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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 柑橘栽培に生きる

(1) 農協職員として

 ア 子どものころ

 「私(Aさん)は長浜地区で生まれ育ちました。父は私がまだ小さかったころに戦死しました。最初、中国戦線に出征しましたが、その後ニューギニア戦線に送られ、昭和17年(1942年)にニューギニアで戦死しました。
 父が戦死した後は、母が行商を行って生計を立てていました。我が家は母と私と弟の3人家族でしたが、その当時、生活は裕福ではなかったことを憶えています。戦争中に一番苦労したのが食料品の入手でした。母の実家が農家だったこともあり、ときどき、イモ(サツマイモ)などの食料品を分けてもらうことができたので助かっていましたが、それでも、母は家にあった着物などを持って農村部へ出掛けて行き、農家の方に食料品と交換してもらうこともありました。」

 イ 農協での勤務

 「昭和30年(1955年)に高校を卒業すると、私(Aさん)は今治(いまばり)市内にあった洋服の縫製会社に勤務しました。当時、今治の縫製会社はアメリカなどへの輸出が非常に多く、私はその会社で輸出関係の業務を担当していました。しかし、長浜で一人暮らしをしていた母が気掛かりだったので、『早く長浜へ帰らなければ』と思っていました。そのようなときに勤務していた会社が倒産してしまったため、昭和34年(1959年)に長浜へ帰ってきて、長浜町農協に勤務することになりました。農協に入ったころは、販売と購買の両方の業務を担当していました。昭和40年(1965年)に長浜町農協、出海農協、出海園芸組合が合併して長浜町青果農協(昭和58年〔1983年〕に長浜青果農協に名称を変更)が設立され、喜多青果連の事業なども全て継承することになりました。私は昭和40年度からは主に販売事業を担当していましたが、その後、営農指導も行うようになり、ある時期からはその部署の部長を務め、平成11年(1999年)3月に退職しました。その年の4月には大洲・喜多地区の5農協が合併して愛媛たいき農協が誕生しましたが、私は退職後も4年間、農協で合併後の書類整理の仕事に従事していました。」

 ウ 集荷と選果

 「出海地区を除く長浜町内の各地区で収穫されたミカンは、農協の共同選果場まで自動車で運ばれてきていました。自家用車を所有している人は軽トラックにミカンを積んで運んできていました。自家用車を所有していない人は運送業者に依頼して集荷してもらっていて、そのときには4、5tのトラックが使われることが多かったことを私(Aさん)は憶えています。長浜町農協のころの選果場では、『タイコ式選果機』と呼ばれる選果機を使ってミカンをサイズごとに選別していました。表面にL玉、M玉、S玉、2S玉サイズの穴が開いたドラムを並べておき、空洞になっているドラムの中にミカンを送り込みながらドラムを回転させると、各サイズの穴にミカンが落下して選別することができる仕組みになっていました。昭和40年(1965年)に長浜町青果農協が設立され、その後、国鉄有地の払下げを受けて町内に大型の第一共同選果場が建設されました。第一共同選果場では、ミカンや夏柑、クリなど全ての果実の選果を行っていて、新たな選果機が導入されてからは、ほとんど自動で選別することができるようになりました。平成12年(2000年)に新しい共同選果場が拓海工業団地に建設されると、それまでの第一共同選果場の建物は平成15年(2003年)に取り壊されました。」

 エ ミカンの出荷

 「私(Aさん)が農協に入ったころ、ミカン箱には木箱が使われていて、木箱は共同選果場で板を打ち付けて作っていました。ミカン20kg分を詰めることのできる大きな木箱でしたが、後にミカン10kg分が入るサイズの段ボール箱に替わりました。その当時、農協から出荷するミカンのほとんどを国鉄で卸売青果市場へ輸送していましたが、後には小回りの利くトラックでの輸送も増加していきました。当時の長浜駅では貨物が取り扱われており、引込線の終点部分の傍(そば)には貨物列車で運ぶ荷物の集荷場があり、一旦そこへ集荷してから貨車に積み込んでいました。貨車の引込線が選果場の近くまで延びてきていて、ミカンの積み替えにはとても便利でした。出海地区からも出荷するミカンを自動車で長浜駅まで運び、貨車に積み替えて国鉄で輸送していました。集荷場から貨車への積み替え作業は日通が請け負っていて、日通の作業員が貨車に積み込むミカン箱の数を確認しながら積み替え作業を行っていたことを憶えています。かなり昔の話になりますが、五十崎(いかざき)(現内子(うちこ)町)の鉱山で採掘された鉱石が貨車に積まれて長浜駅まで運ばれていました。
 ミカンの出荷先は当初、大阪(おおさか)、神戸(こうべ)(兵庫県)、大津(おおつ)(滋賀県)など阪神方面の市場が中心でしたが、昭和50年(1975年)ころから東京方面の市場への出荷が増え始め、その後は東京方面の市場への出荷が中心となっています。私は昭和57年(1982年)ころ、東京の市場に1年間駐在して販売業務を担当していたことがあり、そのころは多くの長浜産ミカンを東京の市場へ出荷していました。販売の担当者が変わると、どの市場へどのくらいの量を出荷するかは変わってくるようです。現在、大田市場への長浜産ミカンの出荷量はそれほど多くはありませんが、ハウスミカンについては今でも大田市場へ出荷していると思います。」

 オ ミカンの輸出

 長浜町におけるミカン輸出について、『長浜町誌』には、「昭和43年には、対米輸出ミカンの無病地帯候補地として長浜町は合格し、適格地として判定された。これによって、昭和16年以来とだえていた、温州ミカンのアメリカ向け輸出が28年ぶりに再開され、長浜町の○喜ミカンが3,000ケース輸出された。また例年好成績のカナダ向け○喜ミカンは9,000ケースの大量となった(①)」と記されている。
 「県青果連からは輸出用ミカンの割り当てがありましたが、その量はそれほど多くはなく、100tくらいだったのではないかと思います。輸出用ミカンは箱詰めしてから出荷していて、箱詰め作業には2日間くらいかかっていたことを私(Aさん)は憶えています。輸出用ミカンはこちらから直接外国へ輸送するのではなく、松山へ輸送していました。県内各地区の農協から集められたミカンを、県青果連が全てまとめて船で輸出していました。輸出用ミカンの出荷時期は比較的早い時期だったので、11月ころだったと思います。」

 カ モノレールの設置と作業道の開設

 「この辺りのミカン山では、長浜町青果農協が設立された昭和40年(1965年)ころからミカンを運搬するためのモノレールが設置されていたと思います。モノレールを設置するためには多額の費用がかかり、農家が個人で設置することは困難であったため、ほとんどの場合は補助事業を利用して設置されていたことを私(Aさん)は憶えています。また、ミカン山に車が通行することのできる作業道を開設する工事は長い間行われていました。ミカン山に作業道を開設する工事は比較的早い時期から行われていたので、昭和40年(1965年)ころから行われていたのではないかと思います。作業道の開設工事は、各地区の土地改良区が役場の協力を得ながら進めていたことを憶えています。」

 キ ミカン価格の大暴落

 「私(Aさん)が農協に入ったころ、栽培されていたミカンの品種は宮川早生(わせ)、普通温州、南柑20号の三つだけで、その中でも普通温州が多く栽培されていたことを憶えています。当時はミカンの景気が良く、味は今のミカンと比較すると酸味が強かったのですが、それでも高い値段で売れていました。ミカン箱を1箱売れば町で一晩飲むことができたほどで、ミカン農家の中には家を新築した人が結構いました。ところが、そのような好景気は長続きせず、全国的にミカンの生産量が大幅に増加すると価格は暴落してしまいました。そのときには長浜町内のミカン農家の間でも、『ミカン栽培をやめようか。』と話していた人が随分いたことを憶えています。その後、品種改良の取り組みが進み、甘みが強く美味(おい)しい柑橘類が開発されるにつれて、だんだんと値段が良くなりました。現在は、県内だけでも『せとか』をはじめとして何十種類もの柑橘類が栽培されていて、全ての名前を憶えることができないほどになっています。」

 ク ハウスミカン栽培

 「長浜町でハウスミカン栽培が始まったのは、県内でも比較的早い時期だったことを私(Aさん)は憶えています。伊予園芸農協や温泉青果農協はすでにハウスミカン栽培を導入していたので、こちらでも導入しようということになり、昭和44、45年(1969、70年)から50年(1975年)ころに始まったと思います。ハウスミカン栽培は露地栽培と収穫時期がずれるため価格としては有利なのですが、ハウスの建設費が高額であるうえに、冬場でもハウス内の暖房を行う必要があるため、燃料費もかかります。そのころは燃料の価格が比較的高かったので、農家にとっては燃料費も大きな負担となりました。また、ハウスミカン栽培は露地栽培よりも収穫までに手間が掛かるため、いろいろな品種のミカンを栽培することが難しくなります。そのような理由で、長浜町ではハウスミカン栽培を行っていた人はそれほど多くはなかったと思います。」

 ケ 缶詰加工と缶コーヒーの製造

 「農協では、缶詰の生産を盛んに行っていました。晴海工業団地に農協の大型加工場があり、そこでミカンやクリ、タケノコの缶詰加工が行われていたことを私(Aさん)は憶えています。補助事業により、加工場のほかに低温貯蔵庫も建設され、そこではクリなどをドラム缶に入れて貯蔵していました。缶詰の生産高は多く、20億円くらいはあったと思います。平成11年(1999年)に愛媛たいき農協が設立された後、農協の加工場は取り壊され、缶詰加工事業は大洲の春賀地区にあるくみあい食品工業に集約されました。
 また、農協ではUCC(現UCC上島珈琲株式会社)から委託を受けて缶コーヒーの製造も行っていました。加工場に缶コーヒーの製造設備を整備した後、こちらからUCC側に話を持ち掛け、缶コーヒー製造の委託契約を結んだのだと思います。缶コーヒーを製造するための原料が定期的にUCCから送られてきて、こちらでUCC工場と全く同じ方法で缶コーヒーを製造し、製品をUCC本社へ送っていました。毎月、契約によって定められた本数の缶コーヒーを製造していたので、それほど多くの缶コーヒーを製造していたわけではありませんでした。いわば下請け工場でしたが、そのような工場が全国各地にありました。農協が缶コーヒーの製造をやめたのは加工事業が春賀地区に集約されてからのことだったので、平成14、15年(2002、03年)ころまでは缶コーヒーの製造を続けていたと思います。」

 コ ミカンの品種改良とキウイフルーツの振興

 「私(Aさん)が農協で営農指導を担当していたとき、ミカンの品種改良とキウイフルーツの振興を主な仕事としていました。ミカンの新しい品種が開発されるたびに、幼木から育てるのは時間がかかりすぎるので、それまで植えていた品種に新しい品種を接ぎ木するという方法で品種更新を行っていました。ときには新しい品種を接ぎ木しても木がなかなか太らず、生産量が思ったように増加しないというようなこともありました。極早生ミカンは果皮に青みが残り、酸味がやや強いのが特徴ですが、最近では品種改良により甘い極早生ミカンも生まれています。
 それほど量は多くはありませんが、年末ころに収穫したミカンを一定期間低温貯蔵庫で貯蔵して年明けに出荷するということも行っていました。小さな実のミカンは酸味が強いのですが、年明けくらいまで貯蔵しておくと熟成されて酸味が抜けてくるので、それを『小玉ミカン』として出荷していました。また、小さな実のミカンに袋を掛けて収穫時期を遅らせ、やはり年明けくらいに出荷するということも行っていました。最近では、地面にシートを敷き、水が入らないようにして糖度を上げるマルチ栽培も普及していますが、長浜町ではマルチ栽培よりも品種改良されたミカン栽培の方が多かったのではないかと思います。
 長浜町でキウイフルーツの栽培が始まったのは県内でも結構早い方でした。ほgとんどの農家はミカンを栽培しながらキウイフルーツも栽培していましたが、ミカンの景気が悪くなってからはキウイフルーツの栽培を増やしていき、一時期は生産量が1,000tを超えていました(図表3-1-2参照)。その後、ニュージーランド産キウイフルーツの輸入量の増加などによりキウイフルーツの価格が落ち込み、苦労した時期もありましたが、ニュージーランド産キウイフルーツの輸入が減少してからは価格は持ち直しました。」

 サ ミカン栽培の現状

 「近年、長浜町(長浜地域)では人口の減少が続いており、過疎化が進行しています。山間部だけでなく中心部でも人口が減少しているので、私(Aさん)はとても心配しています。農家では高齢化が進み、若い後継者も少ないため、農家数も徐々に減少してきています。農家の中には『せとか』などの新しい品種のミカンを植えて栽培している方もいますが、そのような農家はそれほど多くはなく、荒れてしまっているミカン園が増えているのが現状です。」

(2) 出海地区の柑橘栽培

 ア ミカン農家を継いで

 「私(Bさん)は出海地区の農家に生まれました。子どものころ、私の家では30aくらいの田んぼがありましたが、実際に耕作していたのは20aくらいで、10aくらいはほかの人に貸していました。ミカンは1町2反(約1.2ha)くらい作っていました。その当時、出海地区には桑畑は見られなかったので、もう養蚕は行われていなかったのだと思います。小学4年生のときに父が大病を患い、その後はそれまでのように仕事ができなくなったため、学校から帰るとすぐにミカン山へ行き、父の仕事を手伝うようになりました。昭和40年(1965年)に愛媛大学農学部附属農業高等学校(現国立大学法人愛媛大学附属高等学校)を卒業すると、こちらに戻ってきて本格的にミカン栽培を始めました。
 そのころは早生温州、中生(なかて)温州、普通温州、晩生(おくて)温州を栽培していました。当時、早生温州には宮川早生と興津(おきつ)早生という品種がありました。興津早生は静岡県の試験場で開発された品種ですが、この辺りで栽培されていた早生温州は宮川早生がほとんどでした。中生温州では南柑20号という品種を栽培していました。昭和40年代半ばから、この辺りでも宮内伊予柑の栽培が随分広がりました。宮内伊予柑は松山市平田地区で普通伊予柑の枝変わりとして、宮内義正氏の園地で発見されたものです。宮内伊予柑の評判が良かったので、こちらでも導入しようということになり、昭和40年代初めから44、45年(1969、70年)ころ、講師を招いて宮内伊予柑について講義を受けたこともありました。伊予柑の導入にあたっては、新たに改植するのではなく、高接ぎによる品種更新を行いました。ミカンの苗木を切断し、そこに伊予柑の枝を接ぐと木の生育が早まり、3年もすれば立派な伊予柑の木に生長していました。私の家ではそれまで温州と晩柑を栽培していましたが、そのころから伊予柑を少し栽培するようになりました。」

 イ ミカンの運搬

 「私(Bさん)がミカン栽培を始めたころには、モノレールを使って収穫したミカンを運搬していました。出海地区でモノレールを設置したのは、私の家が最も早い方でした。モノレールが設置されるまで、索道を使ってミカンを運搬していた人もいましたが、私の家では索道を設置していなかったため、一輪車にミカン箱2、3箱を乗せたり、背中にミカン箱2箱を背負ったりしてミカン山の狭い道を下りていました。ミカン箱1箱が20㎏くらいだったので2箱だと40㎏くらいにもなり、それを背負うのは大変な重労働だったことを憶えています。その後にモノレールを設置しました。ほかの人はミカン山が3、4か所ありましたが、私の家のミカン山は1か所だけだったので、山の上から下まで700mくらいのモノレールを設置しました。20年から30年くらい前に、自分のミカン山に車が通行できる作業道を開設しました。作業道を開設する場合、以前は、土地改良区がミカン山を買い上げて作業道を開設した後、利用する農家が道路の管理費を分担して負担していました。ところが、ミカンの景気が悪くなり農家が管理費を支払うことができなくなったため、現在では農家が土地を無償で提供する代わりに、無料で作業道を開設するようになりました。私もそのような方法で作業道を開設しましたが、その後は作業が随分楽になりました。」

 ウ 柑橘栽培の1年

 「3月から4月ころにミカンの剪定(せんてい)作業を行うと5月10日ころにはぼつぼつ花が咲き始めます。ミカンには表年と裏年があり、表年は新芽(翌年に花を着ける芽)がなく花のみになります。花のみになった木には翌年、実は生(な)りません。5月に花の摘蕾(てきらい)(余分な蕾(つぼみ)を摘み取ること)を行うと6月ころには摘み取った跡から芽が出始め、6月までに出た芽は翌年には花芽になります。私(Bさん)は細かい仕事が嫌いなので、そのような作業はときどき行う程度でした。暖かくなる4月中旬から5月には草がたくさん生えるので、草刈りや除草剤の散布を行います。7月に入ると極早生の摘果(良い果実を得たり、枝を保護したりするために余分な果実を摘み取ること)を始めます。極早生の摘果には1か月もかからないので、次に中晩柑の伊予柑、甘平、デコポン(不知火(しらぬい))、ポンカンの順に摘果を行います。9月ころから早生、中生の順に摘果を行い、それが10月まで続きます。私の家ではキウイフルーツも栽培しているため、11月上旬からキウイフルーツの収穫を始め、それが終わると早生、中生の南柑20号の順に収穫しています。
 まだ中晩柑がなかったころは、正月までに収穫を終えると、剪定を始める3月ころまで特にこれといった仕事はありませんでした。私が小学4年生のころまでの話ですが、冬になると父は、ミカン畑に縦1m横1.5m深さ1mくらいの四角い穴をいくつも掘っていました。その穴の中に剪定したミカンの木の枝や、刈り取った草に石灰を混ぜ入れ、土を埋め戻していました。その穴は塹壕(ざんごう)と呼ばれていて、穴の中の枝や草は腐食して有機肥料となり、土が軟らかかったので穴の中にミカンの木の根が張ってきて養分を十分に吸収することができました。今はキウイフルーツの栽培も行っているので、1月から2月にかけてキウイフルーツの剪定を行い、それが終わるとミカンの剪定が始まります。そのようにミカン栽培は一年中何かしら仕事があるものなのです。」

 エ 農薬の散布

 「私(Bさん)はほぼ規定どおりに農薬の散布を行っています。カイガラムシの駆除には昔からマシン油(マシン油乳剤)を使用しています。マシン油はいわゆる殺虫剤ではありませんが、油で虫を覆ってしまい窒息死させる効果があり、ミカンに付くと殺すことがなかなか難しいカイガラムシでも、マシン油を散布すると簡単に殺すことができます。マシン油の一般的な散布時期はミカンの収穫が終わった1月ころですが、夏に散布することもあります。マシン油には夏用と冬用のものがあり、夏用のものは濃度が薄くなっています。ほとんどの農薬は繰り返し使用していると虫に耐性ができてしまうため、新しい農薬が開発・販売されていますが、マシン油は繰り返し使用しても虫に耐性ができないため、私は最も良い農薬だと思っています。それでも、マシン油を散布するとミカンの葉の裏にある気孔を油でふさいでしまい樹勢が弱くなるため、できることなら散布したくはありません。
 また、マシン油のほかに、5月から10月にかけて発生する病害虫に対応するため、農薬を何種類も散布しています。黒点病を予防するために散布しているのがジマンダイセンという農薬で、私はこれも昔から使用しています。年に3、4回ジマンダイセンを散布していますが、これを行わなければミカンの表面に黒い斑点ができ、商品として出荷できなくなります。そのほかにもソウカ病やカイヨウ病などのさまざまな病気に対応するため、農薬を散布して消毒を行う必要があります。農薬を散布するときには動力噴霧器を使用して1本ずつ散布しているため、大変時間がかかります。私は1日に1人で1,500ℓくらい散布することができますが、それでも2日間かかってしまいます。農薬を散布するときには、農薬が体に付着したり、農薬を吸い込んだりしないように合羽(かっぱ)やマスク、ゴム手袋を着用して行うようにしています。そのため、まるでサウナ風呂に入っているようで暑くてたまらないので、中にはそのような防備をせずに農薬を散布している人もいます。」

 オ 多かった季節労働者

 「ミカンの価格が大暴落する以前のことですが、当時、長浜町内でミカン栽培が最も盛んに行われていた出海地区には、ミカンの収穫期になると多くの女性が季節労働者としてやって来ていました。10㎏の採り籠の中に摘み取ったミカンを入れていくのですが、景気の良い時代には、採り籠1杯分のミカンで女性の日役(日当)は十分にありました。女性は、1日でキャリー20個分のミカンを採るのが普通だったそうです。採り籠2杯分のミカンを入れるとキャリーがいっぱいになり、キャリー半個分のミカンで、女性1人分の日役が出ていました。
 櫛生地区の方から来る人や自家用車のない人などはバスで移動していました。朝一番のバスで来て、夕方に仕事を終えると午後5時30分か6時ころに出発するバスで帰って行きました。私(Bさん)のミカン山にも白滝の方から女性の季節労働者が来ていましたが、私は自家用車を持っていたので送迎をしていました。毎日午後4時30分にその日の仕事を終えると、白滝までその女性を送り届けていたことを憶えています。」

 カ ハウスミカン栽培とマルチ栽培

 「出海地区でハウスミカン栽培を行っていた農家は2、3軒くらいだったと思います。出海地区は温暖な気候のため、ビニールハウス内の温度が高くなり、ミカンの中身は熟しているのに外皮は青いという状態になっていました。温度が高いと中身は熟すのですが、昼と夜の温度差がなければ外皮は着色しないのです。せっかく中身は熟していても外皮が青いため、販売するのには少し不利だとされていました。
 14、15年くらい前から私(Bさん)はマルチ栽培を始めました。マルチ栽培とは、ミカン園にマルチシートと呼ばれる白い特殊なシートを敷き、雨が地面に染み込まないようにして栽培する方法のことです。水分をあまり与えずに栽培すると糖度の高い、甘いミカンができるので、7、8月ころから収穫するまでの間マルチシートを敷いています。糖度が1度高いと随分甘く感じるのですが、マルチ栽培を行うと通常の露地栽培よりも糖度が0.5度から1度くらい高くなります。また、マルチ栽培を行うと、シートから日光が反射してミカンの色づきも良くなります。露地栽培によってできたミカンは橙(だいだい)色ですが、マルチ栽培によってできたミカンは赤色の美味しそうな見た目になります。ただし、マルチ栽培を行うと酸が抜けず酸っぱいミカンができる恐れがあり、適度に水分を与えるためには、シートの下に灌水(かんすい)用チューブを敷設し、チューブから自動的に水を与えることのできるような設備を整備しなければなりません。私も何年か前にそのような設備を導入しようと思い、業者に見積りを行ってもらうと50万円から60万もかかるということだったので導入を諦めました。その代わりに、たくさん雨が降った日の翌日にマルチシートを敷くようにすると、シートの中に当分の間水分が残り、適度な酸味のミカンを作ることができました。」

 キ 貯蔵庫での長期保管

 「普通温州の場合、少し色の青い、8分目くらい色づいた実を年内に収穫して貯蔵庫に保管しておき、年明けから3月ころまで出荷していました。当時は収穫後のミカンを貯蔵庫に保管することを『囲う』と言っていました。私(Bさん)の家でも高校2、3年生のとき、ミカン山に貯蔵庫を建てました。私は高校在学中、貯蔵庫を建てる前に父から誘われて、東野(松山市)にあった果樹試験場を訪れたことがありました。そこにはミカンの貯蔵庫をはじめ、ミカンに関係するさまざまな設備が整備されていました。父がそれらの設備を見ながら、保温や風通しなどを考慮して、どのような貯蔵庫を建てるのが良いか話していたことを憶えています。その後、伊予柑などの晩柑類が出てからは、ミカンを貯蔵庫で保管してから出荷するということは行わなくなりました。」

 ク 第二共同選果場

 「出海地区では、地区の農協の選果場で集荷から選果、出荷まで行っていました。そのため、出海地区の農協は、長浜町内の他地区の農協よりも遅れて合併しました。町内には共同選果場が二つありました。出海以外の各地区は長浜地区にある共同選果場でミカンの集荷、選果を行っていましたが、出海地区では農協の合併後も、出海地区にある共同選果場でミカンの集荷、選果を行っていました。昭和47年(1972年)、出海地区に新設された第二共同選果場は2階建てで、1階でミカンの集荷を行い、2階で選果を行っていました。選果を行うときには、ミカンをローラーの上で転がしながらS玉、M玉、L玉、2L玉、3L玉くらいの大きさに選別していたと思います。第二共同選果場ができた後、私(Bさん)は農協から依頼され、集荷したミカンの検査を行っていました。私もミカン作りで一番忙しいときに毎日行くことはできなかったので、3、4人が交代で行っていました。ミカンがローラーの上を転がっている間に、その上から蛍光器を照らしてミカンを目視し、評価を行っていました。ある出荷者のミカンが10箱あったとすると、それを全て検査した後、選果伝票に秀が何割、優が何割と記入し、ミカンの評価を行っていました。ミカンの検査は朝8時から10時まで行い、15分くらい休憩した後、お昼まで行っていました。目視による検査後、女性の検査員が各箱から2個ずつミカンを抜き取り、別室で糖度と酸度を測定していました。糖度の高いミカンには高い値段が付いていたと思います。なお、現在の選果機はミカンに光センサーを当てると糖度・酸度を測定することができます。糖度・酸度の測定が終わると、ミカンの表面に農薬が残っていてはいけないので、ミカンを水で洗浄し扇風機で表面の水気を飛ばした後、布で表面を拭き、L玉、M玉、S玉などのサイズに分けて箱詰めを行っていました。
 第二共同選果場がなくなったのは北京オリンピック(平成20年〔2008年〕開催)よりも後だったと思います。それまでは第二共同選果場で集荷したミカンを、長浜から農協の車が来て運んでくれていたので、自家用車を持っていなかった高齢のミカン農家の方が、第二共同選果場がなくなることに強く反対していたことを憶えています。」

 ケ 子どものころの選果

 「私(Bさん)が小学生のころ、ミカンは天、特、イ、ヨ、ノ、ミ、カ、ムという等級に分かれていたと思います。そのころは段ボール箱ではなく木箱に詰めて出荷していました。当時、出海地区には製材所が2軒あり、材木をたくさん出荷していたので、その半端切れを使って、共同選果場で木箱を作っていました。そのころは選果場に木箱を作る作業員が常駐していて、製材所から材料が届くたびに箱打ちを行っていて、とても忙しそうだったことを憶えています。出来上がった木箱の周りには包装紙を貼って出荷していました。」

 コ 出荷

 「木箱でミカンを出荷していたころ、地元の運送業者に依頼して、5、6tくらいのトラックで出荷していました。最初はほとんどのミカンを大阪の市場へ出荷していました。私(Bさん)が本格的にミカン栽培を始めて5、6年後くらいには、大阪の市場よりも東京の市場の方が有利であるということで、東京の市場へ出荷することになり、その後は主に東京の市場に向けて出荷しています。東京の市場へ出荷するようになってからは、大きな運送業者に依頼して10tトラックに積んで運んでいました。そのため、県外も含め各地の運送業者が出海地区の共同選果場へ来ていました。東京からこちらへ荷物を運び終え、荷台が空になったトラック運送業者をチャーターすると、安い価格で東京の市場まで運んでもらうことができ、ときには東京までのガソリン代だけで運んでくれる場合もありました。キウイフルーツは東京の大田市場へ出荷していますが、ハッサクや河内晩柑、姫の月、日向夏などの黄色い柑橘は、東京の市場よりも大阪の市場の方が高い値段が付けられるそうで、滋賀県の市場へは出荷しているそうです。今は大阪の市場へは出荷していませんが、これからは新たな市場を開拓していく必要があると思います。」

 サ ミカンの輸出

 「県青果連ではアメリカのクリスマスに間に合うように普通温州を輸出することになり、出海地区にも輸出用ミカンの割り当てがありました。そのころ、この辺りでは輸出用ミカンのことを『貿易ミカン』と呼んでいて、M玉、L玉のミカンを出荷していました。当時は船で輸出していたため、船中で腐ることがないように、7分から8分くらい色づいた、青めの色をした酸味の強いミカンを出荷していました。アメリカに着くと厳しい検疫が行われ、カイヨウ病が見つかると輸出禁止になると聞かされていました。当時、輸出を取り扱う関係者がミカンの視察に来るということで、町内のミカン農家が集められたことがありました。実際に関係者が視察に来たかどうかは分かりませんが、そのとき私(Bさん)は柴地区の名ノ城という集落の1町(約1ha)以上の広いミカン畑で、葉にカイヨウ病が出ていないかミカンの木を1本ずつ見て回りました。カイヨウ病を見つけると葉を引きちぎり、全てまとめて焼却しなければならなかったので、大変な手間だったことを憶えています。」

 シ 昭和42年の大干ばつ

 「昭和42年(1967年)は大干ばつで、この辺りでは夏の75日間くらいは雨が降りませんでした。そのときに購入した農機具や配管用のパイプなどの費用について補助金が出ることになり、補助金の申請書類に、干ばつによる被害の様子や購入品を撮影した写真を添付して農協に提出しました。私(Bさん)はカメラを持っていなかった農家の人たちから頼まれて、農機具などの写真を撮影してあげたことを憶えています。その年はまだミカンの価格は良かったのですが、翌年には下落しました。それまでは、『ミカンを作りさえすれば売れる』という考え方でミカンを作っていましたが、このときから、『ミカンだけではいかん、適地適作でやっていこう』という考え方に変わりました。」

 ス ミカン価格の大暴落

 「ミカンの価格が良かったころは、毎年、出海地区や長浜地区から東京の市場へ出向いてミカンを販売していました。ミカンの価格が大暴落する前は、東京へミカンを持って行くと、『ミカンを売ってほしい。』と言われて、飲食店で接待を受けることもあったそうです。私(Bさん)が東京の市場へ行っていたころはミカンの生産量が全国的に増加していたため、東京の市場へミカンを持ち込んでも売れ残ることがありました。ミカンの価格が大暴落したころ、国の政策により、1反(約10a)分のミカンの木を切った農家に対し、20万円から30万円が補助されることになりました。そのとき、全国にはやむなくミカンの木を切った農家がたくさんいて、その後、ミカンの栽培面積は大きく減少していきました。私の家でも多くのミカンの木を切り、その跡にヒノキを植林しました。ミカンの生産量は、最盛期には全国で約360万tでしたが、今は100万tを下回り70万tから80万tくらいになっているのではないかと思います。また、オレンジの輸入自由化のころには、農林水産省の前でプラカードを持ち、輸入自由化反対のデモに参加したこともありました。そのときには大阪まで汽車で移動し、夜中に大阪に着くと、東京までバスで移動したことを憶えています。」

 セ イチゴとキウイフルーツの栽培

 「以前、叔父は白滝地区でイチゴのハウス栽培を行っていて、クリスマスケーキ用のイチゴを作って出荷していました。あるとき、私(Bさん)が叔父のビニールハウスの中に入ってみると、地面には黒いマルチシートが敷かれ、深緑色のイチゴの葉と、葉から垂れ下がっている赤色と白色のイチゴの実の対比がとても美しく感じられました。当時はイチゴの値が大変良かったこともあり、私はどうしてもイチゴ栽培をやってみたいと思い、8畝(約8a)くらいミカンの木を引き抜いてイチゴの苗を植え、収穫後の畝にはアムスメロンを植えました。ビニールハウスの設備の整備費用に60万円くらいかかりましたが、わずか1年で元を取ることができました。イチゴとアムスメロンの栽培を2、3年くらい続けていましたが、出海小学校に体育館が建設されることになり、私のイチゴ畑が体育館の建設用地に含まれていました。私はイチゴの栽培に一生懸命取り組んでいたところだったので、心残りもありましたがイチゴ畑の土地を提供することにしました。その後はイチゴの栽培からキウイフルーツの栽培に切り替え、現在でも栽培を続けています。最初、キウイフルーツは受粉さえしっかりしておけば、病害虫に強いため手間が掛からないと聞いていたのですが、実際にはカイヨウ病などもあるうえ、干ばつにも弱いため、今年(令和2年〔2020年〕)も8月には毎日水やりを行わなければならなかったので大変でした。」

 ソ ニュージーランド視察

 「ニュージーランド産キウイフルーツの輸入が始まったとき、私(Bさん)はニュージーランドへ視察に行きました。ニュージーランドのキウイフルーツ畑は1町(約1ha)くらいもあり、畑の中には羊がいて、羊が草を食べることで草刈りの手間を省いていました。畑では、キウイフルーツの雌木を1列植えると、隣の列には雄木(花粉をとる木)を植え、その隣の列には雌木を植えるというような植え方をしていました。キウイフルーツは受粉しなければ実が生らないため、私たちは確実に受粉が行われるように、人の手で花一つ一つに花粉付けを行っていました。ニュージーランドではその手間を省くために雌木と雄木の列の間にミツバチの巣箱を置き、ミツバチを利用して受粉させていました。現地で私たちの案内役を務めていた方が、『今年のキウイフルーツは大きいそうです。』と説明していましたが、私が見たところ実の大きさはまちまちで、栽培技術では日本の方が優れていると感じたことを憶えています。」

 タ 産直市への出荷

 「私(Bさん)は、若いころから朝8時ころにミカン山へ出掛け、午後4時半ころにぼつぼつ暗くなってくると仕事をやめて帰宅するという生活を送ってきました。10年前、大洲にたいき産直市『愛たい菜』がオープンし、今は息子がそこへミカンなどの柑橘を中心に出荷しているため、午後5時ころから家で袋詰め作業を行っています。ある程度の数の袋詰め商品を作ると、翌朝6時ころに息子が産直市へ出荷しています。昨年(令和元年〔2019年〕)は9月20日ころから雑柑の収穫が終わる4月ころまで、毎日そのような生活が続きました。極早生の場合、1袋に1㎏くらい詰めて産直市へ出荷しています。農協の共同選果場で集荷すると産直市の半分のお金にもなりません。産直市へ出荷すれば自分で販売価格を設定することができますが、その代わり自分が出荷した作物の品質に責任を持たなければなりません。産直市でよく売れるのは、第一に見た目がきれいなもので、第二に味の良いものです。ほかの人が出荷したものより少しでも味が良ければ売れ行きも良くなるので、できる限り手間を掛けて栽培することを心掛けています。共同選果場では、各地区から集荷した作物をまとめて出荷しているため、誰がどの作物を作ったのか区別することができません。そのため、良くないことですが自分の作ったものに対する責任感が薄れがちです。私の家で作ったミカンは、産直市では1㎏当たり300円くらいの価格で販売されているので、1コンテナ(20㎏)で6,000円くらいになります。共同選果場へ持っていくと、1コンテナで3,000円くらいなので、1㎏当たりの価格は100円から150円くらいになりますが、産直市へ出荷するとその2倍くらいの価格になります。その分、自分の作ったミカンに対して責任を負う必要があるのです。」

 チ ミカン農家の高齢化

 「私(Bさん)が出海地区の第二共同選果場でミカンの検査を行っていたとき、ミカンの集荷に来ていた人たちは私よりも年上の人ばかりでした。今、この辺りでミカン農家を継いでいるのは私の息子ともう1軒くらいで、そのほかの農家は高齢者ばかりになっています。私は息子には、『農家を継がずに好きなことをして構わない。』と言っていたのですが、息子は魚釣りが趣味なので、ミカンなどを栽培する傍ら、近くの海で魚釣りも楽しんでいるようです。」

図表3-1-2 長浜町のキウイフルーツ栽培

図表3-1-2 長浜町のキウイフルーツ栽培

広報ながはま 昭和59年7月号』及び『愛媛県市町村別統計要覧 平成2,7,12年』から作成