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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 戦争の記憶

 ア 戦争一色の子ども時代

 「私(Aさん)が小学校に入学したときは尋常小学校でした。当時、今治市内には尋常小学校が第一から第五まであり、その後、私が小学3年生のときに、それぞれ今治、美須賀、日吉、別宮、常盤国民学校になったと思います。私が小学2年生のとき、皇紀二千六百年行事があったことを憶えていますが、そのころ日中戦争がすでに始まっていて、3年生のときに太平洋戦争が始まりました。少々勉強ができるよりも、体育で頑張る子どもの方が受けが良かった時代で、絵を描く際も、日章旗を掲げた戦艦とその上空を戦闘機が飛んでいるような絵ばかりを描いていました。子どもたちは、夢や希望を持って『将来は何々になりたい』と思うのではなく、『大きくなったら兵隊さんになって戦争に行く』と思っていました。小学5、6年生になるころには『どうやったら早く戦争に行けるだろう。』という話を友人とするようになり、『海軍兵学校や陸軍士官学校に入学すると時間がかかる。少年飛行兵になるのが一番早いのではないか。』などと話していました。
 太平洋戦争が始まってしばらくの間、この辺りでは直接の被害はありませんでしたが、食糧が不足気味になり、小学4年生のころには配給の切符がないと何も買えないようになりました。米の御飯を食べた記憶はなく、主食は配給されたジャガイモやサツマイモばかりでした。イモの蔓(つる)を食べたり、バッタを捕まえに行って、焼いて食べたりしたこともありました。終戦1年前の昭和19年(1944年)、兵士が足りなくなって内地から補充しなくてはならなくなり、父が徴兵されました。当時、父は39歳で、年齢的に徴兵されるとは思っていなかったため、驚いたことを憶えています。父はすぐにフィリピンの戦場に送られて、そこで戦死しました。」

 「広小路は片原町から市役所までの通りですが、駅まで真っすぐ見える通りにして、駅までの距離が短く見えてはいけないということで、市役所の所で鍵の手状にして、駅までの別の通りを設けたそうです。戦時中、私(Bさん)が幼稚園児だったころ、空襲前で現在よりも道幅が狭かった広小路を、軍事練習をしていたのだと思いますが、兵隊が匍(ほ)匐(ふく)前進していたのを見た記憶があります。」

 イ 今治空襲

 「昭和19年(1944年)ころから、この辺りにも敵機の編隊が飛んで来るようになり、今治でも急に空襲警報が出るようになりました。昭和20年(1945年)、私(Aさん)が旧制今治中学校1年生のときに空襲で今治市街が焼けましたが、空襲は広島に原爆が落とされる前日、8月5日の夜遅くから始まりました。午後9時か10時ころに1回、空襲警報のサイレンが鳴って防空壕(ごう)へ行きましたが何事もなく、午後11時ころに警報が解除になって、『やれやれ』と思いながら家に帰って布団に入りました。すると寝入りばな、時間ははっきりとは憶えていませんが午前0時ころだったと思います。『起きなさい。』と言われて飛び起きると、家の前が真っ赤に焼けていました。慌てて内港の方へ走って逃げましたが、上空から次々と焼(しょう)夷(い)弾が落ちてきました。大人の人に『早く防空壕へ入れ。』と言われ、教会の前にあった20人くらいが入ることのできる防空壕に逃げ込みました。ダーン、ダーンと大きな音がしていましたが、一旦音がしなくなったため外へ出てみると、魚市場の前辺りに3mくらいの間隔で焼夷弾が落ちた跡があり、油の塊が燃えていたのを憶えています。家が焼けた場合、家族で喜田村にある寺に逃げることにしていたため、『先に逃げなさい。』と言われ、走って行こうとしましたが、前方に火の海が広がっていて進むことができず、海岸沿いから行くことにしました。すると、内港から伝馬船を出そうとしていた方がいて、『おじさん、乗せて。』と声を掛けると、『おう、早く乗れ。』と言って乗せてくれました。内港にも燃えて沈みかけている船がありましたが、その間を通って桟橋の向こうへ移動して、沖まで出たところで船を漕ぐのをやめて、じっと待っていました。その間も次々と焼夷弾が落とされ続け、風がなかったため真っすぐに白い煙が上がっていました。B29の編隊が飛んでいるのが見えましたが、今治市街が焼けているため、機体の底のジェラルミンが赤く反射していたことを憶えています。
 空襲が収まると、伝馬船は内港に戻り、私は桟橋で降ろしてもらいました。港務所は鉄筋造りだったため燃えておらず、そこに50人から60人くらいの人がいたことを憶えています。燃え残った大きな木が、小さな炎を出して燃えていました。この空襲では延焼した家が多かったらしく、駅から港にかけての街中は、鉄筋の建物以外は焼けていました。当時、鉄筋の建物は少なくて、銀行やラジウム温泉の建物が焼け残っていたことを憶えています。家という家は全部崩れて壁土などが落ちていて、広小路は道が多少残っていましたが、新町は道が狭くてどこが道なのか分からなくなっていました。そのため、新町の自宅に戻ろうとしたところ、初めは違う場所へ移動してしまいました。何とか新町の自宅に戻ると、隣の家の人が『おお、大丈夫だったか。』と声を掛けてくれました。しばらく待っていると、母が私を探しに自宅に戻ってきました。家族も命が助かって『やれやれ』と思ったことを憶えています。」
 「空襲でこの辺りはほとんど焼けました。空襲で焼けた家の瓦は、吹揚城の内堀や外堀である金星川に入れたそうです。終戦のころ、内堀にウナギがたくさんいましたが、食べ物が少ない時代だったため、竹で作ったわなで捕まえていた人もいたことを私(Bさん)は憶えています。」

(2) 戦争直後のくらし

 「空襲の後、私(Aさん)たち家族は、喜田村の寺に疎開しました。8月15日に重大放送があるとの予告があり、寺に村の人たちが集まってラジオを聞きましたが、雑音がひどくて何を言っているのか分かりませんでした。『何の放送だったのだろう』と思っていましたが、しばらくして私の一つ年上の先輩がやって来て、『日本は負けたぞ。』と言ったため敗戦を知りました。悔しかったですが、戦争が終わったことに内心ほっとしました。
 戦前と戦後で経済、思想など何から何まで変わりました。港務所の前では闇市が開かれ、大変な人出でした。そこではいろいろな品物が売られていて、ボロボロの服や片方しかない靴も売られていたことを憶えています。2学期になって中学校が再開され(昭和20年〔1945年〕5月に戦時教育令が公布され、授業は無期限で停止されていた。)、学校まで距離がありましたが、しばらくの間、疎開先から歩いて通学しました。戦時中、先生方は『日本は神の国だから、戦争に負けない。』と言っていましたが、社会科の教科書に『民主主義』という言葉があり、生徒たちは『先生、この間まで言っていたことと全然違うじゃありませんか。』と言って、先生方を困らせていました。先生方も『当時は、そう言うしかなかった。』と言い訳をしていましたが、それくらい価値観が大きく変わったのです。」
 「私(Bさん)が子どものころ、内港の現在駐車場になっている突端の辺りで、子どもたちがよく泳いでいました。渡海船が内港に接岸するようになるまでは、内港の海水はきれいでした。また、内港から出港する渡海船の後ろに乗り、途中で飛び降りて灯台まで泳いで渡っていました。その辺りには、誰もとりに来ないため、多くのサザエがとれたことを憶えています。私は美須賀小学校に通いましたが、空襲で校舎が焼けたため、当初は別の施設やほかの小学校を借りて授業が行われていました。」

参考文献
・ 今治商工会議所『今治商工会議所八十年史』1984
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)』1986
・ 愛媛県高等学校教育研究会社会部会地理部門『今治市の地理』1987
・ 今治市『今治郷土史 写真が語る今治 写真集 近・現代5』1989
・ 今治市『今治郷土史 現代の今治 地誌 近・現代4』1990
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 今治商工会議所『「いまばり博士」いまばり検定公式ガイドブック』2009