硬くし、『これだったらねじれも切れもない』というような状態で外の広い場所の地面に並べて乾燥させていました。外に出してからは、1日か2日で乾燥が終わりますが、雨が降ると、粘土が溶けてしまうため、家族総出で急いで片づけたこともありました。天候の悪いときなどにはダルマ窯がある所に木で棚を作って、窯の熱で乾燥させることもありました。私も子どものころ、瓦運びを手伝っていたことを憶えています。
 しばらくして乾燥棚が使われるようになったので、そのようなこともなくなりました(写真3-2-8参照)。乾燥棚が使われるまで、作業場の床は土でした。乾燥棚の下には車が付いていて、押して移動させます。そのため、床が土のままでは不都合になったので、コンクリートで舗装する必要が出てきました。
 乾燥が終わると焼成ですが、その前に引土(ひきつち)をします。引土というのは、化粧みたいなものです。細かい粘土を粉にして水で溶き、窯に入れる直前に表面に塗って、きれいな銀色を出します。極端に変わるわけではないので、産地によっては引土をしないところもありますが、菊間では昔から引土をしていました。菊間では、がいろめ粘土という粘り気のある細かい粒子の粘土を、だいたい使っていました。がいろめ粘土は愛知県で採掘されたものではないかと思います。
 引土が終わると、窯に入れて焼成をした後、選別をすることになります。私が子どものころは、できた瓦をくくる際、『はいがしら結び』という方法でくくっていました。現在では自動結束機を使ってビニール紐(ひも)で瓦をくくっているため、はいがしら結びができる人は、なかなかいないのではないでしょうか。」

 エ 焼成

 (ア) 窯の変遷

 「昭和30年代・40年代と現在では使用する窯も替わっています。昭和40年代まではダルマ窯が使われていました。私(Bさん)が昭和55年(1980年)に実家に戻って瓦の仕事を始めたときはガス窯に替わっていましたが、子どものときはダルマ窯を使っていて、よく手伝いをしていました。窯を焚(た)くときには、父から『右に入れろ。』とか『左に入れろ。』と指示され、そのとおりに木を入れていました。父が『止めるぞ。』と窯を閉じるときには、窯の左右にある焚き口を同時に閉じなければならないので、合図があると兄と一緒に閉めていました。
 ダルマ窯で瓦を焼成するときには夕方に火を入れ、ネラシを行います。ネラシというのは、いきなり温度を上げると、瓦がゆがんだり、ひび割れしたりするので、最初の方は徐々に燃料を投入して温度を上げていく工程です。夕方からネラシを行って、午前3時くらいから本焚きになります。本焚きは4時間くらいだったと思います。燃料を徐々に投入して温度を上げていき、窯の火を止めるのが午前7時ころになります。私はそのころに窯に行って、手伝いをしていました。ガス窯だと温度計がありますが、ダルマ窯にはなかったので、炎の色を見て温度を判断していたようです。私たちには分かりませんでしたが、父たちは炎を見て『今止めたら良い』と判断をしていました。
 当時のダルマ窯の場合、一度に地瓦で600枚くらい焼くことができたのではないかと思います。しかしダルマ窯の内部は場所によって温度が違うので、良い瓦は半分くらいしかできなかったのではないかと思います。焼成が終わると、窯からまだ熱い瓦を出して並べ、父や祖父がこれが一等、これは二等と分けていました。」
 「ダルマ窯は歩留まりが悪かったのですが、ゆがんだ瓦も実際には使えないわけではありません。屋根を葺くときにはそのような瓦も使いながら葺いた方がきれいに葺けることもあると私(Cさん)は思います。特に入母屋造りだったり、寄棟造りだったりすると、そういう瓦も使いながら葺くと収まりのよい美しい屋根になります。
 昭和40年代の終わりころからガス窯が使われるようになり、現在ではダルマ窯は全く使われていません(写真3-2-10参照)。ガス窯では、一度に瓦が1,000枚以上焼けます。ダルマ窯を使用していたときには、地瓦であればおそらく600枚くらい焼けましたが、入れる瓦の種類によって数が変わります。軒瓦や袖瓦のような瓦も焼くので、通常は400枚くらいだったのではないかと思います。
 ガス窯が使われた当初はベンチュリー窯というタイプでしたが、多く使われたのは16個の焚き口がサイドにあり、炎の見える窯でした。その窯で一度に1,200枚焼成ができます。最初のころは窯の中に瓦を1枚ずつ入れてセットしていましたが、徐々に窯の外でパレットに瓦を積んでおいて、窯の中に運ぶように変わっています。現在では強制窯といって、強制的に炎を循環させる効率の良い窯が使われています。その中でも今最も使われている窯は一度に2,000枚の瓦が入り、15時間くらいで焼成できます。また、自動的に温度を制御してくれるので楽になりました。」
 「ダルマ窯の場合、炎を見て温度を判断しなければなりませんが、ガス窯の場合はその必要がありません。温度計があり、一定の温度以上には上がらないように設定することもできて手間がかかりません。また、ガス窯で焼成した瓦はダルマ窯と違って、ほとんどの瓦が一等になります。良いことですが、多くの量ができてしまって、価格が安くなっています。楽にはなっていますが、それが良いことなのか悪いことなのかと私(Bさん)は考えてしまいます。」
 「私(Aさん)たちは鬼瓦を専門に作っていたので、ガス窯に替えたのは平成3年(1991年)ころと菊間でも最後の方だったと思います。普通の瓦業者は瓦と一緒に鬼瓦を窯に入れて焚きますが、鬼瓦は高価なものなので、あまり高温にならない場所に窯入れしていました。高温で急に温度を上げて焼くと、割れたり、ねじれが出たりするのです。私たちは、鬼瓦だけを入れて焼くので、ダルマ窯でじっくりと焼く方が良かったのです。」

 (イ) 燃料の変化

 「ガス窯に替わる前のダルマ窯では、マツが燃料として使われていました。私(Bさん)が子どものころは『松葉を取って来い。』と言われて、松葉を運んでいました。当時は『松葉ぐろ』といって、松葉を家のような形に積んでいました。川沿いや海沿いに松葉ぐろがずらっと並んでいたことを憶えています。
 仲仕さんが松葉ぐろを作っていました。仲仕さんは船で瓦を運んだり、粘土を降ろしたりしますが、木を割って燃料として使えるようにしたり、松葉を積み上げて屋根型にしたりということもしていました。当時は、仲仕組合という組合組織もあったのではないかと思います。
 仲仕さんたちがマツを積み上げるわけですが、どうして積み上げるのかというと、生の状態では使えないので、乾燥させるために置いていたのです。松葉は直接燃料として使うわけではなく、瓦を銀色にするとき、最後にコミという工程で使います。温度を上げて焚くときは大束(だいそく)というマツの幹の部分を使います。幹の部分は丸太のままだと使いにくいので、仲仕さんが割って用意してくれていました。」
 「私(Aさん)が仕事を始めたころは、薪で焚いた後で、松葉の束を入れ、火を止めていました。そうすると窯の中で瓦が蒸し焼きになって、いぶし銀の色になるのです。マツだけで焼いているころが一番良い色が出たのではないかと思います。マツがなかなか手に入らないようになってからは製材所で出た余りの材木を束にしているものを、製材業者に車で運んできてもらって、それで間に合わせていました。安いからと外国産の材木を焚いている瓦業者もありましたが、外材は塩分を含んでいるようで、良くなかったようです。後で重油に替わったのですが、私は焼成の終わりの方ではマツなどの薪を使うようにしていました。」
 「菊間では、瓦を焼く際にマツの木が使われていました。しかし、私(Cさん)が中学生くらいのころだと思いますが、昭和40年代の終わりころにマツクイムシの影響でマツが少なくなってきました。ただし、それ以前からだんだんと燃料には困っていました。マツ以外にも製材のときに出た端材などを使うなど、燃料となる材木が潤沢にありましたが、製材業も斜陽になっていき、材木がだんだん少なくなっていました。おがくずを固めたオガライトや、そのほかにもダルマ窯の焼成に合う燃料をいろいろと試していましたが、調達コストも上がっていたこともあって、『ガスしかないのではないか』ということになりました。そのような状況で皆がガス窯に替えていき、値段も少し手ごろになっていたこともあって、短期間で多くの瓦業者がガス窯に替えていったことを憶えています。」
 「製材業も昭和30年代、40年代には、ミカンの木箱の製造のために菊間製箱協同組合があったことを私(Bさん)は憶えています。組合でミカン箱の注文をとって製造するなど、製材もかなり盛んでした。ミカン箱だけではなく、菊間の製材業者の中には大手のビール会社や大手の酒造会社と取り引きをしており、ビールや日本酒の瓶を入れるケースも作っていたという話を聞きました。その方は、『山の木をこっちからこっちまで』と木材を切って、それを出してもらっていたとよく言っていました。」

 (ウ) コミ

 「コミというのは瓦に銀色を付ける工程です。瓦をダルマ窯で900℃くらいで焼いた後、コミの工程では、松葉を入れて、蓋をして蒸し焼き状態にします。そのときに少し穴を開けないといけませんが、窓側に煙の出る穴を開けて、それを徐々に小さくしていき、最終的には密閉します。密閉すると蒸し焼き状態になり、銀色が出るのです。
 ガス窯の場合でも同じように、窯の中をブタンガスで充満させておくと、強還元という化学反応が起こって、瓦の表面に炭素の膜ができて銀色になります。普通に焼いただけではレンガと同じような色になりますが、コミの工程を行うことで、銀色になるのです。これがいぶし瓦です。松葉でも同様の作用が起きているのですが、ブタンガスで銀色を付ける場合と、ダルマ窯を使用して松葉で銀色を付ける場合では、微妙に色が違うのではないかと私(Bさん)は思います。」

 (エ) ダルマ窯の思い出

 「兄が実家の製瓦業を継いだので、私(Aさん)は独立して瓦を焼き始めました。私の工場には、ダルマ窯が二つありました。実家には窯が四つありましたが、兄は外交の仕事で忙しく、あまり家にはいなかったので、最後に焚き上げて窯の蓋をしてしまうときに、『一番大事なときなので見ていて欲しい。』と言われ、私が実家の窯も見ていました。私が六つの窯を見ていたので、毎日必ず二つか三つの窯で瓦を焼いていました。当時は大きな産地でも六つの窯を設置している工場はほとんどなかったので、窯を焚いた数は誰よりも多かったのではないかと思います。
 そのためでしょうか、そのころは私もまだ若かったのですが、『私が見た窯で焼いた瓦が良い色が出ている。』と言われて、菊間一帯の瓦業者が『教えてほしい。』と見学に来たほどでした。ダルマ窯を焚くときのコツは、窯の最後に火を止めるときの瓦の色をよく見ることです。窯の焚き口が両方にあってそこから瓦の色が見えます。また、窓口といって煙が出る所に窓が開いています。それらからのぞき込むと瓦の色が見えますが、その色の見極めが大事なのです。ガス窯と違って、窯の内部の温度を測る温度計がなかったので、人の目で色を見る必要がありました。順々に焚き上げていくと、白かった瓦が赤くなっていきます。次にその赤い色の赤みが弱くなって、しらけていく境目を見ていきますが、その境目の見極めが難しいのです。
 私は長年たくさんの窯を焚いて見極めてきましたが、もちろん全て成功したわけではありません。実際は窯を開けてみないと分からないことも多いのですが、数をこなしている分だけ見極めることができていたのではないかと思います。普通の窯だと、2日に1回しか焚きませんが、私は毎日二つか三つの窯を焚いていたので、ほかの人の4倍くらいは窯を焚いていて、勘というか、『この色のときに火を焚くのを止めて、窯に蓋をしたら良い』ということが分かったのではないかと思います。
 また、数をこなしただけではなく、自分でも研究をしてきました。瓦の色を良くするために、窯の火を止めて蒸し焼きにしているときに窯を開けて、水を入れますが、昔の人は、焚いた窯のおど口を開けて水を入れていました。すると、蒸気が外に吹き出してきて、熱くてたまりません。何とかならないかと工夫をして、窯の中のあぜに穴を開けたパイプを入れて、外から水を入れると、それほど熱い目に合うことなく、蒸気が窯に回るのではないかと考えました。実際にしてみるとなかなか評判が良く、皆がそれをまねたことを憶えています。
 ダルマ窯は数年に1度作り直さなければなりません(写真3-2-13参照)。積んだレンガが外に開いてきて窯が傷みやすいので、『両側に鉄のアングルを4本立てて留めておくと、レンガが外に開きにくく屋根が落ちにくいのではないか』と考え、鉄工所に依頼して、そのようにしてもらったところ、窯が長持ちするようになりました。そのようにいつも工夫することを考えて仕事をしていました。」

(2) 鬼師として生きて 

 ア 仕事を始める

 「私(Aさん)は中学校を卒業してすぐに仕事を始めましたが、すでに中学校に通いながら仕事の手伝いをしていたので、仕事を始めて70年以上になります。私は中学校を卒業後、今治西高校(愛媛県立今治西高等学校)の定時制の分校が菊間にあったので、4年間夜学に通いながら仕事をしていました。そのため、午前4時ころから起きて、窯で火を焚いたり、窯入れをしたりしていました。仕事の片づけをして、窯もきれいにしてからでないと学校に行けなかったので、当時は朝早く起きて仕事をしていたのです。
 やがて独立して、初めは自分で工場を持って、ダルマ窯で瓦を焼いていました。しかし、実家とは別の道を歩んだ方が良いのではないかと考え、いつかは鬼瓦を専門に作りたいと考えていました。私の父は道具師といって、役物(特別な役割を果たす瓦)といわれる瓦を専門で作っており、鬼瓦も作っていたので、私も見よう見まねで習っていたからです。そこで、昭和35年(1960年)ころに鬼瓦を作り始め、10年くらいは鬼瓦と普通の瓦の両方を作っていましたが、昭和45年(1970年)ころから鬼瓦を専門に作るようになりました(写真3-2-14参照)。」

 イ 鬼瓦を作る

 「現在は荒地を作る機械を設置し、鬼瓦を金型で抜く機械もあります。鬼瓦も手で押さえて作るのではなく、金型を作っておいて機械で抜くことができるような時代になりました。しかし、私(Aさん)が鬼瓦を作り始めたころは、全て手で作っていました。そのため、1日に四つか五つくらいしか作ることができなかったように思います。現在は、機械で1日に何十という瓦を作ることができます。
 一時は大阪や広島へも鬼瓦だけを船に積んで運んでいた時代もありました。高度経済成長期で、南予地方もミカンの価格が良く、真珠やハマチの養殖が好調だったので、立派な家がたくさん建っていたような時代でした。そのころは瓦業者も景気の良い時代で、南予地方の宇和島や吉田(よしだ)(現宇和島市)、御荘(みしょう)(現愛南(あいなん)町)、さらに高知県の宿毛(すくも)の瓦業者から注文があり、鬼瓦だけを積んで何度も運んでいたことを憶えています。今ではかなり少なくなってきましたが、私が仕事を始めたころは、菊間町全体で100軒以上の瓦業者がありました。かつては各業者が鬼師を雇って鬼瓦を生産していましたが、鬼師がだんだんと少なくなってきたので、私のような鬼瓦専門の業者に直接注文が入るようになり、仕事がたくさんありました。ただし、現在は屋根を葺く施工業者はありますが、製造業者は随分少なくなってしまいました。鬼瓦は瓦に付属するものなので、鬼瓦だけでは売れません。景気の良い時代は、テレビ局や新聞社が私のところにも毎年のように取材に来ていましたが、それも随分昔になってしまいました。」

 ウ 鬼師としてのやりがい

 「昔はもちろん全て手作りで、江戸時代のころに作られた作品が、各地の神社仏閣にまだ残っています。私(Aさん)はそれらを県外であっても見に行って、写真を撮影しています。それを見本に作品を作ることもありますが、昔の人はコストや手間暇などは全然考えず、作品の出来具合を争うような時代だったのではないかと思います。昔の鬼師の作品は細部までこだわって、立派に作られています。また全体のバランスも見事で、昔の人は寸法や出来上がりのイメージが頭に入っており、高さや長さなど、さまざまなことを計算して作っていたのだと思います。昔の名人と呼ばれるような人が作ったものは、動物の顔にしても私たちが作るものとは全く違います。それらの作品を見て、まねて作ることで、良い勉強をさせてもらっています。
 私も70年以上仕事をしていますが、一生かけてどれだけ作っても昔の人には追い付けそうにありません。周囲からは非常に良い鬼瓦を作っていると評価してもらっていますが、私はまだ満足していません。まだまだ勉強しなければならないと思っています。」 

(3) 寺社専門の瓦業者

 ア 寺社専門で瓦を作る

 「私(Bさん)のところでは、寺社の瓦を専門に手掛けていました。瓦の製造だけでなく、施工、つまり屋根を葺くことも行っていました。屋根を葺く技術も特殊技能なので、専門の職人を抱えていました。瓦の製造はやめましたが、屋根を葺く施工の方は、現在でも社長である兄が西条(さいじょう)で、瓦を仕入れて九州や香川で寺院の瓦を葺く仕事を続けています。もともと私は会社勤めでしたが、ちょうど今治城の屋根を葺いていた、昭和55年(1980年)に瓦の仕事を始めました。寺社の瓦が多いですが、城郭の瓦も手掛けていて、私が瓦の仕事を始める前ですが、私のところでは広島城や小倉城、福山城、中津城、島原城と多くの城郭の仕事をしてきました。
 もともと祖父が寺社の瓦を専門に手掛けることにしたそうです。当時、菊間の瓦業者の多くは、問屋に瓦を卸して、施工は別の業者が行っており、自分のところで瓦を製造しても瓦を葺くことはあまりしていなかったそうです。しかし、祖父は商売好きでもあり、『瓦を売るのであれば、屋根を葺くところまですべきだ』と考え、売り込みに行っていたそうです。
 広島城の仕事は、広島の寺院の屋根や、江戸時代の思想家の頼山陽史跡資料館の屋根を施工した際、『きれいな屋根瓦だ』と思った資料館の人が、『瓦を作るだけではなくて最後までしてくれるところがある。』と紹介してくれたのが縁で、施工させてもらったと聞きました。その後、昭和30年代に空襲で焼けた城郭の復興が進む中で、いろいろな城郭の瓦を施工させてもらったそうです。そのため、昭和30年代は私のところもかなり忙しかったようです。製造する瓦の量が何万枚にもなるので、私のところだけでなく、近所の瓦業者5軒ほどで分業して瓦を焼いていたと聞きました。」

 イ 小倉城の葺き替え

 「私(Bさん)が直接関わり、印象に残っているのが平成19年(2007年)に行われた小倉城の改修です。そのときには天守閣の屋根を葺きましたが、一番多く使った種類の瓦は3万8千枚で、丸瓦は2万枚使いました。その他もろもろの瓦を入れると全部で8万枚くらいになったのではないかと思います。葺くだけで数か月かかりました。私たちのところの職人だけではなく、九州の社寺を手掛けている職人たちにも手伝ってもらって、合計10人くらいで取り組みました。
 8万枚もあったので、瓦の製造だけでも1年以上かかりました。一般の住宅とは違う特殊な瓦を作らないといけなかったので、結構苦労しました。唐破風(からはふ)の曲線の部分などは瓦の種類によって一枚一枚角度が微妙に違います。そこで、同じ種類の瓦でも角度や寸法を変えて作る必要があり、全ての瓦に寸法を記入していきました。右の下から何番目に葺くというような番号も瓦に記入し、下から見て真っすぐになるように作りました。図面上で判断できるものもありますが、現地で寸法などを測らないと分かりにくいものもあるので、土台を直してある程度屋根を葺くことができる状態になってから現地で測り、それから工場に戻って作らないといけませんでした。
 すでに持っていた道具だけでは、瓦を作ることが難しかったので、瓦を作る道具も新たに考えて、鉄工所に『こんな道具を作ってほしい。』と言って、簡単な道具を作ってもらいました(写真3-2-16参照)。めったにはないことなので、苦労はしましたが、良い思い出です。自分でどうしたらよいか考えることができるので、普通の瓦を作るよりも変わった瓦を作る方が面白いと言えば面白いのではないかと思います。
 小倉城の瓦を製造していたとき、多いときには窯の前に5人くらい、成形に5人くらいの合計10人くらいの職人で仕事をしていました。忙しいときは、土日は関係ありませんでしたが、取り組んだ仕事が後世に残るものなので、やりがいのある仕事です。良くないものを作ってしまうと、『そこの瓦はこの程度か。』と言われてしまうので、『気を引き締めて取り組まなければならない』といつも思っていました。」

 ウ 瓦作りの研究

 「恥ずかしい仕事はできないと思っていて、ほかの瓦業者に教えてもらうことができなかったので、独学で勉強をしました。屋根を葺く職人といろいろな話をしたり、瓦の専門書を購入して学んだりもしました。
 また、何度も京都や奈良にも屋根を見に行きました。京都や奈良には有名な神社仏閣がたくさんあり、きれいな瓦も作られています。そのため、どういう部分でどのような瓦が使われているのか、葺いているのか、学ぶことは多かったと思います。
 特に京都の神社仏閣では、さまざまな種類の凝った瓦が使われています。奈良の神社仏閣は、京都とは性格が違っていて、特殊な瓦は使われていないのですが、きれいな瓦の葺き方をしています。実際に現地に行って見ることによって、かなり参考になりました。
 鬼瓦を作るとき、焼成は自分で行いますが、形を作るのは鬼師なので、鬼師には『今度のお寺はこういう風にしたいので、厚さはこうで、こういう形にしてほしい。』などと言ってかなり直してもらいました。そうしないと、良いか悪いかは別として、鬼師がそれまでと同じようなやり方で作ってしまうからです。
 瓦を葺いたときに見栄えがしないというか、何か勢いが足りないと感じることがあり、京都の神社仏閣の屋根を見たり、本を読んだりして、瓦の形を変えていったりもしました。
 私(Bさん)の兄が営業をしていて、見積もりもほとんどしています。そのため兄が、瓦の種類や枚数を私に説明して、『このように作ってくれ。』と言ってきます。しかし、私は『ここをこうしたら面白いのではないか、きれいに見えるのではないか』と自分なりに考えて作ることもあります。瓦を作る者にとっては、『今度はどうやって作ろうか』と、それまで作ったことがないことに挑戦することが楽しいのです。営業の人はどうしても利益が増えることを優先して考えるのだと思いますが、同じものを何百枚、何千枚作ると嫌になるので、少しずつでもより良くなるようにと考えて取り組んでいました。後世に残るものなので、どうせならば100年、200年と長持ちする瓦を作りたいものです。」

 エ 瓦作りの苦労

 「私(Bさん)も長い間瓦を作ってきましたが、行儀で変にねじれたりしたときには、本当に嫌になることもありました。窯もそれぞれの窯によって、微妙に色が違ったりします。窯の調子にもよりますが、瓦の色が変になってしまうこともあり、苦労したこともあります。小倉城の仕事の次の年くらいだったと思いますが、高知の大きな宗教施設の瓦を製造したときには、屋根を葺いたところ、色が黒ずんでいたため、相当の枚数の瓦を焼き直したこともありました。同じように作っているはずなのに、何が原因だったのかいまだに分かりません。その後、焼成の方法を変えたこともありました。
 他の瓦業者のことはあまり分かりませんが、寺社の瓦を専門に作ってきたので、珍しい種類の瓦を作るときに、どうすればよいのか誰かに聞くことができないことも苦労と言えば苦労です。そういうときは、昔からある道具や木型などを使いながら工夫をしたのですが、失敗だらけでした。最初のころに今治城の瓦を手掛けたのですが、そのときも設計士も知らないことが多く、試行錯誤の連続でした。私のところには昔からの菊間瓦の木型がたくさんありますが、一つの瓦を作るために、今ある木型では駄目だということになると、木型業者に頼んで少しずつ変えたものを作ってもらいました(写真3-2-17参照)。試行錯誤の連続でしたが、その当時はあまり苦にはなりませんでした。
 私は製造の責任者を務めていて、特に困ったのは、特殊な瓦などで、手でくっつけるような瓦を作ったときに、職人のつけ方が悪いと取れてしまうことでした。出荷するまでの間に取れるのであればまだ良いですが、屋根を葺いた後に取れると本当に困ります。職人の責任なのですが、仕事の早い人は割と取れることもありました。丁寧にするとどうしても時間がかかります。職人は1枚いくらの出来高払いだったので、全員ではありませんが、どうしても効率良く仕事をしたいと考えます。効率の良い仕事とそうでない仕事があり、5人も職人がいたので、どの人にどの仕事をさせたらいいのかと相当悩みました。効率の悪い仕事だと機嫌が悪いので、『今度はこの人に回してあげよう』などと気を遣っていました。今はそうではない業者も多いのですが、以前は出来高払いの業者が多く、腕の良い職人の中には効率の良い仕事を求めて、瓦業者を移動する人もたくさんいました。それが菊間のきれいな瓦を作っていた要因だったのかもしれません。」

 オ 瓦作りを伝承するために

 「私(Bさん)が仕事を始めてからは、受注の記録やどの瓦を何枚使ったというような記録を残すようにしています。昔の瓦業者は、『この場所の瓦を作った』といったような記録をあまり残していませんでした。他の瓦業者に、『どのお寺の瓦を焼いたという記録は何かないですか。』と聞きに行っても、『いやあ昔のことは全然分からんのよ。』という答えが返ってきます。しかし、こうして記録に残しておけば修理の依頼があってもすぐに対応ができます。
 いろいろな瓦を作るため、自分のために作り方を記録しておいたのですが、窯業協同組合で『何か事業をしなければ』ということになり、『自分が記録しているものをもっと整えたらどうだろうか』と考え、『菊間瓦成形手順書』を作りました。最初は名前も付けていなかったのですが、夜に思い出したことを自分で鉛筆で書きためておき、それをパソコンに入力したり、自分が分かるところを書き足したり、ページや表紙を付けたりしていきました(写真3-2-18参照)。平成27年(2015年)に完成しましたが、普通の瓦だけではなく、寺社や城郭にしか使わない特殊な瓦の作り方なども記録として残さなければならないと思って作りました。」

 カ 菊間瓦の歴史を調べる

 「現在は菊間の瓦の歴史をもっと調べたいと私(Bさん)は思っています。そこで、古い瓦を集めたり、組合の資料を調べたりしていますが、組合の資料を調べていると面白いことが次々に分かって驚きます。
 明治元年(1868年)のことになりますが、広島藩主の浅野家から瓦組合に10万枚の瓦の注文が入っています。広島の方でもあまり知られていないようですが、現在の東広島(ひがしひろしま)市に秘密の城郭を建てていたそうです。明治の初めの今後どうなるか分からなかった時代に、広島城では海からの砲撃に不安があったので、内陸部の盆地に城郭を築こうとしたそうです。そこで菊間に瓦の注文が入り、3年くらいかけて瓦を送ったそうですが、明治政府の支配が安定してくると、その必要がなくなってすぐに壊したそうで、もったいない話です。そのとき作った瓦なども払い下げになったそうですが、その辺りで瓦を拾うと菊間瓦の刻印があるものがあります。
 ほかにも調べていると、日本の歴史と深い関わりがあることもあります。明治の初めに鹿児島県では廃仏毀釈を徹底して、仏教寺院の多くが破壊されてしまったそうです。ところが、しばらく経(た)ってから、鹿児島県の参事が念仏禁制を解き、西本願寺鹿児島別院が建てられた際、そこからも菊間に瓦の注文が入っています。いろいろと調べると面白いことがあり、『なぜ、関わりの薄い鹿児島からそのような大きな注文があったのだろうか』と疑問を持ったり、『菊間の瓦の評判がものすごく良かったのだろうか』とつくづく思ったりしています。
 ほかにも明治時代には中四国各地の師団や、呉(くれ)(広島県)の鎮守府などに瓦を納入していますし、台湾や朝鮮の軍事施設からも瓦の注文もあったようで、『日本の歴史と菊間瓦が結構関わりがあるのだなあ』と感慨深いものがあります。
 昭和に入ってからも軍から注文が入っていて、中国の南京(ナンキン)に南京神社を建てる際、昭和16年(1941年)に瓦1万7千枚くらいの注文が入っています(写真3-2-19参照)。調べてみると南京神社の建物がまだ中国の南京市に残っているらしいことが分かりました。『戦時中の日本の建物がよく残っているなあ』と思ってインターネットで写真などを見てみると、ほとんどの人は分からないと思いますが、瓦の種類がこちらに残っている注文書に記載されている種類と同じで、家紋も注文書どおりなので、『これは間違いなく菊間の瓦だ』と思いました。記録を見ていると、最初は軍需品として優先的に輸送してくれるという条件でしたが、民需品扱いになり、優先順位が低いためになかなか輸送できず、最終的には商工大臣の名前で特別な許可をもらって輸送したそうです。調べてみると、当時の商工大臣は岸信介でした。神戸(こうべ)(兵庫県)から船で輸送する予定でしたが結局長崎(ながさき)から上海(シャンハイ)まで運び、そこから南京まで輸送しました。記録を見ると、輸送途中で破損した瓦もかなりあったそうで、当時の手紙には、『せっかく作ったのに』と書いてありました。それでも何とかして屋根を葺いたみたいで、昭和18年(1943年)11月3日に鎮座式が挙行されたと報告書に書かれていました。『戦争が激しくなる中で、よく完成させたなあ、まして菊間の瓦で』と感慨深く思います。」

 (4) 菊間瓦の現状

 「国内の瓦の大産地は三州(愛知県)、淡路、石州(島根県)で、この三つの産地で瓦全体の9割くらい生産しています。その産地間でも競合しているので、経営規模を大きくしないと競争に負けてしまいます。石州は他の産地に対抗するためにかなり協業化を進めたようです。しかし協業化したところはなかなか厳しい状況に陥っています。淡路でも瓦業者が合併して大きな企業を作っていますが、なかなか難しいようです。菊間も効率的な瓦作りを追求してきましたが、それではほかの大産地とあまり変わらなくなります。もしかすると、手作りでいろいろな要望に応え、付加価値のある製品を作らなければ、産地として生き残っていけないのではないかと私(Cさん)は思います。
 以前と比べて現在の瓦は大量生産ができるようになっており、産地間の競争も激しいので、製造コストに見合う価格にはなっていません。さらに人口が減って住宅の着工数も減っていて、和形の瓦を選択する人が減っているため、需要は少なくなっています。和形の屋根とほかの屋根のどちらを選ぶのが良いのかというと、初期では性能の差はあまりありません。20年、30年と住み続けると、美しさやメンテナンスの容易さなどで、やはり和形の瓦が良かったと考えるのではないかと思いますが、住み始めてすぐに違いが分かるというようなものではありません。また、核家族化が進み、住宅を建てて20年、30年で子どもが独立した後は、家がそれほど長持ちしなくても構わないということになると、デザインや効率が大切となり、その後に壊しやすい家の方がよいということになるのかもしれません。いぶしの瓦を使った家は、2代、3代と住まないと意味があまりないかもしれないと思うことがあります。
 また、阪神大震災などの震災が起こって以降、『家が倒壊するのは屋根が重いからだ』と盛んに報道されたことも瓦の需要が減った原因です。和形の瓦で葺いた屋根は確かにほかの屋根に比べて重たいですが、建物の構造によって耐震性が全く違うので、和形の瓦の屋根だから揺れに弱いというわけではないのです。和形の瓦の屋根の重さがかなり宣伝されて平板瓦や金属の屋根の家が増え、産地としては弱りました。」
 「古い資料を見ていると、菊間では昔から原料となる粘土があまり採れないという産地としては不利な条件で瓦を作ってきましたが、どうして菊間瓦がこんなにも有名になったのかというと、やはり技術力がある上に、丁寧に瓦を作ってきたためだと私(Bさん)は思います。
 景気の影響で寺社でも寄進が減っているのか、瓦の葺き替えなどの仕事も以前と比べると少なくなってきました。とりあえず悪いところだけ修理して、葺き替えは次の機会にというところも多くあります。一般の住宅でも瓦の需要が減っていますが、需要の減少と同時に、工務店や設計士の考え方自体も以前とは違ってきているのではないかと思います。メンテナンスをして長期間使うということを考えていないのではないかということです。効率ばかりを優先してしまい、瓦の良さや風情などをあまり考えていないのではないでしょうか。普段生活していく上ではあまり関係ないことかもしれませんが、町並みをどう作っていくのかということも、町づくりという点で大切なことではないかと思います。」

写真3-2-1 荒地(半製品)

写真3-2-1 荒地(半製品)

令和3年11月撮影

写真3-2-2 瓦工業組合

写真3-2-2 瓦工業組合

令和3年11月撮影

写真3-2-7 磨き.jpg

写真3-2-7 磨き.jpg

令和3年11月撮影

写真3-2-8 乾燥棚

写真3-2-8 乾燥棚

令和3年11月撮影

写真3-2-10 ガス窯

写真3-2-10 ガス窯

令和3年11月撮影

写真3-2-14 Aさん製作の作品

写真3-2-14 Aさん製作の作品

令和3年11月撮影

写真3-2-16 工夫して作った道具

写真3-2-16 工夫して作った道具

令和3年11月撮影

写真3-2-17 何種類もある木型

写真3-2-17 何種類もある木型

令和3年11月撮影

写真3-2-18 菊間瓦成形手順書

写真3-2-18 菊間瓦成形手順書

令和3年11月撮影

写真3-2-19 南京神社瓦関係書類

写真3-2-19 南京神社瓦関係書類

令和3年11月撮影