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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業20 ― 大洲市② ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 河辺村の林業

(1) 森林との共存

 ア 家の跡継ぎとして

 「私(Aさん)は北平地区の生まれで、家では主に植林などの山仕事と乾シイタケの栽培をしていて、そのほかに自家用の米・麦を作っていました。高校を卒業してから23歳まで横浜(よこはま)市鶴見区(神奈川県)の会社に勤めていましたが、父の後継者になるつもりでこちらに帰ってきました。そのとき父は還暦を迎えていました。家には父が相続したり買い増したりした山林がある程度あり、父と一緒に植林を行いました。その後も山林の管理を続けてきたので、昭和40年代に父と植林した木が今伐採できる時期を迎えています。」
 「私(Bさん)は昭和25年(1950年)に北平地区で生まれました。家では山林を少し所有していて、育林と乾シイタケの栽培をしていました。乾シイタケの栽培は父の代に始めたものです。また、自家用に米を作っていて、多いときは4反(約40a)くらい作っていましたが、近年はイノシシが出るようになったので、今は3反(約30a)弱に減らしています。
私は長男だったこともあり、将来的に親の跡を継いで山仕事を行うつもりで上浮穴高校(愛媛県立上浮穴高等学校)の林業科(現森林環境科)に進学しました。高校在学中は下宿していて、卒業後、こちらに帰ってきてから山仕事をするようになりました。23歳のときに結婚するまでの3年くらいは、河辺村農協に勤めながら山仕事や乾シイタケの栽培、米作りをしていました。」

 イ 農作業の苦労

 「この辺りでは、米の後作として麦を田んぼに蒔(ま)くと、麦の収穫後には田植えの時期が過ぎてしまいます。そのため、二毛作はできず、田んぼとは別の耕地で麦を作っていました。以前は2反5畝(約25a)くらいの田んぼで米を作っていましたが、今は1反5畝(約15a)くらいの田んぼで作っています。私(Aさん)が中学生のころまでは牛を使って耕作していました。耕地の基盤整備が実施されるまでは、2反5畝の田んぼが二十数枚の小さな田んぼに分かれていたため、大型の農業機械が入らず、手押し式の耕うん機を使うしかありませんでした。合併前の河辺村の時代に基盤整備が実施されてからは、田んぼにトラクターや田植え機が入るようになって農作業が随分楽になり、今でも米作りを続けています。」
 「母の時代には、田植えや収穫などの農繁期に近所同士が互いに労力を出して助け合っていて、それを『イイイレ』とか『イイナシ』と呼んでいました。昔の田植えは手植えで、田植えの前には苗引き(苗代から苗を抜き、適当な本数にまとめて束ねる作業)をしましたが、農業の機械化が進み、私(Bさん)も今は田植え機で苗を植えています。また、昔は刈り取った稲藁(わら)を稲木(刈り束ねた農作物をかけ並べて干すための柵や木組み)にかけて乾燥させていたものですが、今ではコンバインで収穫した後、乾燥機を使って乾燥させるようになりました。基盤整備が実施されるまでは田んぼ1枚の面積が大変狭く、手押し式の耕うん機でさえ回転させるのが難しかったことを憶えています。畑では自家用に野菜を作っていて、私が小学校(河辺村立北平小学校)に入学するくらいのころまでは、田んぼではなく畑で麦も少し作っていたように思います。子どものころは家で牛を1、2頭飼育して農耕に使役したり、牛糞(ふん)を堆肥として利用したりしていましたが、高校を卒業してこちらに帰ってからは、牛を飼育するのをやめました。」

 ウ ミツマタの栽培

 「私(Aさん)の家では商品作物としてのミツマタを栽培していました。林木が生育してお金になるまでの間に現金収入を得るのが目的で、隣の家でも栽培していました。ミツマタの栽培を手伝ったことはありませんが、中学生のころ、大きな蒸し釜で刈り取ったミツマタを蒸して皮を剝ぐという作業を随分手伝っていたことを憶えています。私がこちらへ帰ってきた昭和43、44年(1968、69年)ころが、河辺でのミツマタ栽培の最後くらいだと思います。」

 エ 植林と下刈り

 「スギやヒノキの苗木を植える前に雑木を切っておかなければなりませんが、これは大変な作業です。また、スギやヒノキの苗木を植えた後には、下刈りを行わなければなりません。下刈りとは、植え付けた苗木の生長の妨げになる雑草などを刈り取る作業です。下刈りを怠ってしまうと植えたばかりの幼い苗木は雑草などに負けてしまい、日光を遮られたり、水分を奪われたりして健全に育たなくなってしまうのです。植林して5年から7年の間は年に2回くらい下刈りを行わなければならないので、生えてきた雑草を大きな鎌で刈り取っていました。下刈りのときは7人から10人くらい雇っていて、だいたいは比較的近くに住んでいる人たちでした。男性をリーダー役として雇っていて、中には女性もいました。父が大きな鎌を持ち、10人くらいの人たちと下刈りを行っていたときに撮影した写真を見たことを私(Bさん)は憶えています。」
 「私(Aさん)は1町歩(約1ha)当たり3,000本、1反(約10a)当たり300本くらいのスギやヒノキの苗木を植えていたので、1.8mくらいの間隔で植えていたことになります。23、24歳のころから10年間くらいは、6月の終わりころから9月くらいまで下刈りを行っていたことを憶えています。スギやヒノキは蔓(つる)が絡むような雑草に生長を阻害されてしまうため、幼い苗木の間は絶対に下刈りを行う必要があります。10年が過ぎても手入れが不要となるわけではなく、今度は除伐を行う必要があります。」 

 オ 除伐と間伐

 「私(Bさん)は苗木を植えて15年くらい経(た)つと除伐を行っています。除伐とは、育てようとしている樹木の生育を妨げる他の樹木を切り倒す作業のことです。切り倒す樹木は高さが低く、日差しも十分に当たっておらず、生長していない樹木であることが多く、除伐を行っても全くお金にはなりませんが、一緒に作業する人を雇っていました。苗木を植えてから20年くらい経ったころに間伐を行います。
 間伐とは、森林の混み具合に応じて、樹木の一部を伐採し、残った木の生長を促す作業です。適度に間伐が行われた森林では、日光が適度に差し込むことで樹木の生育が良くなり、樹木が真っすぐに育ちます。間伐材からは垂木(屋根板を支えるために棟から軒にかけ渡す長い木材)などのような小さな木が取れるため、苗木を植えてから20年くらい経つと少しはお金になるという感じです。」

 カ 伐採

 「苗木を植えてから何年後くらいを伐期と考えるか、人によって意見が分かれると思います。40年後を伐期と考える人もいるでしょうし、60年後を伐期と考える人もいると思います。私(Bさん)は苗木を植えてから60年くらい経てば一山(ひとやま)を全伐(収穫時期を迎えた林木のまとまりを一度に全て伐採すること)しても構わないと思っています。
ただし、全伐した後は植林を行って元の状態に戻さなければなりませんが、それには大変な労力がかかります。また、木を育てるにはとても長い時間がかかり、一山を全伐すると元の山林の状態に戻すのに50年から70年かかります。私は今、80年生から90年生くらいの木が育っている山林で仕事をしていますが、今のところ全伐するつもりはなく、伐採する木を計画的に選別し、間伐を行っています。」

 キ 搬出方法の変化

 「私(Bさん)が子どものときは伐採した木材を、滑車を利用した索道で集積場まで運んでいました。私が本格的に林業の仕事を始めた20歳代のころは、全伐がよく行われていました。そのころは、仮設のロープウエイのような集材装置を使って空中にワイヤーロープを張り、伐採した木材をフックに吊(つ)るして運ぶ架線集材が行われていました。ワイヤーロープで集積場まで運んだ木材は、トラックに積んで運んでいました。その後、木材を運び出す搬器にエンジンを取り付けて、リモコンで操作することができる設備が普及しそうになった時期もありました。今は重機で自由に作業道を開設し、林内運搬車で搬出するという方法が一般的になっていて、それは当分変わらないだろうと思います。」
 「私(Aさん)は子どものころに見た、父の山仕事の様子をよく憶えています。伐採した木を枝打ちした後、皮を剝いで乾燥させていました。ある程度乾燥した時点で玉切りし、それを山林内で井桁に組み上げ、十分に乾燥させていました。その後、山の上の方から、斜面を利用して木材をこじり(山の麓)へ落としていました。木材は乾燥して軽くなっているので、比較的簡単にこじりに集まっていました。そこからはいろいろな方法で搬出していました。私が子どものころは、長さが2m、幅が50㎝から60㎝くらいのカシの木でできた丈夫な木馬(きんま)(そりのような道具)に木材を載せ、木馬道を走らせて運んでいました。木馬道を作る場合には、道路に雑木やスギ、ヒノキのうら木(樹木の先の方)を半分くらい埋め込み、しっかり固定していました。最終的には木馬道に使った木材も全て回収して売っていたそうです。木馬を使うようになるまでは、牛や馬、人力で引っ張って運んでいたそうです。私自身は牛や馬を使って運んだことはありませんが、こちらへ帰ってきたころ、木口に金具を打ち込み、金具に紐(ひも)を付けて引っ張って運んでいました。雪が降ったときにはそのような方法でも雪の上を木材がよく滑るため、結構能率的だったことを憶えています。そのような方法で運んでいたのは短い間で、すぐにワイヤーによる架線集材に替わりました。昭和45年(1970年)ころにはこの辺りでも集材機が使われていたと思います。」

 ク 森林組合の労務班員として

 「私(Bさん)は40歳くらいまでの10年間くらい、Aさんと一緒に河辺村森林組合の労務班員として仕事をしていました。そのころ、労務班には三つのグループがあり、それぞれのグループに班員が3、4人いました。賃金は日当制ではなく出来高制で、グループごとに山林の伐出業務を請け負い、あちこちの山林に分かれて作業をしていたことを憶えています。当時はマツクイムシによる被害が比較的多く、松林の所有者から、松枯れの被害を受けた木を伐採してほしい、という依頼が結構あったことを憶えています。そのころはまだ木材価格が良かった時代で、市場の平均単価はスギが1㎥当たり2万5千円、ヒノキが1㎥当たり3万5、6千円くらいで、2、3千円の幅で上下することがあるくらいで、価格が安定していた気がします。」

 ケ 最近の林業の状況

 「20年くらい前には、今後100年間は日本の木材の値段が上がることはないだろうと思っていましたが、最近は木材価格が少し良くなっています。アメリカ・中国ではコロナ禍からの経済回復を受けて国内での住宅着工が増加し、住宅需要の増大により木材需要が増加して供給不足となりました。その結果、中国はアメリカから木材が輸入できなくなり、日本から木材を輸入する事態になっています。木材価格の上昇は歓迎すべきことではありますが、私(Aさん)は良いことばかりとは言えないように思います。また、最近は、ドローンやロボットを活用した伐採・搬出の研究開発が進められているようですが、林業で生活できるよう木材価格の安定を望みます。」
 「現在、私(Bさん)が伐採した木材は、大洲市森林組合を通じて愛媛県森林組合連合会の木材市場に出しています。大洲市森林組合の関連会社であるKLC株式会社がトラックで運んでくれています。今は木材価格が高くなっているので、山へ行って仕事をしたいという気持ちが強くなっています。ウッドショックという言葉を聞いたことがあると思いますが、ヒノキの価格が2倍近く、スギの価格も1.5倍くらい高くなっています。そのため、今はできる限り伐採などの山仕事をしていますし、体が元気な間はそれを続けるつもりでいます。」

(2) 気候を生かしたシイタケ栽培

 ア 山仕事との相性

 「私(Aさん)がこちらに帰ってきたころ、家では主に乾シイタケの栽培をしていました。植菌(種菌を植え付けること)した原木を山林に伏せこむと、シイタケが発生するまでの期間は時間的余裕があるため、その間に山仕事をすることができました。シイタケの収穫時期に入っても毎日採取するわけではないので、その間に山仕事をすることができます。山林を育てることとシイタケ栽培は相性が良いと思います。」
 「若いころは、私(Bさん)は主に山仕事を受け持っていました。乾シイタケの栽培については、私が原木を切ったり植菌・採取を行ったりする作業を行い、乾燥から出荷までの作業は父に任せていて、乾シイタケを出荷した代金が入ったときに、父からいくらかのお金を受け取っていました。妻は役場に勤めていため、手伝うことができませんでしたが、父が元気なうちは母も手伝っていました。父が高齢となってからは、私が乾シイタケ栽培と山仕事の両方を行っていました。」

 イ 原木の調達

 「シイタケの原木としてはクヌギ、ナラが最も適しています。アベマキは樹皮のコルク層が厚く、シイタケが生えにくいため原木として最適ではありませんが利用することはできます。現在、合併後の大洲市の乾シイタケの生産量は6万㎏前後だと思いますが、私(Aさん)が若いころ、河辺村だけで最盛期には6万㎏くらいの乾シイタケを生産していました。また、生シイタケといえば今は菌床栽培が一般的ですが、当時は原木栽培も結構行われていました。この辺りで原木の入手が困難だったため、10年間くらいは長浜(ながはま)(現大洲市)や松山(まつやま)の湯山、北条(ほうじょう)(現松山市)まで行って原木を調達していました。林地で立木のまま購入し、伐採して玉切りしたものを集材して運搬車で運び、トラックに載せて持ち帰っていたことを憶えています。私は多いときには年間1,500㎏くらいの乾シイタケを生産していて、そのためには丸太が30,000本くらい必要でした。トラック1台に積める丸太を2,000本とすると15台分に相当する量です。私の家の山林で切った原木も少しはありましたが、乾シイタケ栽培で食べていけるくらい大量に栽培しようと思うと、そのような遠方まで出掛けて原木を調達しなければならなかったのです。」
 「原木にはクヌギを使っていますが、ここ2、3年は、他人の山林で必要な原木を切らせてもらっています。今は私(Bさん)の山林で原木を切るよりも、その方がお得だと思っています。自分の山林で原木を切ると、植林した後で下刈りなどをして育てなければならず手間がかかります。今は高齢になったためにシイタケ栽培をやめた生産者が増えており、余っているクヌギの山林がたくさんあるので、クヌギを非常に安く手に入れることができるのです。」

 ウ 植菌

 「シイタケの菌糸は原木が乾燥していないと生長しにくいため、植菌の前に、原木をできるだけ乾燥させておく必要があります。そのため、積み上げた原木をビニールシートで覆って雨や雪を遮り、風に当てながら乾燥させています。
 私(Bさん)は平均すると12、13万個の種菌を植え付けていて、昨年(令和2年〔2020年〕)は少し多めの14万5千個くらいの種菌を植え付けました。私の家では3月から4月に人を雇って種菌を植えていて、2人雇った場合には1日に種菌を8,000個くらい植え付けていました。私は、秋に発生し、春にも発生する品種を栽培しています。年が経つにつれて秋に発生する量が少なくなり、春に発生する量が多くなる品種もあります。この辺りのシイタケ生産者は、日本きのこセンターと森産業という業者から購入した種菌を植えています。種菌はだんだん値上がりしており、市から補助をもらって購入しています。東日本大震災の際に起きた東京電力福島第一原発の事故により、西日本で生産されたシイタケも風評被害を受け、半額以下くらいに値下がりした時期がありました。そのころにはいろいろな補助を受けました。今は種菌1個の値段が3円余りなのですが、1個当たり1円くらいの補助を受けています。」
 「シイタケの種菌を植える時期としては3月から4月くらいが最も適していると思います。種菌を植えるときに雑菌が付着しない方が良いとされていますが、それほど気を遣う必要はありませんでした。私(Aさん)は昨年(令和2年〔2020年〕)種菌を植え付けませんでしたが、以前は毎年30万から35万個の種菌を植え付けていました。種菌は森林組合(河辺村森林組合。現在は大洲市森林組合)を通じて、主に森産業と日本きのこセンターから購入していました。種菌の値段は大きく変動することはなく、徐々に上がっていきました。私がシイタケ栽培を始めた23、24歳ころ、種菌1個当たりの値段は1円に少し満たないくらいでしたが、今は3円を超えており、30万個の種菌を植え付けるとすると種菌の購入費だけで100万円くらいかかってしまいます。ですから、シイタケの値段が1㎏当たり3,000円から4,000円では採算がとれません。大洲市や愛媛県では、特用林産物の灯を絶やしてはいけないということで、原木や種菌の購入費を補助するなど、さまざまな助成措置を行っています。」

 エ 収穫までの管理

 「この辺りでは林の中にほだ場を設けることが一般的でした。ほだ木に直射日光が当たると、高温でシイタケの菌糸が衰弱し、害菌も侵入しやすいため、木漏れ日が当たるくらいの環境が生育には適しています。日光が常時当たるような場所にほだ場を設ける場合には、笠木や寒冷紗(かんれいしゃ)(薄くて目の粗い、平織りの綿布)を用いて日陰ができるように調節しています。また、梅雨時にはほだ場の周りに雑草が大量に生えてくるので、草刈りも行う必要があります。シイタケが発生する時期までの仕事はそれくらいです。
 ほだ木は比較的水分を必要とするため、種菌を植えた翌年、つまりシイタケが発生する年の8月前後には、ある程度降水量があった方が良いのです。台風の時期にはこの辺りも強風が吹き、ひどいときは笠木が飛ばされたことがありますし、めったにありませんが、ほだ木の一部が飛ばされたこともありました。
 種菌を植えてから2、3か月経ったころにほだ木の天地をひっくり返すと、菌糸の生長を促す効果があるとされています。私(Aさん)はかなり多くの乾シイタケを栽培していたこともあり、そのようなことはできませんでした。冬場にはほだ木が乾燥しやすいため、雪や雨の水分を吸収しやすくなるように、ほだ木を地面に倒しています。春になってシイタケが発生し始めると、ほだ木を起こして採取します。後になって散水設備も整備しましたが、そのような昔ながらの水分補給方法は、今でも効果があるとされています。」
 「種菌の購入先である日本きのこセンターと森産業の方が、毎年7月から8月にこちらにやって来て、ほだ場の状況を検診してくれています。検診のとき、その年あるいは前年に植えた菌糸の伸び方の状況や、雑菌が付着しているといった指導を受けています。シイタケはほだ木の表側に多く発生します。植菌してから3、4年経ったころに天地を返すと収量が増えるようですが、結構手間がかかるため、私(Bさん)はめったにしていませんし、散水も特に行ったことはありません。
 同じ乾シイタケの産地でも長浜町の方では雪が積もりませんが、この辺りではほぼ毎年雪が積もり、多いときには40㎝くらい積もることもあります。その雪解け水が原木の中にしみ込み、適度な水分を補給してくれるため、積雪が乾シイタケ栽培には有利に働いています。20年くらい前には、河辺では寒害によりシイタケの芽が死んでしまうことが結構ありましたが、今そのようなことは少なくなったので、温暖化というのは本当に進んでいるような気がしています。今は雪が降って困るというより、むしろ有り難いという感覚でシイタケを栽培しています。」

 オ 手作業による採取

 「ほだ木に発生したシイタケは1個ずつ手で採取します。私(Bさん)は採取したときに、経験上これは何gくらいだと分かります。今は採取のときには、家から車で10分もかからない所に住んでいる80歳くらいの女性に手伝ってもらっています。10年くらいの付き合いになりますが、その方のおかげで乾シイタケ栽培を続けられていると思います。」
 「シイタケは種菌を植えた翌年の秋から発生します。10月の中ごろから発生し、12月に入ると気温が低く乾燥するため、一時的に発生が止まります。2月末から少しずつ気温が上昇してくると再び発生し、4月初めころまで発生します。かつては12月に入るとシイタケが凍るくらい寒くなっていましたが、今は暖かくなっているように感じます。シイタケは品種開発が進んでおり、品種によって発生する時期が異なります。私(Aさん)の家では、秋から春まで発生し、後に春に発生するようになる品種を多く栽培していました。河辺のように12月から1月にシイタケの発生が止まる所よりも、肱川、大洲辺りの生産者の方が有利だったようです。河辺ではハウス栽培をしている生産者はいませんでした。大洲の方でも乾シイタケ栽培には人工ほだ場を使っていますが、ハウス栽培を行っているのは生シイタケ栽培が中心ではないかと思います。
 発生したシイタケは1個ずつ手で採取するしかないため、大量のシイタケを採取するには人手が必要となります。父が健在のころ、妻は勤めに出ていたので手伝うことはあまりなく、父と私と雇った人とで採取していました。1人か2人を雇うことがほとんどでしたが、特に忙しいときには5、6人を雇っていたこともありました。」

 カ 一昼夜かけて乾燥

 「シイタケの採取の時期になると、急いで植菌も行わなければなりませんし、夜は採取したシイタケを乾燥させなければならないため、寝る間もないくらい忙しくなります。私(Bさん)の家では、子どものころから乾燥機を使ってシイタケを乾燥させていました。今は家の乾燥場に3台の乾燥機があり、合計150枚のエビラ(乾燥させるシイタケを並べるトレー)を入れることができます。乾燥機にエビラを1枚ずつ並べて入れ、一昼夜かけて乾燥させます。乾燥が終わるとシイタケを1枚ずつチェックし、完全に乾燥しているシイタケは箱詰めし、乾燥が不十分なシイタケはもう1度乾燥させます。乾燥機はだんだん改良されてきましたが、父の時代には薪(まき)燃料の乾燥機がありました。灯油代を節約するために、灯油燃料の乾燥機で半分くらい乾燥させた後、薪燃料の乾燥機に移して乾燥させていました。薪燃料の乾燥機には火力の温度差があるという欠点があり、灯油燃料の乾燥機の方がきれいに乾燥させることができるため、私は灯油燃料の乾燥機を使っています。
 シイタケの乾燥には大量の灯油を消費するため、年間に灯油代が何十万円もかかります。そこで、私はAさんと協力して、Aさんの乾燥機にまだエビラを入れる余裕があるときには私のシイタケも一緒に入れて乾燥してもらい、逆に私の乾燥機に余裕があるときにはAさんのシイタケを一緒に乾燥させていました。乾燥機で1回の乾燥に消費する灯油は60ℓから100ℓです。灯油1ℓの価格は50円くらいのときもありましたが、今は100円以上に値上がりしているため、1回の乾燥に灯油代が6,000円から10,000円くらいかかります。灯油代のほかに電気代も1,000円くらいかかります。ですから、1回の乾燥でそれに見合う量のシイタケを乾燥させられないとしたら、持ち出しになるわけです。そのようなことも考えながらシイタケ栽培を行う必要があると思います。」

 キ 出荷

 「収穫後に乾燥させたシイタケは森林組合に出荷してきました。森林組合は原木を確保する世話もできる限りしてくれましたし、原木の運搬もしてくれました。森林組合の場合は愛媛県森林組合連合会の市売りが主体でした。愛媛県森林組合連合会直営の市場が松山市中野町にあります。当時は乾シイタケの値段がまずまず良く、木材による収入よりも乾シイタケ栽培による収入の方が多かったと思います。そのためだったのか、種屋さんと森林組合が品質の良い乾シイタケを作るための勉強会を開いてくれていたことを私(Aさん)は憶えています。
 今はそれほど乾シイタケの値段が高くなることはありません。当時と比べると今はいろいろな物価が上がっているので、乾シイタケ1㎏当たりの平均単価が10,000円くらいであれば少しは生産意欲が高まると思いますが、今は値が良いときでも1㎏当たり3,000円から4,000円くらいで、当時と同じかそれ以下の値段という印象です。」

 ク 生シイタケ栽培

 「乾シイタケは生シイタケと違って保存がきくため、品薄となることはありませんが、まだ生シイタケの菌床栽培が行われていなかった時代には、正月前に雪が降ると市場で品薄になることがありました。そのようなとき、生シイタケの1パックが300円以上で売れることがあり、ときには500円という高値で売れることもあったことを私(Aさん)は憶えています。今は菌床栽培が行われているため、そのようなことはありません。」
 「採取して乾燥させたシイタケは森林組合が家まで集荷に来てくれています。私(Bさん)が30歳くらいのとき、生シイタケを栽培していたことがあります。生シイタケは品薄のときに価格が随分上がり、30年前には1パックが300円から400円もすることもありました。ところが、収穫量が多かったとき、寝る間を惜しんで出荷したにもかかわらず、1パックが30円くらいで、パック代にもならないようなことがありました。私がたくさん収穫できたときには、ほかの生産者もたくさん収穫できているものだったのです。生シイタケの出荷に必要な機材も購入していましたが、そのようなこともあって1年くらいで生シイタケ栽培をやめました。現在、生シイタケ栽培は菌床栽培が主流となっており、年間を通じてほぼ一定量が市場に出回っているため、価格の変動はそれほどなくなりました。」

 ケ 乾シイタケ栽培の現況

 「私(Bさん)は今、乾シイタケを1tくらい収穫していて、収入は300万円余りだと思います。今は1㎏当たりの平均単価が3,000円余りですが、私の感覚では4,000円を切ると採算がとれないと思います。コロナ禍で営業に随分苦労しているお店が多いことも関係があるのかもしれません。乾シイタケの値がもう少し良ければあと少しの間は続けたいと思っていましたが、手間をかけて栽培する割には採算がとれません。近年は高齢化が進んだこともあり、多くの生産者が乾シイタケ栽培をやめてしまいました。かつて盛んであった養蚕やミツマタ、葉タバコの栽培を見ることがなくなったように、今後のシイタケ栽培にも不安を感じています。」