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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 農業と人々のくらし

 長浜地域で農業経営の一環として柑橘類の栽培が始まったのは、明治時代に入ってからのことである。明治維新以降、農村における商品経済の急速な進展とともに、それまでのハゼ栽培に代わって臨海部でのミカン栽培が急速に普及した。さらに、大正3年(1914年)ころからミカンの新植が盛んに行われ、大正時代末から昭和5年(1930年)ころにかけての生糸価格の暴落により、桑園からミカン園への転換が進んだ。太平洋戦争中は、米麦等の主要食糧生産に重点が置かれたため、ミカン等の果樹栽培は抑制されたものの、戦後はミカンブームの中で大幅に増植が進められ、ミカンを中心に柑橘類の栽培面積、生産量は急速に増加した。昭和30年(1955年)に6か町村が合併して誕生した長浜町(現大洲(おおず)市)では、適地適作の見地から、普通作物の切り替え及び開墾による柑橘類の振興を図った。しかし、全国的なミカンの栽培面積の拡大は供給過剰をもたらし、昭和47年(1972年)にはミカンの価格が大暴落して、生産農家は深刻な豊作貧乏の経済的な打撃を受けた。
 慢性的な生産過剰によるミカン価格の低迷が続く中で、長浜町青果農協では昭和54年(1979年)から第一次営農振興計画に取り組んだ。計画は、適地適作を基本として、ミカン中心の経営から他作目を取り入れた複合経営により経営の安定を目指すもので、中晩柑への品種更新、落葉果樹や畜産等の導入による農業経営の体質改善が進められた。昭和54年に導入されたキウイフルーツは、同59年(1984年)には県の特定銘柄産地に指定され、一時は生産量が1,000tを超えたが、その後、輸入量の増大などにより価格の低迷が続き、700t前後に減少した。しかし、量販店との契約販売、袋詰め販売など販路の拡大に努め、各市場で高い評価を受けるとともに国内産キウイフルーツの生産量の減少もあって販売価格は上向きとなり、現在も地域における特産品となっている。
 本節では、昭和40年(1965年)ころから平成にかけての長浜地域における柑橘栽培と人々のくらしについて、Aさん(昭和12年生まれ)、Bさん(昭和22年生まれ)から話を聞いた。