データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業20 ― 大洲市② ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 植松のお祭り

 ア 春日神社のお祭り

 「子どものころは春日神社のお祭りと乙亥祭りの両方に行っていました。春日神社のお祭りは10月26日に行われます。植松地区の多くの人は春日神社の氏子で、春日神社のお祭りのときには神輿(みこし)の役を務めていると思います。神輿のほかに六つ鹿や獅子舞、牛鬼などが出て、私(Cさん)が幼かったころは牛鬼がとても怖かったことを憶えています。獅子舞に出てくる猿、狐、おじいさん、おばあさんなどの所作がひょうきんで面白かったので、子どものころは獅子舞を見るのをとても楽しみにしていました。」
 「昭和50年代くらいまではどの地区でもお祭りが盛んに行われていました。春日神社の秋祭りでは出店が出てにぎわっていました。随分前にはキャンデー屋さんが、砂糖水を凍らせて作ったような自家製のキャンデーを売っていました。値段も今のアイスクリームより随分安く、子どもたちは喜んで食べていました。おもちゃ屋さんがお面や風船などを売っていたほか、大判焼きを売っている出店もありました。春日神社の氏子の多くは旧肱川町の人たちですが、植松のほとんどの人が春日神社の氏子です。昔は植松の全戸が春日神社の氏子だったと思いますが、今は少し減っていると思います。春日神社のお祭りには鹿踊りや獅子舞などがあり、獅子舞には鹿や猿、狐などが出ていました。私(Bさん)は『急に人手が足りなくなったので、ダイバン役をやってほしい。』と頼まれ、鬼の面をかぶってダイバン役を務めたことがあります。獅子舞には子役が何人か必要なのですが、近年は子役を務める子どもがいなくなり少し寂れています。また、昔は神輿をずっと担いで歩いていましたが、今は車に神輿を載せて集落を回るようになっています。神輿をしばらく担いでいると肩が痛くなってくるので、交代で担ぐことができればよいのですが、近年は担ぎ手が不足しています。」

 イ 乙亥祭り

 松島神社の例祭について、『新編肱川町誌』は「『おえべすさん』または『乙亥』と呼ばれる古来の縁日で、近郷近在より三千人以上の参拝者があり、神符・守札などが一千体程度も出たと言われる。特に賑(にぎ)わったのは戦後間もないころで、露天商は三、四〇店を数え、相撲も催された(➀)。」と記している。松島神社の例祭の思い出について、次の方々が話してくれた。
 「乙亥祭りは旧暦10月の最後の亥の日に行われます。私(Cさん)が子どものころ、乙亥祭りのときには出店がたくさん出ていて、漫画の古本や大判焼き、おもちゃを売っているお店があったことを憶えています。そのほかに瀬戸物(陶磁器)の食器や金物、包丁、鎌といった日用品のほか、植木なども売っていました。今思えばそういうときに、この辺りの人はいろいろなものを調達していたのではないかと思います。乙亥祭りのときの方が春日神社の秋祭りのときよりも出店が多かったと思います。」
 「この辺りでは春日神社の秋祭りのほかに、旧暦10月の最後の亥の日に乙亥祭りがあり、そのときにはいろいろな出店が出ていました。長浜から油を販売する業者さんが来たり、苗木屋さんが来たりしていたことを私(Bさん)は憶えています。」

(2) 植松のくらし

 ア 子どもの世界

 「夏になると子どもたちは河辺川でよく泳いでいて、今の診療所が建設されるまでは、診療所の下の方でよく泳いでいたことを私(Aさん)は憶えています。それからかなり後には河辺石油店のガソリンスタンドの下の方で泳ぐようになりましたが、小学校にプールができてから子どもたちは河辺川で泳がなくなりました。また、私が子どものころには、河辺川でドンコやハヤなどの川魚を獲(と)って遊んでいました。アユやモクズガニもたくさん獲れたのですが、鹿野川ダムが建設されてからは少なくなりました。」
 「子どものころは山や川へ行って遊んだり、基地を作って遊んだりしていたものでした。私(Cさん)たちの間では盆飯のことを『盆炊き』と言っていて、お盆の時期には河辺川のほとりで盆炊きをして遊んでいました。親から『エンコ(河童(かっぱ))に尻を抜かれるから、お盆の間は泳いではいけない。』と言われていたので、盆炊きをしていたことを憶えています。当時は男の子も女の子も一緒に盆炊きをしていました。昔は子どもの数が結構多かったので、盆炊きのときには少なくとも8人くらい、多いときには15人くらいが集まっていました。各自が持ち寄った米で御飯を炊き、カレーを作って食べていたことを憶えています。」

 イ テレビの普及

 「私(Cさん)が幼稚園に通っていたころのことですが、遠足のときにみんなが私の家でテレビを見たことがありました。当時の河辺小学校は肱川町の本願寺の近くにあり、幼稚園も小学校に隣接していました。遠足では幼稚園から歩いて葉山のお堂へ行きお弁当を食べたのですが、その途中でみんなが私の家に立ち寄り、テレビを見たことを憶えています。おそらくそのころはテレビがとても珍しかったのだと思います。」
 「私(Bさん)の家では東京五輪のときにテレビを購入しました。そのころ、近所にテレビを購入している家はほとんどなかったので、近所の人たちがよく私の家に集まってテレビを見ていたことを憶えています。東京五輪が終わってからも、山の上にテレビ用アンテナを設置し、そこからアンテナ線を引っ張らなければ映像を受信できない場所もありました。テレビを購入した家がアンテナ設置工事を電気工事業者に依頼しなければならず、工事費が何十万円もかかったのでなかなかテレビを買うことができない時代でした。」

 ウ 共同電話の思い出

 「この辺りでは共同電話といって、1本の電話回線を何軒かの家の電話が共有していました。当時は交換所があり、どの家にかかってきた電話なのか区別するために、呼び出しのベルが『リーン』と1回鳴ったらAさんの電話、『リンリン』と2回鳴ったらBさんの電話というように、交換所がベルの鳴る回数を変えていました。1本の電話回線で何軒もの電話がつながっていたので、電話の会話をほかの家の人に聞かれる可能性がありました。そのため、内緒話はあまりできなかったことを憶えています。共同電話は私(Bさん)が植松に移り住む前からあり、昭和50年代に入ってもまだ残っていました。」

 エ 青年団での活動
 
 「昭和40年代、河辺村では植松、大伍、北平、坂本の各地区に青年団があり、それぞれの青年団では50人から80人くらいが活動していました。青年団での活動を通して出会った男女が結婚する場合が多かったと思います。そのころの青年団では、今でいうボランティア活動のような形で、地域の神社で清掃活動を行ったり、小学校へ行って子どもたちと遊んだりしていました。そのほか、共通の趣味を持った人たちが集まり、劇団やダンスクラブなどを作って活動していました。私(Bさん)は当時はやっていたエレキバンドを組んで活動していて、そのころ各地区で行われていた盆踊り大会でよく演奏していました。私たちは、当時流行していたベンチャーズや寺内タケシなどの曲を演奏していました。大洲市内のレコード店でレコードを購入し、それを繰り返し聴いて曲を憶えるようにしていました。私の担当はギターでしたが、エレキギターは音量が大きいため、近所迷惑にならないように整備工場の隅で仲間と練習したり、家ではクラシックギターで練習したりしていたことを憶えています。」

 オ 釣りを楽しむ

 「私(Bさん)は川釣りをあまり面白いと思っていなかったので、よく海釣りをしていました。四国中のいろいろな釣り場へ海釣りに出掛けたことがありますが、昭和40年(1965年)ころは西海(にしうみ)(現愛南(あいなん)町)へ行くことが多かったことを憶えています。当時、西海には青物のハマチやヒラマサを狙った釣り客が来ていました。西海までは車で移動していましたが、そのころは大洲から宇和(うわ)(現西予市)へのトンネルがまだ開通していなかったため、かなり時間がかかったことを憶えています。夜釣りをするためには西海に午後5時ころには到着しなければならないので、こちらをお昼ごろには出発しなければなりませんでした。釣りを終えて翌朝西海を出発すると、こちらへ帰ってくるのがお昼ごろになり、2日がかりになってしまいます。そのため、私は西海では昼釣りをすることにしていました。こちらを午後11時から12時ころに出発し、午前2時ころに西海に着くと船宿のような場所で2、3時間仮眠し、それから釣りをしていました。釣りを終えてから向こうを出発し、こちらへは午後6時から7時ころに帰ってきていたことを憶えています。」

 カ スポーツを楽しむ

 「河辺村ではソフトボールや軟式野球を楽しむ人たちがチームを結成して活動していました。多いときには軟式野球チームだけで6チームくらいあり、昭和50年代、60年代くらいまでは活動を続けていて、私(Bさん)も参加していました。河辺中学校にナイター設備を備えたグラウンドがあったので、そこで夜間に練習と試合を行っていました。活動は週2回くらいで、夏場は仕事を終えてから午後7時ころに集まり、9時ころまで活動していました。当時は娯楽がそれほどなかったので、多くの人が集まって活動していたことを憶えています。河辺村内で対抗試合をしたり、肱川町の川上地区のチームと対抗試合をしたりしていました。ナイター照明の電気代や共有する用具の購入費には、河辺村のスポーツ振興会から受け取った補助金を使っていました。プロテクターやレガース、バット、ベースなどはチームで所有していましたが、グラブは個人で購入していました。」

 キ 盆踊り

 「昭和40年代よりも前には盆踊りを集落ごとに行っていた時期がありましたが、昭和40年代には植松、坂本、北平、大伍の各地区で盆踊りを行っていたことを私(Bさん)は憶えています。お堂といって、弘法大師やお地蔵様、観音様などをお祀(まつ)りしている場所が各集落に何か所かあり、植松ではお堂の広場で盆踊りを行っていた時期がありました。そのお堂は今でも残っていて、屋根が壊れたときには修理していますし、広場を駐車場として使用することもあります。夏祭りとして河辺ふるさと祭りが行われるようになってからは、盆踊りを河辺全体で行うようになり、現在も続いています。」

 ク お太夫さん

 「植松では、厄年の人が厄払いをしてもらったり、集落でお祓(はら)い(祈禱(きとう))をしてもらったりするときには他所(よそ)からお太夫さんに来てもらっています。お太夫さんというのは、神事を行う資格の所有者を指して使っているのではないかと思います。以前は植松にもお太夫さんがいたことを私(Bさん)は憶えていますが、その方が亡くなってからは1人もいなくなりました。今は北平の方にお太夫さんが何人かいるので、その中のどなたかにお願いするようにしています。」

 ケ 行商

 「この辺りにも富山の薬屋さんが家庭用の置き薬の入れ替えに来ていました。当時は何日も旅館に泊まり込んで、薬の入った箱を担いで山道を歩いて各家庭を回っていました。1軒の家で六つから七つの薬屋さんから薬を買っていたと思います。子どものころ、私(Bさん)の家にも薬屋さんが置き薬の入れ替えに来ていて、お土産に紙風船をもらってとてもうれしかったことを憶えています。」
 「私(Cさん)が小学生のころまでは、神社のお祭りのときには、業者さんが下(しも)の方から魚の販売に来ていました。木製のトロ箱を道路に並べて販売していて、それを多くの人が買いに来ていたと思います。小学生のころだったと思いますが、小柄なおじいさんが洋服の行商に来ていました。洋服を入れた行李(こうり)(竹で編んだ衣装ケース)を風呂敷に包み背負っていたことを憶えています。私が大人になってから、そのおじいさんが五十崎の方だったらしいという話を聞きました。
また、行商ではありませんが、小学生のころ、お正月前になると『でこ回し』のおじいさんが、からくり人形のようなものを持って各家を1軒ずつ回り、無病息災などを祈っていました。はっきりと憶えているわけではありませんが、人形の衣装は使い古されていたように思います。」

 コ 出稼ぎ

 「私(Cさん)の兄も出稼ぎに行っていたことがあり、出稼ぎに行っていた人は河辺村全体では結構多かったと思います。河辺村の中心的な産業は林業ですが、木材の価格が安くなり、林業だけでは生活が大変になったことも、出稼ぎに行く人が多かった理由の一つではないかと思います。植松でも中心部から少し離れた所に住んでいた人は出稼ぎに行っていた人が多かったことを憶えています。」

(3) 戦中・戦後の記憶

 ア 学校生活の思い出

 「戦時中、私(Aさん)は堀(旧肱川町)にあった国民学校に通学していました。学校では赤ん坊のお守りをしながら勉強している子もいました。当時、校舎はまだ新しかったと思います。校庭には御真影などを収めていた奉安殿という大きな建物があり、講堂で新嘗祭や神嘗祭などの式典が行われたときには、御真影を見ないようにして拝んでいたことを憶えています。終戦後間もなく奉安殿は取り壊され、校舎も昭和25年(1950年)12月に発生した火災で全焼してしまいました。戦後に学制が変わり、昭和26年(1951年)3月に新制中学校を卒業すると大洲高校(愛媛県立大洲高等学校)に進学しました。1学年上の兄も大洲高校に通学していて、兄の後を追うような形になりました。そのころ、河辺から大洲市内の高校へ進学したほとんどの人が高校の近くに下宿しており、私も下宿して通学していました。」

 イ 食糧難の時代

 「子どものころ、米の飯を『チンチマンマ』と呼んでいました。米は政府への供出の割り当てがあったため、私(Aさん)は家で米を食べることはほとんどありませんでした。妻の実家は大きな農家だったので、子どものころは、私よりも米を食べることが多かったようです。戦時中は『欲しがりません、勝つまでは』という標語があり、小学校では弁当の中身を先生が検査していました。弁当に白飯が入っていると叱られるため、大きな農家の子は、白飯を麦飯で覆って隠していたことを憶えています。また、私は持って行ったことはありませんが、山の方に住んでいる人の中には、焼いたトウキビやふかし芋を弁当代わりに持ってきていた人もいました。」


参考引用文献
① 肱川町『新編肱川町誌』2003
参考文献
・ 肱川町『肱川町誌』1977
・ 河辺公民館『かわべ 第120号』1997
・ 肱川町『新編肱川町誌』2003
・ 河辺村『新刊河辺村誌』2005